はてなキーワード: うずまきとは
そんなことを言われて相手はどうしようもないのにそれでも付き合ってくれる友人に感謝しつつも
甘えていることに。そんなことでしか話題を作れない自分の無能さにどうしようもない苦味を感じます。
こんなことは周りに心配しか与えないのに、いいことなんて無いのに、カビを吐いているがごとく思いやりがない自分に
叫んで暴れて自分の主張をしたい自分とそんな愚かなことをしたくない自分とがいて、まったくもって感情の持っていきようがないのです。
あげくのはてにここで毒を吐いて救いを求めているなんて、情けない。
それでも文章にして誰かに見てもらえることでどこか救われる気がするのです。
なので、すみませんがここに書かせてもらいました。
ありがとうございました。
はてなブックマークの人気記事だったので開いてみたのですが、驚くほど中身のない記事でした。
『詳説日本史』を引用するなり参照するなりして、具体的にどこがどうすごいかを語ってほしかったです。
僕も10代の頃はあれが本当に理解できなかった。けど今ならああいう教科書が作り続けられる理由がよくわかる。物事を語るにあたって、中立を維持しようとするとなると、事実しか語れなくなるのである。
ストーリーというものは、基本的には何らかの価値観を元に構築されるものである。日本民族がいかに優れているかという視点で歴史を分析すると、それは右翼的な記述にならざるをえないし、平等であろうとすれば、それは左翼的な価値観を元に記述せざるをえなくなる。
客観的な記述がされている、左右に偏向していない、中立だからすごいゾ、という感想には呆れ果てました。
いったい全体、どこが情熱的ですか? 教科書を読み返さず、いい加減な記憶をもとに語っても、多分これくらいのことは言えると思います。
クソ記事を読んでしまい、あんまりにもムシャクシャしたので、私が自分で『詳説日本史』を引っ張りだしてきて調べました。
例えば「源平の騒乱」という項目は、次のように記述されています。
平清盛が後白河法皇を幽閉し、1180年に孫の安徳天皇を位につけると、地方の武士団や中央の貴族・大寺院のなかには、平氏の専制政治に対する不満がうずまき始めた。この情勢を見た後白河法皇の皇子以仁王と、畿内に基盤を持つ源氏の源頼政は、平氏打倒の兵をあげ、挙兵を呼びかける王の命令(令旨)は諸国の武士に伝えられた。
これに応じて、園城寺(三井寺)や興福寺などの僧兵が立ち上がり、ついで伊豆に流されていた源頼朝や信濃の木曾谷にいた源義仲をはじめ、各地の武士団が挙兵して、ついに内乱は全国的に広がり、5年にわたって騒乱が続いた(治承・寿永の乱)。
平氏は都は福原(現・神戸市)へと移したが、まもなく京都にもどし、畿内を中心とする支配を固めてこれらの組織に対抗した。
しかし、畿内・西国を中心とする養和の飢饉や、清盛の死などで平家の基盤は弱体化し、1183年(寿永2)年、平氏は北陸で義仲に敗北すると、安徳天皇を報じて西国に都落ちした。やがて、頼朝の命を受けた弟の源範頼・義経らの軍に攻められ、ついに1185年に長門の壇の浦で滅亡した。
この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司や荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。
ここには明らかに編者の歴史観と、因果関係の説明が詰め込まれています。
まず、平清盛が後白河天皇を幽閉したこと、安徳天皇を即位させたことは、この教科書では「平氏の専制政治」と評されています。
当時の人たちがそう感じていたのか、それとも教科書の編者がこの評価を下しているのか、どちらなのか判然としませんけど、ともかく本書はこの評価にもとづいて記述がされています。
次に、この「平氏の専制政治」が地方の武士団や中央の貴族・大寺院の不満につながって、 以仁王と源頼政はそういう情勢を見たので挙兵したと書かれています。
これはまさしく因果関係に言及しているわけです。
このように、教科書は単なる事実の羅列ではありません。歴史に対する評価や因果関係がしっかりと述べられているのです。
