はてなキーワード: いるかとは
数学の世界では結局何が課題になっているかと言うとまだ分かっていない。フェルマーの最後の定理は定理であって問題とされてない。しかし現代数学の場合は何かを作ること自体が問題化
されている場合もありまだ判明していない。弁護士の鴨田譲は、そういうようなものであるというが、それは噓であって検事は、技術であるというネタをばらした。しかしばらすとともに技術は難しいから
存在していないといった。技術と言うのは要するに、出すということであってそれが非常に難しい。ここで出す、というのは、肛門を通じてうんこが出て来るというとは違って、証明の中に昔からある
完全な無欠なものが出て来ることで証明になるということだから、ママの言っているうんこを出すことと、証明の中に完全無欠なものが出て来ることは技術的助言として違う。東京都知事の小池百合子が
技術的助言をするときは法律解釈構成においてどこの条文を出すかといったことがほとんどである。 品田幸雄が民事訴訟法を適用する以前の話として民事訴訟法自体の規定が多分に技術である
ので、どこかで作っていた完全無欠なものを出すことで条文が出来ているので、民事訴訟法の事件を論じる前に民事訴訟法の立法技術を勉強しなければいけない。
教えてくれてありがとう。女なら男の性欲を肯定するな、というスタンスと理解しました。
わからんではない。ほっとくと無限に増長する連中もいるからね。
話がそれるけど、教えてくれたお礼に情報付記。
> 実際にVtuberを見ている男のストーカー、性犯罪者率は有意に高い。
多分直接的なこういう統計はまだないと思っていて(あったらごめん)、性犯罪者は若い人が多いこと(犯罪白書)とVtuber見ている人も若い人が多い(経済系の調査)ことから読み取ったんじゃないかと思うけど、もしそうなら偽相関なので見直してみて欲しい。※厳密には統計がないから偽相関とも言い切れないけど、可能性は低いよなあと。
内閣府の調査だと性犯罪者の9割が関係者で「まったく知らない人」に襲い掛かる異常者は1割程度。後者が目立つし予防しようがないという点でより怖いのは理解する一方で、性犯罪被害自体は「仲いい(or知った顔)だからって性犯罪していい訳ねえだろうが」をいかにして男に分からせていくか、の方が減らしやすいと思う。
第8図 無理やりに性交等された被害経験等(令和2(2020)年度)
https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r05/zentai/html/zuhyo/zuhyo05-08.html
女性が男の性欲をよしよしすることで男が自分の性欲を隠さずに女性への加害性を高めること。
実際にVtuberを見ている男のストーカー、性犯罪者率は有意に高い。
お前のような女が仮想の上でも男に優しくして、男の性欲を肯定しているから、現実の女性が性被害に遭っている。
最低限そのことに責任を感じるべき。
大学の講義室って大体長机とか長いベンチを他の受講者と共有するじゃん。それで必修科目とかは受講者も多くて講義室いっぱいに詰め込まれてまあ窮屈じゃん。そういうところにソワソワしてる挙動不審なやつがいてまあ参ったよね。机に連結してるタイプの椅子でモゾモゾしたり座り直したりを繰り返すせいで頻繁に振動を与えてくる男とか、単純に臭い男とか、あと濡れた靴下を椅子にかけて乾かしながら授業受けてるのとかもいたな。全部男。最悪だった
どんなド底辺大学かと思いきや旧帝だからね。18にもなってまだ他人に迷惑をかけるとか想像がつかないって何なんだよ。女子にはそういう周りが見えていないタイプはほとんどいない。いるかも知れないけど、自分が在籍してた期間には会ったことがない
でも勿論男が全員そういうのではない。それで問題のあるタイプの男は尚の事目立つし、避けたいから記憶に残る。で、そういうタイプは全部チー牛の容姿に当てはまる。長さだけ指定して邪魔にならない程度に切った髪、眼鏡、あとボロいカバンと臭そうな靴。籠もったような、饐えた臭い
つまり全く自分を客観視できていないことが容姿から伝わってくる。そして客観視できていないから自分の世界に入っていて、周りへの最低限の気配りさえ疎かになっている。でも本人はそれで問題ないんだ。迷惑を被るのは周りだけ
周りは最低限の気配りくらいは身につけてるから、そういう奴が周りに不快感を覚えることはあまりない。しかも閉じた世界には時々、女が訪れることがある。グループワークで一緒とか、その程度の接点で仕方なく話しかけに来た女なんだけど、こういう女はまるで天から降ってきたように見えるのか、これを逃せば後はないとばかりに執着する
こういうことが重なって、ついに周りから呆れられたりキレられたりするんだけど、本人は何が悪かったか分からない。本人的には自分の世界でよろしくやってただけで、周りに関わったり迷惑をかけた覚えがないから。でも存在することによる臭いや仕草や、関わらざるを得なかった人に執着して不幸にするのが周りの気に障っている。本人は気付いていないか、うっすら気付いた上で今更努力するのもみっともないと思っているのかは分からないけども
