はてなキーワード: 些末なとは
その小説は常に下書き状態で、毎日加筆しているが公開するつもりはない。
それは半分事実のフィクションで、別段珍しいことを書いているわけでもない。
例えば昼ご飯。
新しいお店に入り、俺は日替わりの定食を頼む。
A定食。
しかしもしそのとき、俺がB定食のカキフライを選んでいたらどうなっていたか。
ただカキフライを食べていたら、どんな味だったのかを想像する。
それを書いているだけだ。
そのifを俺は想像する。会社からの帰り道、暗がりにぼんやり佇む名も知らぬ神社。
何者も居なく、何かがあるわけでもない。
ただなんとなくお賽銭を投げ、願うこともなく手を合わせる。足元に感触。目を開けると猫が居た。にゃあんと鳴く。
頭を撫でてやると気持ちよさそうに目を細め、世界に二人だけのような気持になる。
あの人が良いとかこの人がいいとかあの人はここがダメとかあれがダメとか、色々選ぼうすると結局何も決まらない。
いざ子供作ってしまうとそんなの言ってる余裕もなくとにかく育てなきゃいけないがゴールになるのであれがダメこれがダメとか言ってられない。
そういう雑念的な所に目を向ける余裕がなくなる、逃げ道がなくなるというやつ。
二人とも少なくとも子供のこと優先で考えられる人という条件はあるが。
お金だって分の好きなように使いたいとかなくなるし、相手の年収どうだ言ってる場合じゃなく今ある条件でどれだけ子育てができるかに目を向けるようになる。
義務から逃れるというちょっとした犯罪意識に愉悦を覚えるという感じか?
でもな
そのどれもしてない奴も居る(「精神や肉体や環境のせいで出来ないんだから仕方ないでしょ」とかそういうことは於くとして。実際に「していない」ということにフォーカスしてくれ)
憲法で決まっていることをしてないからといって「お前は非国民だ」「お前は人間じゃない」などと謗られることはないし謂れもない
そんな大きな「義務」と言われるものですらスルー出来るのに、「子育て」だの「部活」だの些末なことが「義務」になるわけがなかろう
じゃあ、人間の義務って一体何だと言われたら「生きてること」だと答える輩も居るだろうが
それですら「義務」ではない
なんだかんだと義務を装って人を縛り付けようとするのは良くないことだ
冒頭で「(増田は)犯罪意識に愉悦を覚え」ていると言ったが、実際はそういった「偽装された義務からの解放という自由を得て幸せを感じている」と捉えるべきなのかもしれない
しかしまだまだ「義務を代替する幸福を探さなければ」という義務感に苛まれている様子なので、真の自由からは遠いのかもしれない
「義務など無い。だからその依代としてのナニカなど必要ない」ということに早く気付かないといけない
でももしかしたら、ナニカを見つけないと増田は空っぽになるのかもしれないな
増田は生真面目だから、ナニカを詰め込んでいないと不安なんだな
ジャニーズ事務所会見の件があまりに示唆的な要素たっぷりなのでメモ。
ジャーナリストごっこhttps://anond.hatelabo.jp/20231003040510
の続き。
当事者主催の記者会見が真相究明の正念場であるというステレオタイプはなかなか強固なようだ。攻める敏腕記者。はぐらかす当事者。「ではこの件をどう説明するんですか!?」「うぐっそっそれは…」そんなことにはならない。
仮にかれらの疑問なりご意見を全て東山なり井ノ原にぶつけ、一切制限なしに吊るし上げたらどうなるか?格好の「禊」を提供するだけになる。三日三晩死ぬ気で踊ってドガチャガにできるんならやるだろう。そういうことのプロなんだから。
報道側にも勘違いしてその気になっている者があるから笑える。いや笑えない。
そして驚くべきことに、会見をアレンジする側すらもがそんなノリであったのだ。「NG記者」だってさ。カメラに抜かれてバレるとこまで含め「相棒」かなんかのワンシーンみたい。もしかしてわざとやってる?いくらなんでも拙劣すぎだろう。
記者会見とはそもそも何か。言ってしまえば「握り」の産物である。当事者は能動的にダメージコントロールができる。報道側は記事が作りやすい。一般視聴者としては事態の経過について綜合的に「ここまではこう」という大枠の認識を確定していける。
会見設定した側のルールになんか縛られたくない!というなら縛られなければいい。記者会見の場にはハトくらいしか来ず、虎狼のごとき記者たちは自由に取材攻勢をかけまくる、で結構ではないか。なぜそうしない?めんどくさいから。
ジャニーズ事務所の始末、被害者ケアのスキームには目鼻がつきだしたようだ。
しかし現存幹部らがジャニー喜多川の犯罪の「共犯」であったとされるのと同じくらいに「共犯」であったはずのマスコミの罪は全く手付かずのままである。「記者会見のやりかたがずるい」とか、そんなどうでもいいことに目眩まされてるんじゃないよ。バカなのか本当に。「バッカモーンそいつらがルパンだ」だよ。
東京新聞の「反省文」には笑った。「ごめんちゃい、でも記憶にないんです」だってよ。ごめんちゃいで終わりなわけないだろう。
空前の性犯罪がいかにして隠蔽されてきたか、専門チーム組んで年単位で調査報道やれよ。ド素人のミーハーおばさん以下の人材しかいない組織なのか?まともな調査報道などできない【新聞社のコスプレ】なのかよ?