そこにどういう学問的な裏付けがあるか、歴史学に無知な私はよく知らないです。あのブログ記事ではそのへんの話を説明していると思ったのですけど、まったくの期待外れでしたね。
なお、この教科書とおなじ編者がつくった参考書『詳説日本史研究』(山川出版社)によると、次のように説明されています。
治承・寿永の乱は、一般には源氏と平氏の戦いといわれている。しかし歴史学的にみた場合、この全国的な動乱を単に源氏と平氏の勢力争いとみるのは正しい理解ではない。以仁王の挙兵以降、軍事行動を起こすものが相次いだ。美濃・近江・河内の源氏、若狭・越前・加賀の在庁官人、豪族では伊予の河野氏・肥後の菊池氏らである。彼らはあくまでも平氏の施政に反発したのであって、はじめから源氏、とくに源頼朝に味方したわけではない。彼らの背後には在地領主層があり、在地領主たちは自己の要求を実現するために各地で立ち上がったのである。
彼らの動向をまとめあげ、武家の棟梁となる機会は頼朝以外の人、例えば源義仲・源行家、あるいは平宗盛にも与えられていた。頼朝が内乱に終息をもたらし得たのは、彼こそが在地領主層の要望に最もよく答えたからである。この意味で幕府の成立は、時代の画期ととらえることができる。
教科書である『詳説日本史』では、これがたった一文にまとめられているのです。
この一連の内乱の行末に大きな影響をおよぼしたのは地方の武士団の動きで、彼らは国司や荘園領主に対抗して新たに所領の支配権を強化・拡大しようとつとめ、その政治体制を求めていた。
こういう史観が妥当なのかというのは、私にはちょっと分からないんですが、この点を強烈にプッシュしているのが『詳説日本史』の特徴と言えるでしょう。
他の教科書を読んでみても、三省堂の『日本史B 改訂版』(日B 015)を除き、この史観はあまりプッシュされていないと感じました。
【参考文献】
(このエントリは上記7冊を参照しています。いずれも平成22年ごろ購入。)
伊豆に流されていた源義朝の子・源頼朝も、妻・北条政子の父北条時政とともに挙兵して南関東を掌握し、10月には源氏の根拠地・鎌倉に入った。頼朝は父祖以来の結びつきを背景に、三浦、千葉、上総氏などの有力な東国武士と主従関係を結んで御家人とし
頼朝の挙兵が、東国武士との「父祖以来の結びつき」を背景にしていたものだったということは、他の教科書ではなかなか分からないと思います。
三浦、千葉、上総という武士の名前が沢山出てくるのもおもしろいですね。(三浦氏の名前が出てくる教科書は多いですが、それはこの時点ではなく幕府成立後、十三人の合議制か、宝治合戦のときに唐突に登場します。)
[寿永二年十月宣旨から義仲滅亡までの]この間、鎌倉の頼朝は没収した平氏の所領(平氏没官領)を法皇より与えられ、経済基盤を固めていった。また御家人を統制する侍所を設置し、その長官である別当には和田義盛を任命した。これに加えて、行政・裁判制度を整えるための公文所(のちに政所)・問注所がおかれ、その長官にはそれぞれ京から招かれた朝廷の役人である大江広元・三善康信が就任した。前後して、義経軍らは一の谷・屋島で平氏を追い、1185(文治元)年に壇ノ浦で平氏を滅ぼした。
[]は引用者註。
この教科書の特徴は、幕府の政治機構の形成過程を、治承・寿永の乱の進行に併記していることです。
鎌倉幕府の成立が1192年(いいくに)なのか、1185年(いいはこ)なのかという論争は、世間でよく知られているぐらい有名になりました。どちらが正しいかは諸説あるとしても、ただ一つ言えることは、どこかの時点でいきなり幕府が完成したというわけではありません。治承・寿永の乱が続いていた期間に、徐々に幕府の政治機構が形成されたのです。この教科書はその史観が反映されています。
北条時政の援助によって挙兵した頼朝は、東国武士たちに支持されて、富士川の戦いで平氏を破ったが、その後は鎌倉にとどまって、東国の地盤を固めることに専念した。これに対して平清盛は一時、都を福原(神戸市)に移して態勢を立てなおそうとしたが、まもなく京都に戻り、1181(養和元)年に病死した。一方、義仲は1183(寿永2)年、北陸方面から急進撃して、平氏一門を京都から追い出した。しかし、義仲は後白河法皇と対立したので、法皇は同年、頼朝に東海・東山両道(東国)の支配権を認め、義仲追討を命じた。頼朝は弟の範頼・義経らを上京させて、義仲を討たせた。範頼・義経はさらに平氏追討に向かい、1185(文治元)年、長門の壇ノ浦で平氏一門を滅ぼした。
