はてなキーワード: 80年代とは
北方謙三は、90年代以降は歴史小説家として地位を確立したが、まずは80年代半ばにハードボイルドの旗手として名を上げ、同じ頃から若者向け雑誌に於いて、読者から寄せられた人生相談や質問に答える『試みの地平線』という連載企画を開始した。
この連載は掲載誌において人気となり、その結果、北方には「二言目には『ソープに行け!』と(※太いゴシック文字で)相談者に説教する」「『バカヤロウ!』と(※太いゴシック文字で)相談者を怒鳴りつける」というステレオタイプなイメージが付き纏うことになる。今でも北方謙三に対して、そのような説教オヤジとしての印象を抱く人は存在することだろう。
これを書いている私も、若者だった当時、そういった北方謙三と読者のやり取りを、面白おかしく楽しんでいた一人である。
今でも私の記憶の片隅に残っている、相談の一つについて以下に記す。それは、二十歳そこそこの若い男性から寄せられた「何もかもイヤになった。生きる気力を失った。自殺を考えている」という、現在の言葉で表現すれば、メンタルヘルスに問題を抱えている人からの相談であった。
最初に相談のお便りを読んだ時点では、私を含めた多くの読者は「どうせまた『バカヤロウ!ソープにでも行ってクヨクヨ悩むのを止めろ!』とか言うのだろう」と思った。しかし、そのような我々の予想に反して、この相談に対して示した北方謙三の反応は意外なものであった。
正確な文言ではないが、以下のような感じであったと思う。
「お前の気持ちは分かった。どうしても、とお前が言うならば、俺にはお前を止められない。けれど、ほんの少しだけで良いから、それを実行に移すのを待ってくれないか?
お前が実際に死ぬ前に、何でも良いから、死ぬ前に本を百冊読んでから死ぬと、そう俺に約束してくれないか?
何も、俺の本じゃなくても良いんだ。図鑑だって、子供向けの絵本だって、何だって構わないから。何かの本を、お前が死ぬ前に百冊だけ読んでみてはくれないか?
俺には、死にたいと思っているお前を上手く助けるための、力や知恵が無いかもしれない。それでも、百冊の本を読むうちに、その中でお前は、お前自身を救ってくれる何かに出会えるかもしれない。
もし百冊の本を読んで、それでもまだ気持ちが変わらなかったならば、その時はまた俺に手紙を書いてくれないか?その時また俺は、お前の言葉に、お前の気持ちに目を通す。その時、俺とお前で話し合おう。
そのように、俺と約束してくれないか?俺は、お前の返事を待つ」
この北方謙三による回答が、メンタルヘルスに問題を抱えた状態の人間に向かって掛ける声として、正解であると現在の私は思わない。正直に言えば、メンタルヘルスに問題を抱えた人間が百冊の本を読むというのは、ある程度の治療を経て回復を示してからでなければ、かなり難しいことだろう。しかし、そのような審判を私が下せるのも、メンタルヘルス問題の重大性や対処方法について認識している現代人だからである。この相談が寄せられた当時、メンタルヘルスの問題に関する世間一般の意識や知識は、まだまだ貧しいものであった。したがって、当時の北方謙三やお便り採用係の雑誌編集者が、現代人の視点から見れば相談に対して頓珍漢な対処をしていたからといって、それを我々現代人が非難するのは些か酷であろう。
当時の一読者に過ぎなかった私の勝手な想像ではあるが、北方謙三は、本気でこの相談の手紙を送ってきた人物を助けたいと思ったのだろう。ただ、誰かを助けたいと思うことと、そう思った時に助ける力を実際に自分が持っているか否かは、別の話である。
だから、北方謙三は賭けたのであろう。かつて北方謙三自身が自ら経験したことに。すなわち、文字を書くという行為や、その行為によって生まれる本の持つ力によって、救われて生き延びたという経験に。相談者の彼もまた、救われて欲しいと祈りながら。
