はてなキーワード: ミジンコとは
お前ら橋本岳のツイートあげつらってこいつが犯人かとかいってるけど、当の教授は橋本岳には会ってないって言ってる
当人すら否定してることをさも事実かのように拡散してなんのつもりだ?
ガチでどうなってんだよ
お前ら本当知性のカケラもないな
死にた過ぎて。
私ってJKだけど友達もいないから、ストーリーに死にたいって書いても見た人を困惑させるだけで、大丈夫の一言も言って貰えないだろうから、しない。
私の周りの人間は、わたしが軽薄で、お気楽で、なんにも省みない態度をとってる時だけ優しい。
実際の私って、そういう生き方しか出来ないし知らないから、周りの人々の私の扱いは正当といえば正当なんだと思う。
基本的に人間って他人の中に自分に与えてあげるような真剣さを、切実さを見い出せない生き物なんだから、私みたいな共感性もない自堕落なだけの人間に共鳴して自分の何か一つでも与えてやる価値なんかない、使い捨ての暇つぶしの人間なんだ。その面においても需要が少ない。それでも私みたいな人間を求めてくれる人がいるって有難いことのはずなのに、求められることがたまに重荷になる。なぜなら、私を求める人があるとき、その人には必ず私に対して、私の先に何かを「求め」ているからだ。私が彼らの要求を破棄すれば、彼らも私を気味悪がって棄てていくだけだ。今私を知る誰しもの記憶から消えて、私が必死で私を守るために取り囲んで人達からスパンと切り離して貰えたら、誰にも少しも必要とされない人間として世の中に放り出されたらどれだけ楽だろう。最初から居場所を持たない透明人間として、都市を浮遊する。やがて夜が開ける前に霧散する。たまに死んだ人はすぐに忘れられると言うけど、私はそうやって忘れらることにこそ喜びを感じる。誰も私を思い出さなくなった時、現世での私は完結する。指をパチンと鳴らしたら、それを合図に私がこの世から消えて、誰も私のことを思い出さなくなったらいいと思う。17年この地球でこの日本で生きた私という生命体が一瞬にして消え、存在していたはずの事実が消え、人々の記憶からきれいさっぱり消える。私という存在がこの世にもたらすことが出来る事として、これ以上に美しいことは無い。
さっき、死にたいと検索して出てきたサイトではただ逃避したいという思いから来る死への欲求と鬱からくる死への欲求は別だと、書いておりましたが、私は死のうとして死ねなかった人のブログや文を見て大抵ガッカリしますよ。
だって、生きていることに感謝しているし生き延びられたのも何かの運で、今死にたいと思っている人は.......と続くともう読めない。勧誘の電話をガチャン!って切るみたいにうるさい!と撥ねつけたくなる。私が今必要としてるのはやっぱり「本当に死んでしまった人」の言葉なんだ。でもそれをなぞっていくのは苦しい。なぜなら自分の死への欲望も加速度を上げてしまうから。それも途方もなく。
最近、品川同性愛者殺人事件の記事を読んだら、犯人のこういう供述が載っていた。「当時の私は自由気ままで……我慢、忍耐、努力とか、ありませんでした…」
私は記事を読みながら、この言葉に大いに共感しました。私もそうだからです。
はっきり言って犯人である彼女はめちゃくちゃな人です。やっぱり、人間ある程度我慢や忍耐や努力出来ないとまともには生きていけません。彼女の場合は彼女自身は生きていますが、その過程で人を1人殺してしまっています。
でも悲しいことにそのために頑張れません。
甘えと言われるかもしれないけど、ふざけるなと打たれるかもしれないけど、本当にそうなのです。
1番最近泣いた時は、私は、私は何にもなれなかったと思って泣きました。
私はずっと何者かになりたかったのです。でも、それに意味が無いことを知ってしまいました。世界に意味が無いことを知ってしまいました。
だからもうこの世の中の「何か」にはなれない。そう思うと何者かになりたかった自分が、自分の好きだったもの全てが、自分というもの全て何もかもが溢れていくようでした。私にそれをせきとめることは出来なくてただ声もあげず泣いていました。
最近はふと、バスの窓などから見える、自分の生活のために勤しむ人々を見ると寂しくなります。
そのような所謂「普通の人々」は私の悩みなど気にもかけないでしょう。そういう人達にとって私のミジンコのような価値のない、弱々しい、自暴自棄でクズなだけの悩みなんて鼻くそ同然です。
しかし、私が勝手に普通の人々と見なしている人々の中にも私と同じような悩みを抱えている人がいるかもしれません。
でも、絶対に私たちは、それを本質的に共有出来ない。それが分かっているなら、自分対世界と切り分けて自分だけがオカシイんだ壊れているんだと思う方が楽でしょう。耽美な悲観に酔いしれることができるから。
ああ、できればみんな私のことを可笑しい可哀想な人に仕立てあげてよ。そしてうんと優しくして欲しい。今でさえこんなに優しくしてもらっているのに?