異常な犯罪を可能にした異常な土壌は、言わずと知れたマスコミ利権構造である。
新聞は儲からない商売だが、TV局は電波利権を独占して、いまだ巨利を生む商売である。そして本邦では新聞社とTV局が一体である。
ジャニー喜多川はTVに食い込んだ。それでも喜多川の持つ直接的な「権力」の範囲は限定的なものである。彼の天才は限定的な権力にレバレッジをかけて「権威」に高めた点にある。歴史の男山根なんかも同じだな。当人は何にもないただの爺なのに。
権威とは強制力の及ばない人間をも平伏させる力だ。その源泉は「隣の人も平伏してるから、とりあえず、なんとなく」である。そういう自縄自縛の魔術あるいは詐術なのだ。
要するに。既得権の上にあぐらをかいた業界の中の人たちにとって、波風立てることは「少し不快」だったに過ぎない。不正に口を噤む不快よりも、少しばかり。
事態がめくれたのが「外圧」のおかげだったことは、とてもわかりやすい。つまり全く別の系に存する権威(欧米の人たちに白い目で見られちゃうよ)からの一刺しだったからだ。内側からは破れないが、外からならあっさり破れる風船だった。
ジャニーズ問題の糾明とは【利権の上にあぐらをかいた】【調査報道の能力がないマスコミ】を根底からぶっくらかえすということだ。やれんのか?もちろんやらないしやれないだろう。一問一答がどうだとか、記者が記者を注意するなんてありえないとか、バカみたいな些末な「問題」の糾弾を目くらましにして「隠蔽」は続くだろう。
ここで「大マスコミはもうダメだ、インディペンデントな真のジャーナリストよ立てよ」という声が上がるかというと上がらない。その希望は上杉隆がきっちり潰してくれたから。
さて、話はこれで終わらない。ジャニーが使いこなしたレバレッジとは何か。それは大衆の感情スクラムである。いまジャニーズ事務所に向いている、それ。
望月もいるアークタイムズ編集長いわく、「記者会見でアンフェアなルールを押し付けるジャニーズ事務所の体質が、ジャニー喜多川の性加害継続を可能にした」「事務所側の押し付けるルールを喜んでおしいただく他社マスコミも一味同心」であると。
つまり?ジャニーズが設定した会見にうかうかと乗っかっておいて現場で同業を押しのけて騒ぐことが唯一無辜の立場になれる裏技なわけだな。
違うだろ。正義を行う気があるなら、おのれらに刃を向けろよ。
井ノ原らによる己への扱いの悪さは、かれらが喜多川の犯罪を看過してきたことを連想させるという、ボヤキのような主張。
ここだ。連想は連想なんだよ。連想ゲームで何かを発見した気になるな。ジャーナリストがそれをやっちゃおしまいなんだがそればかりやってるな。
「大衆の感情スクラム」の接着材もこの【連想を発見と勘違い】である。陰謀論者たちを固く結びつけるものもそれだ。
故・安倍元首相のひそかな趣味が「ドーベルマンのブリーディング」であったという事実を知って、ある種の人々は「なぁーるほどね」というだろう。何がわかったというのか。ちなみにウソである。
比喩がムリな人というのがいる。「地殻とマントル、核の構造は卵の殻と白身と黄身のようになっているよ」「だが、卵は楕円形だ(ドヤァ」「そもそも地球は卵とは全く大きさが違う(ニヤリッ」みたいな会話?はネット上では日常茶飯である。というかどうせそうなるから対人でたとえ話はしない。抽象思考ができるかできないかのラインというのがあるのだ。
「連想させるからなんなんだよ!それで何かわかったつもりになるなよ!」というのが通じない相手には通じない。それは仕方ない。問題は本邦のジャーナリズムが「その程度」であることだ。
誰をいくらぶっ叩いてもこの問題は解決しない。我々は正しく絶望しなければならない。
■論旨に組み込めず追記。