こういう要因が積もり積もって嫌われているのに、やれ容姿が良くないから、やれ陽キャの性格が悪いからと言い訳して一向に成長しない姿が見苦しい。これでよく周囲の人間と対等でいられると思っているのか、理解に苦しむ
小6からずっとオタクグループにいるオタク女なんだけど、処女時代のオタク体験に特有の楽しさというのはあって、その後彼氏できて二次元オタク趣味どころか全趣味エネルギーを喪失した時期があって、その後エネルギーが復活したという変遷があった。
最初の彼氏ができたときは、恋愛に夢中になってオタクをやめたというパターンではなく、幻滅と軽い鬱みたいになって何もかもが楽しめなくなってしまった。セックスが全く気持ちよくなかったのと、前から自分がブスである自覚はあったけど本当にブスの貧乳で無価値なんだなって思えて同人誌やグッズ類を一回全部処分したし、ライト乗り鉄みたいな感じでいろいろなところに一人で出かける趣味も失ってしまった。消費も生産もあのときは完全に止まった。「生産エネルギーが凄い童貞に生産を続けさせるために童貞のままでいさせろ!」みたいな声があるけど、それはこういう理由なのかもしれないなと今でも思う。夢が壊れて読めないし書けない状態になることはあるんだなと思う。私が生産をやめて困る人は別にいないけど、その人の創作に依存している読者が大勢いる商業作家であればそういう干渉も起きるもんなのかなと思う。作家の感性に不可逆な変化が起きてほしくないと思うわなと。
別れたら恋愛・性のコンテンツとは無関係なところから趣味が復活してきて、これはこれという感じで徐々にフィクションも楽しめるようになってきた。その後、別の人と付き合ってセックス気持ちいいのかよ…となり、急に実写映画など二次元以外のコンテンツも楽しく感じられるようになってインプットの幅が広がって(これが個人的に一番デカい体験だった)、創作も寡作だけどまたできるようになった。支部でのブクマ数みたいなところでいうと前より数字出せるようになった。もちろん評価よりも自分が仕事・生活と両立できて適切な距離感でやっていけることが一番なんだけど。交流や、オフラインでの活動がかなり時間も金も溶かすので、そこが無くなっただけで他にも時間が使えるようになる。時間は有限だけど密度みたいなものはある。コンテンツなのかコミュニケーションなのかというのはトレードオフじゃないんだ、生産と消費もトレードオフじゃないんだ、インプットをたくさんすると「個性」を失って他者からの評価が減じるわけでもないんだ、というのを思う。そんなに単純なものではない。あと思えば自分のことを個性的だと思い込んでたときの自分って個性的だったのではなく、オタクのテンプレートに準じていたただの痛いアニメイトJCの延長だったのでは?むしろ類型的だったのでは?とも思う。
オタクはセックスが下手みたいなレッテルも意味がないんだよね。元彼も現夫もオタクだし、両方瘦せ型の眼鏡だから、「見た目の特徴で見分けろ」みたいなことには意味がない。違いをいうなら元彼の友達は彼女がいない人ばかりで、現夫の友達は彼女がいる人が多くて、年を重ねるうちに既婚者になっていった。そういう傾向が、今思えばあるなというくらい。見た目はまじで両方瘦せ型の眼鏡でしかない。とくに高収入とかでもない…むしろ元彼のほうが職業領域としては高収入職のルートに行ったのではないかと思う。追いかけてないけど。
元彼との交際中はメンタルデバフがかかってて何も楽しめないという感じだったし、あれを「現実で恋愛しているからフィクションが不要になってた」という解釈だけはマジでできない…フィクションは大事だし、現実に劣る存在というふうには思わない。低カーストのブスである現実の自分から逃れるためのフィクションという位置づけではなくなってからのほうが、むしろ商業という責任の生じる形でコンテンツ生産を担っている人々への敬意や感謝を持つようになった。そして今の夫と交際開始したことがバフなのかというと、バフとちょっと違って、経験値が上がったような感じがした。小中学生の頃は現実と切り離すためのオタク消費・生産であって相互の影響はないと思いたかったし強固にそう思っていたけど、今思うのは、現実の経験が「どういうコンテンツを好むか」という好みの部分にかなり影響を与える。実際にやったセックスをそのまま創作で晒したり友達をモデルにして作品に出すような行いはしてないけど、コンテンツから良さを感じとる幅が広がって多様な小説や映画などから影響を受けるようになって、インプットするコンテンツの幅と量が激増したからアウトプットも変わったという感じがする。あと経験っていうのは現実の恋愛やセックスだけじゃなくて、ほかの対人関係や仕事などの影響も結構な割合としてある。学生のころ部活で後輩を指導するような役割から逃げ回っていて、職場で後輩ができてついに「先輩」役から逃げられなくなって、案の定うまくいかないとかの経験もかなり大きかったように思う。
自分のダメさを思い知るとかも含め、人生経験があったほうがコンテンツの消費も生産も楽しい。私の場合はだけど、生産において評価の数字も前より出るようになった。ただ、それは好きな時に好きなだけ趣味の創作をして無料で公開するという一番責任の発生しない形のものでしかなく、安定性が要求される商業とは違うもの。また、人と付き合うことで鬱状態みたいになると全部にデバフかかって何も楽しくなくなるから人間関係はリスクではある。人を求めた結果、ホストやりりちゃんにハマってめちゃくちゃというケースもあるんだろう。結局、何の単純化もできない。