これ以上優しくされることって、赦されることって死んでるも同然なのに。
「日本には、人権、男性学、女性学、性教育が不足しています。」
男性がなんとかエロを日用品にしたがるのは、「性欲無罪」を続けたいから。
性欲は、人間の本能ではない。「射精快楽依存症」に
ならなければ、エロは日用品にも実用品にもカウントできない。つまり、彼は…? https://t.co/pWhGGxfINd— ミラーリング (@yuzuyoukan367) 2019年11月2日
それは置いといて、時折この手の事を見て思う事がある。
コモドドラゴンと言った爬虫類ですら、特定条件下では単為生殖を行う事も一時期話題になった。
しかしそれでもギンブナはその繁殖プロセスには他のフナ類の精子が必要ではあるし、アブラムシやミジンコと言った生物に至っても有性生殖を行う。
またギンブナに関しては有性生殖を行う個体の集団も同時に存在するのは有名な話である。
コモドドラゴンに至ってはストレスが溜まって、子孫を残さないといけない緊急手段として、用いられる程度である。
当たり前だけど、環境の悪化等の原因により、多くの生物が有性生殖を行うのは種として生き残る為である。
ゾウリムシとかの繊毛虫や一部の細菌、後は生物であるとは言えないウイルス辺りか?
それでもゾウリムシとかは確か合体したはずだし、細菌とかでも遺伝子情報の交換はするだろうし、ウイルスは生物とは言えないし…。
あれ?これ種としての存続無理じゃね?
でも根底に社会構築主義があるとすれば、生物学的な性別は社会が勝手に作り出したものやら生物学的な性別は存在しないとからしいし、もう全ての人間は自然発生するとかそう言う感じに考えているのかも知れないんかね?
まさかね。
しかしあれ調べれば調べるほど、インテリジェントデザイン論を思い出して仕方ないのだけど。
俺は小さい頃からずっと医者になろうと思ってた。最近知ったが、幼稚園の頃から思っていたようだ。ずっと医者になりたいと思って、出来もしない勉強を騙し騙しやって何とか大学に入って、今、医学生をやっている。世間では頭が良いと言われるレベルの所に通っているが、世の中には本物の才能を持つやつは沢山いる。そんな奴らに比べたら俺なんかミジンコでしかない。幼い頃からそんな奴らばかり見てきたので、ある種の学歴コンプは深く抱えているかもしれない。俺が、医学部に入れたのも親がくれた環境のおかげでしかないのだろう。
愚痴ってしまってすまない。本題に入らなくては。そんな俺だが、矛盾しているかもしれないが、ずっと何故医者になりたいのかが自分でも分からなかった。しっくり来る答えなどなかった。過去の自分の期待を裏切らないよう、自分にだけは負けられないと強迫観念にだけ突き動かされて入ってしまったのだ。入学するまでは、勉強とゲームばかりしていて余り深く考えてこなかった。勿論、考えうる限り理由は色々あると思う。
1番一般的な理由で、面接でもこれを答えておけば丸い。自分も医師の親父を尊敬しているし、それも目指した理由の一つなんだろう。だがきっと、それだけじゃない。俺は決して、親父を追いかける出来の悪いロボットなんかじゃない。
それもあるだろう。医師の収入は実際にはイメージ程高くはないが、世間全体の平均からいえば高いといえるだろう。激務ではあるが。更に社会的な地位も極めて高い職業なんだろう。これは、お金では買えない価値であるし十分目指す理由になりうるだろう。だけどやっぱり、それだけではないのだ。小さい頃の自分がそんなことを考えているとも余り思えない。
いよいよ、現実的に自分が医師になることが迫りつつある。大人になって、ならなくてはいけない気がしてきて足りない頭で必死に考えた。考えて考えて考えて、振り返って振り返って振り返ってようやく気付いた。
