はてなキーワード: ノーベル平和賞とは
核兵器禁止条約が採択され、核兵器廃絶国際キャンペーンがノーベル平和賞を受けた。
池田大作名誉会長がICANに祝電を送り、核兵器が過去の産物となったことは明らかである。
では、21世紀の戦争において最も効率良く敵を攻撃する道具として用いられているものは何か。
少し前の記事になるが、ケニアのガリッサ大学襲撃事件が参考になる。
事件直後、無数の遺体が横たわる寮内や教室の画像が携帯電話に送られてきた。モンジアさんは記者に画像を示し、「シャバブは学生を射殺した後、遺体から携帯電話を奪い、それで写真を撮影して、学生用のメーリングリストなどに送信していたらしい」と説明した。恐怖心を植えつけるためだったとみられる。-朝日新聞2015年5月22日朝刊(東京)
殺傷する武器は銃や鉈さえあればよく、カメラが付いていて、ネットに接続できる携帯電話こそが強力な兵器となっているのがわかる。
つまり、誰かが携帯電話にカメラを付けなければ、誰かが携帯電話をインターネットに接続できるようにしなければ、
イスラム過激派「シャバブ」がケニア東部の大学を襲い、学生ら148人を殺害した事件について。三浦英之記者の呟き
https://togetter.com/li/825566
面接に落ちた。
話し方が気になると言いつつ一次面接を通してくれた会社は最終面接で落ちた。紹介会社経由で受けた会社はどもることを理由に落とされた。
この間行った説明会に声がガラガラの就活生がいた。社員に笑われていた。その就活生に、勝手ながら同じような理由で落とされてきたのではないかと思った。
ブルーカラーではなくホワイトカラーの仕事に就きたかった。アルバイトで働いていた、埃まみれの職場なんて戻りたくない。普通じゃないとホワイトカラーの就職は出来ないのだろうか。
普通とは何だろう。
常識を持っていること、応募資格を満たしていること、問題なくコミュニケーションを取れること。
私は普通に生きたくて、X年専門の病院に通った。私は普通になれただろうか。就活をしていて、答えはNOなのだと気付いた。私の、普通になりたい努力は何だったのだろうか。
高校生のとき、親に迷惑をかけて進学をするか、自分の可能性を捨てて就職するか、それこそ三日三晩悩んだ。自分のあのときの葛藤は何だったのだろう。有りもしない可能性を信じた私は愚かだったのだ。
就職のために、自分を諦めないために進学したのに、進学した意味のないところに就職するのだろうか。そもそも就職は出来るのだろうか。
もし仮に就職出来たとしよう。私はそこで働けるのだろうか。私は、最近問題になったゼリア新薬の男性と同じ病気を持っている。あのニュースを知り、どうせ就職できてもあのような扱いを受けるだけなのだうかと、ふと思った。
世間は、この病気を持っている人間と働くことを認めてもらえるのだろうか。何故他人から認めてもらう必要があるのだろう。我ながら情けなくなる。
普通に働きたい。都内の綺麗なオフィスで優雅に、なんて言っていない。ホワイトカラーで働きたい。総合職で、自立できる仕事に就きたい。
不採用通知が来たときに、このアドレスを私が好きな作品の事前登録に投げようかと思った。
結局投げなかった私は、今年のノーベル平和賞を取れるかもしれない。
最初の内はチェンジ!チェンジ!ウィーキャン!ウィーキャン!とロボットアニソンの合いの手の如くやかましかったがいつの間にかそれらは無難な決め台詞程度に収まりやることも本当に無難で良識的だった。
もしもオバマがトランプのように振る舞えば絶対に許されなかっただろう。
黒人であっても白人の役に立つ便利な働き蜂として振る舞うのなら仮初の王冠を頂くことを許してやろう、それがアメリカ国民がオバマに投票した時の本心だ。
それらは最後までなんとかかんとか世間体や便利な嘘といった薄膜によって包まれていた。
だからこそオバマは黒人である自分が白人の靴を舐めながら生きている事をアピールし続けた。
そうして白人たちはオバマに「ご褒美」としてノーベル平和賞をやろうとまで考えた。
それはオバマを優秀な大統領と認めて送られた物ではなく、黒人が白人のために頑張っていることへの「ご褒美」に過ぎない。
テストで100点を取った子供にゲームを買ってやるような感覚でそれは送られたのだ。
ご褒美を貰った子供はその後「ご褒美を上げたんだからそれに応えろよ」という圧力を大人から受ける。
最後の演説のいい子ちゃんぶりを見れば彼の牙が完全に抜かれた事が分かる。
せいぜいが摂関政治に便利に使われるお神輿としての立ち位置が精一杯。
本当に上に立つことは許されず、それゆえに世界を本当に変える事は許されない。
彼が何度も繰り返したチェンジ!は最初の頃とはもう意味が違う。
いやきっとそうだったのだろう。
(*1)が(*2)で(*3)を(*4)したとき、(*5)な(*6)が(*7)(*8)。
今から(*8)年くらいのノーベル平和賞(*9)の(*10)を(*11)る!
