はてなキーワード: 高度成長期とは
その気になれば東京に行ける距離ではあっても、よっぽど発達のいい子供か、親が上手く動機づけしてくれるかじゃないと行けないんだよな。「東京がそこにある」ということを認識できないから。元増田は俺よりもずいぶん精神の発達が早かったようで、郊外の家しかない街が嫌なんだと自己認識して東京に行ってみたりバイトしてみたり色々したのは凄いことだな。
俺は自分が郊外を嫌だと感じていることすら大人になるまで認識できなかった。ただずっと言語化できない何かを渇望していただけだった。言語化できていなかったから、色々やってみてそれなりに文化的な体験をしたりもしたけど、本質にたどり着くのには随分時間がかかった。
「ファスト風土」で有名な三浦展の「首都圏大予測」という本の中に書かれていることを読んだときに俺は膝を打った。
“純粋な戸建て住宅地は異物を排除しがちである。静かな環境を求めてきた住民は、住むこと以外の生活を住宅地に入れたがらない。静かに音楽を聴いて、読書をして、食事をして、寝て、という家族だけの平穏な暮らしを乱されたくないと考え、むしろ家庭を外の社会から隔絶させることを大事にするからだ。”
これだ。俺が生まれ育った郊外の住民はこういう連中だった。俺の実家は戸建ではなくニュータウン系のマンションだったが、全く同じだった。それぞれがそれぞれの「家庭を置く場所」としての街を求めているだけで、それ以上に何も求めていなかったんだ。だから家庭以外の商売や活動は、住民がそれを求めていないのでビジネスとして成立させることができず潰れる。せいぜい子供関係の集まりくらいだ。それもお仕着せのようなテンプレートな子ども会みたいなものだけだった。取り敢えず型通りやっとけばいいだろという感じだった。今ほど情報が行き渡ってない時代だったので、仕方がなかった面もあるだろうけど。
郊外にもショッピングモールができて十分便利だろとか、銀座にダイソーがあるくらいなんだから東京だって大して変わらんとかコメントがついているが、全くそういうことではないと思う。そういった通り一遍の「生活」以外の要素が存在する余地のあることが重要なんだ。郊外にはそれがない。やればできなくはないが、住民がそれを求めていないので広がっていかない。彼らは庭付一戸建て(あるいは柏の葉やおおたかの森や海浜幕張の駅近マンションや豊洲・晴海のタワマン)に住んで公園とイオンモールに行ければそれで十分満たされていて、そこに渇望はないのだ。彼らの子供たちには渇望があるだろうが、子供なのでかつての元増田や俺のようにどうしていいのか分からず燻るだけだ。
「都市の会社に勤めて郊外の閑静な住宅街に住み自然豊かな環境で伸び伸びと子供を育てる」というのは高度成長期から平成に掛けての「物語」だったのだろうと思う。社会が拡大していく時代はそれで良かったんだろう。「都市」が拡大し「郊外」を取り込んでいくという期待があったから。
でも現代ではもうその「物語」は終わってしまった。人口は減っていくことが確実になり、拡大の期待に依存することはもはやできなくなった。これからは集積の時代になると思う。人口が減っていくからこそ人々が寄り集まり、スケールメリットを活かしつつ新しいものを生み出していかなければならないと思う。集積を都市に任せ、互いに隔絶された「家庭」の集まりとしての「郊外」を存在させておく余裕は無くなっていくのではないか。家庭も生活も仕事も文化も全てが一体となって存在する、かつての下町のような社会になっていかなければならないのではないか。何より、俺が生まれ育った千葉のニュータウンのような街なんかより、その方が面白みがあって楽しいからね。
そう思って俺は都心に狭いマンションを買ったよ。千葉には帰りません。
不思議なのはさ、例えばアメリカは「大いなる田舎」と呼ばれているように、NYCなどのごく一部を除いて、日本人にも名の知れてる街でもまあ田舎なんだけど、ある程度の街はちゃんと街ごとに文化があって小さくても面白みがあるんだよね。Googleがあるマウンテンビューとかさ。街のサイズとしては多摩より遥かに小さいし大した歴史もないんだけど、住宅だけじゃない文化がある。歴史がないゆえに(スタンフォード大学を除いて)新しいものばかりだけどね。だから東京の郊外の街も原理的にはできるはずなんだよ。でも現実にそうなっていないのは、やっぱり住民の価値観のせいなんだと思う。そこが嫌。