俺は、きっとただ怒っていただけだった。
全員が代替可能なパーツでしかないし、世界にとってかげかえのない人間などいない。俺も、お前も、死んでも何も変わらない。何も残りはしない。何も得ない。現実問題、お前は世界に何か爪痕を残したか?胸を張って己の価値を証明できるか?俺には出来ない。俺は自身をそうは思えない。
俺はそう思うと無性に怖くなって震える日を過ごした。白状すると今でも怖い。死ぬのがたまらなく怖い。死ぬことそのものではなく、無のまま朽ちていくのが怖い。結局、俺はそこらの虫や石や草となんら変わらないと認めてしまわなければならないのがたまらなく怖かった。
また、俺はそう思うと無性に悲しくなった。だって医師を目指す意味もない。人を助ける意味や価値なんてない。結局死ぬのだから助ける意味はない。助けられても、そいつは、何も残さない。そいつは何も得やしない。無を幾ら助けたところで、俺自身の価値があることの証明にもならない。極論、死ぬのが遅いか早いかの違いでしかないなら、何のために救わねばならない。
俺はそんなことを思ううちに憤りを感じた。そんなことを認めてそんなことが正しいなら、現実はあまりに冷たくて残酷だ。
だが答えは見つからない。世の真実とやらは一向にわからないし、誰も見つけてないし教えてくれないようだ。
思えばいつもそうだった。世界は俺に何一つ解答を与えてはくれなかった。与えてくれたのは解釈だけだった。細胞分裂がどうだとか、Wntシグナルでがん細胞がどうだとか、そんなものはhowやwhatであって、何故俺はそもそも死ななければいけないのか、というwhyには誰も教えてくれなかった。何故という根本的な疑問の解答はどこにもない。俺達は不自由だ。何故死ななければならない。何故産まれを選べない。何故、顔も頭も身長も親も遺伝子も環境も選べない。確かに士農工商の江戸時代とかに比べたら、俺達は幾分自由になったかもしれない。だが依然として不自由だ。人生は無に縛られている。その上こんなにも思うようにはならない。
何故必死に生きていかなければならないのだろう。自分が楽しければそれでいい?そんなことはない。なら、麻薬にでも一生浸かっているといい。脳にせっせとタピオカでも詰めておけばいい。俺の人生は決して、俺の脳が動いてドーパミンを出すだけのものではないはずだ。それだけではきっと駄目だ。きっと何か意味がある。フランクフルは人生の意味を作るなとか書いていたが、もうでっち上げでもいい。救われるに足る理由が欲しい。
俺達の今日まで生きてきた苦しみを、泥だらけの人生を、家族や友人から貰ってきた沢山の想いを無駄だったと言わせてなるものか。無の不自由に屈してなるものか。
確かに人生で多くのことは変えられない。過去は変えられない。未来はわからない。
それでも、死ぬ最期の瞬間まで常に自由でありたいと思う。真に自由な自分の意志で決定して抗いつづけたいと思う。なけなしの自分を握り締めて、いや握り潰して戦いたいと思う。俺にも、お前にも確かに価値はあるのだと叫びつづけたいと思う。その為には、やはり病気は邪魔だろう。満足のいく死に方ではないだろう。納得のいく結末ではないだろう。想像してみてくれ、ある日、末期の膵臓ガンで死ぬしかないと告げられたら。たまらなく悔しくて、怖いと思う。凄い自分がちっぽけで虚しく感じるだろう。何で俺達がそんな目に会わなければならない、理不尽だ。そんな結末は仕方ないね、で済んでいいわけがあるかよ。俺が楽しくて、お前も楽しい。それすら許されない世界なんか憤りしか感じないだろう。だからきっと医者になることを決めたのかもしれない。
いないだろうけど、ここまで読んでくれた人、ごめんなさい。酷い文章だし全く持って意味不明で、厨二病で──恥ずかしい。
もう、忘れてくれ。