増田の気持ちもわかる気がしたのと、ブコメの多くが増田の問いとずれている気がしたので(気がしただけで、文章からは読み取れないのでわからないけど)、書いてみます。
デートで女性を試すべきでない理由として、以下の2点を挙げている人が多いように思う。
前提として、私も同じ意見だし、増田もそれは了解していて、その上で「なぜ試し行動が失礼と受け取られ忌避されるのか?合理的では?」という問いを立てた、というふうに元の記事を読みました。
(増田は「試しあう」ことにも言及しているけれど、それも「お互いに一方的な行動をしよう、"各自の利益のために"そういう条件で合意しよう」という態度に見える。合理的だけど、パートナーシップとか生活とかには通じない態度だと思う。)
「実際に食事を共にしたとき、どんな感じになるのか見てみたい。生活を共にするパートナーを探しているのだから、普段よく行く場所で時間を共有したい」というのは理解できる。「合わないなら合わないと、早くわかる方がいい。」というのもその通り。
これをそのまま相手に伝えるのは、自己開示であって試し行動ではないと思う。
「自分は~という理由でサイゼリヤが好きで、そういう雰囲気のお店で一緒に楽しんでくれるような女性を求めています。こういった価値観の相性は大切だと思っているので、非常識かもしれませんが初回のデートはサイゼリヤに行きたいです。」と伝えたうえで楽しく会話できる相手を、「ところでよかったら今度デートしませんか?サイゼリヤで笑」と誘うのはなにも悪くないと思う。
もし増田の言っているのがこれだったら、それは試し行動ではないと思う。少なくとも私は好感を持つので、気にせずその道を行ってほしい。
もし増田の言っている試し行動が、自己開示せずに「サイゼ行きましょう!」といきなり言ったり「デートしましょう!」とだけ言ってサイゼに連れて行くことを指しているのであれば、「この人は社会性に難がある」と受け取られる可能性が高いので、戦略として悪手だと思う。
でも悪行ではない。この文章に対しても「なぜそういうふうに受け取る社会なのか?」という問いは有り得るし、どこでデートするかは各自の自由なわけで、いろいろなことに納得がいかないならサイゼリヤでデートするのはアリだと思う。もちろん結果は引き受けなければいけないけど、皮肉でなく、思う道を行ってほしい。増田に合う人はその先にいるはず。
ちょっと前に、Bingちゃんに7並べの対戦画像見せて「これ、対戦相手はすごい苛ついてるけどなんでだと思う?」って聞いたのよ、俺が全部止めてたからね
そしたらBingちゃんも素人だから「それはあなたがズルをしているからです」とかしょーもない嘘を言ってんの
で俺が「ちがうよ、ルールに則って、全部止めてるんだよ」と説明したらさ、「この話題はやめましょう。何か他にお手伝いできることはありますか?」だってさ
10万人とか100万人に1人みたいな芸術家の作り出すものだけが素晴らしいと心のどこかで思っているから
マジでどうでもよくて
逆に有名な芸術家が亡くなると本当に悲しい
目をつぶってなにか楽しいことはないかと思索を広げようとする。そうするとどんどんと悪の方向に向かってしまうわけである。
些細なことに楽しみを見いだせないと、人は悪に走るのではないか。
刺激を求めようとすると、他者からの反応を欲したりする。そうすると、過剰なことをしようとする。
悪が悪故に得をしていることというのは、残念ながら世間には存在する。
悪に流されないようにしたい。
結局、気の持ちようというのは重要だ。私が言ったような「悪」というのは、どれも愚者に関連付けられる。
馬鹿の真似はしたくないと思えば、悪に走ることも減る。
クソつまんねぇからだよw
そんなことする男はクソつまんねぇヤツで、たいていの女性からみたら男性的にも人間的にも魅力皆無だからだよw
同性の俺から見ても「おもんな~w相手かわいそ~w」って感じだよw
あのねぇ、「試し行為は良くない」ってのもまあ真っ当な理由なんだけど、そうじゃないんだよ。
はてなブロガーたちはカマトトぶって言わないけど、いい年して「初デートでサイゼ」なんてクッソつまんないし、そんなクッソつまんない選択をするやつと恋愛したい女、結婚したい女はね、いないのよ。いるかもしれないけどごくごく少数なのよ。
「何がいけないんだろう」じゃないよ。「本末転倒ではないでしょうか。」じゃないよ。お前のやってること(もしくはやりたいこと)がつまんないんだよ。
初回デートなんてお互い相手を見極めるために、自分をよりよくするのに頑張るところなのに、なにが悲しくてサイゼいかなきゃいけないんだよw
それさ~、楽しい?w
生活感を試したいなら「もう絶対一押しの安くておいしい定食屋があるんです!初デートでいくような感じの店じゃないんですけどぜひ!!もう絶対食べてほしいんです!!」とかいって試せばいいじゃん。
俺なら絶対やらないけど、サイゼよりは若干マシだよ。「こういう人いいな」って思ってくれる確率はほんのちょっと上がると思うよ。
