はてなキーワード: 無手勝流とは
肉は調達が容易で、一点用意するだけで一気にまとまるから。そんな手軽な手段を回避する理由を読み取るには情報が足りないよ。
野菜スープの一言で肉の使用を制限すると解釈しろ、というのはヴィーガンみたいな思想も広まってる時代にはちょっと脇甘くない?
根本的に多種の要素を組み合わせて油と塩があればうまいのが雑多な煮込み料理の本質であるので、手軽にうまくなる要素を事前に排除する縛りプレイをしてうまくないというのは自虐プレイに相当する。他に食べる他人がいれば尚更。
別の増田も指摘入れてるけど
グルタミン酸系の材料ばかりでイノシン他を否定しているのは、料理への知見があって選択的に回避しているのか、無知故にそうなってしまったのか
材料に対して青菜が後出しで出てきた(アクの処理やクセの強さから留意がたくさんある懸案材料を初手に出さない)ので無知だと判断した
根本的に増田に調理への知見が薄くて、上辺のマネをすると更にまずくなる二次災害が予見される
水を入れる(煮る)前に炒めるなども余計な水分排出を補助する塩や適量の油による補助がなければうまいにも時短にも繋がらない
煮るにしても投下する順番やタイミングはアクの処理などに絡むので味覚の発達途上な子供に供するならそれなりに気を配る必要がある(がやってるようには見受けられない)
ダシにしても昆布やきのこ類の戻し汁のような煮る初期から使っていいものと、一番だしなどの最後に合わせる繊細なものでは扱いが違う
という具合で、知見がなく無手勝流にやると余計にまずくなってしまう問題がたくさんある
製菓ほどではないけれど、料理も化学で、ルールがあるのでルールにはずれればそれはうまくない
加工肉や精肉を使えという提案がでるのはこれら繊細な考慮を蹴飛ばしてしまえるくらいに手軽に乱暴にうまいからだ。ウェイパーも塩が相当量練り込まれているし同じ。
手軽にうまくなる要素を排除するなら引き算で計算されたうまさに着地する必要があるんだが
それは知識や技術によって組み立てていく種類のもので、増田は土台の無いところにどんどん乗せる足し算しかしていないのでたどり着けないでいる。
追記に出てきたレシピにしても塩分量やセレクトする材料に傾向があって、上手にまとまるように組まれているので、その設計を理解しないで自分流をやればそれはメシマズって呼ばれる人種に該当する。
これを覚えて帰って欲しい
【1】
まず、私の投稿に対して「こういう規則の押し付けが創作の芽を摘む」というような声が有ったので、以下ではその声に答えたい。
日本では割りと「創作においては『論理』に頼らない『直感』こそが正義である」という信仰が強い。しかし、現実は逆である。きちんとした創作を生み出すためにこそ、創作家には規則や論理が必要なのである。
例を挙げよう。映画業界の話である。欧米をはじめとする諸外国とは異なり、日本には映画に関する専門的な教育・訓練を行うまともな機関が無い。そのため、映画の仕事を志望する人間は、専門的な教育や訓練を受けたくても受けられない。業界全体が、昭和の時代と何も変わらない『徒弟制度』に頼りきりである。業界志望者は、論理的・合理的なノウハウも身に着けられないまま、無駄に年月を重ねる。結果として、まともな監督も脚本家もスタッフも育たない。つまり「まともな作品」を撮れなくなり、現在の日本の実写映画は「まともなビジネス」として成立しなくなった。