ある官公庁を退職する。退職の理由は、転勤に伴って転居したら家族が精神的に不安定になってしまったのに加えて、職場のパワハラおよびそれに対する上司の見て見ぬ振りのクソ対応で疲弊したからだ。ちなみにパワハラについては退職を伝えた際に上司の上司に訴えたところ、所属していた組織内で調査委員会なるものを立ち上げてくれたが、その事情聴取によりもともと低下していたHPをさらに削られて瀕死状態になった。嫌なことたくさん思い出したよ。で、調査の間、退職を延期するように、と言われて死にそうになりながら仕事を続けていたけど、組織内の偉い人曰く“第三者で構成された調査委員会”の目から公平に見た結果、自分が受けた行為はパワハラではない、という結論に至った、とのことだった。職場内の人間で構成されている時点で第三者じゃねーだろ、その委員会。あれがパワハラじゃないなら、やはり自分の身を守るために退職しなくては、と決意を新たにして、とうとう退職願いというものを書いた。退職願いは官公庁大臣宛なんだと。転勤で転居させて家族が可哀想な目にあったのと同時に自分も職場でパワハラ被害にあって、もう疲弊しきって働き続けられない、と書いたら(事実だ)、人事の担当者から書き直すように、と返却された。この内容だと希望通りの日程での退職はさせられなくなるから大人な対応をするように、だと。これをそのまま写して書くように、と家族の都合で仕方なく辞めるというパワハラのパの字もない文案を渡されて、ああ、こういう組織だから退職したかったんだ自分、とあらためて思い返して、可及的速やかな退職を実現するためその通り写して提出した。育ててもらった組織だから退職するの申しわけない、、、とかミジンコのウンコぐらいは思って悩んだ時期もあったのに、それもブッパするくらいほとほと愛想が尽きたよ。
世間の話題から何周も遅れて、今更"金野火織の金色提言"を聞き、曲コメを読んだ
涙が溢れて止まらなかった
少し落ち着いてこれを書いている今も、思い出すと涙腺が緩んでくる
ゲーセンに通い始めたのは中学2年生の時、一番価値の無い存在だった時分だ
あの時の自分にとって、ホームのゲームセンターは文字通り"HOME"だった
わかりやすい虐待は受けていないものの、我が家では性的虐待の匂いに怯え、
学校に親友はいたけれど、その親友には(自分と相互ブロックの)別の親友がいた
TECHNORCH氏のように、ゲームセンターに長時間居座れたわけじゃない
行動をGPSで監視されていたから、それをかいくぐってプレイできたのは、せいぜい2,3クレが限界だった
それだけで十分だった
今は絶賛就活中(就活も周回遅れだな)で、エントリーシートを何枚も何枚も書いている
音ゲー、とはとてもじゃないが書けない
堂々と胸を張って書けることじゃない
それが当然だと思っていたし、惨めだと認識してすらいなかった
でも今、こうやって突きつけられて、涙が止まらない
「私の青春ゲームです」その一言で、中学生の自分、高校生の自分、大学に入ってからの自分、そして音ゲーをエントリーシートに書けない自分が、全て救われた気がした
あのシーンは見る側も「ん?これどっちの意味だ」と困惑しシンジ君のケツの心配をする大事なシーンだ
それがlikeじゃおかしいだろ。日本で突然同性に「好き」と言われたらおもわずケツを庇うが
アメリカでI like youといわれたぐらいでケツを庇ったらそいつがおかしいだろわかるだろ
学校で「好き=like」「愛=love」と習っただけでそれが正解だと信じて止まないミジンコレベルの糞雑魚低脳共に頭痛をおぼえる
likeじゃケツの危険を感じねえんだよ、だいたいカヲルのシンジへの感情はオビワンのアナキンレベルと同じかそれよりデカイだろ。だからloveじゃないと駄目なんだ