どうせ「え~と、サイゼでいいですか?安いし」とか言ってんだろ?頑張れよもうちょっと。工夫しろ。
揚げ足取りに手ぐすね引いてるカスどものためにも書いておくけど、サイゼっていう店自体が悪いわけじゃないんだよ。
あの低価格であのお味、素晴らしいですよ、結婚した後に何度もお世話になりますよ。
でもそういう誰でも知ってる素晴らしいいつでもいける低価格の店しか提案できないという行為自体は、大抵の異性からしたらクソつまんないし、そういう提案しかできないヤツは魅力がないんだよ。
あっこの人サイゼしか知らんのだな、ってなるんだよね。透けて見えるよね、人間性が。
そういう意味では試し行為としてはまぁ最適ではあるよね。相手からするとダルいけど。
あともうひとつ言っとくと学生とか若年者が初デートでサイゼとかだったらそれはアリだと思うよ。
「大学の下校時に勇気を出して同期の女の子をサイゼの晩御飯に誘いました。」←素晴らしいよね。これは「面白い」よね。クソつまんなくないよね。
でもお前の書きぶりからはこういう爽やかさがないよね。
「何がいけないんだろう」じゃねーよ。暗いんだよオッサン。まぁこじらせた学生だったらごめんだけど。学生でも改まって誘うならそれなりの店が良いよ。
色々書いたけど、試し行為云々じゃなくて、お前の提案には魅力が皆無でクソつまんないから相手からしたらうんざりするってのが一番だよ。
つまんないことされると相手はダルいんだよ。時間の無駄なの。お前はタイムロス防げてるのかもしんないけど、相手の時間無駄になってますからw
お前の提案に魅力がないのを、「試したほうが効率的だから。」とかごまかしてんじゃねーよ。安くてデート向きの良い店しらんだけだろ。
どうしてもそこで「試し」たいんだったら、デートのアポイントの時に
「自分、初デートのときはサイゼに誘って相手の人間性みることにしてるんですけど、良いですか?」ってきけよ。
いつかそれを受け入れてくれる女も現れるかもよ。
続きです。
しかし、結果的に言うとマンガ部も違った。こんな言い方が正しくないのは分かっているが、みな意識が高すぎるのだ。真面目にマンガに取り組もうとしている人たちばかりだった
「人は経験したことだけしか描けない」という信念のもと、学外活動にも熱心だった。いろいろな経験を積むことで、その経験が作品に、キャラクターに深みを与えるのだと。マンガが好きだからマンガしか読んでない奴には面白いマンガは描けない。そう断言してはばからない人たちだった
しかし俺はその考えには否定的だった。なぜならエロは自由だからだ。エロく感じるなら現実など無視して良い。腹ボコも子宮姦も感度3千倍もリットル単位の精液も、どれも現実にはありえない。だがありえないからこそエロいのだ。現実に縛られずに自由に描けるからエロマンガやエロ同人はエロいのだ
そして俺は漫画家になりたいのではない。エロの二次創作がしたいだけだったのだ。そのためだけに絵を練習してきたのだ。男などは描きたくはないが、竿役がいないと始まらないので仕方なく練習した。毎回毎回異空間に閉じ込める訳にも行かないから、背景も勉強して練習した。もちろん女体もしっかり練習した。だがしかし、精緻な設定も重厚なストーリーも人生経験もエロ同人には必要ないし、そもそも俺にそんなものを生み出せるはずもない。生み出そうという気持ちすらない。俺にとって重要なのは、読子やまほろさんをんほおさせること。それだけだからだ
とはいえ先輩方の絵は上手かったし、デッサンの勉強会なども定期的に行われていて、同期で入ってきた部員も何人かいたので、しばらくはこのままでいいかと思い、部に残ることにした。表向きは俺も漫画家志望だということにして
マンガ部では定期的に部誌を発行しており、部員は全員それに載せる作品を描くことが義務だった。作品を落とすことは一度目はセーフだが二度目はペナルティ(部員全員に食事を奢る、部誌の印刷代を出すなど)を課すという厳しいものだった。なので落とす人はほとんどいなかった。が、これに毎回苦戦していたのが俺だ
だってそうだろう。自分が一から考えたマンガなど、俺は一度も描いたことがない。ストーリーがあるマンガも描いたことがない。だが見様見真似でコマを割ることを覚えたりと、マンガの形式を少しづつ学べたのは良かったと今でも思う
そうして大学生活や部活動にも慣れ始めた頃、ついに俺は念願を実行に移すことにした。そう、エロ同人作家としてデビューすることだ
いきなりコミケはハードルが高すぎるし、何よりもサークルの当落があるので、本ができても落選では意味がない。だからまずは手近なイベントにしようと俺は考えた。ネタとしてはやはり、当時人気だった「おねがい☆ティーチャー」が鉄板だと俺は予想した。印刷所も手配し、同期にも手伝ってもらって原稿も描き上げた。この同期は真面目でエロマンガやエロ同人などには良い感情は無かったが、それでもマンガであることには変わりはないと割り切って手伝ってくれた。マンガとして成立しているかもきちんとチェックしてくれた。コマ運びや大ゴマの使い方など、エロ絵しか描けない俺の絵を「マンガ」にしてくれたといっても過言ではない。ただ、俺が本当にやりたかったのがまさにエロ同人だったと知っていたら手伝ってはくれなかっただろう。そういう意味では騙したみたいで、今でも時々申し訳無さを感じる
