今更だが「嫌われる勇気」を読んで見た。
確かに前半の、「トラウマは存在しない」という説、人は目的のために理由を作るという説など、思い当たることも多々あってなるほどと感心させられた。
まあアドラーは理解するのが難しいと言われているし、自分の理解がたりないだけなのかもしれないけど。
これって、自分以外の全員がアドラー心理学の信望者で、アドラーの言う自立した自我を獲得した人ばっかりだった時に成り立つ話じゃないの?
世の中なんて自分も含めて自立してなんかないどうしようもない奴ばっかだよ。
そんな中で善意の塊みたいなアドラー信者一人いたっていいように利用されるだけじゃん。
でさ、これはアドラーじゃなくて著者が悪いんだろうけど、例として「家族の誰も皿洗いを手伝ってくれなくても不機嫌な顔などせず、あなた(主婦)が鼻歌でも歌いながら機嫌よくやっていたらみんなが手伝おうかという気になるはず」っての。
皿洗いする主婦を例として出すのもそもそもどうなのと思うけど、現実問題として主婦がこれやってたら誰も手伝ってなんてくれないでしょ。
家事しかり、地域のゴミ集積所の掃除しかり、職場の給湯室の片付けだとか喫煙所の吸い殻だとか。
自発的に善意でやる人がいたら「あの人は掃除好きだからやらせとけ」みたいになって、挙句の果ては「ちゃんと片付いてない」とかクレームまででる始末。
こういう場合、主婦が夫と子供に対して「自分ばかり皿洗いをしているけどみんなで協力してやりましょう」みたいな話し合いを持って解決するのが自立した人格のすることなんじゃないの?
だいたい主婦に皿洗い押し付けとく段階で横の繋がりなんがじゃなく縦の繋がりになってるじゃん。
まあ今更「嫌われる勇気」を読んだのは、「僕が僕であるためのパラダイムシフト」という漫画を読んだからなんだけど。
この漫画はとても良かった。