広島にオバマが来てやたら盛り上がっているけど、広島県民の私が思うのはぶっちゃけ政治的なアピールに過ぎないよねってオバマはノーベル平和賞もらってるけどそれに見合うような働きをしたのかっていうと疑問が残る。とりあえず大統領の任期が終わるまでにそれっぽいことをしたいから、急遽広島に来て、県警に迷惑をかけて、平和について考えてますよっていうアピールを行っているに過ぎないでしょう。
これに反応しているオバマ大統領に原爆について知ってもらって、核兵器をなくそうなんて言う被爆者は馬鹿なんじゃないかなって、そんなこと思ってるわけないじゃないオバマが、だいたい核兵器をなくそうっていう奴らは頭がお花畑だと思うんですよ。確かに世界に情報を発信して、核兵器をなくそうって気持ちは理解できないわけでもない。それでもそれを実現するための具体的な案が一切ない。ただ核兵器はひどいよ、怖いよっていうだけ。それだけ、私は広島県民だったので小学校から中学校まで平和学習をいつもやらされていたが、被爆者の話を聞かされるのだが、原爆は怖いよ、戦争はいけないことだよというだけ「じゃあどうやって原爆をなくすの?」とか「なんで戦争が起きたのか」とか「本当に戦争が間違っていたのか」と疑問を問うことは許されなかった。ただ妄信的に戦争はいけないこと核兵器はいけないことだと教えられ、そのことを強要される。事実私が中学生のころ「戦争をなくしたいのならもっとちゃんと考えるべきだ」と感想文に書いたら被爆者の気持ちを考えろだとか、もっと場にあった感想文を書けと言われた。
それって間違っていないか?場に合った感想文ってなんだよ。「戦争はひどいと思った」「核兵器は絶対になくさないといけない」とかいうバカみたいな言葉の羅列を書き続けるのが、正しい平和学習だとでもいうのか?
