はてなキーワード: 動物園とは
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動物園の動物は、野生の動物より、はるかに食糧、衛生状態の面でめぐまれているにもかわらず、寿命は圧倒的に短い。
たとえば野生のアフリカ象の寿命は56歳ですが、動物園のそれは17歳。
動物園の動物には、過剰な毛づくろいや、意味もない往復運動などの神経症状をみせる動物が多いのです。
その理由は、野生のときのような、「選択」ができないからだ、ということが明らかにされます。
英国の20歳から64歳の公務員男性1万人を追跡調査して、さまざまな職業階層と健康状態の比較を行うというものがありました。
その結果は、「モーレツ上司が、心臓発作をおこして40代でぽっくりいく」という予想と真逆の結果が出ていたのです。
これらは、職業階層の高さと仕事に対する自己決定権の度合いが直接相関していたことに理由がありました。
おまけに乳幼児と出掛ける際の荷物は多く、両手を自由にするためにベビーカーに積んでたりするとたたむことも出来ない。
それバギー。バギーとベビーカーは違う。乳幼児はバギーに乗せられない。
ベビーカーは小型軽量化するとサスペンションが貧弱になったりタイヤが薄くなるって事なんだ。
そうなるとガタついて寝ている子供が泣き出したり、最悪転倒の危険も出てくる。
そもそも軽が人気なのは小さいからじゃなく燃費が良いのと税金が安いからであって、むしろ天井を高くして大型化の傾向だろ。
だから自分は「人口過密地帯でバスや電車を利用せざるを得ないような子育てをしなきゃいけない時点で詰んでる。タクシー使え」派だ。
あ、ベビーカーに乗ってたのが明らかに自分で歩けるぐらいでかい子供だったらそいつがおかしいか、見た目分からない障害を抱えてるかだな。
過去の反映とリフレクションやら侵入的想起とよいとまけやらを表すのは労苦でこのくらいのことは歌唱に継起を感じたところで磨り減る度に変質するどうしようもなさでしょうがないに慰められたことも頑張れに芯が通ることも現在に沈潜し鬼籍2017
家族の集合写真は数多くのタイトルで単位をどうせ忘れてしまうピー地区パー地区シリア2017
こぼれる中身のこぼれるながめよ、外傷虚血が私なのです、と嘘もいってられない2017
見せなければよかった見せなければこんなことにはならなかった2009、2011~2017、
確かにそのとおりでおたがいさまにしかならない反省と発展系の罪と系統だてない罠と馬鹿でしかなかった自分と鹿の死2012と動物園の青い鳥の死が2017
今までと比べてかなりつまらなかった。
けものフレンズ8話がつまらない、ということもまたけものフレンズという物語を紐解く上で重要な意味を持っているからである。
OPを歌っているアイドル声優グループが演じるPPPというフレンズアイドルユニットが主役となっているという事からは明らかな大人の事情が伺える。
物語の中においても、ヒトがいなくなり文明的な要素の多くが失われた世界でアイドルを行っているPPPは異彩を放っている。
そもそもフレンズがアイドルユニットを組んでいるという状態はジャパリパークがまだアミューズメントとして機能していた時代に置いても特別な存在であった事は想像に難くない。
動物が観客に見せるために芸を磨くという行為は現実の動物園では一般的な行為となっているが、それは動物の本来の姿ではない。
動物園が営業していく為に動物に行わせている本来の生態から外れた行為である。
PPPはいわばヒトが持つ商業主義、拝金主義的な側面の化身としてジャパリパークに存在している。
けものフレンズはここまでそれぞれのフレンズの自然な姿を描いてきた。
フレンズ達がそれぞれの日常を自然にのびのびと暮らす世界をカバンちゃんが旅する話である。
確かにアルパカが喫茶店を開いたり、ライオンがDOG DAYSみたいな事をしている事はあった。
