はてなキーワード: 動物園とは
JRの撮り鉄対策に対してぶつくさ言ったオタのつぶやきが話題だ。
他の件と合わせて撮り鉄は自浄作用がないと叩く意見が多い。多いというか殆どそれしか見当たらない。
しかし、中心となる組織があるわけでもないオタク文化においての自浄作用とはなんだろう。
ところで人気アニメけものフレンズのコスプレをして動物園に行ったオタの話題を覚えているだろうか
あの時コスプレオタの間から公共の場にコスプレしていくのはマナー違反だろという声が出た時、ネットの反応はどうだっただろうか。
ムラ社会、勝手なルールを押し付けるななどの意見が大半だったと思う。
実際動物園側はオーケーとのことだったので何の問題もない行為だったが、この時のコスプレオタの反応こそが自浄作用というものではないだろうか。
結局のところ個人の総体であるオタ文化のについては、あらゆる人格、あらゆる状況、あらゆる行為が想定されるわけで、
それらの中で迷惑な問題を起こす人間を排除するということは不可能である。
であるなら必ずしも問題とはいえなくても問題に繋がる可能性がある人格、状況、行為を全てタブーとし、
それを破ったものを批判する形でしか問題を予防する方法はない。
だというのに自浄作用を発揮しても発揮しなくても叩かれるということには、
世間が如何にオタクのことなどどうでもよいかと言うのを実感せざるを得ない。
所詮他人である彼らには、オタク文化が滅びようがどうしようが関係のないことなのである。
しかし、彼らの言う所のムラ社会的なタブーを持つコスプレオタクの方が撮り鉄より高いマナー意識を有しているのは明らかであり、
最近知り合った人のことを、段々好きになってきている。
本当に良い人で、私なんかにはもったいない人だ。
具体的には、気遣いがすごく出来る、口下手な私の話も笑って聞いてくれる、私のためにちょっと頑張っていいところ見せてくれる、頭の回転が早くて面白い、料理がうまい。
私はなんの取り柄もなくって、迷惑かけてばかりだから、いつか飽きられるんじゃないかとか不安になってしまうけど、
そうならないように努力すればいいだけだよね。
彼に好きで居続けてもらうために、私には何が出来るだろう。
まずはおしゃれかな、服を買おう。
ジムに行って、体を絞る。
あと、髪を切ろう。
化粧も頑張って上手に出来るようになりたい。
ネイルもしようかな。
脱毛もしようかな。
今度一緒に動物園に行くことになった。
わかる。
俺が大洗に行ったのはガルパン以後だったが、ガルパンなんかなくても十分魅力的な街じゃんと思った。
原初の大洗が賞味したくても、今は「ガルパンの大洗」でしかないんだよな。神社の拝殿の横のガルパン看板とかゲェっと思った。痛絵馬とかならともかく…。
本来はありのままを賞味すべきだろう。ゲートウェイとしてアニメや萌えキャラがあるのはいいが、そのものに侵食するのは違うだろう。
「ガルパンの大洗」としてはアピールできても「大洗」そのものはアピールできたかどうか、そこが本来問われる。まあ大洗の場合はガルパンから独り立ちしつつあると思うが。もともと魅力のある街なんだし。
新卒入社した会社の研修で、新卒だけで議論をしてプレゼンをするという課題が出た。
なぜか今年は高学歴が集まっていて、東大京大をはじめ筑波など、マーチという動物園卒の自分では中々お目にかかれない学歴を眺めることができた。
3. 非常に楽観的な目標を立てる
1. リソース突っ込みたがるに関しては、新卒に求められている成果に対して、膨大な時間をかける。
他にもタスクを受け持っていて、数あるタスクの一つであり、うまくやったところで給料も上がらないし、会社の利益にもならない課題に対して、10時間以上時間外労働をしている。(そして、それを僕にも強要させようとしてくる)
最小限のリソースで求められる最低限の成果を出すことを良しとする僕には、全く理解できない話だ。
なぜそこまで時間をかけるのか聞いたところ、課題に対して上司に批判されるのが嫌だったり、最高の成果を出したいそうだ。
僕なんかは、批判されたら、その後に考えて修正した方が効率がいいと思うのだ。YAGNI
3.そんで、時間をかけて出てきた答えは、実現不可能なほど、希望的観測に満ちたものだった。
彼らの高い能力を持ってすればうまくやれるのか、それとも単に成功体験を積めば高い目標も達成できるのか。凡人には謎である。
2. 成功体験しか積んでこなかったので、失敗することはありえない。(能力的にも)
3. 一流企業じゃないウチに入るのは、そもそもハズレ
過去に出会った東大や京大の人はもっと有能(コストに対してリターンが大きい)だったので、3である可能性が高そうなんだけど、一流大卒の多いはてなーの皆さんはどう思う?