この教科書は歴史用語の詰めこみを回避しているようで、内容は簡単、文章としても平易です。
上記引用でも分かるとおり、「頼朝に東海・東山両道(東国)の支配権を認め」という記述があるくせに、寿永二年十月宣旨というキーワードがありません。治承・寿永の乱、一の谷、屋島の戦いなどは年表に記載されていますが、本文中に記載なし。養和の飢饉、平氏が都落ちに安徳天皇を伴ったことも言及なし。
というわけで受験生には不向きですが、他の教科書にはない特色もあります。
鎌倉将軍に尽くして家人となった武士のことを、鎌倉御家人といった。鎌倉御家人になる目的は、将軍に面接して(見参)、先祖伝来の所領を承認してもらい(本領安堵)、さらに勲功のあった者は新たな所領を恩賞としてうける(新恩給与)ことにあった。
教科書の中では唯一、桐原書店だけが「見参」を掲載しています。これは鎌倉幕府の権威の構造がどういったものであったかを知るための手がかりになるかも。
(他の教科書ではこの用語がないどころか、「将軍に面接して」という説明も省かれています)
["新恩給与"についての註]
土地そのものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権を与えられるのが普通で、そのおもなものが地頭職であった。
これは「職の体系」のことを言っています。他の教科書とは違って、地頭をあえて「地頭職」と見なす視点を紹介し、その意味するところを簡潔に説明しているのがすごい!
所有権が重層的に重なりあっていたというのは、中世の土地支配の構造を知るうえで一番大切なポイントだと思います。
なお、山川出版の『日本史B用語集』には「職の体系」という用語は不掲載で、かわりに「職」の項でそれを説明しています。
職(しき)②:一般に職務に伴う土地からの収益とその職務自体を指す。荘園の場合、有力者への寄進が何回も積み重なり、下記のような複雑な職の改装秩序を生じた。
この説明は悪くないと思いますが、桐原書店は「土地そのものよりも土地に対する一定の支配権と、それにともなう収益権」のことと明記しているので、その方が的確です。
しかも、いかんせん、『日本史B用語集』は「職」の用語説明を「院政期の社会と文化」のページに掲載しているので、これと鎌倉時代の地頭職との関連が全然分からないです。そして「鎌倉幕府の成立」のページにある「地頭職」の用語説明は、次のようになっています。
地頭職(じとうしき)⑤:職とは役職に伴う権益の意味。地頭職は御家人が地頭に任命されて認められた兵糧米の徴収や免田(給田)経営などの権利。
これは間違っていませんけど、この説明を読んで、重層的な土地支配の構造があったことを理解できますか? 絶対に不可能ですよね?
せめて「職」「地頭職」という用語同士を紐付けて相互参照させてほしいです。ふざけんなってかんじです。
さて、桐原書店の教科書に話をもどすと、欄外にこういう豆知識も載っています。
幕府とは、近衛府の唐名であるが、転じて近衛大将の居館のことをいった。のちには近衛大将とは関係なく、武家政権を意味する語となった。頼朝は1190年に上洛し、右近衛大将に任ぜられたが、まもなく辞任した。
Aについては南北朝時代の武将とする説もあり(伝・藤原隆信筆,京都神護寺蔵)、Bも注目されるようになった(山梨・甲斐善光寺蔵)。
とてもユニークですね。受験には使えないかもしれませんが、知っておいて損はないです。
網野善彦の著作『東と西の語る日本の歴史』に、たしかこの話があったと思います。
他の教科書には載ってませんが、ピンポイントで東大入試に出題されました。
源氏と鎌倉の関係は、源頼信のころに源氏の氏神となった石清水八幡宮を、前九年合戦の際、子の頼義が相模国由比郷に勘請して鶴岡若宮(八幡宮の前身)を建設したことから始まった。鎌倉は前面に海をもち、三方を山にかこまれた要害の地で、切通によって外部と結ばれていた。
