はてなキーワード: サウスパークとは
腐女子ネタは単なるお遊び要素で、真のテーマは「LGBTに関する人権意識が過剰に膨らみすぎて、当人達の意思を離れつつある実態」なのは、誰の目から見てもわりと分かりやすいとは思うんだけど
最後の、トーマスがクレイグに語りかけるシーンの意味が、よく分かってなかったんだよね。
でも今日観返して、「大切なのは指向への迎合ではなく、個々人をありのまま受け入れる事である」って伝えたかったんだろうなって思った。
トーマスは話中、最後まで息子がゲイであることを好意的に捉えられなかったし、性指向に対する知識もめちゃくちゃなままだった。人がゲイになるのは日本のせいで、それはトンキン湾事件が原因で、ゲイにはお金を与えていれば良い、そんな出鱈目な知識。そもそも息子が本当にゲイなのか否かすら分かっていない。
でもトーマスは、クレイグのありのままを受け入れる、とクレイグに示すことができた。正しい知識はなくても、息子の全てを受容する、それを相手に伝えられた。大事なのは、LGBTに感する知識でも、応援でも、運動でもない。性的少数者という括りを取っ払った、その人自身を受け入れること。その人に、「この人なら自分を受け入れてくれる」と思ってもらうこと。
結局クレイグはトゥイークと付き合うことを選んだわけだけど、楽しそうに遊んでるし、後のシーズンでもお互い支え合いながら仲良くやってる。クレイグはゲイがゲイじゃないかは兎も角として自分の幸せを掴む事には成功してるんだよね。
ジャンル分けの成否は関係なくて、その人自身が幸せならいいんじゃないかって、そんなテーマが隠れてるんじゃないかな。
サウスパークは、初期の何も考えてなさそうな不条理ギャグ時代の印象が強すぎるんだけど、最近は深読みに深読みを重ねてもまだ足りない作品が多い。
カートゥーンアニメ化とは…「見てないけどキャラは可愛いから好き~」枠になるということ。
スポンジボブとかアドベンチャータイムのグッズ持ってる女子、多分7割は元アニメ見てない。
気が狂ってるんですか?と聞きたかったが多分見てないんだろう。
さて国民的アニメのドラえもんだが、最近妙にデザイン一新とか奇抜な演出に取り込みだして、アニメーション自体は面白いが、それがますますカートゥーンっぽくなってきた。
時代かな…ジャイアンまじで最近の倫理観的にアウトだしね。どう繕ったって駄目。毎週見てるけど毎週突っ込むもん。
それで続くならそれはそれなんだけど、続けられるだろうか?
クレヨンしんちゃんは?と言われればあいつは深夜アニメに行ってリメイクし毒満載でするという手立てがまだ残っている。
しんちゃんのストーリーを再構築するよ!と言われたら多分見る人も多い。
5歳児は恐い。というかストーリーと話の流れがある作品って新たな展開を迎えられるっていう強みがあるということかもしれない。コナンの延々続くヒットを見ながら思う。
カートゥーンで最新世界的ヒットだとアドベンチャータイムかなと思うが、あれも時系列や伏線がはっきりとあるストーリーものだ。ヒットを作るには進まなくてはならない…。
ドラえもんはサザエさん時空だ。そしてゲストキャラは居ても準レギュラーは増えそうにない。
映画が儲けるから過去リメイクに拘っているのは感じる。しかしテレビアニメは「堀川くん」のようなヤバいやつを連れてこないなら勝算はもうない。OPEDは拘れても作品に話題性が無い。
ついにグッズショップがオープンした。今まで無かったのか…とも思うが、今後はそっち商売に変化するのだろう。
一ファンとして、それが良いことなのかどうなのかは分からない。
大人は子どもたちがゲームボーイに釘付けになったまま横断歩道を渡るのを怖がってさ、しかもアニメ見てる時に痙攣する子が1クラスに1人ずつぐらい出てきて、ポケモンは危ない、ポケモンは敵、ポケモンさえなければウチの太郎ちゃんは勉強もしてたわ、ポケモンが無かったら一郎ちゃんはサッカーに打ち込んで今頃ラモスみたいになれてましたのに、そういう事ばっか皆言ってた。