「井ノ原はグルーミング上手を受け継いでいる」といったゴミみたいな主張が目に入るとまことに心冷えるものがある。
「悪を叩く側の邪悪さ」ってそれこそアニメ漫画でも使い古されたモチーフなのに全く克服されることはない。
■
「連想ゲームで何か言ったつもりになる」の早速の実演。
どう独りよがり≒間違ってるのか論証してみ。
■
こういう思考回路が自分とは完全に別次元の人って、会ってみたらどんな感じなんだろうといつも思う。
(で、かくも意味を結ばずただ下劣なだけの罵声に喜んで星つける、どっかで見たメンツね)
■何十かに一つは虚を衝かれるようなブコメあるもんだけどこの件に関してはほんと誰の発言を見ても特に新たに学ぶものはない。そもそも俺もわかりきったようなことしか言ってないが。
おかげで普段はさすがに無視するレベルのハナクソピンポンダッシュerの類ばかりが目にうるさい。
■
id:white_rose 冷笑してれば自分は安全と思ってそう
「こいつは〇〇と思ってそうだ」などというのは内心ひそかに思えばいいことであり、公然と発言する際に採るべき話法ではない。
言うまでもなく根拠を示さず一方的に誰にでもどんな濡れ衣でも着せられる万能論法だからだ。
「冷笑してれば自分は安全と思ってる」のは他でもない、反論されにくいはてブの仕組みに過剰適応した自分自身だろう
■大分と《恨みを買った》ようで、「増田記事を書く行為」そのものを非難するという奇妙な泣き言のようなコメントが未練がましく付き続けているが、少しやり取りしてみて一つ気づきがあった。
ヤフコメとかYoutubeコメ欄で、本人なりの正義感でよくわからないことを書いている、なかなか意思疎通は望めないであろう右や左の素朴な人士が居る。
一方ではてな界隈なぞに詰めているクソリプマンは、嫌がらせに熟達したすれっからしのネットトロールで、目を合わせるのは身のためでないし恥ずかしいことだという思い込みがあった。ミニミニ暇空みたいなものかと。
対人コミュニケーションが苦手な発達障害者がITエンジニアに活路を見出すパターンは多い
発達障害を扱ったウェブサイトでもエンジニアや芸術家が向いていますと言われるからな
流石に芸術家は食っていく上では非現実的なので、必然的に求人が多くホワイトカラーでそこそこ儲かるイメージのITエンジニアに流れるって話
連中の中には異常な集中力を発揮してプログラミング技術に特化するやつがたまにいる
だが現実的なチーム開発ではそもそもそんな超絶技巧など出番がない
現実のサッカーの試合でリフティングの超絶テクニックを使わないのと同じだ
昔の人権無視の3K労働時代ならいざ知らず、現代ではITの開発現場もだいぶ働き方改革が進み、
普通の人が普通の集中力で普通の量の仕事を分担してこなせば終わる仕事がほとんどになってきた
現代の開発現場で発達障害者のアドバンテージとされる特殊能力にはほとんど需要がない
一方で発達障害者の苦手分野である対人コミュニケーション能力の価値は些かも衰えない
気軽に話ができる雰囲気作り、自部署や他部署、自社や他社のステークホルダーと友好的に話を進めるための根回し、情報収集能力
発達障害者がエンジニアを目指したところで、現実には段々と能力不足で疎ましがられる機会が増えていく
こうして窮地に追い込まれた発達障害者は保身のためにチームに害をなす戦略を取りやすい
情報の囲い込みとは自分が得た情報をあえて出し惜しみして自分を情報の出所として位置付けることで、チーム内での価値を高めようとする戦略のことだ
当然必要な情報がチーム全体に行き渡らなくなるのでチーム全体のパフォーマンスの低下を招き、トータルでの生産性が低下してしまう
2つ目のマウティングはチームの他メンバーの仕事にダメ出しをすることで相対的に自分を優位に見せかけ、重要性をアピールしようとする行為だ
