はてなキーワード: 浜松市とは
■五十嵐えり
中学時代にいじめに遭う→中卒で4tトラック運転手、牛乳配達、クリーニング配達など様々な職業を経験。
24歳で高卒認定→働きながら静岡大学夜間卒→名古屋大学院卒→30歳で司法試験合格→弁護士
■佐藤こと
静岡県立浜松北高校→ダブリン大学トリニティカレッジ心理学部へ進学。
卒業後、広告代理店にて5年間営業職。障害者雇用支援事業を展開するソーシャルベンチャー「株式会社ゼネラルパートナーズ」入社し、広報室長。選挙のため求職中。
一児の母。ADHDグレーゾーン。パリテアカデミー出身でフェミニストを自称。
夫は高卒で、北区の工場で三交代勤務。マンションの頭金を選挙につぎ込んだとのこと。
■広瀬まき
京都大学経済学部卒業→三菱UFJ銀行にて約12年勤務(営業・企画業務)→アクセンチュア(外資系コンサルティング会社)を経て、独立
「ドラクエ5の花嫁は、ビアンカ以外を選んだことがなくて。フローラ選ぶとイオナズン使えるからその方がいいという人もいるけど、幼馴染を裏切るのは保守の政治家として許せない。」
■池辺愛
「ヌーブラヤッホー」のギャグでブレイク?した元モエヤン(解散)。
大阪府豊中市出身→大阪教育大学附属池田小学校→同池田中学校、同高等学校池田校舎卒業→慶應義塾大学文学部
2度の流産、乳がんを経験し、現在4歳の娘と10ヶ月の息子の母。
■山名 かなこ(生年月日記載拒否、れいわ新選組、新人、杉並区)
同志社大卒。
すべての「生きづらさ」を感じる女性が、自分たちの権利を主張できるコミュニティを目指すNPO法人“The F-Word”の代表。
「選挙に出られる25歳以上ではあります。履歴書や経歴書に、性別、年齢だったり、写真を載せることによって、その人自身というよりも、うわべと申しますか、そういうもので(社会に)判断されることに疑問を感じます。経歴には生年月日を書かない選択をしました」
報道局記者を4年、その後社会部、外報部、政治部にて取材や中継を経験。
トレンダーズ株式会社にてPRコンサルタントを勤めた後、夫の海外留学・勤務のため離職し、シンガポールにて子育て。
帰国後、「株式会社みんなのウェディング」広報や、女性のキャリアを支援する「株式会社LiB」法人営業。
2児の母。
https://www.city.hamamatsu-szo.ed.jp/kawawa-e/2news/izimeanke-to.pdf
この調査でも中1を境に男女差が逆転してるんだよな。
子供の頃に母が勤め先の同僚女性から「宗教じゃないから!研修施設だから!」と誘われて連れて行かれた、明らかに宗教の気配のする施設
印象的だったのだけど団体名が全く思い出せない
誰か知りませんか?
・1995年頃
・玄関を上がって左手に進むと寺のような広い和室で大人が集められる
・子供用の小部屋では親が研修を受けている間子供達に次から次へとお菓子やジュースが運ばれ、おもちゃもビデオもゲームも漫画もある
・出てきたお菓子を食べ過ぎて腹を壊した
・しばらく経って親の研修が終わると子供達も広い和室に呼ばれる
・口から出るとまた人間に生まれ変わって再び苦しい人生を送らなければならない
・魂が眉間から出れば生まれ変わらずにずっと苦しみもなく天国で暮らすことができる
・私は母や母の同僚が人生を苦しみと捉え、二度と経験したくないと思っているように感じて悲しくなった
・私は死んでもまた人間に生まれ変わりたいから眉間に穴を開けて欲しくないと泣いた
知ってどうこうするわけではなく興味本位です
[B! 行政] WEB特集 壊れたら もう直せない… | NHKニュース
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20201201/k10012739501000.html
近代、地元のお金持ちの篤志家が私財を出してインフラを整えたという話はよく聞くけど、現代のお金持ちが私財を出してインフラを整えたというエピソードってどのくらいあるんだろう?