サウスパークってアニメでさ、ポケモン(厳密にはパロディのチンポキモンだけど)ばっかり遊んでいる子どもたちを止めるために親がポケモン(チンポキモン)を遊んで見せることで子供を冷めさせるエピソードがあったぐらいだ。
ポケモンGOを遊んでいる層の中高年率を見てみなよ。
なんとか子供も楽しんでいるけど、それは親が安心して与えてくれる玩具がポケモンだからだ。
ポケモンは信用されている、だから親が買ってくれる、だからポケモンで遊ぶ。
そういう流れだ。
子どもたちは本当はパズドラやヒカキンやキズナアイが好きなんだ。
でも、大人はそうういのを怖がって与えてくれなくて、ねだってもどうせ手に入らないならとポケモンだいしゅき~~あびゃ~~~と口にしてる。
悲しいよな。
久々にこっちで雑感。
ツイッターとかの明示されたアカウントで語るには取り扱いに困る、そんな話をしたかったのが理由。「お前は敵がつくりてぇの?」って聞かれたら、作りたくもないし、作る意義もないからね。とはいえ、やっぱり語りたくなる。今回の『青のフラッグ』の44話には、そういったパワーがある。
いやあ、ほんと。本作は漫画という媒体で、どこまで多元的な考え、人格を描写するつもりなんだっていう。面白いかっていわれると、愉快ではないんだけれども。安楽椅子状態での会話がメインって絵的には面白みが薄い。どうしてもセリフばっかりになるし、読者側にエネルギーを要する。しかも本作はスッキリしない。わかりやすく間違っている人間に対して、正しいことを言って溜飲を下げるだとか、そういった明瞭な快活さを与えてくれないのでストレスがたまる。それでも評価せざるを得ない話ってこと。
本作は各々が自分なりの考えを持っていて、そこに明確な是非を要求すべきじゃないってのを逐一訴える。今回の女子高生二人の言い分も間違ってはないんだよね。むしろ現代社会の通念上は、正しい寄りの考えと言ってもいい。じゃああの丸刈り君は偏狭な性差別者で、“普通じゃない、間違っている人間”なのかっていうと「ちょっと待った」ってなるわけ。私も同性に痴漢されたことはあるから分からなくもない。そういった経験から来る嫌悪感は普遍的な通念では拭い去れない。読者の中には今回の話を読んでなお、あの丸刈り君をただのクソ野朗で終わらせる人もいるだろうけれども、作中ではそれこそ狭量ではないかと指摘しているようだった。
安易な善悪二元論の懐疑。ああいった問題で、正しいだとか間違っているだとかの線引きで考えたり、分かりやすい悪者を作り出すことの危うさを作者は知っているんだと思う。作劇として見た場合、言語化しすぎてて読み味も良くないんだけれども、本作はそういうのを妥協したくないんだろうなあ。『鈴木先生』を思い出す。大衆が受け入れがたい、スッと入ってこないであろう考え方を大げさに、だけど真っ向から長々と語る。
「好きって感情はいいけど、嫌いって感情はダメ」みたいなセリフが劇中に出てきて、私は「うげえ、また“ツギハギ論”かよ」って思った。「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」。『ツギハギ漂流作家』という漫画が打ち切り間際に描いたあのセリフ。あの漫画の顛末を踏まえた場合、逆ギレじみた言い分に近い。けれども、なんだかセリフだけ一人歩きしてしまって名言になった。なってしまった。だから私は“ツギハギ論”って呼んでいる。実際このセリフを安易に引用する人間の主張にはツギハギ感があるので、その点でも“ツギハギ論”って呼び方は適格だと個人的に思ってる。