映画に役者を供給する演劇業界も、実写映画業界と似たり寄ったりである。大半の劇団は良い演劇をすることよりも、地方自治体を唆して税金に寄生することや、稽古や親睦を名目にして性的関係を結ぶことの方に熱心で、肝心の本業である演技や演出は学芸会レベルのままである。
日本の実写映画業界や演劇業界は、指導の名目でスタッフや役者に灰皿を投げつけたり暴力を振るう類いの人間たちが「名監督」や「名演出家」扱いされている始末である。片や出演する演技者の方も、演技の専門的な訓練を受けていないミュージシャンとかが大役をゲットする。こういう紛い物たちが日本の映画業界や演劇業界に蔓延っているのは「論理的・合理的なノウハウの訓練を行うシステム」が無いからである。論理的な指導ができない人間は、監督や演出家を辞めるべきだし、演技の訓練をしていない人間は、演技の仕事を去るべきである。
それはともかく、漫画や小説の作家を目指す人間は、実写映画業界や演劇業界が手遅れに近い状態になってしまっているのを「他山の石」として、まずは「論理的・合理的なノウハウ」を身に着けるように努めてもらいたい。
そうすれば、日本の実写映画やドラマで頻繁に見かける「よく考えもせずに『何となくそれっぽいから』という理由だけで、悪人たちが悪企みの会議をしている場面で部屋を暗くしてみた」とか「とりあえず竹中直人や佐藤二朗やムロツヨシに滑稽な表情と動きをさせておけば、それでコメディっぽくなるだろう」といった馬鹿な描写を貴方の物語作品の中でしなくて済むだろう。
【2】
次に「セオリーから外れているけどヒットした作品も有る」というような声も寄せられた。これに対しても以下で答えたい。
野村克也がインタビューで言ったことで有名になった「勝ちに『不思議の勝ち』有り。負けに『不思議の負け』無し」という喩えが有る。論理に依らない成功の例は確かに有り得るが、それは謂わば「宝クジが当たる」ようなものである。もしも「宝クジに当たる人間も世の中にはいるのだから、自分はあくせく働くのは止める」と言い出す人間がいたとしたら、その正気を疑うだろう。
物語を書くこと、創作活動をすることは、宝クジを買うように運任せの行為なのか?それは違う。人間の頭脳を使う営みなのである。ならば、創作活動において頭脳を使って論理や規則を活用することの、いったい何が悪いというのか?そんなに頭を使って書くのに抵抗を覚えるならば、いっそコックリさんに頼って自動書記でもしてはどうか?それは冗談だが、仮に偶然に頼るにしても頼り方が有る。
蜘蛛という生き物がいる。その中でもコガネグモやジョロウグモなど、網を張って獲物を捕らえる種類がいる。網に獲物が掛かるか否かは偶然である。しかし、網を張らねば偶然を捕らえることはできない。創作活動において論理や規則を活用することは、謂わばクモが網を貼るようなものなのだと理解してもらいたい。
【3】
「とりあえず最後まで書くのが重要」という声には強く同意する。物語作家の志望者は、まずは作品を一本書き上げてもらいたい。しかし、そのためにこそ、論理や規則は有効なのである。登場人物に生命の息吹を与えて、物語を完走させる上で、論理や規則を活用することは、手助けにこそなれど決して枷にはならない。むしろ始めにきちんと考えないままで何となく執筆に着手してしまい、結果として執筆の途中でガス欠になって未完成で投げ出す人の方が、物語作家の志望者には圧倒的に多いのである。それを避けて最後まで書き切るためにこそ、論理や規則を活用して欲しい。
【4】
