はてなキーワード: 嫌われる勇気とは
上司のことは同じ道のプロとしてのスキルや経験は尊敬できる。ただ、人間的に合わない部分が多分にある。
具体的には、自分の感覚以外の感じ方をする人がいることを理解していない。
例えば苦手な人がいたとして、飲めば仲良くなれる、みたいな感覚なのがうちの上司。俺は業務上必要な場合を除き、なるべく関わらないようにしてお互いのストレスを溜めないようにしたい。
他にも、誰かがチーム内で「蔑ろにされている」と相談した時、上司はその子のその言葉の背景や求めていることを理解しないまま、相手との面談を勝手にセッティングする。みたいな。
まあとりあえず「話せばわかる」と信じているし、「自分の感じ方で間違いない」という確信を持っている。
嫌われる勇気とかそういう話じゃなくて、もっとドライに会社と付き合っていきたいのに、そうじゃないところでも気を遣ってくる。そのくせ、こちらが要求を口にしたところで、正しくそれを理解してくれない。何度か粘って話し合ってみたけど、考え方のプロセスも感じ方も違うので、全く話にならなかった。だからそれ以来理解してもらうことを諦めた。
そういう経緯もあって、ブリーフィングの時間が非常にストレスになっている。
日常的にやらなきゃいけないならまあ慣れるんだろうけど、月に1回、30分ほどのmtgを組まれ、それが毎回1時間に伸びる。俺のメンタルは疲労困憊になる。もういやだ。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/49366?page=6
つまらないやつだと思われないために、メンヘラっぽい言動であろうが開示して人と接するようにしている。
男友達にもそうしていたら、1番仲が良いと思っていた友人がメンヘラっぷりに辟易していて、地味にショックだった。
自分を曝け出せば曝け出すほど良いと思っているところがあるが、果たして本当にそれでうまくいくのかというと、非常に怪しくないか。
本音で生きるとか、本音を話すことがいかにすばらしいかを説く人というのは、信者ビジネスをしたい人たちばかりである、ということに、なんとなく気づいてきた。
本音で〜というのは、信者の耳に心地良く、教祖にとって都合の良い教えだ。
常に本音だけで生きている人間など存在しないというか。そもそも本音とはなにか。
本音とは、建前の対語であって、建前があって初めて成立するもので、つまりは建前並に脆い概念だということだ。絶対の真実のようなものではない。
本音を言うようにしたらうまくいくようになったみたいなフィクションがよくあるが、あれはフィクションだ。
本音100%でうまくいくなら、ストーカーとか底辺Youtuberとかアイドルヲタクは、もっと報われていいだろう。
つまるところ、本音かどうかって、たいして重要じゃないのかもしれない。
本音だからいいでしょとばかりに自分の発言に甘えてはいけない。
本音かどうかというより、少なくとも相手を不快にさせないことが大事なのだと思う。
メンヘラっぽい言動をして、99人引いても、1人引かない人がいるかもしれない。
その1人だけ残ればいいというのは、楽だが、99人に迷惑をかけている。
やたら嫌われる勇気が押される時世にあっても、嫌われない、相手を傷つけたり不快にさせないというのは、とても大切なことなのだ。
ナンパの頃の思い込みの名残で、会ったその日にを目指す習性が残ってしまっている。
まずは嫌われないで、また会ってもらえるようになるところからはじめたい。
承認欲求といえばマズローの5段階欲求でお馴染みの人間の欲求のやつです。
そんでアドラー心理学では承認欲求を満たしてはいけない的な論調があるんですけど、これ割と合ってると思います。
ただ勘違いされやすいよな〜って気もする。例えば承認欲求を持たないくせにお前なにWeb上に文章投稿してんだよ、チラシの裏にでも書いとけ、承認欲求あるんだろ!みたいな反論されそうだけど、承認欲求はある!そして承認されたいので行動する!ここまでは良いと思うんだよね。問題はこの世ではたいてい承認されないことのほうが多いということですよ。
ここでアドラー心理学が提案してたのが、承認されなくても良い、承認されないことを受け入れる。ってことで、それがまぁ昔から自己啓発系の文書で繰り返し言われてる「他人の目を気にするな」とかの考えであり、例の本のタイトルに使われた「嫌われる勇気」って考え方に派生したのかな〜って感じです。
そんで、もし承認欲求のために動くのが最善で承認欲求が満たされることこそ目的であるとして活動するとどうなるでしょう。前述のように承認されないことのほうがほとんどなので、試行回数を増やせば増やすほど、承認されないという体験を積み重ねます。