しかしそれらの中にも、徒歩によって移動するフレンズでありながら高い崖の上に難なく移動してしまうアルパカや、狩りごっこごっこに興じるライオンといった形でフレンズのベースとなった動物の生態が現れていた。
ロイヤルペンギンのプリンセスがPPPを再結成しようとしたのは、ペンギンの生態がそうであったからではなくPPPがその昔ジャパリパークに存在したからである。
いわば間接的ではあるがヒトの手による強い介入を受けた行動である。
(まあぶっちゃけアルパカもジャパリカフェの名残という形でヒトの介入や大人の都合をゲフンゲフン…例外として今は忘れてくれ。)
カバンちゃんと無関係の所でここまで強くヒトの影響が描かれることは今までなかった。
そしてそれによって描かれた光景は、我々がけものフレンズに期待していたものとは全く違ったものとなった。
自分たちの存在、自分の存在が観客に受け入れられるのかと恐れるプリンセスの姿は、自分の本来のあり方のまま生きている他のフレンズにはないものである。
なぜなら他のフレンズはただどこまでも自然体で生きているからである。
PPPに参加せず普通のペンギンとして生きる道も開かれている事を知っているプリンセスと違いそもそも生きる道を選ぶという発想自体がない。
目先目先の日常から抜け出て生き方を選択するという発想は文明が発達したことで生まれたものである。
自分が何者であるかを迷うという行為は、道があることによって生まれる感情である。
ヒトの商業主義によって生まれたPPP、今までとは違う生き方の選択肢の登場によって生まれたプリンセスの悩み、これらはヒトが残した文明の残り香がなければ存在し得ない物である。
文明のない世界では生き物はただ生きるために生き、空いた時間はただ本能のままのびのびと過ごす。
ある種の貪欲さ、ストイックさをもってより良く生きようとそれまでとは違った生き方を選ぶ道である。
これは7話において博士達がジャパリまん以外の食べ物を求めカレーを食べた際に半分描かれている。
火という恐ろしい存在がカレーという益をなす光景は、文明の危険性をを暗示してはいるがそれが実際にフレンズを傷つけることはなかった。
だが今回は違う、文明は選択することの不安という形でフレンズに牙を剥いた。
自然の中でのびのびと生きるフレンズの姿を描いてきた作品の中で、文明がフレンズを傷つける姿が描かれたのが8話である。
ヒトのもたらした文明がフレンズを傷つける、それが8話である。
唐突にこんな物を投げつけられて無意識が嫌悪感を抱かないでいられるはずがない。
我々がけものフレンズの8話をつまらない、何かが違うと感じたのは当然なのだ。
だがそれは同時に我々がけものフレンズに求めていた物を再確認させてくれる。
8話の直前に7話が描かれたのも、これが文明を否定する物語でない事を強調するためなのではいだろうか。
それはなにもカレーだけではない。
ライブだけではない。
ジャパリまんだ。
ジャパリまんはジャパリパークの平穏な生活を支える重要な資源である。
それらはラッキービーストによって管理されフレンズの元へと配られている。
8話で初めて登場した二人目のラッキービーストは多くの情報を我々にもたらした。
フレンズが多い場所にラッキービーストは現れる、それは彼らが能動的にジャパリまんを配り歩いていることを意味している。
フレンズは自由な生活を送りながらジャパリまんの供給が受けられるようになっている。
またこれまでラッキービーストにあわずともカバンちゃん達が不自由なく生きてこれた事からも、ジャパリまんの供給量や栄養価がフレンズ達の暮らしにおいてかなりの余裕がある物であることがわかる。
ジャパリパークの平穏な生活は文明の力によって支えられている。
それはヒトのもたらした物であろう。
だが文明の持つ暗部も描く。
自然体で生きることの素晴らしさを描きながらも、そうやって自然体で生きるのに文明の力が役立っている事を描く物語がけものフレンズである。
だがそこで文明を投げ捨てたとしてそこに求めていたものがあるかといえば違う。