鎌倉という土地をこれだけ情熱的に語っているのは、東京書籍の教科書だけです。
上記引用とはまた別に、「コラム 武家の都鎌倉と経済流通」というのも掲載されています。
東大入試では、「院政時代から鎌倉時代にかけての京都と鎌倉の都市の発展」について論述させる問題が出されたことがありますが(1990年)、この教科書はその答案を書くうえで非常に役立つものだと思います。
こののち、後白河法皇は義経を重んじ、頼朝追討の命令を下したが、これに失敗すると、頼朝はその責任を追及し、逆に義経追討の命令を得た。さらに頼朝は義経をかくまっていた奥州藤原氏を滅ぼそうと朝廷に追討の命令を希望したが、法皇がそれを拒否すると、1189(文治5)年に頼朝は追討の命令を待たず、大軍をもって奥州藤原氏を滅ぼした。ここに全国を平定し、その後、法皇死後の1192(建久3)年に頼朝は念願の征夷大将軍に任じられた。
頼朝の悪人っぷりがこれでもか!?というぐらい強調されています。
あいつは自分の野望を実現するため、ときには法皇に逆らって圧力をかけたり、朝廷の命令を無視して独断専行する奴だった、ということを言いたげな記述です。
それはともかく、奥州藤原氏を守ろうとした法皇・朝廷側と、それを潰そうとした頼朝の厳しい対立がわかるのは、この教科書だけでしょうね。
両者のぴりぴりした緊張関係が伝わってきます。
関西にある政権が東北地方を使って、関東独立の動きを牽制するというのは、日本の歴史において繰り返し出てくるパターンなので、この視点を漏らさず記述しているところはアッパレ。
平氏は安徳天皇を奉じて西国に落ちていったが、後白河法皇は京都にとどまり、新たに後鳥羽天皇をたてて政権を維持した。法皇は義仲には平家追討を命じるいっぽう、頼朝には上京をうながして、京都の義仲に対抗させ、武士たちをたがいに牽制させて政局の主導権をにぎろうとした。しかし頼朝は、東国の安定に意をそそいでみずからは鎌倉を動かず、弟の範頼・義経を上京させて、1184(元暦元)年、義仲を討たせ、源氏一族の長となった。ついで義経らは、その当時勢力を回復して都にせまっていた平氏を一の谷・屋島などの合戦でやぶり、さらに翌1185(文治元)年にはこれを長門の壇ノ浦に追いつめて滅亡させた。
この時代に2人の天皇が同時に存在していたとする視点を取り入れているのがナイス。
都落ちした平氏はそのままあっけなく滅んだわけじゃなくて、京都にいる天皇とは違う天皇を奉じて勢力を盛り返していたのです。
どちらの天皇が正統かというのは、つまるところ結果論にすぎません。この教科書はそんな歴史観に基づいて書かれています。
ちなみに、この教科書の編者は、大半が関西の教育機関に属する人たちみたいです。後白河法皇や平氏を主軸にした書き方は、編者の関西びいきが反映した結果なんでしょうか。(笑)
例えば奥州合戦について、「奥州進撃のために頼朝は東国だけでなく西国の武士もひとまず鎌倉に動員し、これを機会に国ごとに御家人組織の整備をいっそうすすめた」とあります。さらに西国の御家人が東国の御家人とどう違うかを説明しているのもおもしろく、この教科書の関西中心っぽい史観は独特です。
愛媛県人にとって、タルトとは黒くて渦巻き状の紋様を見せるロールケーキに似た菓子のことを指す。
もしあなたが愛媛県人に「タルトの絵を描け」と命じたら、間違いなくそのような物体が描かれるはずだ。
であれば、クッキー風の記事にクリームのフィリングを詰めフルーツや飾りクリームを乗せたあの菓子は愛媛県人の中でどう処理されるのだろうか。
その解は、「そもそも知らない」である。
そう、愛媛県人は、西洋菓子の、いわゆる「タルト」を知らない。
二十代以下であれば八割ほどは知っている。外界への興味が強いからだ。
しかし三十代以上となるととたんに「一般的なタルト」の知名度が下がる。
六十代以上ともなると、「タルト=断面図が渦巻き状の巻物」で概念が固定される。一般的なタルトについて教え込んでも一週間もすれば記憶から消される。タルトは、渦巻きである。
そもそもなんなのか。
愛媛のタルトは「あんこを巻いたロールケーキ」と称されることもあるが、それは正確ではない。