Web上に溢れてる、僕のお気持ちを無視するな、俺の正義を否定するな!といって大暴れしているモンスター共の正体はこれです。承認欲求に従い自分で自分をコントロールできずに欲望のまま突き進んだものの末路です。こうなってしまってはもう誰にも承認されることはありませんし、承認されないことでフラストレーションをためて大暴れする、嫌われ拒絶される。拒絶されたことを受け入れられずフラストレーションをためて大暴れする。といったループに陥ります。
アンコントローラブルな状態で手放しで承認欲求の赴くままに行動すると自然に良い結果を生み出す。みたいな社会の認識がある感じするんだけど、多分それは間違っていて、食欲とか性欲なんかと同じように本能の赴くままに貪るのではなく適度にコントロールしたほうがいいのかと思う。
当たり前のことっちゃ当たり前のことなんだけど、承認こそ重要!承認されてこそ人間であり、承認されない人間はカス!社会に存在する価値無し!みたいな論調はやりすぎだし、そういう常識を真に受けてしまった人たちが不幸を量産してるよな〜って気がする。しらんけど。
みっともないとか、恥ずかしいとか、その歳なのにまだ〜とか、相手に失礼とか、立場をわきまえてとか、そういう言葉が出てくる文脈はだいたい、他人の頭の中にある常識なので、そういうもの相手にいちいち「承認」されるために頑張ると、マジで地獄だよなぁって感じです。
そういうの克服するためにセルフエスティームとかの考え方も使えたりするのかな。
・断る力を身につければ人生はうまくいく
http://careersupli.jp/lifehack/no/
あと少し前に流行った「嫌われる勇気」っていう書籍が良いかもしれんな
がんばれえ〜
文章を引用してみる。若者は常に「!」でお話になる。なお続編でも若者はキレている。
青年:わたしはね、こんなふうに思うことがあるんです。自分はまともに日光を浴びずに育った、へちまだと。劣等感にひん曲がってしまうのも当山でしょう。これでまっすぐに伸びるという人間がいたら、連れてきていただきたいものですね!
青年:……幸せな人ですね!ただね、そんなものはひまわり、ひまわりなんですよ。たっぷりの陽射しを浴びて、十分な水を与えられて育った、ひまわりの理屈です。薄暗い日陰に育ったへちまじゃ、そうはいきません!
青年:いやいや、逃げる必要はありません。売られた喧嘩は買えばいい。だって、悪いのは相手なのですからね。そんなふざけた野郎、思いっきり鼻っぱしをへし折ってやればいいのです。言葉の拳でね!
青年:神のことなど、どうでもいい!もっと素直に、もっと正面から、市井に生きる人間の心を考えてください!たとえば、社会的に認められたいという承認欲求はどうなります!?なぜ人は組織の中で出世したいと願うのか。なぜ地位や名声を求めるのか。それは社会全体からひとかどの人物であると認められたく願う、承認欲求でしょう!
今更だが「嫌われる勇気」を読んで見た。
確かに前半の、「トラウマは存在しない」という説、人は目的のために理由を作るという説など、思い当たることも多々あってなるほどと感心させられた。
まあアドラーは理解するのが難しいと言われているし、自分の理解がたりないだけなのかもしれないけど。
これって、自分以外の全員がアドラー心理学の信望者で、アドラーの言う自立した自我を獲得した人ばっかりだった時に成り立つ話じゃないの?
世の中なんて自分も含めて自立してなんかないどうしようもない奴ばっかだよ。
そんな中で善意の塊みたいなアドラー信者一人いたっていいように利用されるだけじゃん。
でさ、これはアドラーじゃなくて著者が悪いんだろうけど、例として「家族の誰も皿洗いを手伝ってくれなくても不機嫌な顔などせず、あなた(主婦)が鼻歌でも歌いながら機嫌よくやっていたらみんなが手伝おうかという気になるはず」っての。
皿洗いする主婦を例として出すのもそもそもどうなのと思うけど、現実問題として主婦がこれやってたら誰も手伝ってなんてくれないでしょ。
家事しかり、地域のゴミ集積所の掃除しかり、職場の給湯室の片付けだとか喫煙所の吸い殻だとか。
自発的に善意でやる人がいたら「あの人は掃除好きだからやらせとけ」みたいになって、挙句の果ては「ちゃんと片付いてない」とかクレームまででる始末。
こういう場合、主婦が夫と子供に対して「自分ばかり皿洗いをしているけどみんなで協力してやりましょう」みたいな話し合いを持って解決するのが自立した人格のすることなんじゃないの?
