はてなキーワード: ルー・リードとは
ヒロシのぼっちキャンプseason2を見ていたらルー・リードのwalk on the wild sideがかかっていた
(ぼっちキャンプseason2はなんか雰囲気違うのな。選曲とか)
で、walk on the wild sideのヴァネッサ・パラディ版が聴きたくなったので彼女の2ndアルバムを聴いているんだが
なんつーか、フレンチポップって独特だよなあ
プロデューサーであるセルジュ・ゲンスブールのせいなのかなあ。そのせいだけじゃないと思うんだけど
で、あんだけ変なのに日本人はフレンチポップ割と好きだよな(自分も好きです)
シルヴィ・ヴァルタン、フランス・ギャル、ミシェル・ポルナレフ、フランソワーズ・アルディ。ジェーン・バーキンはちょっと毛色違うけど、好まれてるよな
あれか…どことなく舌っ足らずに聴こえる、あどけない感じが…若年者を好む国民性に合致しとんのか
(日本人の若年者好みは性的なアレじゃなくても、男女関わらず「若いこと・幼いこと」を至高とする傾向がある様に思う。個人的に)
フレンチポップは好きだけどシャンソン別に好きじゃない辺りが…ね(シャンソンはドスの利いたオバちゃんのイメージだもんな)
それにしても、ヴァネッサ・パラディ15~20歳は凄まじいな。リリー・ローズ・デップよりも確実にkawaiiし小悪魔だ(娘の方はなんというか、完成されきった顔だよな。物足りない)
書いてることは概ね間違ってないけど、結論は間違ってる。
大衆がシンプルでキャッチーな音楽を求めるという見方は全く間違っていないし、実際にその理屈のもとで大成功を収めたベリー・ゴーディ・Jrという人物がいる。彼はもともとジャズが好きで、ジャズ中心のレコードショップを開いていたのだけれど、売れるのはより音楽的に簡素で演奏技術も高度でないドゥー・ワップやダンス向きのジャンプ・ブルースやロックンロールで、自分が売りたいものが全く売れなかったという苦い経験があり、そこから“リズムが豊かでわかりやすく楽しい音楽を作る会社”であるモータウン・レコードを創設し、ミラクルズ、スプリームス、ジャクソン・ファイヴといったミュージシャンを輩出していったという経歴がある。
音楽理論的に高度であるということが音楽的に優れている、という見方は極めて安直で、音楽理論的に高度な音楽は音楽理論的に高度な音楽なのであって、優れた音楽であることとは直結しない。
アメリカ、及び現代の音楽史を語る上で、アメリカの黒人奴隷(強制労働者)が生み出したブルースは欠かせないけれど、ブルース自体はごく僅かなコード進行からなる、元増田の言葉を借りて言うなら“音楽理論的に低レベルな”音楽だ。けれども、ブルースが持つ音楽的価値というのは極めて大きなもので、黒人がより高度な音楽教育を習得するようになった1950年代以降においてもシンプルなギター演奏だけで音楽を作り続けるレッドベリーやライトニン・ホプキンスといった黒人ブルース・シンガーの評価は続いていたし、更には彼らの直系の影響下にはウディ・ガスリー、ボブ・ディランといったビッグネームがいて、彼らについてはもはや言うまでもない。
それに、理論的高度さを追求する人間はシンプルな音楽を“低レベル”であると見做している、というのも違う。
例えば増田の言う現代音楽の分野で成果を残しているフランク・ザッパのキャリアはドゥー・ワップやリズム&ブルースといったシンプルな黒人音楽の内面化から始まっているし、生涯に渡ってこうした音楽に興味を持ち続けていた。ロックの文脈ではアヴァンギャルド、ノイズ、シューゲイザーの先駆者であるルー・リードもボビー・ルイス、アイズレー・ブラザーズ、ファッツ・ドミノ、フレディ・キングといった50年代の黒人ポップスの愛聴者だったし、日本でも山下達郎のジェームズ・ブラウンはじめ60年代のソウル・ミュージックの愛好ぶりはよく知られているところ。
というように、わざわざ結論を書き直すまでもないけど「音楽理論的に高度な音楽だけが優れた音楽であるというわけではない」ってこと。
>アーティストでも、若いころは電子音バリバリの歌を歌っていたのが、歳を取るにつれアコースティックな静かめの曲ばかり歌うようになったとか
これのわかりやすい例にロッド・ステュアートがいて、彼も年齢を重ねるに連れてビバップ以前、あるいはポップス寄りのジャズ・スタンダード(わかりやすい音楽)を積極的に採り上げてカヴァーしてます