はてなキーワード: 高度成長期とは
第一次ベビーブームは、その前にたまっていた予約分()がドッとまとめてはけただけ。本当はもっと早く子作りしたかったけど子作りできなかった夫婦たちが一気に子作りに励んだ結果、短い期間にまとめてたくさん子供が増えた。その上、乳幼児死亡率も下がった。
第二次ベビーブームは、その子供たちが子作りの年齢にさしかかったため生じた。いわゆる団塊の世代と言われる人口の多い世代の子作り期。
その間の端境期はそんなに子供の数は多くない。今の60代前半あたりはちょうど二つのベビーブームの間の谷間の世代なので、今の20代前半あたりの少子化が騒がれ出した頃に生まれた世代と同じくらいの人口しかない。高度成長期に生まれてバブル期に青年期を迎えたあたりの世代かな。
前提として、彼らが子供を作るのはシンプルに生産力のため。労働力として期待されている。現実的な問題として、子供まで働かせないと一家を養えない。子供を働かせると教育機会が失われるので大人になった後も高収入の仕事に就けずやっぱり子供の労働力に期待するしかない、という再生産の問題もある。
(そんなわけで、増田の示したデータは非常に胡散臭いが、それはそれとして人口が爆発している国のIQ(世界全体での平均を取る場合)はまぁ実際に低いだろう。それはどちらかというと原因ではなく結果なのだが)
労働力としての子供が4人必要だとして、死亡率を考慮して期待値で4人生存するように子供を作ると、無視できない確率で一家全員が死ぬ事になる。例えば「95%の確率で子供が4人以上生存するように」みたいな計算で子供を作る場合、実際に生き残る子供の数の期待値は4よりも大きくなる(これは「合理的な判断」であり、例えばアイビーリーグ出身の経営者が途上国に異世界転生して最新の統計データを元に判断しても同じ結果にしかならん)。だから死亡率の高い国では人口は増加傾向になるし、その対策は児童死亡率の低減(必要な数だけ産めばオッケーにする)や農業生産性の向上(4という数字を下げる)や教育(家族全員を大人2人で養えればいい)になる。
論理的に避け得ない帰結なので、子供の死亡率が同じなら日本でも起きるだろう。というか起きた。出生率と死亡率は、大体どこの社会も「多産多死」から「多産少死」を経て「少産少死」に至る。実際の死亡率が下がってから、社会全体の意識が変わるまでには時間が必要という事だ。日本の場合、明治時代の初期あたりまで多産多死、その後1960年代くらいまでが多産少死で、それ以降は少産少死になっている(日本の場合、多産少死時代の人口ボーナスをいい感じに生産力に転換できたからこその高度成長期、という流れ。識字率って大事なんすねぇ)。温帯とかいうベリーイージー難易度国家生まれなのに100年近く多産少死やってた日本国民が、なんでベリーハード難易度プレイヤーをドヤ顔で批判してんだよ、という話。恥を知れ恥を。
言うまでもなく、一番急速に人口が増加するのは「多産少死」段階の地域。現在で言うと、発展途上国でもまぁマシな方の地域が該当する。本当にやべー国はまだ「多産多死」段階なので人口がそこまで急激に増加はしない。全世界的に、90年代に比べれば急速にマシになってはきている。
進次郎が言ってた「悲観的な1億2千万人より、自信に満ちた6千万人のほうが良い」は政府内でマジで議論されてる内容を口滑らしちゃったんだろう。
要するに(現時点で)経済力や環境や能力その他で「エリート」な人間だけが子供を残すようにして国としては縮小させようという方向なんだろ。
結局のところ、高度成長期〜バブル期で調子に乗って何も考えずに人口増やしすぎちゃったけど日本や日本国民はそれだけの人口を支え続けられるだけの地力が無かったということだろう。
本来の地力に見合った水準に戻る過程で、本来は繁殖できないはずだった低レベルな個体(の遺伝子)も淘汰していくということなんじゃないか。
同性婚合法化について、合法化前は宗教的保守や無知者を中心に反発を受けるけど、合法化した後は、その二者を除いて一般の反発は急速に鎮静化していく。これは一般人の生活にはほぼ何も影響がないということがわかり、目立った変化も感じられないということが明らかになるからで。
前例として先進国を中心に各国で証明されてるこの点においては日本の認識は何週遅れているんだということになる。
ようやくこの地点までたどり着いたねとも思えるけど。
社会のインフラや技術発展に対し、人間の価値観が全く追いついていないということはしばしばあるけれど、日本においてはインターネットやジェンダー、グローバリズムに関しては顕著で、それを縛っているのは曲がりなりにも昭和期の高度成長期~バブルまでの特異な経済発展と平成以降の衰退期の顕著すぎる差があると思う。
単純に「あの頃は経済的にも良い時代だった」「だから当時の価値観や社会制度を維持しよう」「変に変えようとするから不景気だし衰退しているんだ(根拠は特にない)」という単純極まる(男性的な主観の)ノスタルジーに過剰なまでに蝕まれている感。