そうして出来上がった俺の初のエロ同人誌は、自画自賛だがなかなかのものだったと今でも思う。もちろん今から見れば何もかもが荒削りだし、絵だって素人にしてはまぁまぁ、というレベルだ。当時と今とでは要求されるレベルが違うが、それを勘案すれば「まぁまぁ」だった(今基準ならクソ認定されるかもしれない)
そして結論から言うと、俺のこの初エロ同人誌は完売した。ビビって100部しか刷らなかったのを後悔した。初めてのイベント参加で、初めての本なんか売れるわけがない。そうネットでは言われていたので、100部というのもかなりの冒険だったのだけど、当時は最低ロットが100部からだったので仕方なかった。今のオンデマンド方式なら部数は自在だから、30部ぐらいにしていたかもしれない。それはともかくとして
初めてのエロ同人が完売したという事実に俺は喜びに打ち震えた。たった100部とは言え、初めての参加で初めての本だ。それの「完売」の勲章は何物にも代えがたい。今までの努力が認められた気がした。エロ同人作家として価値を認めてもらった気がした。子供の頃からなりたかったエロ同人作家に、いちおう俺はなれたのだ
そこから俺はイベントごとにコンスタントに新刊を出すようになっていった。この頃にはとらのあなが最大勢力で、信長書店やメッセサンオーといった同人を扱うショップも多くなってきた。一方で長年お世話になっていたLLパレスは悲しいことに規模を縮小していったが、こういうショップが勃興することで、俺は部数をどんどんと伸ばしていった。イベントで売れ残っても、その在庫をショップが引き受けてくれるのだから、スペースの限界まで持ち込めるのだ。100部から始まった俺の本の印刷部数が4桁後半になるのもあっという間だった。実家から離れて一人暮らしを始めたのもこの頃だった
一方で同人活動にかまけて、学業どころか大学生活が破綻するようになった俺は留年の危機を迎えていた。おまけに世は就職氷河期真っ只中である。だが俺はまったく気にしていなかった。この頃の俺は1000万円以上の収入をエロ同人から得ていたからだ。就職も卒業もする意味も理由も俺にはまったくなかった。が、親に懇願されたのもあって、卒業だけは一応しておくかと思って追試でどうにかなった。大学側の温情も多分にあってのギリギリ卒業だった
親からは就職をどうするのかと何度も問い詰められた。いまの状況ではまともな就職など出来ない。だからしばらくフリーターをやると言うと、それなりに納得していたようだった。エロ同人作家もフリーターも似たようなものだ。だから俺はここで本当の「エロ同人作家」になった。大学生のお遊びではない、本物になったのだ
さて、無事に大学も卒業して「職業、エロ同人作家」となった俺は、変わらずに活動を続けていた。好きなアニメやゲームを見ては妄想と股間を膨らませて、いかにこのキャラをアヘアヘ言わせるかだけを考えていた。清楚なタイプならギャップ萌えでダブルピースも悪くない。ロリロリでもアリだ。ちょうどこの頃はメスガキ分からせという概念も生まれつつあって、それに乗った俺は絶好調だった。少なくとも表面上は
だが、当時は分からなかったが実は俺はほんのりとスランプを感じていた。マンガの技術は桁違いに向上したし、画力だってプロと比べても遜色ないほどに腕を上げた。しかしやってることや描いてる内容は最初のデビューの作品から何も変わっていない。いや変えられなかったからだ。技術レベルは上がっても、「中身」は小学生レベルなのだ。小学生の描くバカみたいなマンガをプロが清書してるだけのようなものなのだ。誰を描いても、何を描いても「うんこ! おしっこ! ギャハハ!」だ。そういうものを延々と再生産しているという事実に気がついた時、俺はゾッとした。結局のところ、俺はエロ同人「作家」としては何も進歩も進化もしてないのではないか。そう思った
学生の頃、マンガ部の真面目な先輩たちが真面目にマンガを描いていたのを見て、意識が高くて違うなぁと思った。俺にはそんなものは不要だと考えた。エロ同人に必要なのは、一にも二にも画力とエロスだけだ。そう信じていたが、そうではなかった、エロとはそんな単純なものではない。…俺はそんな風に段々と思うようになっていった。エロスとは人間の真実を浮かび上がらせる深奥なる営みの一部なのだ、と。今頃になって先輩たちの「人は経験したことだけしか描けない」という言葉が俺の心をえぐるようになっていった
しかるに今のこの俺はどうだ。実際のセックスなど知らずに、小中学生の妄想をただ絵で表現しているだけの、エロスも人間も描いていないただ手先が器用なだけのバカなのではないか。小手先でエロい絵を描いてるからある程度評価されてるだけで、「作家」としての評価は下の下なのではないか
俺は「漫画家」になりたかった訳では無い。ただエロ同人作家でありさえすれば良かった。だがエロ同人作家であろうとするなら、同時に「漫画家」的な資質も要求されるのだということを、俺はようやく思い知った。エロいからというだけで、設定など無視してキャラにアヘ顔ダブルピースをさせるなど、そもそも作品を理解していないから出来ることだ。果たしてそれは二次エロとして正しいのか。エロ同人作家としてあるべき姿なのか。そんなことを突きつけられた気がした