見た目に騙されがちなので、まずCGという要素を取り除いて考えてみたい
するとこのアニメの要素は
・世界の謎
・ほのぼの
・ゆるい笑い
・ゆるいバトル
あたりだ
無い要素としては
・恋愛要素
・流血レベルの戦い
・技名が出てくるようなバトル
・年齢の概念(先輩、後輩)
などなど
簡単に言えば、これらの「無い要素」は中高生向けに作る際によく盛り込む要素で
それを一切排除した、「非中高生向け」に振り切った作品が盛り上がるというのは、今のアニメ視聴者層(世相)を反映していると思う
最近は、中高生向けなんだけど、メイン視聴者が20代以上というよくわからん状況になっていて
舞台や要素は中高生向けなんだけど、ターゲットは大人みたいな「股裂き現象」が起きていたのではないかと思う
おっさんは中高生に戻ったつもりで作品を楽しむ必要があり、海外からは「何で日本のアニメは皆17才なの?」なんて言われる始末
中高生要素を排除したのが「けものフレンズ」という風にカテゴライズはできるのではと思う
もう一点
今は個別主義の時代に入ってしまっていて、共通概念が学校程度しかないのではないかと思う
共通概念が無いと、作品が作りづらいし共感も得にくい、それで仕方なく学校・あるいは学校的な作品が多くなる
翻ってけものフレンズを見てみると
テーマにしているのは「人間」「友情」「動物」「気候」など、視聴者層の共通概念を限界まで絞り込んだ物となっている
驚くのが、「年齢」「性差」「家族関係」「個体の大きさ」などもほとんど排除しているところだ
排除しきった上で、作中では余った差(例えば「得手不得手」)さえ積極的に許容するストーリーになっている
それらのおかげで、例えば視聴者の家族関係がどうであれ、共通概念を作りやすい構成になっており
話そのものに集中できるようになっている
もちろん、こういう作りは一般向けを目指す際によく使われる手法であり
こういった分析をすると、今後のアニメで起こりそうな流れとしてありそうなのが
・キャラが男のみ、女のみ、あるいは性が無いような作品が更に増える(中高生向け要素を排除しやすいという理由で)
があると思う。
以上です。
(http://anond.hatelabo.jp/20170324153831)
という増田を見て
あーなんかわかるなーと思ってしまった
「男慣れしていない」ような描写で
「今まで異性との肉体関係は愚か交際経験すらない」という絶世の美少女がたくさんいる
俺はそんなキャラにどうしても納得できなかった
世の中の男どもは皆ヤることばかり考えてるし
そんな中いい年した絶世の美少女が処女(男慣れしていない)なんてことがあるだろうか
多少の性格の問題なんてたいていの男からすれば「やってから考える」程度の問題でしかない
常に「私はエイズです」と看板持ち歩いてるレベルじゃないとありえない(それでも美少女ならセックス相手には困らないかもしれない)
例えば戦場で20年生まれ育ったにも関わらず人を殺したとも殺されかけたこともなければ
というキャラがいたら
「いやいや、んな都合のいいことあるわけねーだろ」
と思うかと思う
そんな感じだ
美少女たちが処女という現実味のなさからくる不気味さに耐えれないという矛盾を抱えていた
これはおそらく俺の美少女に対する想いが強すぎたせいだろう
美少女への想いの強さの余り
アニメの美少女たちを「工業製品」的な目で見れるようになった今では
こんな葛藤は感じなくなった(まったくゼロになったわけじゃないが)
美少女に対する思い入れが強すぎて生じたものじゃないのだろうかと思う
余談だが
そんな当時の俺が好きだったキャラは
このキャラクターがすげえブスでも変わらず可愛く思えるだろうなあというキャラを好んだ
それも美少女同士がキャッキャするより
歳を追うごとに、
早く寝ても直らないわ。
病院の薬が一発で効くのよね、やっぱり。
でもね、
総合病院がなくなるって思わないじゃない。
あの跡地はなにができるのかしら?
病院って新しいところ見付けるの面倒くさいのよね、
美容院みたいに。
まったく困ってしまうわ。
ま、そんなわけでどっかで点滴でも打ってくるわ。
って、思ったけど点滴ってあれ成分なんなのかしらね?
それぞれの症状にあわせて処方してくれるのかしら?
点滴バーみたいなのがあれば、
玉子って元気が出るからいいじゃないって思ったけど
元気が出るためには、
うふふ。
炭酸があったので、
それでスッキリと。
こういうときこそ
ビタミンCと水分はしっかり摂ってね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
社会に適正があると思い込んで育ってきた。
今にして思うと、小学生のころから、周りに馴染めていなかった。呼ばれもしない誕生日会に行っては、嫌な顔をされてきた。周りが気を遣って出迎えてくれたことにも気付かず、与えられるがままに、その優しさを享受してきた。
はじめて社会性に疑問を持ったのは、高校の頃だった。中学の頃まで与えられるばかりであった私は、与えること、持ち寄ることを知らなかった。ただただ与えられることを待っている私には、当然さしたる友達もできず、ただ毎日を一人で過ごした。
中学の頃の友達とはまだ仲がいいつもりで居たが、高校生活を自虐しては苦笑いされる、そんな関係でしかなかった。その頃は、そんな会話が仲の良さの証であると、思い込んでいた。
大学では、変わろうと思った。社会性を獲得しようと、社会に馴染もうと思った。しかし、得られたものは社会性ではなかった。
餌を与えられて育ってきた珍獣は、狩りの方法を知らなかった。餌が欲しいと思う珍獣にできることは、できる限り自分の様を人の目にとめてもらうことだけだった。社会性の変わりに得られたものは、奇異性だった。
幸か不幸か、インターネット動物園にはありとあらゆる珍獣がいた。ある珍獣は、ある珍獣を見て、自分はまだまともだと、魅力的な人間であると、勘違いをした。
ただただ与えられるままに、みずから変化を与えることなく暮らしてきた私には、現状に不満があってもそれを受け入れることしかできない。
不満をため込み続け、周りには迷惑をかけ続け、いつか破滅する未来を待つことしかできないのだ。希望をつかむための努力も怠る私には、希望なんて与えられることはないのだろう。