きめ細かく、大粒の砂糖が光る記事。それはロールケーキというよりもカステラのそれに似ている。
あんこは柚子の風味が漂い、メーカーによっては栗が混ぜ込まれる。
たびたび比較される関東の菓子シベリアはあんこ部分が羊羹状となっているが、愛媛タルトはあくまでもあんこはあんこである。柚子フレーバーのあんこである。
昨今ではメーカー間の開発競争の結果、スポンジ生地に「さくら」「抹茶」「ごま」などを練り込んだ季節限定タルトも確認されている。
愛媛県人も所詮は日本国民の一部分でしかないので、季節限定商品には弱いのだ。
スポンジだけでなくあんこにも抹茶が練り込まれ、口に含まれた瞬間に噛みごたえのあるスポンジの甘さと鮮やかに練り込まれたあんこの重い甘み、さわやかな柚子の香り、それらの奥から抹茶の風味が感じられる。
ここまで説明しておいて難だが、愛媛のタルトは愛媛限定商品ではない。
四国四県の土産物屋であればどこでも買えるし、瀬戸大橋を渡った山陽でも買える。山陰で売っているかどうかは知らない。
愛媛県人はタルト(うずまき)の魅力を伝えるため、近隣の県から浸食を始めているのだった。
ここまでタルトについてながながと説明したが、タルトが食べたくなっただろうか。なったよね? なったよね???
しかし、臨場感のある、愛媛感のあるタルト体験を味わえるのはタルト県もとい愛媛県のみである。
ぜひ一度愛媛に遊びに来てほしい。
そしてタルトを味わってほしい。
さっくりした生地にあまーいクリームが詰まりみずみずしいフルーツが乗っているあの菓子ではなく、
ちょっと硬めのざっくりふんわりとしたスポンジ、押し寄せてくるあんこの甘さ、鼻を抜ける柚子の風味。
一六タルトは売れ線であるが、味がジャンクであるという評判もついている。
栗タルトを食べたいならばハタダのものを買うといいだろう栗が大粒であんことスポンジとの調和がとれている。
初心者によく勧められているのは六時屋である。スポンジが柔らかめで、あんこがそこまで主張してこない。やさしいテイストである。
あわしま堂のタルトは食したことがないが、あわしま堂の菓子は美味しいのでタルトもきっと美味しいはずだ。
亀井製菓は変わり種のタルトを数多く製作している。普通のタルトに飽きたらぜひおすすめしたい。
愛媛よいとこ、一度はおいで。
来たらば、レッツタルト。
黒い渦巻きに、あなたはもう抗えない。
http://anond.hatelabo.jp/20160529230713これに関して、
ブコメ(http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20160529230713)に若干、スポーツエリートへの蔑みが瘴気のようにうずまきつつあるんで、
陸上が、その後が華やかじゃないことについて、また駅伝の残念さについては大きく同意する。
陸連が相当マズイので増田は陸上でそこそこの場所にはいたのなら、中に入れるなら中に入って改善した方が良い。陸連は本当にダメ。
それと、私が知っている「彼らのその後」については、消息を知り得る人だけなので、生存バイアス的な情報ではある。
でも、「それなりに幸せで、自分なりに競技を続けてる」人はすごく多いということも知ってほしいので。
実弟
実業団でとある競技の選手をやっていた。1部~2部を行ったり来たりするチームの、一応主力。
当然というか、高校・大学・就職どれひとつ「試験」は受けたことがない。ただ、地頭は悪くなかったと思う。スポーツでトップキャリアになるには馬鹿じゃ無理なのよ。
現役時代も9-17で会社員をやって「残業」として練習を毎日やっていた。同僚や会社からは、それなりに応援はされていたように思う。
最後は膝の古傷がどうにもならなくなって30代前半で引退。引退後は、実業団チームのコーチを務めていたが、その後チームが売りに出される(不景気のため)。
買い手から、コーチ・ゆくゆくは監督で、と誘われるも、サラリーマンの安定が捨てがたくw 固辞。
完全にリーグから足を洗ってからは、お目こぼしてもらっていた社内資格試験などを泣きながらこなしつつそれなりに仕事をしている。
今もサラリーマンをやりながら、地元のその競技団体の協会長を務めつつ、子供たちをボランティアで教えたり、