当然のことだが、昔も今も北方謙三は単なる作家であり、決してメンタルヘルス問題及びそれに対する対処方法の専門家ではない。しかし、それでも当時の北方は、この相談者に対して、その時の彼が思いつく限りの、出来うる限りの、誠実な回答をしたのだと、今でも私は思う。生きる為に文学の道、ものを書くことを選んだ作家という人種が、言葉や本に人間を生かす力が有ると信じることができないとしたら、その人はもはや作家と名乗れなくなるだろう。
あの後、相談者が百冊の本を読み終えたのか、自殺を踏み止まることが出来たのか、相談者を北方謙三が救うことが出来たのか、今に至るまで私は結果を知らない。
ただ、これを書いている私自身について言えば、この北方謙三の回答に手を引かれて、今まで生き延びたような気がしている。私の頭の中の、何処か片隅にこびりついた「せめて死ぬ前に百冊の本を」という言葉は、ずっと小さく残響し続けていた。もちろん数字の上では、とっくの昔に私は百冊の本を読み終えている。私という人間は、生きるのが辛くて死にたいと思いつつ、いざとなると死ぬ度胸が無い。結果として、みっともない姿で辛うじて生きている。その言い訳に「あとプラス百冊読むまで、死ぬのは待とう」と私自身に言い聞かせながら、人生の精算を少しだけ先延ばしして、逃げ続けているだけである。私の行為は、読書という行為を汚しているようで、北方謙三を始めとする物書きの人々や、本当の読書好きの人には誠に申し訳無く思う。
あの相談者は救われただろうか?救われていて欲しいと思う。彼が救われたのなら、自分も救われるような気がするから。
= = =
ここまで書いて我に返り、我ながら気持ち悪い文章だと思ったので、精進落し代わりに、個人的に面白かった『試みの地平線』の相談ベスト3を以下に書いて終わることにする。
第3位:ハードボイルド作家として苦労したことは?という質問に対して。北方謙三の馴染みのバーで、北方がいることに気づいた他の客が「やっぱりハードボイルド作家っぽい酒を飲むのかな?」とヒソヒソ噂話をしていたため、格好を付けるためにバーの店主に協力して貰い、バーボンに偽装したウーロン茶を出してもらってグッ!と飲み干して「じゃあな、マスター」と格好良く帰った。
第2位:北方先生はSMプレイの経験はありますか?という読者からの質問に対して。「有る」と回答。Mの女性から「縛って叩いて」とリクエストされたので、要望どおり北方謙三が女性の身体を鞭で叩いたら「痛い!」と言われたので、思わず「ゴメン」と言ったら、素に戻った女性から「そこで謝ったらダメ」と普通にダメ出しされた。
第1位:未経験で一日も早くエッチな初体験をしたくて悶々としている男子高校生からの「こんな僕は鳩の交尾を見ても勃起するのですが、一体どうしたらいいですか?」という質問。これに対して「馬鹿な質問を送ってくるな!」と一喝。超極太のゴシック文字で「まったく。俺はお前が羨ましいよ!」と回答。回答文が僅か2行に収まる。この極太文字による強調は、おそらく編集者から北方謙三への悪ふざけだったと思われる。
元々単に、ニュースが始まることを知らせるためだけの映像と音楽なのに妙に中毒性がある。
日テレの昔の、70年代以前の「きょうの出来事」の音楽は何度聞いてもめちゃ怖い。
テレ朝の80年代前半はタイトルの文字がなぜそこまで角ばっていて硬質な感じ、金属的な質感にそこまでこだわるのかよくわからない。
文字通り「エロい」と感じる河童(カッパ)、もしくは好色家の事。「西遊記」に登場する沙悟浄が好色家である事から、「西遊記」に関しては猪八戒が好色家設定の場合もある。
その名を全国区に知らしめたのと言えば、80年代にフジテレビ系列で放送されたお昼のトーク番組『ライオンのいただきます』の「いただきます劇場」で、視聴者からの投稿を基に再現されたミニドラマでチーボーこと重田千穂子が「私の主人…エロガッパなんです!!」のセリフの後にカッパに扮した主人役の伊沢弘が「エロエロエロエロエロエロエロッ!!」と甲高い声で叫びながら「星降る街角」(敏いとうとハッピー&ブルー版)の替え歌を歌い、最後にポーズをキメるのがお約束となっていた。