「文章力や画力があれば、何も起きない平凡な日常生活の描写でも読者を惹きつけられる」というのは、嘘ではないが、しかし本当でもない。それだけの力を持つような文章力や画力というのは「何を書く・描くべきか」を把握していなければ、物語作家志望者も身につけようが無い。そして、何を書く・描くべきかを把握するには、やはり論理と規則に則った思考が必要なのである。また、何も起きない平凡な日常生活は、無手勝流で簡単に書ける・描けるものではない。観察力もまた出発点は論理と規則である。
今私が非常に面白がっている人物で宇野常寛さんという人がいます。
この人はネット上でサブカルチャーへの評論を展開し、その文章を買われて(?)ライターとしての活動を開始、現在はSFマガジンという雑誌で評論「ゼロ年代の想像力」を連載しており、オタク評論の新たな地平を切り開いた巨人・東浩紀と敵対したり、一緒に酒を飲んだりしています。
要は上の世代にもある程度期待されている新進気鋭の評論家さんです。
その主張は苛烈で痛快です。「評論の世界は十年遅れている」と言い放ち、その十年を取り戻す作業が自分の仕事だと宣言しています。上の世代の評論家はすべて「現状認識できていないノスタルジー中年でもはや害悪」、萌えに耽溺するオタクは「『酸っぱい葡萄』状態のどうしようもない奴ら」と無手勝流の撫で斬りで片っ端から斬り捨てます。
この人の活動の遍歴をまとめてみると面白いのでは? と思いこの記事を書いてみました。
北海道にて全寮制の男子校に入る。ここでの経験がその後の宇野さんの方向性を決定付けます。元々オタク率が高い田舎の進学校、加えて異性がまったくいない寮生活という住環境……。それは寮生の九割がキモオタという地獄絵図。ここで宇野さんは大嫌いなファンタジー小説を新刊が出るたびにむりやり読ませられて感想を聞かれる、などの地獄のような責め苦を受け続けます。富野信者でサブカル系の宇野さんには美少女がビキニアーマーを着て大冒険をするような話は耐えられなかったのです。
なぜ宇野常寛があれほどまでに萌えオタを敵視するのか? それはこの寮生活でのトラウマがすべての原因なんです。宇野さんが萌えオタを攻撃するのはこの頃の復讐なのです。
寮生の半分は卒業後に「引きこもりのギャルゲーマー」になったそうですから相当屈折した人たちが集まっていたことが覗えしれます。そして、「恋愛したくてもできないからギャルゲーに逃げるオタク」をいっぱい見た宇野さんは「性愛コンプレックス」にこだわるようになります。
同じ嗜好性を持つ人間がまったくおらず、一人で古本屋に行き「アニメック」のバックナンバーを買い集めていた宇野さん……。この時に趣味を共有できる仲間に出会えていればその後の人生は大きく変わったでしょう……。
この辺の話は旧惑星開発委員会のコンテンツ「善良な市民のオタク黒歴史」というエッセイに詳しいです。
高校を卒業し、宇野さんは寮生活から解放されて浪人生活に入ります。ここでどんな風に過ごしてたのかはあまり語られませんがPLANETS第四号によると「楽しすぎてさらに浪人した」と書いてありますので、キモオタ軍団から解き放たれたのがよっぽど嬉しかったのか勉強せずに遊んでいたようです。
しかし、そこはやはり浪人生。二年間もの浪人生活でキャンパスライフへの憧れはどんどん膨れ上がっていきます。未だに「大学生活」や「サークル」に拘るのはここに起因があるとみて間違いないでしょう。
ところで思春期を男子校で過ごし、その後二年間浪人……ってことは宇野さん、ヤラハタですか?