私がぱっと思いつくのは、静岡県の一条工務店が100億円寄付して遠州灘に巨大防潮堤を作ったこと。
ところで鰻といえば浜松市だ。生産量は他の自治体には及ばないが、一人あたりの蒲焼き購入額は長年全国1位を維持してきた。一昨年までは。
去年は1位陥落した、どころか一気に16位にまで転落してしまった。
「うなぎの街アピールしてきたのに16位www」と馬鹿にする人も多いだろう。
だが待ってほしい。16位に転落してしまったのも市民の鰻愛故なのだ。
浜松市民は基本的に浜名湖産鰻しか買わないし食べないのだ。外国産など以ての外。近年、浜名湖産うなぎは地元でも年々価格が高騰しているから浜松市民には以前のようには買えなくなってしまってるのだ。
※本人より聞いたまま書いたため何処まで正確な事柄なのか不明。
(祖父、当時83歳)
映画は昭和14年の10月ごろから観はじめた。当時14歳で静岡県浜松市の卸問屋で丁稚として働き、主にそこの配達仕事をしていた。その仕事にある程度の余裕ができてきたので、暇なときに映画を観に行けるようになった。映画館で映画を観たのは海兵に志願する前の18歳頃までだった。行っていた映画館は何軒かあって、機場町か塩町にあった「浜松アズマ座」、連尺町の「松竹館」、「浜宝映画」に主によく行っていた。その中でもアメリカの映画などの洋画は、「浜松アズマ座」でのみ見ることができた。映画会社の協定か何かで決まっていたらしいね。映画館には、フィルムの新しい、最新映画を見せる封切り館と、何ヶ月かまたは何年か前の映画を見せるところと二種類あったが、「アズマ座」は封切り館ではなかったので、たまにエノケン(榎本健一)の、まげもの(コメディー映画らしいです)を最新作として上映していたほかは、何ヶ月か、または何年か前の古い映画の、特に洋画を流していたよ。当時映画は2本立てが普通で、それに加えて短いニュース映画がついていた。(ニュース映画は、戦時中だったためかなりプロパガンダ色のつよい内容だったようです。)邦画は邦画と邦画の2本だったけど、洋画を見るときは邦画と洋画一本ずつがセットでの2本立てだった。洋画の方が邦画に比べて長かったからじゃないかな、だいたい洋画が1時間半くらいで、それに短めの邦画が一緒にやっていた。
洋画を見に来ていたのは、若者が多かった。英語を習っている学生なんかも多かったよ、映画は字幕だったから。自分も観ているうちに「カモーン」などといくらか覚えた。昭和12年頃はトーキー(声が入っている映画)と無声映画に弁師がいたのと半々だったけど、自分が映画を見はじめた頃にはもう大体今みたいな映画だった。あと、洋画は、高校生以下は保護者同伴でないと観に入ってはいけないという決まりがあった。自分は学校に行ってなかったから関係なく観ていたけども。
――どんな映画を観た?
初めて観たのは「ターザン」。20世紀フォックスだったかの、ハリウッドものの映画だったよ。主演のターザン役が何回も変わっていて、ターザンのシリーズは4本くらい観たことがある。バスター・クラブがやっていたのは覚えている。(バスター・クラブが主演を演じたのは「蛮勇タルザン」(1933) Tarzan the Fearless )ターザン役をやっていた奴は皆、オリンピックとかでメダルを取った選手だったみたいだよ。でも、「ターザン」を観た、と言ったら「そんなもの観るなんてガキだ」と奉公先の年上の人たちに馬鹿にされた。その次に覚えているのは、「ジェロニモ」。昭和15年に観た。タイロンパウアーが出ていた。(タイロン・パワーのことだと思います。しかしタイロン・パワーは「ジェロニモ」に出ていないようなので人違いでしょう。)アメリカのマフィアやなんかのギャング映画はあんまり受けてなかったなぁ。よくわからなかった。見た中で一番印象に残っているのは「再会」(1944制作。原題TOGETHER AGAIN。日本公開は1947年。このため、祖父が実際にこの映画を観たのは戦後であるのかもしれない。) シャルル・ボアイと、女の方がアイリン・ダンがやっていた。記憶喪失した女性が何年かして再び記憶を取り戻す話だった。
――その後は観る機会はなかったのですか?