少年漫画だけにある謎文化は他にも色々あるが、イケメンの一般人高校生に親衛隊グループがついていて、キャー◯◯くーん!と校内で追い回すというのは実に謎だ。大抵主人公以外で、主人公に親衛隊がいて追い回されてるというのはあまり見ない。
部活のエースという設定もあるが部活のエースだとしても試合以外の日常生活でもなぜか追い回されている。ただの顔面のいい一般人の場合もある。
追い回してるのはモブ女たちで、主要な女キャラが親衛隊というのは見たことがない。「女に人気がある」というボンヤリした戦闘力の具現化みたいなもので、あのモブ女たちは人格を持ったキャラクターではなさそうだ。
これの元ネタというか発想の根源ってなんなんだろ。80年代のアイドルとかなんだろうか。でも80年代のアイドル親衛隊といえばむしろ女アイドルをハッピ着て追いかけ回してた男オタのイメージだけどそういうのは出てこないし、そもそも少女漫画には出てこないんだよね、イケメンを追いかけ回す女グループって。
新海誠はデビュー以来屈折したアニメを作り続けていて、それが『君の名は』で漂白されて大ヒットした。その成功を旧来からのファンは「新海誠もそっちに行ってしまうのか」と半分祝福、半分寂しい思いをして見届けた。
そして次作の『天気の子』。この映画で新海誠は旧来からの期待に答えて闇の部分を出そうとしていた。天気の子は『キミ』と『セカイ』を天秤に載せて葛藤するよくある話だが、昔からあるこの手の話は『セカイ』の描き方に重きが置かれておらず、葛藤が成立していなかった。そこで新海誠は自分の才能を活かし、皆が生活する『世界』を圧倒的に美しく描き、失うものの重量を重くして天秤のバランスを取ろうとした。
新海誠はインタビューでこの作品は賛否両論を巻き起こすだろうと語っていたが、しかしその試みはうまく行かなかった。なぜならこの映画が公開されていた2019年は個人の人権が最も重視されていた時代だったからだ。ブラック企業問題が社会問題になり、社会と個人どちらを取るか問われたら、みんな個人と答える、それが正しいとされた最後の時代だったからだ。だから天気の子は葛藤が成立せず、作中でくどいくらい穂高が犯罪を重ねても、それを責める観客はほとんどおらず、ただのラブストーリーとして消費された。
しかし今は違う。コロナ禍で世界は変わってしまった。恋人と会うために病院から抜け出すカップルがいたら、社会は容赦なく糾弾するだろう。『火垂るの墓』の高畑勲監督は80年代にインタビューで「いつかまた時代が再逆転したら、あの未亡人(親戚の叔母さん)以上に清太を糾弾する意見が大勢を占める時代が来るかもしれず、ぼくはおそろしい気がします」と語っている。『天気の子』もまた『火垂るの墓』と同じく観る時代によって見方が180度変わってくる映画だった。
井上雄彦 1作目「カメレオンジェイル」→2作目「スラムダンク」
富樫義弘 1作目「てんで性悪キューピッド」→2作目「幽遊白書」
つの丸 1作目「モンモンモン」→2作目「みどりのマキバオー」
葦原大輔 1作目「賢い犬リリエンタール」→2作目「ワールドトリガー」
藤本タツキ 1作目「ファイアパンチ」→2作目「チェンソーマン」
80年代とかはよく知らないけど、全体的に見て2作目がこけるってイメージはむしろあまりない
最近岸本先生の「サムライ8」がこけたのでそのイメージが強いだけじゃないだろうか
ただ、「何作目か」ではなく、「ヒット作の次の作品」がこけるのはよくある傾向だと思う
良いレビューだと思う。
めぞんは大人向けってことで割と編集者のチェックや設定変更があったと思う。
なのであのように極めて緻密なスケジュールで進んだし、
エンディングではフラグの回収忘れもなく大団円になっている。(ちゃんと朱美もハッピーエンドにしている)
うる星はその逆に、スラップスティック作者としての高橋さんの本領発揮というか、
好きに描かせていたようにも思える。
20代をまるまる費やした作品であり、だからこそ失われない時代性みたいなものが反映されてると思う。
80年代といえば20代の恋はめぞん、高校はきまぐれオレンジロード、