そして、立命館大学に入学し関西に移住。大学に入った宇野さんはサークルの自己紹介名簿を見るのが趣味となり、サークル内での「立ち位置」や「キャラ設定」について考察するようになります。おそらくは自慢のコミュニケーションスキルを生かしてサークル貴族となり、カーストの下位にいる人間(宇野さんによると「毎日辛いけどサークル抜けると友達がいなくなるから抜けられない人間」)を苛め抜いていたんじゃないでしょうか。
そして在学中、おそらく三年生か四年生の頃に「善良な市民」というハンドルネームで2002年1月に「惑星開発委員会」というウェブサイトを開設します。それまでのテキストサイト(単なる日常を痛々しいほどの過剰な修飾で必死に面白話に仕立て上げようとするサイト)に違和感を持っていた宇野さんは一人ではなく友人を誘って複数人で運営。
主なコンテンツはアニメ・漫画作品を複数人でレビューする「クロスレビュー」、90年代のサブカル文化人や事件を考察を加えて紹介する「惑星開発大辞典」、宇野さんが出会った痛いオタクを面白おかしく描くエッセイ「善良な市民のオタク黒歴史」などです。
複数人で運営していること、宇野さんの広範なサブカルチャーへの知識、ひたすら萌えオタを攻撃する芸風、まったく洗練されてないごちゃごちゃしたサイトデザインなどで話題になります。
特に萌えオタへの強烈な煽りは当時のオタクたちを刺激し、某掲示板でスレッドが立ち「萌えオタは現実逃避してるのか?」と論争が巻き起こるほどでした(当の宇野さんは萌えオタ批判は「過剰な方が面白いからエンターテイメントでやってる」と掲示板でネタバラシしていました)。
しかし、おそらくは就職でメンバーのプライベートが忙しくなり、クロスレビューを更新することが難しくなります。また、萌えオタ批判がマンネリ化し、一本調子になってしまい、読者にも飽きられ始めてしまいました。そうして宇野さんは更新への意欲を失っていき、更新を止めてしまいます。活動停止、実質の閉鎖です。最終更新は2003年4月になっています。
続き
ひろゆきがアグネスdisのために日本ユニセフ協会についていやらしい書き方をしてるんだけど。
http://hiro.asks.jp/90907.html
「今一番大事なのは、子供達の為に私たちもできることを考える事です。」
と仰られていますが、アグネスさんが募金先にあげている日本ユニセフ協会は、2012年度、募金の81%しか、ユニセフ本部に送っていません。
一方、ユニセフ親善大使をされている黒柳徹子さんは、募金の100%をユニセフ本部に送っているそうです。
黒柳徹子は個人口座を2つ公開してて、そこに入金された寄付金をそのままユニセフ協会本部に拠出してるのに、日本ユニセフ協会は81%しか拠出してない。子供のためを思えば徹子に寄付するべきだ、という論法なんだけど。ようするに「金抜きすぎ」というほのめかしだ(実際、秒刊SUNDAYはひろゆきのこのエントリを「日本ユニセフピンハネ疑惑」と要約してる)。
しかし「81%を上部団体に拠出し、19%を自前の運営・活動に割いている」という経営実態は、日本ユニセフ協会のやってる活動内容を見るかぎり、相当のパフォーマンスだ。実際、ユニセフへの拠出額 | 日本ユニセフ協会を確認すれば:
がわかる。そして、日本ユニセフ協会のこの誇らしい宣言を見よ。
2012年度、当協会は、みなさまからお預かりした開発途上国の子どもたちを支援するためのユニセフ募金(161億1,252万円)の81%にあたる130億円(下記計算書の※15)を、ユニセフ本部に拠出することができました。これは、世界36の先進国・地域においてユニセフを代表するユニセフ協会(国内委員会)の中で、最高額となっています。また、81%という拠出率も極めて高いレベルを維持しています。
日本ユニセフ協会の国内活動費に使われるのは癪だから黒柳徹子氏に寄付するほうがいいのだ、という考え方もあるかもしれないし、それが一律に間違ってるとは思わない。しかし、黒柳徹子氏のWebを見る感じでは、年間の寄付額はおそらく1億には満たないだろう。そして個人口座では、130億円/年の寄付金の出納をマネージすることは不可能だ。また、善意で無償奉仕を行う個人ボランティアを引き合いに出して日本ユニセフでの19%の資金利用が「ピンハネ」「中抜き」だと叩くのは、ボランティア活動やNPO活動全体にとって、非常に悪い結果を招く。つまり:
からだ。
「100%持ち出しの金持ちをお手本にすべき」「ボランティア実務に関わる人はタダで働くべき」というイメージの流布は、こうした活動の継続性を著しく悪化させる。ボランティア系団体を無償または低コストな善意だけで廻そうとすると必ずどこかで破綻する。ちゃんと優秀なマネージャーと専従スタッフがいて、業務知識と経営資産を継承できる体制がないと、萌芽組織が生まれてはまた壊れ、そのたびに尽力した善意の関係者たちは疲弊してその世界から離脱していく。
だから海外のNGO/NPOはしっかり給料出して堅固な組織を作り、行政とも強いパイプを築いて、運動の継続性を担保する。啓発のためにはTVCMも含めて広告宣伝だってバンバン使うし、効率的な事業運営のためには報酬積んで一般企業から敏腕マネジメント招いたりもするし、運動に貢献するなら物販の収益事業だってやる。というか、強い使命感と継続の意志があるなら、早晩そういう運営に移行してくのが当然の流れなのだ。oxfamとか(RED)とか。で、日本ユニセフ協会は、古典的ながら、比較的これに近い路線で確固とした組織形成をやってきたのがうかがえる。
でも、日本でそれをやると、なぜか叩かれる要因になる。「慈善活動にはコスト概念を持ち込んではいけない」「善意の運動は無償で担われるべき」という愚かしい思い込みが広く浸透しているからだ(個人的には、これは日本財団系の「誰が金を出したかが明瞭でない公営ギャンブルの収益の一部が、社会的エクスキューズのためにドカドカ慈善活動に突っ込まれる」という様式に我々が慣らされすぎた、というのもあるだろうと思っている)。これが、慈善的な社会運動へ参加してみよう、とか、組織してみよう、という行動へのハードルをどんどん引き上げていくことは言うまでもない。そんな理由で草の根における再分配の仕組みが活性化されないのは、社会全体にとっても大きな損失なのだ。
ひろゆきのこのあてこすりが、一応は「叩き」として機能してしまう理由もここにある。ひろゆきは世間の常識にとらわれない無手勝流のように言われるけど、この件に関してはもうズブズブに因習的で俗論にまみれた偏狭な日本人だということ。
てか、長々書いてはみたけどさあ、冒頭のエントリ読めばはっきりわかるよね、ひろゆきが子供の福祉にも日本ユニセフの活動実態にも全く興味がないってことが。アグネス叩きたい一心で持ち出してきただけの話で、しかもそのロジックが粗雑きわまりない。「マクドのポテトは原価率が〜!」って得意げに吹聴する高校生とどこが違うのこれって感じ。そもそもブコメで複数の人が書いてるように、裁判に負けても借金踏み倒し続けたり納税を回避してる奴が、こんなときだけ子供の人権の代弁するようなフリして他人様の金の使い道にあれこれ口出すのがおこがましいわ。
今まで見たホラー映画の中で一番怖かったのは中学生の頃、深夜に見たアレだ。
もうタイトルすら思い出せないけれど、気の弱そうな美形の男を
年増の女たちが狙ってわれ先にとモーションをかけていくという内容。
色目を使って身体を摺り寄せてくるババアはどんなモンスターよりも破壊的だった。
まだ恋愛を知らない中学生の俺は、漠然と「モテたいなぁ」って思っていたんだけど、
自分の好みじゃない女にモテるのはこれほど怖いのかと戦慄し、ずっきりと脳に傷痕を残した。
俺は最近、名前も思い出せないこの映画のフラッシュバックに苦しんでいる。
奴は狡猾で巧妙で、決して「好き」とはストレートに言ってこない。それゆえ「嫌い」と言い放つこともできない。
毎日のように送られてくる奴からの恐怖新聞。手を変え品を変え、俺を魔界へと引きずり出そうと画策している。
奴の中ではクリスマスは俺と過ごすことになっているらしい。キリストなんて生まれてこなければ良かった。
俺の落ち度を正直に吐露すると、はっきりと「NO」といえないことだ。
思えば初めて会ったその時に無手勝流の撫で斬りで一刀両断してやればよかった。
だって「NO」って言ったらあいつショック受けるじゃん。下手したら泣くじゃん。気持ち悪ぃ。