例えば設計レビュー、コードレビューでの些末な指摘や部下へのマイクロマネジメントなどだ
重大な問題提起であれば必要なことだが、発達障害者の場合は自身の無駄に発達したプログラミングスキルをテコにした枝葉のこだわりに過ぎない場合が多い
こうしたマウンティング行為はチームメンバーの士気を低下させ、チーム内で軋轢を発生させることでこれまた全体の生産性を低下させてしまう
要するに発達障害者がエンジニアになると、人付き合いが苦手なので自分のスキルを高める職人方向に向かいがちだが、
現実のITビジネスの現場では発達障害者が好む職人的な拘りなど対して価値がなく、
なんか同僚と仕事のやり方が全然あわなくて、仕事が全然進まないんだけどなんでなんだろうな……と色々考えていたんだけど、そもそも以下のような前提が共有されていないことに気づいた。
で、わざわざこんな増田書くくらいなのでみんなに聞きたいんだけど、こういった考えで仕事するときのデメリットとか落とし穴って何があるか教えてくんない?
なんか放っておいたら同僚やめそうな気がしてて、別にやめさせたいわけじゃないのでもうちょい優しくしてやりたいし、↑みたいな考えは本人に伝えてるんですが、そもそも俺の方が間違ってるとしたらどの辺なのかなーってのを聞いてみたくなった。
有害な男性性に背を向ける、というのはそういうことじゃない。全然違う。
自分を「男性」とカテゴライズして、自分の思う「男性性」から得られる特権を当たり前のものとして享受することを止めようということだ。さらに言えば、目の前の人を「男性」や「女性」とカテゴライズするという発想から、まず自由になろうということだよ。
だから、
「暴力でいろいろ解決する発想から放たれる」はまあ、いい。有害な男性性の典型だからな。ただし、専守防衛を旨とし自衛のための最低限の戦力を保持することは、国際法の観点からこれを違法とまではされないらしいから(※)、自衛のための最低限の戦力は保持して、殴りかかってきた相手を怯ませるくらいの力の行使は許されるとして、あとは逃げるための脚力くらいは鍛えておけ。暴力的なこの社会で暴力から身を守るには、いろいろと努力が必要だ。
「性的に消費」は、内容によるけど、表現の自由の範囲内のことなら自分が疚しくない範囲で好きにしたらいい。ただその場合も、対象が「女性だから」興奮する、とか考えてはいけない。興奮する対象であるかないかだけが重要で、対象が男性か女性かなど些末なことにこだわっていはいけない。それはフェミニズムではない。Ok?(※※)
「女性にモテたいという願い」は、いけない。とりわけ「女性に」というところがよくない。冷静に考えてほしいが、あなたは生物学的・社会的に女性であればどんな人にでもモテたいのか。生まれつきそう願っていたのか。あなただって、小学生のころは「●●ちゃんに好かれたい」とか、あるいは中学校くらいでは「アイドルの〇〇ちゃんサイコー」とか、そういう対象を個人に絞った願望をもっていたのではないか。それが「相手を人として扱う」ことの第一歩だったのだ。その基本を踏み外してはいけない。いつからか、現実の対象に絶望したあなたは「女性」という仮想のカテゴリー全般に仮託して自分の願望を語るようになってしまった。それはよろしくない。従って、「女性」というカテゴライズを行った上で、これに「モテよう」という目標は、差別的で醜悪なものとなってしまう。だが、目の前にいる「誰か」に好かれたいと願って努力することは、極めて真っ当であり、なんならその姿は美しい。たとえば尊敬する先輩の期待に応えようとしている後輩、偉人の言葉に突き動かされて地球の裏側までボランティアのために邁進する人、そんな人の姿は誰もが応援したくなるはずだ。