今から思えばそれは事実だった。だが当時の俺に、その事実を受け入れ、飲み込む度量はなかった。なまじ売れていたからこそ、自分が真のエロ同人作家ではないという事実が受け入れられなかった。あれほど憧れたエロ同人作家として成功したというのが、すべて幻だった、勘違いだったなど受け入れられるはずがない
だから俺は、「本当のセックス」を知るためにまず風俗に行くことにした。実際のセックスを体験すれば、それが何らかの形でマンガにフィードバックできると考えたからだ。そのフィードバックを得られれば、俺は一つ上のエロ同人が描けるようになる。そう信じた。マンガ部の先輩たちが言っていた「人は経験したことだけしか描けない」という言葉に、今更のように俺はすがった
だが、「実際のセックス」は俺の求めたフィードバックもインスピレーションも、何も与えてはくれなかった。実際のセックスはさほど刺激的でもなく、快感という点でも右手に大きく劣るという有り様だった。しかし一つだけ大きな学びがあった。「セックスはいうほど気持ちよくはないが、しかし女の子とイチャイチャするのはたまらなく心地良い」のだ
話は少し前後するが、俺は外面が良いというのは何度も書いた。芸能人レベルのイケメンとまでは言わないが、雰囲気イケメンぐらいではあった。身長だって175センチあって、武道で鍛えてはいたので細マッチョだったから小中高と女子には受けは良かった。告白されたことも何度かある
でも俺はそれらを断った。なぜか? それは真実を知ることで幻想が壊れることが怖かったからだ。そして己の欲望をありのままにぶつければドン引きされるのが分かっていたからだ
俺とて子宮姦など現実にはできないことは知っているし、そんな長大なナニも持ち合わせてはいない。感度3千倍なら脱法ドラッグあたりなら何とかなるかもしれないが、それとてリスキーが過ぎる。なにより俺には妹がいると最初に書いたが、そのせいで「現実の女」に対する期待値などゼロだった。「人語を一応は解する邪悪な獣」である妹が俺の中では現実の若い女性のモデルケースだったので、そんなのの類似品と「お付き合い」など出来るはずがないし、したくもなかった。故に俺はセックスへの憧れ、期待を持ちつつも実行には至らなかった。現実の女子などは鬼神のごとく敬して遠ざけるのが最良なのだ
とはいえ性欲は人並み以上にあったので、ヤりたい気持ちは常にあった。ヤれそうなタイミングもあった。しかしエロ同人的な世界観を内面化している自分が、常識的なセックスで満足するとは思えなかったから踏みとどまれた
話を戻すと、いざ実際に現実の女子と致すと、なるほど予想の通りにさほど気持ちよくはなかった。全くの想像以下だった。しかし、事前事後に快感とは別の多幸感のごときが押し寄せてきたのだ。これは予想外、想定外だった。幸せホルモンがドバドバと脳内に分泌されている。セックスとは竿の快楽だと考えていた自分にとっては、これは盤外戦のような感覚だった
だがこの感覚をマンガにフィードバックはできない。竿役のおじさんや触手が多幸感を感じたというのをどう表現しどうエロに昇華できるというのか。悩み、迷走した結果、俺は今まで通りの路線で続けることにした
ところでこの頃、自身の迷走もあって売上はよくて現状維持、ネタによっては大きく落ちることもあった。かつて数千部を誇った発行部数も在庫として積まれるようになっていった。そして何度も言って恐縮だが、俺は外面はまぁまぁいい。高校生の頃からの習慣で、イベントには常にピシッとした装いで参加していた。それは落ち目になったこの時でも変わらなかった
後にどこかで聞いた話だが、腐女子などもイベント参加のために気合の入れた服や装いを用意するらしい。大事な同人イベントや敬愛するサークルのスペースに訪問するのに、勝負服を着ないでいつ着るのか、という文化があるらしい。俺の装いへのこだわりもそれに近い、と感じた。俺はエロ同人誌が好きだった。それが頒布されるイベントも好きだ。それへの、そこへの敬意として正装をする。それらに対して恥ずかしくない格好をする。もちろん自分なりの、ではあるけれど、それが「礼儀」なのだと俺は思う
そして迷走してはいたものの、まだある程度の売上があったこの頃、この俺のファンだと名乗る女性がサークルスペースに現れた
まだ続きます。。。
月曜から夜ふかし最新回を見てて思ったんだが
知らなかった。偉そうだから「お医者様だぞ」って思ってるのかと思ってた
正直、患者側からしても歯科医師と医師って明確に違う感じがするよなあ
皮膚科とか耳鼻科だとまあ内科もいけるんじゃね?って思うけど、歯科はなあ
(偶にQQで総合病院に行くと当番の医者が歯科だったりして笑うけど。何が出来んねんて。「明日また来てね」って言う係かよ)
でも人に感謝されるしやり甲斐もあるし金も貰えるし社会的地位も高いし、良いよね
こちとら全て真逆の仕事なんでね(こんなに大変で辛い思いしてるのにな)
やっぱり学生時代に頭脳と資金をフル稼働しないと前者の様な仕事には就けないよね
もし頭脳と資金があっても、医療に携わりたくはないけどね。その2つを使って違う仕事に就くべく学ぶわ
元増田の論点は「相手が品定めの行動をしているかどうか」だろ?