学生時代の仲間とクラブチームを作って地域のリーグに参戦したりしている。楽しそう。
子供は3人いるけど、誰も彼と同じスポーツを選んでいないぐらいが、しいて言えば闇と言えるかも。やっぱりお父さんと比べられるのはイヤらしい。
実弟の友人たち
弟の高校時代のチームメイト。一応全国制覇はしているので他のチームメイトも実弟と同じルートをたどるかと思いきや、ぜんぜんそうじゃない。
優勝チームで、大学のスカウトがかかったのは実弟と同期一人、一期下一人の3人だけ、他の人たちの進路はさまざま、ごく普通の人生を送っていると思う。
実家を継いだもの、現役で大学いってサラリーマン、大学2浪してサラリーマン、など色々。
年に1度は集まって、スポーツのミニ大会兼同窓会みたいなことをしている。みんな家族も参加したりする。私も顔を出すけれど、楽しそうだよみんな。
「結局日が当たらなかった人生」ではなくて、どちらかというと「高校時代、超モテたんだ俺」な人生という感じ。
それぞれの地元でスポーツを続けてる人が多いけど、「メンバー集まらないんだよねー」と草野球チームに入っていたり、マラソンチャレンジしてる人とかも。
ちなみに弟は高校時代、モテすぎて家の前に女子高生の張り込みなどがあって大変だったので、そういうのはやめてください。
ラグビー、アメフト、アイスホッケーの体育会に属していた友人がそれぞれいた。みんな今はサラリーマン。
どれも、あんまり強くないチームだったからというのもあるか、就職については、大学名のネームバリューが良いので
「こっち(実業団)じゃなくて、そっち(大学名)のカードを切る」という感じで、超氷河期だったのに皆さん良いところにお勤めになった。うらやましい。
三人とも普通にサラリーマンをやっている。ラグビー、アメフトの二人については、今でもクラブチームに携わっている。
もうオッサンだから競技はやってないけどクラブチームの運営(会計とか協会との折衝とかそういうもろもろ)やってたりするらしい。
プロのスカウトに声もかけられたことがあるという人や、ユニバーシアード出ましたみたいな人やら、実業団でやってましたみたいな人やら、ゴロゴロいる。競技も様々。
共通してるのは「今でもその「草競技」をやってる」ということ。あと、普通にサラリーマンとして仕事をしている。
まぁ、出世するかというとしないけど、仕事できないかというと、普通かそれ以上に仕事できる。ほとんどが営業職だけどひとり技術職で元選手、という人もいる。
知人の中で一番の知名度を誇る「元スポーツ選手」は、一般人でも聞けば名前を知っているレベルの人だが、仕事で役立つかというと「ほとんど無いな」らしい。
競技は、実業団じゃないけど、会社の部活動的なものでやっていたり、学生時代の体育会のOB的なクラブチーム(がどの競技にも割とあります)だったり、
地元の友達を集めてやってたり、ひとりでこつこつ(個人競技だとこっちよね)練習しつつたまにシニアの大会に出たりとか、そうやって続けている。
「見に来てよー」と言われて「いいですよー」と見に行ったけど、まぁオッサンの草競技だけど、
和やかでゆっくりしてて、ただやっぱり全盛期すごかったんだろうな、と思わせるようなプレーも見られて、面白かった。
競技を続けていると、その競技団体の枠の中でそれなりにスポーツに関わり続けることができる。
ほとんどのスポーツには「○○連盟」とか「○○協会」という形で競技団体があって、地域~都道府県レベルまでピラミッド型に競技リーグ組織ができていたりする。
サッカーでJ1、J2、とあるようなもの。例えば東京のサッカーなら都4部とか5部とかあって、チームを作ったり選手登録して、いくばくかの金(登録料的なもの)を払えば、誰でも大会に参加できる。
テニスとか陸上なんかの個人競技についても、定期的に大会が開かれてたり、サークルで独自にトーナメント作ってやってたりもするしね。
なので、ある程度、競技を続けられる能力があれば楽しみ続けられる。
それに、体育会って、なんだかんだ言って就職が悪くない。サラリーマンとしての出世とか仕事で成し遂げたいと思うことがない限りにおいてはw。