(追記)
なんかすごいブコメがついていて驚き。
一部に「不幸を嘆いてばかりじゃだめだ」という「正しい意見」が散見されるけど、日本には生まれた世代や環境を嘆く自由もないの?「前を向いて挑戦し続ける」人間以外を見下す社会って、どんだけ息苦しい社会なんだろうね。団塊世代以上の、高度成長期までの元気活発な日本人のほうが、自分の不遇や不幸をもっと政府や経営者や社会のせいにしていたと思うよ。
(以下元記事)
「人間は生まれたからには結婚して家庭をつくるのが当たり前という社会観念が強く残っていたが、実際はできない人が大量に出現した世代」
でもあるんだよな。「人間として当たり前のことができなかった」という劣等感を背負ったからこそ、不幸感がめちゃくちゃ強いわけ。
かつてに比べて恋愛が圧倒的に自由競争化し、雇用も不安定化し、しかも結婚や育児自体の標準とされるコストも跳ね上がった時代。結婚が非常に難しくなったのに、「なんでうちの子供は結婚なんて人間として当たり前のこともできないのか」と、親世代から否定的な言葉を投げつけられ続けて、自尊心を削られてきた世代。
これは他の全ても同様。
自分たちの世代で「いじめ自殺」が社会問題化したけど、上の世代は相変わらず「いじめなんかで死ぬなんて意味不明」という反応で、文字通り何もしてくれなかった。
就職が厳しくなっても、「仕事を選り好みしすぎ」「若い頃は苦労するもの」という言葉を投げつけられ続けた。そして就活の厳しさで若者がのたうち回っているのに、メディアのバッシングを背景に、「改革」の名の下に公共事業や公務員の採用が大幅に減らされ、そのかわり非正規雇用が大幅に増えた。「男が結婚すると言うのは、女子供を養うこと」という観念は当時普通だったから、わかりやすく非婚化と少子化が進行した。
いわゆるZ世代は、「別に結婚しなくても、それも個人の人生だよね」となっているので、将来結婚できなかったとしても、それに対する不幸感は氷河期世代ほどではないだろう。自分もZ世代に生まれたかった。
世界的に見れば人口は増える一方で、2050年には100億人超える説が濃厚で。
日本は少子化対策が喫緊の課題だと言われているけれど、地球規模で見れば人口は過多なんだから、別に減っていいんじゃないの?減らしたほうがむしろ適正なんじゃないの?地球のSDGs的には。
日本が人口増やさないと困るのは、年金とか労働とか主に「経済社会をどう回すか」のシステム部分なので、人口増政策を考えるのと両輪で「少ない人員で回る仕組み」を考え作ることも政治の仕事じゃないんでしょうか。
資源を持たない日本は原材料を輸入して製品を輸出することで生計を立ててきた貿易国家であるが、材料を調達してきた国々が発展し日本の製品が売れなくなって久しい。高度成長期に持っていた安い人件費というアドバンテージはすでになく、逆に人件費の差が重荷になっている。
日本が製品を売って成長していくためには発展途上国のようなライバルに競争力で上回る必要があるが、安い人件費という有利性を持つ途上国に価格で対抗するには高い生産性が必要となる。すなわち「同じ製品をより少ない数の人間で提供できるようにする」ことが必要となる。「製品提供に携わる人を少なくしないと売れない」という問題を日本は常に抱えていると言える。
もちろん、価格に左右されない決定的な魅力を持つ製品を開発することで価格一辺倒のレッドオーシャンの競争を回避することは可能ではあるものの、それでも価格を全く見ないで購入する人は富裕層のほんの一部である。多くの人は購入の有力な判断要素の一つに価格を置いており価格競争を抜きにした製品開発はあり得ない。従って、生産性の向上で余った人員を吸収するくらいの新規開拓がない場合、成長とともに労働力は全体として必要なくなる方向に進む。
さらに、AIやロボット、ドローンをはじめとする無人化技術は生産性向上を大きく加速させる。その結果、代替ができない一部の産業を除き、今は人手不足でも今後はどんどん人が余ってくる。その人材を回す先がないのである。
「仕事」が割り当てられない状況下で子供だけを増やしても増えた子供は支えられる側に回り、国を圧迫する要素になる。従って、「少ない人員で回る仕組み」に加えて「税金を必要としない余った人員の受け皿」この2つが揃わないなら少子化対策はむしろ国家の首を絞めるのではないかと思う。