で、ちょっとウンザリしたところで、「好きって感情は良い感情、嫌いって感情は悪い感情って考えは雑すぎる」といった指摘が入る。ああ、そこも言語化しちゃうんだっていう。もう完全に私はこの作品に踊らされている。「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」の歪さを分かってる。あのセリフが憚って10年以上も経っているのに、まだあれを正論だと思っている人がたくさんいる。あれが大した理屈じゃないことは、好き嫌いについて向き合っているのなら自ずと分かるはず。けれども、好きなものを他人に嫌いだって言って欲しくないという自己保身のために、あのセリフを都合よく使う人は後を絶たない。
好きという感情を肯定する以上、嫌いという感情も肯定しなきゃ辻褄が合わない。まあ、肯定や否定は個人の感情によるところも大きいので、各々がどういうスタンスをとるかまでは是非を問えないけれども。そのせいで、意見の不一致による衝突は出てくるし、それを避けたいのも人間の本能だしね。だから私だって、こういう話は後腐れのないところで書く。とはいえ感想書きは、結局この“好き嫌い”を様々な言葉で紡ぐ表現手法の一つなわけで。好き嫌いそのものを、片方だけ是としたり、有耶無耶にしたりすると評論としてはむしろ信頼できない。
そんなわけで評価はしているけれども、本作はかったるい。言語化しすぎというか、野暮ったいセリフ選びも多い。セリフの少ない場面とかはすごくエモいだけに尚更そう感じる。エンタメという枠組みで見たとき、あれは愉快な描き方ではないし、上手い描き方でもない。「悪役が何かエグいことをやっている」だとか、そういう“エンタメ的には良い不愉快さ”みたいな意味ですらなく。飲み物なしでビスケット食っているみたいな感覚。
例えば、同サイトで読めるのだと、『さよならミニスカート』は分かりやすい。あれは良くも悪くも複雑じゃない。いや、人によってはあれでも余剰過ぎるくらい複雑かもしれないけれども、訴えていること自体はすごくシンプルなんだよ、あれは。基礎的なジェンダー規範を取り扱って、それをテーマにしている作品。様々なマンガで、以前から脈々と語られてきたジェンダー論をメインに、現代の人たちに刺さるようドラマティックにリブートしている。だから陳腐とまではいわないけれども、やや表層的ではあると思う。ああいったテーマを多側面的に考えたことのない、一般大衆向け。それ故に刺さりやすいし、読み味も良い。『青のフラッグ』もウケてはいるけれども、作者が想定しているであろう理解力の読者はそこまで多くないと思う。
その点で『さよならミニスカート』は多くの読者に色んな意味で優しい。まあ、テーマ的に何かすごいことをやってる~みたいに持てはやしだしたら危ないと思うけれども。『サウスパーク』とかで登場する、ソーシャル・アジェンダに踊らされた大人たちみたいになってしまう。「私たちはそういうのに理解があるよ」といったスタンスをゴリ押すことに一切疑問を持たない、実際のところ無理解な人間。「社会正義だから」、「一般の善良な考えだから」といった、誰かがあらかじめ作っておいた前提で理屈を紡ぎ出す。だから一見すると尤もらしいんだけれども、ちょっと小突かれただけで論理が破綻してしまう。
とはいえ、そういった指摘をフィクションの世界でわざわざ言語化しても、ほとんどの人はそこまで様々な視点から物事を考えないので伝わりにくい。一般社会の善良そうな考えで生きれば支障はまずないから、考える必要がない。むしろ考えすぎて自我が袋小路に入ってしまうこともあるから、ちょっと無思慮なくらいが丁度良いまである。色々考えていたとしても、個々人の規範と一般社会の規範をすり合わせる他ないから。『青のフラッグ』のセリフからとるなら「お前は敵がつくりてぇの?」となる。私は御免こうむるし、多くの人も「そんなつもりはない」と言うはず。自覚しているか、実際の行動と矛盾しているってパターンは多いけれども。敵味方っていう構図の作り方が、そもそも履き違えているのを大体の人は分かっている。前提を共有をしていなければ主張の押し付け合いにしかならないし、かといって論理ゲームは本質から遠ざかっている。