「女性を女性として扱う以前に、人間扱い」という心構えも、よくない。「女性を」と始まっている時点でもういけない。あなたが心がけるべきなのは、相手を「男性/女性」とカテゴライズしてしまうその発想自体だし、何なら自分自身のことも「男性/女性」とカテゴライズするのをやめたらいい。それは、「中性的に振舞え」ということではなく、あなたの自認が何であろうが、それを、あなたが何かをし何かを考え装い行動する際の足かせにしない、と考えるということだ。あなたの行動が、結果として、この社会で一般的とされる男性的な行動であるとしても女性的とされる行動であるとしても、そんなことはどうでもいいことだ。そして。あなたが自由であるように、他の人も自由である、そう考えるということだ。
「目の前のあなたは女性であるが、私はあなたを女性ではなくて人間と考えますよ」とか、そういうややこしい操作を頭の中でするのは止めてくれ。そんなことを考えているうちはあなたは全く自由ではない。それよりも、ただ「目の前のあなた」それ自体を、一人の人として見つめよう。その結果、その「目の前のあなた」がたとえば最高だと思ったら、ただ「あなた最高ですね」と言えばいい。「ねーちゃん、おっぱい大きいな」とか「エロい」とか「美人だね」とか「好きです」とか、そういうジェンダーロール的に学習したようなセリフを吐くのは一端止めよう。「男」として振舞うのは、止めよう。そういうことだ。
どうだろう。少しは理解いただけただろうか。
(1) このエントリはマジか、ネタか。あなたはどちらだと感じたか。
※念のために言っておくが、この一文はジョークだ。「個人の生き方には国際法の常識は適用されないのでは…」みたいなクソレスがつく前に言っておくけど、そんなことは100%分かった上でジョークを言ってるんだからな?
マイナスイオン効果とかはプラセボ効果を経由して人体に作用する。
それは「マイナスイオン効果」という言葉を創らなければ存在しなかった作用だ。
また、科学リテラシーの向上とともに薄れていく。
一方でメディアがどれだけ効力を発揮するかという強力/限定効果論は直接人間社会に作用する。
メディアの多様化や情報リテラシーの向上で強力/限定、どちらの方向にせよ変わっていく。
表現規制にしろ、メディアの影響力にしろ、なくなることはない(直感)と思う。
以上まとめると
「マイナスイオン」とかは個人に作用する些末な疑似科学なので、例としては捨象するものが多すぎる。
そして、わかっているとは思うが貴方の求めているのは「マイナスイオンや水の伝言との違い」ではないよ。トークストレートで頼む。
ノートの再考を申請することはできるし、反論ツイートをぶら下げることもできるし、そもそも反論できなくて何か問題あるか?
ただ、自分が言いたいことを言っているだけならツイートにノートがぶら下がろうとどうでもいいんじゃないか?
間違ったノートが付いたのなら再考を申請すればいいだけ。間違ったノートの尻馬に乗って騒ぐ人間がうざいって話なら、保存してノートが修正された後でさらし者にしてやればいい。
それなのに、一部の人があれだけノートを毛嫌いするのは「いい加減なこと言ってるのがバレるから」でなければ「リツイートしてもらいにくくなるから」だろう。
(前者の理由で嫌ってるような人間なら影響力を削がれて当然で、それはよいこと)
昔、リツイートが盛んになり出した時、間違いや一方的な情報がリツイートで拡散して、あとで間違いとわかっても修正できないことが問題視されてた。
実際いくつも深刻なトラブルもあって、何度も元ツイートを検証してそれが拡散先で表示される機能があればと言われていた。それが実装されただけでは?