スポーツを続けるということは「自分より強い相手の存在を常に認め続ける」ことでもあるので、「過去の栄光」に縋る人って逆に少ない気がする。
むしろ、フィールドを変えて「今の自分なりに、そのスポーツを楽しもう」という感じの人が多い。
ただこれは、「進学先の校風」とか「就職先の社風」とか「その競技特有の個性」によっても、変わってくるようにも思う。
もちろん、その選手当人の競技能力・精神的な能力と、親とのかかわり合いが大きなファクターを占めてるのはありますが。
「親子鷹でずっと野球一筋だったが、高校で肘を痛めてそっからぐれたよ」という人も知人にいるし、
私と弟の母校については、陸上と野球はすごく宜しくない噂がたくさんあった。たくさん囲い込む癖に怪我するとすぐ潰すとか…。
なので、これは生存バイアスでもある。やっぱりリスク高いよねスポーツ競技で身を立てようというのは。
ただ、「選手としては目が出なかったが、それなりに生きているし、競技もそれなりに続けてて、それなりに楽しい」と言う人が、一番多いんじゃないかな。
そこで「あの時にああしておけば」と黒い発想をしてしまう元選手がいたとしたら、それは脳筋トレーニングしかしてこなかったから、じゃなくて
アニメや漫画にある「女の子の物語」の主人公は、大雑把にいって2種類である。
特徴
・皆から愛される人気者。社交的。
・食べる事が好き。空腹になると不愉快になる。
・好き嫌いがはっきりしている。
・判断の基準が「好き・嫌い」 清濁合わせ飲むタイプ。
・感情の起伏は激しいが、後に残らない。
・アイドル顔。
・原色やパステル系の色を好む。
など。
特徴
・控え目。自分の意見より、人の意見を優先する。ゆえに病気やストレスなど、生理的な影響を受けやすい。
・生活感がない。
・自分の嫌いなものははっきりしているが、好きなものは曖昧。たとえば、「何を食べたい?」と聞かれても答えは返ってこないが、「これは食べたくない」は、すぐ答える。
・ ほっそりとしている。
・ファッションセンスがよい。
・清潔か不潔か、自分なりの価値ラインをもち、不潔については、過剰に反応する。
・「あんなことをさせてしまった私が悪い」「こんなことを気にする私が悪い」と、言いがち。
・人の感情の波を和らげる力がある。
など。
こういった女の子が、主人公や、主要登場人物になりやすい。もっとも、中学生向けあたりから、そう単純にはいかなくなるのだが。
社交型と神秘型は、陰と陽である。
話はそれるが、例えば綾波レイ、長門有希など、なぜか神秘型は、「男の子の物語」に、登場することが多い。
神秘型の女の子に引かれやすい男の子のタイプがある。仮に職人型とする。
特徴
・集中している感覚が好き。
・独断と偏見が強い。自分の中にある善悪概念で白黒つけるため、敵味方がはっきりしている。
・完全主義者。過剰なこだわり。
・こだわりが非常に強いが、自分に興味のないものは、まったく興味が持てない。オール・オア・ナッシング。
・面倒見はよい。頼られると嫌いな人でもほっておけない。仕切り屋。
・執着心や持続力が強い。
・睡眠は短くて深い。
・狭い場所を好む。
神秘型というのは、自分の感情を廻りの人物、特に主人公に流されやすい。自分で自分の感情を、よくわかっていない、ともいえる。
「彼女の事を、もっと知りたい」と職人型が思っても、女の子本人も、自分の事を、よくわかっていない。それゆえ職人型の男の子は、神秘型の女の子にハマる。
話を元に戻す。
アニメ「桜蘭高校ホスト部」の話をする。原作漫画の方ではない。アニメの主人公は女子高生の藤岡ハルヒ。他に6人の男の子が登場する。この作品、主人公のハルヒが、何を思い、何を考えているのは、ほとんど描かれない。彼女について考えたりするのは、廻りの6人である。主人公の女子高生、藤岡ハルヒは神秘型である。彼女の内面が描かれたと思われる「不思議の国のアリス」を連想させる回があった。あそこまでしないと、自分の願望がわからない、と捉えると、少し可哀想な気もする。
アニメでは、須王環と鳳鏡夜とハルヒ、常陸院光と常陸院馨とハルヒ、の三角関係を描く事が多かった。それ以外の組み合わせだと、恋愛というよりコメディー色などが強くなっている。