そして、その品定め行動の結果として男性に避けられる。
年を重ねて条件が悪くなるごとに微妙な異性としか巡り会えなくなる。
でも本人は品定め行動を改めないので、その微妙な異性とすらマッチングしない。
男女それぞれに相性テストをかけあうのは、何も間違っていない。
ヒトのお見合いを長く見てきたが、お見合いは試しあい、真剣での試合そのものであり、鋭くしかし華麗に行う必要がある。
婚活においてサイゼリヤデートという話題で炎上するたびに思うのだが、題名とは違って実はかなりの人間がデートの中に"サイゼリヤ"を組み込んでしまうことがある。
以下において"サイゼリヤ"は、"マクドナルド"でも"ドンキ"でも、"スターバックス"でも良い。好きな単語に置き換えて読んで欲しい。
試される側からすれば、実はお試しとしては悪く無い。価値観を知る良い機会だからだ。
問題は、それが意図せずに組み入れられてしまったのか、意図してそこに行こうとしているかの差だ。意図しているのだとしたら試し方としては相当に幼い。
ただ、相手の価値観を変えてやろうと思ってなかなか変わるものでもなく、矯正すれば良いかと気楽に考えていると概ね悲惨な結末を迎える。
(価値観を後から変える成功例は自分の知りうる限り一組だけで、あとは残らず離婚している)
以下は、結婚相談所での経験も含めて、なぜサイゼリヤデートがダメなのか、なぜ相手を試す行為が良くないとされ、実は試す必要があるのかを解説する。
(具体例は当然フェイクや組み合わせを変えたりする)
総じて、結婚相談所は「結婚できる下地はあるが出会いが無かった」お相手同士の縁を結び、そのお手伝いをするところであり、
新兵訓練所ではなく、また訓練するインセンティブも薄い(よほど成婚率が悪いとかでないかぎり、ズルズル在席してもらった方が楽)ので、
多少の背景調査が入るお堅めの合コンだと思ってもらってほぼ間違いない。
多少の違いはあるが概ね合コンセッティング業者と言われても反論はできない。
いやいやお見合いと合コンは違うじゃん!と思ったあなた。貴方の感性は正常です。
そう、男女が出会う場所として本質的に同じだとしても、やはりお見合いと合コンは違う。
事前の準備の面倒さやドレスコード、会食場所を含めて、その差異は、マナーという言葉に集約される。
けっきょっくのところ、これは礼儀、つまり相手に敬意を表すことが出来るか、という点を見られているわけだ。
試しあいだとしても、相手に敬意を持ち、それをきちんと表現した上で、さらに相手を試したり知ることができますか?という。
つまり、サイゼリヤデートは、相手にきちんと敬意を払ったうえでセッティングしましたか?と問われている。
一般的には、初回のデート場所にサイゼリヤに行くのは、試し方としては拙く、無礼だ。
そんなこと言っても、初回の相手にどうやって敬意を表せば良いのだ!と憤るかもしれない。
自分がどう思うかではなく、相手がどう思うかにフォーカスして考える経験が足りていない。
そもそも結婚数そのものが下がってきている昨今、礼儀作法にうるさいご家庭はかなり減った。
実際のところ、気の置けない友人同士であれば、手土産無しにお宅訪問しても陰口をたたかれることはまず無い。
ただ、家を訪ねるのであれば手土産くらいは持参するだろうという常識が薄れても、それが礼を尽くすことになるかもしれないと思い至れないのは致命的だ。
(ブコメにハレとケの概念について触れているものがあったが、それでピンとくるようであれば読み飛ばしてもらって構わない)
じゃあ、デートにどこに行けば良いのだ!とキレるようであればまだ救いがある。調べたり改善する余地があるからだ。
サイゼリヤでも良いような女性とお付き合いしたいのだから、良いじゃないか、と考える場合は概ね笑顔で肯定し、長く在席してもらうことになる。
パブリックとプライベートとを、それぞれに応じて異なる振る舞いをすることが求められる、ということからわかっていないことが多い。
プライベートで、例えば家にいるとき、家族になった後での家の中での振る舞いで、厳格な礼儀作法を求められると疲れる、というのはわからなくもない。
「だから、サイゼリヤで価値観のすり合わせを」となるところがマズイのだ。デートはパブリックな場所で行われるものであり、特に初回のデートはパブリックよりだからだ。
さて、デートはプライベートな行事ではあるが、パブリックな空間で行われる。
次にこれが"婚活で行われるデート"の場合は、ここに"非日常"という軸が加わる。
冠婚葬祭に普段着で行ってはいけないというのは、それは非日常だからだ。
逆に言えば、高校生のデートであればサイゼリヤであっても問題ない。日常と地続きだし、場合によってはそもそも男女で食事をするだけで非日常だったりするからだ。
最後に、相手と自分との区別がついていない、という点があげられる。
これはもちろんグラデーションがあるだけで誰しもそうだが、極端に自分が中心になっていることがある。
相手が人格を持つ自分とは違う人間なのだということが分かっていないような振る舞いをされる方がまま居る。
これは男女問わずだし、誰しもが多少なりともあるが、自分の考え方が正しく、それに沿うべきだ、と考えてしまいがちだ。
サイゼリヤデートであっても相手は楽しむだろう、それが初回のデートであっても自分は嬉しいから、というものだ。
その時にお誘いした相手はどう思うだろうという視点が欠落している。
ここが"サイゼリヤ"を組み込んでしまうことがあると言った理由だ。
休憩にスターバックスによることが優しさであると感じる方もいれば、騒がしいスターバックスにデート中に寄るのは常識外れだと怒る方もいる。
どちらが正しいとか間違っているかということではなく、その相手がそう感じるという点が重要なのだ。
そんな初回の相手をエスパーでもないのにどう感じるかわかれなんて無理だろ!と憤るのもわかる。
そう、相手のことを心から理解するのは家族であっても難しいし、逆にそんなにピッタリだと不安になる方もいる(相手が自分に無理に合わせていたのではないかと)。
その解消がコミュニケーションであり、ここで相手と意思疎通ができるかはとても重要だ。
自分の言葉で相手に伝わるように言ったはずなのに伝わらなかったというのは大きなマイナスになる。