文明と共に生き、しかして文明の持つ闇に飲まれないようにすることが、我々の求める生き方に辿り着く鍵なのだ。
地球上の誰かがふと思った
地球上の誰かがふと思った
地球上の誰かがふと思った
「こんなにかわいい子が女の子のはずがないって諺があるんじゃよ?」
\ガシャーン/
「!!?」
「さて、そこで問題。
今わたしの体内で育っているもの・・・それは、いったい何でしょう?」
「さすがにフレンズね
こんな生物ってある?」
\ガタッ/
「わたしは帰る。
興味のない話だ。自分の正体を知ったところで何が変わるというわけでもない。
腹が減ればジャパリマンを食うし、カレーがあればカレーを食う」
「さて、カバンちゃん。
人間はときどき理解できない行動をとるようだから一応忠告しておくわ。
わたしもなるべく”フレンズ”としての身分を守りたいから無茶はしないつもりだけど、
(舌技披露)
「3秒で皆殺しにできるわ」
・
・
・
「たいしたフレンズだね!カバンちゃんの恐怖心をここまで引き出すなんて!」
「つめたい!何をするの、カバンちゃん!」
何かに寄りそい・・・
https://togetter.com/li/1083781
詳細は上記のリンク先を見てもらったほうが早い。
その表現の自由を奪うのなら、他者に対して害があるというエビデンスを出す必要がある。
刑事事件の場合、立証責任は基本的に検察側にあり、民事訴訟も通常は原告側に立証責任がある。批判側がエビデンスを持ってくるのが筋だろう。
例えば、動物もしくは動物園に来ている児童に対して悪影響があるというエビデンスだ。
それがないのなら、やめてくれるようお願いするのが関の山で、本人が拒否すればそれまでのこと。
また、東山動物園側が問題ないというなら、場所の問題でもない(同市内の鶴舞公園はコスプレの聖地だ)
「キモいから」は論外にしても、「常識orマナーだから」という理由で批判する人がいる。
常識は人によって違うし、この場合のマナーは明文化されていない。
以下は余談だが、
https://togetter.com/li/1082521
見て思った。
でも、一般的な感覚とやらからすれば、この迷惑行為が「けものフレンズに影響されたオタクのもの」と普通に解るものなのか?
アニメなんて知らない「一般人」が、この状況を見てすぐに「けものフレンズのせいで迷惑な人がきたんだ」と解るのだろうか。
動物が「コスプレ」と「普通の服装」を区別し、前者にだけストレスを感じると言うことができるのだろうか?
出来たとしても、コスプレかいなかの基準はどうなるんだろうか。
コスプレっぽい普段着を着る人間も、普段着っぽいコスプレをするレイヤーも、結構な数いると思う。後者はともかく、前者はもしかしたら、
既に指摘されているが、この案件でサーベルキャットが興奮しているのは、服装以外の別の行為が原因ではないかと推察する人もいる。
そもそも「撮影会」やってるんだから、ただコスプレ衣装を着ている以上のことをやっているんだと考えるのが「普通」だろう。
そして、仮にコスプレしてなかったとしても、動物に負荷を与える行為は慎むべきだ。
勿論、実際にはたかがちょっとの負担大した事ない、子供やモンスタークレーマーじみた老人のほうがよほど迷惑、という観点もあるので
いろいろと一概に言えない要素が多すぎるが、取り敢えずなんとなく思った違和感として、以上のことがあった。
そしてその違和感からいろいろと考えてみると、「オタク」が「けものフレンズに影響されて」「コスプレ」した
という点だけを見て、「オタクは動物園に来るな」という発言を正当化するにはとても利用し難いと思えるのだが。
あれをけものフレンズだからと断定できてしまうのがそもそも「普通の感覚」じゃないだろうし
コスプレ関係なく動物に負担与えるなって話だし、そうなるとオタクかどうかは関係が薄いし。
上手く言い表せないけど、「そこが問題の根幹ではない」と思えるようなところが過剰に強調されてるような気がした。
どう思われるか、何らかの意見を伺いたい。