19歳から兵隊として海軍へ行っていたので観られなかった。横須賀の竹山海兵団に3か月、そこで試験の成績がよかったので、飛行機整備学校へいって飛行機の整備についての勉強をしたよ。戦争も終わりの方だったから、整備学校では4か月ですべての事を勉強させられた。そして海軍で整備士として働いていたのだけど、そこで娯楽として洋画が観られた。教育期間中や、新兵にはみせなかった。「進め竜騎兵」(1936年制作)「ドナウ川のさざなみ」(詳細不明)「青きドナウ」(1963年公開のためこれも記憶違いか?)などを観た。あまり色んな種類がなかったらしく、同じ映画を何度も観せられた。
――なんで軍隊の中で観ることができたの?
敵の情報を知るため、というのが名目だった。でも、軍でみているということは他言してはいけないといわれていた。アメリカの映画を娯楽として観ることができたのは海軍だけだったみたいだ。映画のフィルムは、映画館から取り上げたものを上映していたらしい。映画を見るときは夕食を30分早くやって6時以降に観た。右舷、左舷と二つのグループに分かれていて、交替で観ていた。その頃は就寝が8時、飛行機の整備のためにパイロットの連中よりも1時間早く朝2時に起こされ飛行機の整備をしていた。
――戦争が終わった後は観に行った?
戦争が終わった後は、映画なんて見ている余裕がなかった。戦後すぐは警察官になっていたので、仕事の見回りで映画館にも観に行ったことはあった。でも昔ほどは興味がなくなり、外でたばこを吸ったりしている時間が多かった。
あるエリアが、「クルマが無くても生活できる」か、「クルマがないと生活ムリなのか」
人口密度とか、人口集中地区とかの指標はあるが、平成合併で水ぶくれした行政区で計算しても、あまりアテにならない。
で気付いたのだが、「タイムズカーシェアのステーションが出店してるか、否か」が、そのエリアの公共交通機関の発展度
、そして「都会か、田舎か」の度合と、多分に相関してるのだ。
首都圏で確認してみると、概ね16号以内にステーション多数エリアがあることが可視化されてるし、鉄道沿いにステーション密集エリアがあることが可視化されてる
地方都市でもステーションの多い都市、少ない都市があって、ステーション少ない都市は、やはりスプロールの都市。
過密な那覇市は70ステーションあるのに、スプロール都市の浜松市は10しかステーションが無かったりする。
名古屋市と福岡市でステーション数は大差ない。つまり公共交通の発展度は名古屋市は福岡市程度でしかなく、大阪市とは段違いであることが判る
横浜市は日本第二の人口だが、ステーション数では大阪市の半分でしかなく、都市公共交通の利便性では「大阪市の半分」であり、「実質的には、日本第二の都市は大阪市である」ことが可視化される
東日本の県庁所在都市と西日本の県庁所在都市を比較すると、相対的に西日本の方がステーションか多い、つまり「西日本の県庁所在都市の方が、クルマ無しでも住みやすい」ことが可視化される
地方都市に移住する際に、「タイムズカーシェアが、それなりに存在してるところ」という基準で街選びしたら、交通難民にならないし、そういうエリアは住民マインドも都市的だから、「田舎の人間関係が大変。地方移住するんじゃなかった」という不幸も防げるんじゃないか?