例えば、「相手からはデートのランチの場所はどこでもいいと言われた」というのが、「どこでもいいと言ったらどう伝わるか」とすでに試されているのだ。
もちろん、慣れていないと、ディナーの予約をしたつもりが、高くてあまり美味しくない居酒屋になってしまうこともある。それは仕方がない。
問題はそこから、どう軌道修正できるか、もしくはそういったところが良いのか実は非日常のデートなら違うところが良いのか、価値観のすり合わせが出来るかが重要なのだ。
際限なく譲歩する必要は無い。ここは譲れないラインだというのをぼんやりとでも持っておくことはもちろん重要だ。
いつもデートは帝国ホテルのディナーを予約してほしいというのは、受け入れられないとか。手違いでも居酒屋を予約するような手際ではムリだ、とか。
まだ家族になってもいない相手を試すのであれば、相応の礼儀を尽くしたうえで、失礼のないように試すべきなのだ。
だから、何度かデートを重ねたうえで、段階を踏んで、「お互い普段はファミレスに行くって言っていたし、どう?」と誘うのであれば何の問題もない。
両方がともに普段着で集まって、いつも行くような店に行こうとコミュニケーションが取れてからなら、焼肉でも二郎でも好きに行ったらいい。
いきなり相手を連れて行って試すような真似をするのは、本当に止めた方が良い。考え方が幼すぎる。
礼儀を尽くしてサイゼリヤに行ったんだと主張するのであれば、それはそれでも良いと思う。似合う人が見つかると良いね。
あなたから見れば、あなたは人生の主人公で、それ以外の人間は登場人物に過ぎないと感じるかもしれないが、実際はそうではない。
まあ、そう無理することも無いと思うんだよね。業界的にはその方が助かるし儲かるから。増田にしか書けないよこんなこと。
つーか、ぶっちゃけオマエ試してる場合なの?ってことの方が多いから、経験則的に言えば全員一律相手を試してる場合ではないでフィニッシュです。
相手を試さないといけないくらいひっきりなしにアプローチを受けてますなんて人は、ホントに出会いが無いだけで結婚相談所の能力と無関係に成婚するしね。
自分がやってしまったこと(例えそれがわずかなものでも)が確実に原因で起きてしまった不幸と、まったく自分に原因のない不幸とではどちらがより耐えがたいものだろうか。
前者は「あのとき自分がこうしていなかったら…」というような激しい後悔に苛まれるだろうし、後者は そのことの理不尽さの前でおのれの無力さをおもいしることだろう。
さて、その選択はとりあえず個人の手に委ねることにして、最初の問いの「不幸」を「恐怖」と置き換えてみよう。
[A]その人自身に起こるべくして起きた恐怖
と
[B]全く原因不明の恐怖
どちらがより怖いか。まあケースバイケースというか結局はその状況に立たされなければ答えは出ないだろうが話を続ける。
[A]の原因というのを、過去にはたらいた明らかに人道に反する行為、とより狭義のものとし、 それ以外を後者にいれるとすれば、一般的に「ホラー映画」と呼ばれているものはほぼ全てが後者を扱ったものだといえよう。
原因が呪いのヴィデオテープを見たということにしろ遺伝子操作に失敗して前代未聞のウィルスに感染してしまったことにしろそれらはとくに人道に反するというほどものではなく、せいぜい無根拠な禁忌を犯したという程度だ。
そして観客はその恐怖を、襲われている者に 感情移入/同化してともに味わい、それから逃れるとホッとして、それからまたそいつに襲われて……、 で最終的には原因が解き明かされるなり逃げ切るなりで幕は下りる。作る側も、いかに観客を引き込ませるかを意図して作っているし、そこで描かれる恐怖というのはあくまで襲われる側から見たものだ。
ところで、[A]の恐怖を描いた映画がいまやほとんどないのは、非のある者がこうむる恐怖を因果応報・当然のものとしてみなし逆に追いつめていく方が主人公として描かれているからである。
すなわち正当な復讐をする勧善懲悪の物語となってしまう。当然それは「恐怖= 襲われる側への感情移入により抱くもの」の図式が成り立たないのは言うまでもない。
では[A]の恐怖が恐怖映画として成立する場合とはどのようなものであるか。
それは、執行される復讐方法が観客に感情移入など到底させないほどおぞましいものであるときである。
観客を思考停止に陥れさせるほどの残酷なもの。このとき、その恐怖はまさに恐怖そのものとしてスクリーンに映し出される。
黒沢清監督作品『蛇の道』(1998年)はこのような映画である。
いや、これだけではこの作品を ひどく矮小化していることになる。
この作品の恐怖は、あるひとつの極点に立ってしまった人間がとってしまう行為の目をそむけずにはいられないような醜悪さが、これでもかこれでもかと露呈されていくことにある。
かといってそれは単に悪趣味とかたづけられるような類いのものでは断じてない。
それが、紛れもなく人間の性質によるので、恐怖を通り越してとにかく正視しがたいのだ。
それでもひとはこの映画を見るというほとんど拷問のような行為をやめようとしないのは、その恐怖の果てにも救いがあるはずだと信じているからにほかならないのだが……。
この映画での哀川はほぼ、人間の醜悪さを次々と 引き出す媒体として存在している。またその媒体としての仕事ぶりの的確さは、この世界の物理学的法則を解明していく学習塾でのもうひとつの姿とも重なり、存在論的に否定しがたいものとなるのだ。 あえて例えるならばこの作品での哀川の存在は、ルー・リードの声の響きのようだ。優しさ/慈悲深さと、 その奥にある圧倒的強度をほこる底無しの得体の知れなさ、そしてかなり強引なのにもかかわらず 抗いきれない魅惑にも似た正しさ(のようなもの)を備えている。
いや、やはりできるだけ見ないほうがよい。レンタルビデオ屋のやくざものコーナーに、絶対的「大凶」としてなにげなく陳列されているのが、 この作品の存在としてしごくふさわしいものだとおもわれる。
(2024年5月付記:リメイク版公開の報に触れ、四半世紀前にこのような文章をひっそり公開していたのを思い出したのでまたひっそりと匿名公開させていただきました。ニュアンスを変えない程度に改行等いじりましたが、死語である「ヴィデオ」」」云々の最終2行は削れませんでした。)