ノートは議論のためのツールというより、リツイートの暴走のブレーキとか害毒の解毒剤と考えたらいいかと。
今までリツイートの拡散機能があまりに便利で強力だったのに、その暴走を掣肘する仕組みがなかった方がおかしかった。
リツイートの連鎖に水を差しやすいのはフェールセーフと思えばやむなし。
ネトウヨに自分の意見に水を差されてムカつくってのは、実は社会全体で見れば本当に些末なこと。
個人的には拡散を意図したすべての書き込みにノートが付いたっていいと思う。
どうしてもノートを付けられたくないなら、リツイート禁止・おすすめ停止(拡散拒否)にすればノートを付けられなくするような仕組みにする方法もあるし。
どっかで見たよ~な要素がぶち込まれまくってひたすら車輪の再発名をしている感じ
あんたそれ以外描けないの?いや描けないであろうことはわかるんだけどさ
風立ちぬはいいよ?初めて(その年にして初めて!)「俺は結局はお坊ちゃんなんだよ」って言ったからね
でも二度も三度もやることじゃないでしょ
良くも悪くも心が動かされたのは序盤の風立ちぬ+トトロ再利用したような絵面に突っ込みいれているあたりと
終盤に入って爺さんから積み木の話聞かされて以降くらいだった
あっそっすよね
ペリカンさんも大変っすよね
たしかNHKドキュメンタリーの「終わらない人 宮崎駿」のなかだったと思うけど
鈴木敏夫がポニョについて「あまり好きじゃない」と語るくだりがあった
全編昔やったことだらけじゃないの
だってほぼ全てのひとが思ってるだろうけど
しかもその石の破壊も主人公じゃなくてインコがぶった切っちゃうし
いや、いろいろ読解の余地はあるよ
外界の住人である主人公ではなくて世界の住民自身の(誤った)行動によって世界が崩壊するとか
崩壊ではあるけどインコたちは外に出れてるわけで自らを束縛するものを自分たち自身の手で否定できてるとか
でもね、些末なのよ
味のないガムも楽しもうと思えば楽しめますみたいなものであってそれ以上じゃない
インコの王様の動きは「おっ!」と思わせるものがあってここで最後に主人公と大立ち回りを繰り広げてくれるのか!?と思ったら
剣でテーブルごと積み木ぶった切るだけ
マジか~
まぁ説明不足なのとか見てると宮崎駿が体力的に持たなかったってことなんかな
それならもう仕方がないや
でも「敢えて」描かなかったとかならエンタメ映画つくるのやめちまえよと思う
通俗エンタメにも作法があるはずで、ここでアクションをいれる!みたいのあるでしょ
昨今のジャンル映画がジャンルの型を否定するがあまりジャンルそのものを否定するのを見てると脱力する
そんなに枠組みを否定したいならそのジャンルでやんなきゃいいじゃんね
通俗エンタメならちゃんと観客をスカッとさわやかな気分にさせてくれ
いや個別にそういう作品もあるってんならまだ納得できるかもだが
ただまぁ時が経てば言及する奴は熱狂的なファンに限定されていくし
否定的なファンの感情も摩滅していくから結果的に味のある作品って社会的評価になるのかもね
宮さんお疲れさまでした
いやーあれはよかった
当方30代男性。女性に性欲を抱くことはないし、例えばエロ画像(まんことか)を見ても何も感じない。
当然セックスなんて興味がないし、やったこともない。そもそもセックスしたいという気持ちになったこともない。
こういうのに対し「やらみそ」だの「弱者男性」だのレッテルを貼ってキャッキャする人もいるようだ。はてなも嫌儲もヒもそんな話題は鉄板だ。
とはいえ自分としては、セックス云々という些末なネタで延々と騒ぎ続ける人の方が不思議に思える。
とはいえ「子どもを産まない奴は悪」みたいな社会的風潮が高まっているっぽいし、無性愛者にとってはこれから受難の時代に戻りそうな気がする。
むしろ凪の時代だった2010年代後半が特異だっただけかもしれないが。
あのさぁ、「君が性欲あるからあなたにも性欲がある」って雑駁な連想ゲームに巻き込むのはやめてくれ。
個人的には国際規模で人口爆発を抑制しないことには今の文明は総崩れになると思うので、産めよ殖やせよというのは思想的にも相容れない。
特に日本のような国は生存資源(化石燃料・水・食糧など)の消費量が発展途上国と比べても多いわけだし。