だいたい主婦に皿洗い押し付けとく段階で横の繋がりなんがじゃなく縦の繋がりになってるじゃん。
まあ今更「嫌われる勇気」を読んだのは、「僕が僕であるためのパラダイムシフト」という漫画を読んだからなんだけど。
この漫画はとても良かった。
一人で生きる決心。嫌われる勇気。
タイトルの通りです。
現在とあるジャンルにハマっていて、そして中でもマイナーなカップリングに身を置いています。
正直組み合わせ自体は、ジャンルの話で基本的に絡みがある子たちなのでそこそこ王道です。が、自カプはいわゆる逆カプで、逆になった途端ガクンと数が減るんです。悲しいね。
本題ですが、私は今まで何かと忙しくしていたので、そのジャンルで自カプの二次を創作することがあまり出来ないでいました。
まあ、そこまで忙しくなくても出来ない人種ですが。
自分の好きなキャラが出来て、話が進んだりするなかで解釈が変わったりキャラ同士の関係性が変わったりとか、自分の中で消化するのに必死なので参入は大抵遅れます。下火になってからが本番。
ただそのジャンルの開始当初からドハマりしていて、アナログで汚い落書きやら思い付くネタメモやらは死ぬほど溜まっていきます。
しかし落書きはメチャクチャ汚いのでとても人様にお見せ出来るものではありません。ですので、投稿して誰かに見てもらって……なんて夢のまた夢。漫画なんてそれこそ幻。
デジタルに取り込んで修正して線画から描き起こして色つければまぁなんとかそれなりの形にはなるのですが、なにぶんその作業がとても面倒臭い。
そうです。私はデジタル不精なのです。
ここから私の悪癖が出てしまうのですが、最近はもっぱら人様のお上手な作品を見るともう憎悪しか湧かない。
上でも言いましたが自カプはマイナーですのでもうそりゃ殆ど作品がありません。ですが逆は世の中に溢れている訳であります。
逆カプの理想的な作品を見かけてはもうメチャクチャに羨ましくなってぐぬぬな訳です。
自分で絵をかいて自カプを増やしたいのに!今までずっとずっとネタ考えてきたのに!!!
画力もなけりゃ気力もない。
自カプが雀の涙すぎて世の中に自カプは求められてないんだなぁTLに流れてくる人とかみんな逆だもんな逆はみんなに愛されてていいな
しんどいというふうにどんどん悪い方へ……
前までは地雷みたら画力でぶん殴ってやると燃えていましたが、誰にも求められてないカプなんだなと考えるともうただただ虚しくなって無理だ……モードになります。
そして手に付かなくなります。
TL自カプだけで固めればよくない?と思われるかもしれませんがマイナー故に他カプの方が気紛れに描く自カプを頼るしかないのです。大手はとっくに蒸発しています。
さらに自カプの人も雑食だらけの呪いがかけられているので普通に他カプばかり語っています。
正直自分も他カプを描いたりするため、完全固定さんには害になることがあるかもしれないので遠慮するのですが、考えているのは推しと自カプばかりですし、推しが本当に本当に大好きなのは揺るぎません。自分も周りと仲良くするために、合わせて何でもイケますよアピールしてますがつらい!自我を通して嫌われる勇気を持ちたいです。
これは顔色を伺ってばかりの人種故の自業自得のただのアホなんですけどね。
自カプの人が地雷のこと楽しそうに語っていたり逆と仲良くしてばっかで自カプほぼ語らないとかよくあるのですが、それが一番キツいですね。そんなにあいつがいいならもう出て行けよ!と包丁を向けたい気持ちで一杯です。TLに地雷を流されて負傷すること多数です。
そもそも自分の嗜好があまり他人と共有できないようなものなので、自分と同じベクトルで推しを愛する人がいません。
二次の醍醐味は萌えを分かち合ってわいわい盛り上がるものだと思っているので苦悩します。