須王環と鳳鏡夜は友人である。
埴之塚光邦と銛之塚崇は君主と臣下である。
最後の2人は、傍観的な立ち位置にいたので省くが、三角関係を描く時、「どちらを選んでいいか、わからない」「どちらを選んでも、おかしくない」という人選にしないと、うまくいかない。このアニメの場合、「友人」と「兄弟」の二つを使って、三角関係を描いた。
三人の関係ではあるが、須王環と鳳鏡夜、常陸院光と常陸院馨、対照的に描かれていた。太陽と月、昼と夜、どちらが正しいとか、間違っている、などではない。藤岡ハルヒと他二人は、恋愛一歩手前の関係ではある。が、友人対女の子、兄弟対女の子、といった関係でもある。おまけにハルヒは、自分の感情を、よくわかっていない。だが、自分はわかっていないが、他人のそれは、わかるのである。
どのような最終回を迎えるのか、見ていて非常に興味があったが、ダイナミックな一回転で終わった。上から見ると、一回りしただけにも見えるが、横から見ると、一段昇ったのである。らせんやうずまきのように。
もっとも、このアニメを、男装した女の子が、男子高校生に囲まれて、学校生活が楽しくなってよかったね、という話で捉えても、何の問題も無い。これはアニメだ、おとぎ話だ。
とはいえ、である。
私はフェミニズムやジェンダーの人ではない。けれど、あまりに男にとって都合のよい女として描かれている。男装をしているため、女の友達がいない。ドラえもんの、しずかちゃん状態である。男装をしていると、特権階級の一員として扱われるが、普段、女の子の格好をしている時は、貧乏人である。こうして文章にしてみると、楽しいものではない。
父親はニューハーフであり、バイセクシャルである。典型的なオカマ口調であり、女性を連想させる。弁護士だった母親とは死別ている。が、回想シーンなどで登場する時の姿は、まるで父親のようである。その母親の後を追うように、娘のハルヒは弁護士を目指している。これが、父親と母親を逆転しただけなのか、別なものなのかは、今は触れない。
想像というより妄想ではあるが、ハルヒの性格を考えると、恋愛よりも、進学、卒業して働くこと、喰いっぱぐれない事を優先しそうな気がする。「お金持ちだから」という理由はあるものの、男の子達の意識に、そういうものがあるのだろうか。私には見えない。彼らに稼ぐ能力が無い、といっているわけではない。「お金はあって当たり前」と思っているように見える、といっているのだ。けれど、「結局女の子は、最後は王子様と結婚するものさ」とのん気に思っている男の子の側と、「それよりも、まずはひとりで食べていけるようにならなきゃ」と思っている女の子の側の、深くて暗い溝が、ぼんやりと見えるのは考えすぎだろうか。
この作品は、「女の子の物語」ではあるが、「女の物語」ではない。女の子は、いつかここを卒業していく。いかねばならぬ。
神秘型を物語に登場させた場合、本人よりも廻りの人物が、彼や彼女について、多く語る。自分が語らない事で、キャラクターとしての内面が描かれる、という使われ方が多いように思う。さらに、神秘型の人物を語ることで、その人物は神秘型の彼/彼女を、どう思っているか、がわかる、という仕組みになっている。神秘型にモノローグは似合わない。させるとするなら、ポエムとして、だろうか。神秘型は、謎にしなければならない。
「1日1回うろ覚えのハットリくんのイラストを書くだけで高収入が」
およそ13億枚のハットリくんのイラストを騙し取っていたグループが摘発されました。
このグループは”世界うろ覚えのハットリくんのイラストコレクション財団アジア支部”を名乗り、
「今本部のあるカンザスシティでは
うろ覚えのハットリくんが高騰していていくらあっても足りないくらいだ。
うずまきが逆でもいいから殴り書いて欲しい。」
などと、言葉巧みにフエルトペンを握らせ、
手当たり次第に書かせていた疑いが持たれています。
だまし取られたハットリくんの中には、
本来うずまきのあるべき所にそばかすが書かれているケムマキくんと混同したと思われるものや、
「バケラッタ」と書かれているものなど、
稀少価値が高いものも含まれており、
目下警察が作品の行方を全力で捜索していますが、
全て私の実家に