相手の立場に自分が乗るかもしれない、立場の差は運かもしれないから、みたいなことで自分より不利な立場の人間に関してその状況差を利用した価値観の露呈や接触方法の選択を良好なものにするというのはブービートラップ。
募金をして貧しい人間を救ってる大半は同じ貧しい人間。ホームレスのビッグイシューを買ってあげているのは小遣いを削って特価品を狙って買うおじちゃんおばちゃん。思いやりというのは増殖を促す危険サインといっても過言ではない。
そんなやつらの気が知れない、というほどの距離があればその状況を少なからず遠ざけることができているということではないか。真摯に向き合うというのは危険な状況に身をおいているに他ならないのではないか。
その異常な状態に近い子供を抱えた親が、その状況から離れてほしいと願うのは当然起こりえることだろう。
親はなにもわかってない。現実に困窮している人たちがいて僕になにかできることがあって人としてすべきことがある、なんて考えは方向性と目的地をもってはじめて到達のための犠牲を払えるものでそれが狂気である可能性も否めないが計画として遂行を予定するとなると多くの関係者と資材を必要とする。
道理として多くを巻き込む際に個人単独での行動には制限と限界がでてくるためおのずと「普通」になる。異常な行動や方向性に多人数を巻き込むことができるのはある種の才能だろうし被害が大きくとも社会的な価値にはなんらかの貢献ができるはずだ。
近い人間からすると現実にある問題について考えているということを続けているその姿は孤立を深め不理解と非生産好意の連続で消耗しつづけているだけに見えるのだろう。実際何の生産性も高まっていないかと思う。あなたが野良猫を何匹助けたかしらないけれどもノーベル平和賞にはノミネートされないし町内会から表彰されたりもしないだろう。
ひとまず普通をこなしてから普通の無意味さを知ったと言えと親はいいたいだろう。無駄ということが無駄とわかったところで意味がないだろうと僕くんはいいたいだろう。
言い方を他に持ち合わせていないだけで、普通にいてほしい、普通という環境維持に僕を巻き込み参画してほしいと願っていそうというのは僕に対する心配ではなくて環境に対する心配だとかいう表現は、自分より家庭が大事なのか体裁を気にするのかと連続しそうな思考だが、家を守ること自体が家族を守ることと同義として目的を明確化することに問題はなかろう。
いちいち項目を別にして明示しなくては効果がないとか保証がないとかそれは証券権利と信頼信用でなりたつ代替通貨経済だけの話だろう。自分が隣の人ひとりをまもることで世界が平和になるといえるとしたら、ひとりまもるだけですむならそれに集中して行動するのは効率的だろう。
どこかで悲惨な被害にあっている名も知らぬだれかの心配をするより自分の子供だけを心配するくらいしか余裕はないしそれをするだけでみなが救えるとしたら要らぬ心配をするより効果的だろう。
自分の考えている普通だけを必死にまもり他人である僕を巻き込んで迷惑をかけている親というのは、親のほうからたどって考えると普通の状況を用意することで僕くんがふつうに馴染んでくれてふつうである僕くんは、いきなり火をつけたりする異常な行動は「普通かんがえたりしない」ふつうの子になってくれるんじゃないかと思っているのではないか。
どこかでいきなり爆発したりしないふつうの生活をすごしていく上で、ふつうより大きなチャンスをふつうの視点から探すことができるなら、そのときにシフトチェンジしたらよいのではないか、ふつうの選択肢をすててはじめから異常な選択肢による解決しかもたない僕になってほしくないのではないか。
異常な僕が普通の家庭にいるのがうざったいような態度をしてくるのは、普通になってほしいからではないか。
それがつらいのか。つまり普通をこわして異常を侵食させたいのか。そう生まれたのもそういう因子を必要としたのも親の世代まで続いた遺伝子とうまれた僕くんの生物的なバランスなのだろう。
僕くんの異常な行動でその家庭の貯蓄を無用に減らすことがあったら、そういう形で再配分する構造を生態系が求めたのかもしれないし、学歴がひくくあるのならだれかに学歴を積むコースを譲る立場の生物的ポジションなのだろう。
凶行に出て社会機能の充足を確認したり向上を図るための犠牲になるよう本能が仕向けることもあるのかもしれない。
しかしなやんでも生体はそう仕向ける方向に動くだけなのでしょうがない。ストレスを覚えるならそれを蓄えてどこかで爆発するのも致し方ないだろう。平穏にその生涯をすごして次の世代に異常な行動者がでることもあるかもしれない。
連綿とつづく命の端々はだれかれのため、自分の話ばっかり、などと思わず結局はみなひとつの歯車でしかないのだから、せめて気落ちだけは楽にいたほうがいいのではないかと思う。
ただひとつ、だれかと比べて自分の話をするときの僕くんは自分を糾弾するという形で相手を陥れているだけでなんら救いがないことだけは気をつけてほしい。
相手を自分の体に乗り移らせて自分の身を切り裂く呪いのようなその行為に美徳を感じているのだとしたら、かなり精神的におかしな方向に行ってしまっているといわざるを得ない。