自分はまず推しが中心で推し大好きマンで推しを第一にしています。推しのことを好きな人はそれなりにいらっしゃいますが、大抵地雷カプの方や地雷兼任の方が何故か多く、拒否反応を起こしてしまいます。
ただ自分は推しへの解釈が相当に面倒臭い腐女子なので、残った総受けや推しが極端に乙女になる推しの受け数が最大のカプも弾きます。
ですがそういった他カプの方に縋らないと飢え死にしてしまうので包丁を隠し持ちつつなんとか生きています。
ここまで見てお察かもしれませんがお前交流向いてなくね?と思われるでしょう。
その通りです。
昔はやっていましたが、交流や上記のような敏感モンペ性分で苦しんだために利用しなくなりました。
実際このジャンルにハマってからも今年の中旬頃までツイは利用せず、支部を漁って生きて参りました。しかし、マイナー!!限界が訪れます。
徐々に更新されなくなる作品欄。消される作品たち。消える大手。そりゃもうしんどいです。
中でも、その推しのことが好きになって初めてご本を買わせて頂いた大好きな方の更新がストップしたのは大ダメージでした。
この私の推し像や解釈を作り上げ、自カプの親と言えるような方でした。その方は新しく他ジャンルへ移ってしまいました。
ここまで長くハマったカプは今まで無かったので、取り残されるのがこんなに悲しいものだとは……
それでもう供給が足りない!辛抱ならん!とツイへ飛び込んでいった訳です。
ですがマイナーさらに遅漏参入。その上自分の創作は一般受けするものでなくちょっとアレな雰囲気ですので、周りの方に積極的に絡みにいくのは憚られます。
自分と同じような方向で求めてくれる人なんかそうそうおりません。
そもそも、ちゃんと人様に見せられるような創作はまだ全然出来ていないので自分の作品で殴り付けたり人に布教するなんてもう全くもって出来ません。
近々オンリーイベントがありますが、漫画は描いたことがないしきっと何も出来ずじまいで過ぎていくのでしょう。
そして数少ない界隈の方にとっては無産なんか見向きもされません。
それでも推しは大好きで大好きでまだ毎日推しのことを考えては幸せな気持ちにさせてくれます。
これから時間がかかっても大好きを形にしたいし、全員に好きだと言われなくてもたった一人でも、自分の大好きがこもった作品を気に入ってくれる人がいたら幸せ。あわよくば言葉にして伝えてもらえたらな。
仲間が少しでも増えてくれればいいな
この話はあくまで日本国民一億2000万人いる中の、ある一人の意見であって、他の人たちに当てはまるかどうかはわからない。
ただ、小学校2年からいじめられて、おかげで中学~高校とパシリ生活を送り。
30過ぎるまで、その影響を引きづってた人生を送った結果たどり着いた結論として、
「もし自分の子供が出来て、もしいじめられる立場にあったら、絶対こういう風に教えてあげよう」と思っていた事だったから、これを機に書いてみたい。
や、マジはてな最高。 昔は増田の意味も知らなかったのに(俺の嫌いな元上司の名前でもあるから、なおさら敬遠してた。はてな)
ドラマ・リーガルハイで堺雅人演じる古美門研介が、岡田将生演じる羽生晴樹に対して「それが人間だ!(それが人間という生き物だ)」と一括するシーンがあるんだけど、まさにそうで、人間って生き物の中で生きてる以上はいじめは必ず発生します。
何故なら人間には感情があるから。 あなたも心当たりあるでしょう?
不潔な人とか、臭い人とか、電車で奇声あげてる人とか「キモイw」とか言って敬遠してるでしょ?
みんな、知らず知らずの内にやってんだよ。「身を守る」とか言ってね。
社会でも普通に仲間外しやらいじめは発生しますよ。あなたもその当事者の一人ですよ?