国内の需要が少なくなるという少子化のもう一つの問題はやはり発展して可処分所得の増えた海外需要に求めるべきじゃないだろうか。
高度成長期の話だしなあ…
リングとか岩井俊二とかが流行るのがわかるほど暗い社会だったし、
ウシジマくんの世界に転げ落ちそうな危なっかしい人たくさん居た。
97-99年ごろとか、流行ってた洋服、イケてる人ほど黒・白・グレー!だった。
静かに暗かった。もしくは薬でラリってた。おっさんの自己中さとモラハラ加減がすごかった。
多分俺今のあのおっさんよりも遥かに給料もらってるけど、それ知ったらどんな顔するかな。
世の中に出てる情報が少なすぎて雑誌と噂話ベースがメイン。科学的裏付けがなくて誰も信じないようなものもすぐに持て囃されてた。今表に出てるものはアングラの情報レベルだった。
そんな世界だから悲しくなっちゃったり街を彷徨っちゃったりする若者多数。
そして100円ショップなんてほぼないから今100円で売ってるようなものに1000円とか5000円とか払いながら手に入れてた。情報と金がなければ自由もなくてただただ檻の中にいるような時代だった。
第一次ベビーブームは、その前にたまっていた予約分()がドッとまとめてはけただけ。本当はもっと早く子作りしたかったけど子作りできなかった夫婦たちが一気に子作りに励んだ結果、短い期間にまとめてたくさん子供が増えた。その上、乳幼児死亡率も下がった。
第二次ベビーブームは、その子供たちが子作りの年齢にさしかかったため生じた。いわゆる団塊の世代と言われる人口の多い世代の子作り期。
その間の端境期はそんなに子供の数は多くない。今の60代前半あたりはちょうど二つのベビーブームの間の谷間の世代なので、今の20代前半あたりの少子化が騒がれ出した頃に生まれた世代と同じくらいの人口しかない。高度成長期に生まれてバブル期に青年期を迎えたあたりの世代かな。
前提として、彼らが子供を作るのはシンプルに生産力のため。労働力として期待されている。現実的な問題として、子供まで働かせないと一家を養えない。子供を働かせると教育機会が失われるので大人になった後も高収入の仕事に就けずやっぱり子供の労働力に期待するしかない、という再生産の問題もある。
(そんなわけで、増田の示したデータは非常に胡散臭いが、それはそれとして人口が爆発している国のIQ(世界全体での平均を取る場合)はまぁ実際に低いだろう。それはどちらかというと原因ではなく結果なのだが)
労働力としての子供が4人必要だとして、死亡率を考慮して期待値で4人生存するように子供を作ると、無視できない確率で一家全員が死ぬ事になる。例えば「95%の確率で子供が4人以上生存するように」みたいな計算で子供を作る場合、実際に生き残る子供の数の期待値は4よりも大きくなる(これは「合理的な判断」であり、例えばアイビーリーグ出身の経営者が途上国に異世界転生して最新の統計データを元に判断しても同じ結果にしかならん)。だから死亡率の高い国では人口は増加傾向になるし、その対策は児童死亡率の低減(必要な数だけ産めばオッケーにする)や農業生産性の向上(4という数字を下げる)や教育(家族全員を大人2人で養えればいい)になる。
論理的に避け得ない帰結なので、子供の死亡率が同じなら日本でも起きるだろう。というか起きた。出生率と死亡率は、大体どこの社会も「多産多死」から「多産少死」を経て「少産少死」に至る。実際の死亡率が下がってから、社会全体の意識が変わるまでには時間が必要という事だ。日本の場合、明治時代の初期あたりまで多産多死、その後1960年代くらいまでが多産少死で、それ以降は少産少死になっている(日本の場合、多産少死時代の人口ボーナスをいい感じに生産力に転換できたからこその高度成長期、という流れ。識字率って大事なんすねぇ)。温帯とかいうベリーイージー難易度国家生まれなのに100年近く多産少死やってた日本国民が、なんでベリーハード難易度プレイヤーをドヤ顔で批判してんだよ、という話。恥を知れ恥を。
言うまでもなく、一番急速に人口が増加するのは「多産少死」段階の地域。現在で言うと、発展途上国でもまぁマシな方の地域が該当する。本当にやべー国はまだ「多産多死」段階なので人口がそこまで急激に増加はしない。全世界的に、90年代に比べれば急速にマシになってはきている。