そんな感じで、私の中でもまとまっていないので、ここで雑感は終了。ここまで語っておいてなんだけど、こういう特定の作品を基に社会論をアレコレ語るのは、どこぞのサブカルくそ野朗みたいで我ながらアレだと思ってる。自分のツイッターじゃあ、絶対こんなこと呟けない。あれこれ考えてしまうから吐き出して解消したいだけで、漫画はもっと気楽に楽しみたい派。ぶっちゃけ私は『むとうさとう』レベルの軽いノリでジェンダー取り扱ってる漫画の方が好きだ。
どうしても「大乱闘スマッシュブラザーズ SPECIAL」ってタイトルが気に入らねえんだよ俺は
そもそもSPECIALってなんだよ
なんで任天堂は統一感皆無な言葉を毎回スマブラにくっつけたがるんだよ
素直に12345っていう風に番号を振れよ
後から振り返った時に統一感がねえなコイツってなってるだろうが
どれがどれだかわけわかんねえだろ
せめて番号を付けたうえでなんかそれっぽい副題をつけろ
英語版だとなぜか「Super Smash Bros. Ultimate」になってる
Ultimateってなんだよ
SPECIALですらねえじゃねえか
それ変える必要あったのか?
任天堂のこういう細かい気遣いしてるつもりの余計な気遣いが嫌い
英語圏の人間とスマブラの話しようとしたらお互い途中で?ってなっただろうが
マリオルイージピーチあたりはまあまあ世界共通だけど他の連中は全然違う名前になってる
たとえば英語版がこれ
キノピオ=Toad
クッパ=Bowser
クリボー=Goomba
ノコノコ=Koopa Troopa
ハナチャン=Wiggler
Bowserってなんだよ
俺の友達にもそんな名前の奴はいねえしそもそも俺には友達がいねえわ
任天堂作品のキャラっていかにも「私たち世界共通言語ですが?」みたいな顔してる連中ばっかだけど
世界共通言語になってるのは見た目だけであって名前は全然世界共通語じゃねえからな
むしろローカライズのし過ぎでごちゃごちゃしててわけがわからんわ
https://ameblo.jp/comic1993/entry-12141978691.html
この有り様だよ
同じようにローカライズしまくりのディズニーピクサーと任天堂の一番の違いはここなんだよ
ディズニーピクサーはローカライズしても映画のキャラの名前は変えたりしないだろ?
そういうところが任天堂がいまいち世界の共通言語になれない所なんだよ
でもディズニーピクサーも映画のタイトルはローカライズして変えることあるからあいこだと思う
とにかくだが
任天堂のキャラって世界展開してるくせに世界共通言語感が無さすぎるし
むしろ通じないことの方が多すぎんだよ
ABADANGOとかHARASENの方がよっぽど通じるわ
そもそも宮本茂も海外では宮本茂じゃなくて茂宮本になってるからなぁ
もういちいちナメェひっくり返す慣習やめろよめんどくせえ
あとポケモンに対してもう一つ思うところがあるんだけど
もう最初からポケットモンスターっていう名前で通せばよかったんちゃうんか?
PokemonじゃなくてPocket Monsterでよかったろ?
サウスパークでチンポコモンだのなんだの言われてバカにされても
ポケットモンスターで貫き通せば隠語の方じゃなくてゲームの意味が主流になってたろ絶対
言葉の意味を塗り替えるのに十分な影響力を持ったろうに勿体ないことしたよホント
歴史的汚点だわ
そういうところが任天堂なんだよ
mur2 確かにスマブラ64、スマブラGC、スマブラWii、スマブラ3DS、スマブラWiiU、スマブラSwitchでいいよな。
採用です
サウスパークでそんな話があった気がする