そういう国で産児人口を抑制すれば、構造的理由で産児数が多くなりがちな発展途上国の人に日本人向けの生存資源を回すことができるわけで。
生存資源に増産の余地はもはやなくて、配分がもはやゼロサムゲームになっている今、先進国が自国の事情だけ重視して人口増に与するのは
発展途上国の人から生存権を奪うことに等しく、それは搾取以外のなにものでもない。
正直言うけど「少子化対策」って言っている奴らは全員高田誠か暇空と同格の狭量な差別主義者にしか思えん。
自分の利益だけを最大化して他者を踏みにじるとか絵にかいたような邪悪。
個人的にはアニメ・マンガ・ソシャゲは絶対無謬のものではないし、女性差別的思想を培養する危険性もあるので慎重に取り扱うべきになると思うけど
生身の女性への性欲を抑制する方向にもっていけば「人道的な人口抑制」として社会貢献ができると思っている。
思う。
向精神薬を服用してぼんやりしている俺の方が真実で、健常者を名乗る人々こそが躁状態なんだと思う。
今現在、向精神薬を服用している。鬱状態で何も意欲がなく、毎日横になって過ごしているうちに一日が過ぎてしまうような日々を送っていたが、このままではいけないと奮起して心療内科に赴き処方してもらったものだ。このエネルギーを絞り出すのに数ヶ月かかった。そして処方を服用すると劇的に効果がある。
先ず、様々なことをするハードルが途端に低くなった。今まではアレもコレも片付けないと、あそこに問い合わせして状況を把握してそれによって対応を決めて…などと思うばかりだったが、とりあえず電話して確かめてそれから考えよう、という風に動き出せるようになった。
物欲も湧いてきた。デジタル一眼のカメラが欲しいと前から思っていたのに動き出せなかったが、とりあえず値段だけでも調べてみよう、実店舗に行って実物を触ってみよう、そのような気持ちになった。難点は収入がないのにそのような高価な買い物ができないことだ。
些末なことでは部屋の片付けや掃除をすることができるようになり食事も摂れるようになった。
基本的に楽天的になった。思い煩うよりも動いて確かめて壁にぶち当たってから考えればいいと思うようになった。物欲が湧いてきたと書いたが、あれを買えばこんな利点がある、きっと楽しいことがあるはずだと思えるようになった。
しかし、鬱の自分が頭の片隅で自分を見ている。お前は躁転しているだけではないのか?そう言っている。
けれども、もっと客観的に見れば、今の自分は世間一般の人たちの行動とたいして変わらない。躁転しているとは言えない。
便利なものを欲しいと思い、それが手に入ればあれもこれも手間が省けるはずだと思う。投資をすればきっとリターンがあるはずだと思っている。どこかに出かければ楽しいことが待っているはずだと期待する。人と会えば楽しい会話ができると思っている。食事に行けば美味しいものが食べられるだろうと思っている。映画、観劇、ライブを見に行けばきっと楽しい時間を過ごせるだろうと思っている。みんな楽天的で明るい未来を心のなかに描いていて憂いはない。
少し前に、結婚と子育てのことを「みんな子育てを難しく考えすぎ」なんてエントリーがあったけれど、あれぐらいの躁状態じゃないと他人の人生を巻き込んで新しい命に責任を負うことなんて引き受けられるわけがないのだから。
中露の軍事的脅威があるのに目を向けない
貧富の差は極端に大きくなっているのにそれに目を向けない。
どれもこれも現実から目を背けて、なんとかなる、きっとこの先良くなるはずだ、このシステムはしばらく崩れることはない、そういう楽天的な考えによって先延ばしにされ除外され目を向けず目を背け、なかったことにしている。みんな躁状態だから「きっと大丈夫」だと思い、懸念を示す人たちには「難しく考えすぎ」の一言で済ませてしまう。
何もやる気が起きないという鬱の状態は確かに異常だろうが、一般の人たちの楽天的で無計画で先行きに不安を感じてもそれを押し殺すことができる精神状態はかなりの躁状態だ。
現実は厳しく容赦ないもので悲観的未来しか予想できないのに、世界を真っ当だと思って楽天的な未来を夢想して無計画でいる人たちの方がきっと狂っている。