・・こんな理由で辞めた人に対して、多くの人はこう思うでしょう
「次の会社大丈夫なの? また同じ理由で辞めない??(特に面接官なんかそうだと思う)」
今の学校のいじめを、あらゆる手(教師や周りの大人や何なら教育委員会とか)を使って潰したとしても
いじめが辛いのはわかります。俺もそうでした。30超えた今だからこんな事書けるっていうのも自覚はしてます。
ただ、探偵さんや教育委員会含めて第三者のおかげでいじめが解決した本人(俺もその一人に該当するだろう)は
全員が全員ではもちろんないけれど。
ほぼ全ての子が成長しない。
むしろ心の傷を負っただけで何もプラスにならない訳です。少なくとも自分はそうだった。
ドラクエで言うなら(第三者のおかげで)瀕死の状態で戦闘から逃げられた(ステータスゲージが黄色じゃなくて赤の状態)のはいいんだけど
答えは未だに治っていません。
(かなり治ったけど)
よく聞くでしょ。
いじめられるまでは活発だったのに、いじめられてから急に性格が反対になってしまった(おとなしくなってしまったとか・etc)
自分もその一人だと思っていて、小学校2年生まではクラスのリーダー的な感じだったと自認していましたが(小学校の話だけど)
いじめられてからは、一転しておとなしくなって嫌われるのが怖くなって衝突するのが怖くなって。
「嫌われる勇気」に出てくる主人公を地で行く感じになってしまった。
「かわいそう」「うちの子供にはそうさせないようにしよう」
共感よろしくって感じだね。可哀そうって一番嫌いな言葉なんだけど、まあそれはいいとして。
この精神状態になるだけで、社会に出てからも大分遅れを取ってしまうことは、ほぼ間違いないと思う
もちろん、子供のいじめに気付くってのが大前提なんだけど、気づいた前提で話を進めたい。
俺なら子供にこういうだろう。
「俺が後の責任全部取るから、そいつの所に行って殴って来い。言いたい事全部言って来い。言いがかりでも構わないから」
なんでこんな事を言うのか。
例のいじめ探偵さんと一緒に出演していた女性は(俺の見解では)かなり、思い込みが激しい状態だったと思う。
気持ちはわかる。俺も今でも似たような気分になる。ヒソヒソ話しをされてたら、俺の悪口言われてるような気分になるアレな。
いわゆるコミュニケーション不足。
といえば簡単だが、じゃあコミュニケーションって何なのよって話なんだよね。
それを埋める為の、話し合いが必要という事。 たぶんお互いの溝は埋まらないでしょう。殴り合いになってケンカ別れになるかもしれないでしょう。
でもそれでいいと思う。
この辺りのフェーズを学生時代に経験しておくことが大事だと言いたい。
社会に利用される人たちは総じて弱い人であって、自分を主張できない人。自分を通せない人
(全員ではないけど、その要素はあると思ってる)
(俺もそうだったから)
学生時代はその練習が出来るチャンスなんですよね。周りのクソ共が何と言おうと。
自分で(もしくは、周りの親に知恵をもらいながら)はねのけるのが、本当の意味の成長なんじゃないかな。
そうしないと、本当に「私は(俺は)過去にいじめられた事がある」だけで終わっちゃうんです。
そうじゃなくて、「いじめられた事があるけど、そいつら全部ぶんなぐってやったwwwww」ぐらいにしてくれれば、自分の傷も癒されるし、
何より「自分の意見を通すこと」の「加減」 ←ここ大事! が肌感覚で身につく。
加減がわからないから、喧嘩出来ないし、出来ないからいじめられるでしょ? みなさん。
(みんなじゃないと思うけど)
高校なんて、親もいて、教員もいて周りに迷惑かけてもある程度は許される時期じゃないですか。
ここで他人に頼るようじゃ、社会に出てからも同じだと思うんです。
自分は一度、小学校の時にいじめてくる主犯格クラスの奴に抵抗的な事をした事があったけど、それからしばらくいじめは無かった。
相手もビビったんでしょう。大人の今になったらわかる事ではあるけれど、小学生のあのころに戻れるなら言ってやりたい。
「気のすむまで殴れ」って。別にストレス発散したい訳じゃなくて、あそこでそういう事を経験しておくことっで
将来社会に出てから、不良なんかが隣に座った時にやけに動悸が激しくなる・・・なんて事もなかったと思うんですね。
(実際小学校~高校の間に起こしたケンカ(少なからずもあった)は、実は社会に出た今でもかなり人間関係の駆け引きの部分で役に立っている)。
から、子供が出来たらこの考えは変わるのかもしれない。みんな子供は大事だものね。
でも大事だからって生暖かいお風呂に入れっぱなしにしていると、いずれ一人では出られなくなりますよ。 それが今回の文章の趣旨です。
それだけです。
長くなりました。
おなか減った。