はてなキーワード: 脳内補完とは
どっちやねん。
どっちでも成り立つっちゅう話やろ。
大差あるやろ。
たとえば大阪桐蔭の「データ班」がすごいのは有名やが、大阪桐蔭のスカウティングが単純なフィジカルを重視してるか思考力も見てるかなんて分からんやろ。
たぶん大阪桐蔭の人らも「どっちも重視してます」くらいの曖昧な感想にしかならんやろし、ましてや「自分で思考しない兵隊たるべし」なんてよう言わんで。
仮にやで、巷間「大阪桐蔭はフィジカル重視」と言われとったとして、大阪桐蔭に憧れまくっとるメガネ少年が「どうせダメに決まっとるから落ちてもショック受けんわ」みたいな気持ちで受けるか?
そりゃショック受けへんほうがおかしいやろ。
まあ漫画的誇張に突っ込むとしたらこっちやろうけど(つまり悪役なので方針が極端すぎる問題)、こんなん元増田みたいにキレちらかすような話とちゃうやろ。
女性側が精神が混濁し幼児化した状態なので、増田の感覚に共感した。最初は「いや公式じゃん…」とも思ったけれども。
ただ、いちおうねずこには鬼であった時に過ごした記憶も持っている。
その時彼女から見ていた善逸は、自分に一途で優しく、気遣いのできる男性なのではないだろうか。
善逸は若く可愛い女性だったら誰にでもソワソワする(公式設定)だけれども、
彼が孤児として孤独に育ち、特殊な能力を持つために何度も傷つけられ、あの光の一筋も差さない暗黒の無意識領域を持つということを考えると、
単に現実にいる「女性だったら誰でもいい」(はっきり言うと一部の男にいる「性欲が湧く穴だったらなんでもいい」)とは少し毛色が違うタイプでもある。
彼は単にさびしがりやであり、さびしがりやなのに相手の内面(自分を好きではない)もわかってしまうやっかいな体質持ちである。
ねずこが意識が混濁しているのにつけこんだように見えるのも確かだが、
逆に言うとねずこが幼児化しているのにつけこんだりもせず、ねずこの精神状態に合わせて散歩に連れ出したのは下心とは別のやさしさ、思いやりもあるだろうと思う。
人間性を取り戻してからは、善逸はその本来の「明るく活発、しっかりしていて、悪いことをしたときにはとても痛いデコピンを食らわせてくるお姉ちゃんでもある女の子」
であるねずこと向き合うことになるわけで、
そこで彼女本来の性格をしっかりうけとめ、関係をはぐくんでいけたからこそ結婚に至った…と脳内補完したらダメかな…。
(だってねずこは12歳の段階で「街でいちばんかわいいと評判の女の子」だったわけでしょう。人間に戻った14、5歳のころには周囲の男性の目に触れるようになるわけで…。
そこで善逸がただのねずこ以外でもかわいい子ならだれとでもくっつくような男であったなら、寝ず子は受け入れなかったのではないでしょうか。
ねず子は人間に戻った時点でも子供の年齢のうえ2年以上意識が混濁していたハンディつきだけれども、大人になって判断がつくようになってから善逸を選んだ、ということで、
つるの氏が犯人を外国人であると推定したことが、外国人=犯罪者であるとの偏見を助長しかねないとの指摘がなされ、
それを軸に、町山氏などのいわゆるラディカル左翼が、つるの氏への大バッシングキャンペーンを実施した。
ツイートを眺めていると、事の顛末の検証もそこそこに、「つるの氏は差別主義者である」という大前提のもと、
国を憂いてみたり、人権だの歴史だの一見アカデミックに見えるよな事を論じている気になってみたり、そんな投稿が目に余った。
そもそもつるの氏がなぜ外国人が犯人であると推定したのか、彼は真に差別主義者なのか、たった彼が投じた2,3のツイートから解明できるはずもないのに、
判別できないからこそ足りない部分は、既に自分が用意した結論に都合がよいように脳内補完して、
「差別主義者」のレッテル張りによる罪人認定を行い、自分が満足するまで非難・攻撃を行って。
しかも、そういった攻撃は正義の鉄槌であると信じて疑っていないのがまたやっかいだ。
自分の思想をさもこの世の条理であるかのように、ちょっとアカデミックを気取った書きぶりで、さも自分は常に正しい事しか発言しない知識人であるようにふるまっている。
結局、
②自らが正義を行使していると思い込む事による全能感、自己満足
③同じ思想を持つものと一緒になって行動する事による高揚感、孤独の解消
これらが蜜の味を味わいたいがために、他害行為を正当化しようと、罪人であるとのレッテル張りを行っているのだ。
でも本人にその自覚があるはずもなく、あくまで自分は絶対的な正義の執行者であると思い続けている。
本来すべての人のすべての発言には(私一個人の意見です)という注釈がついているはずなのに、
自分が正しいと思った事は、普遍的に正しいと思ってしまっているのはなんで。
どうして、民意によってえらばれた多数の人の意見の上成立した、政治上の「正しい」を疑うことはできるのに、自分一人が感じた「正しい」を疑ってみようと思わないのかな。
差別が悪い事だとは分かっているのに、人を差別主義者だと一方的に認定して攻撃する事は正しいなんて、そんな理論が正しいってどうして思っていられるのかな。
まとまりなく、ダラダラ書く。
私の日記なので。
「そうめんは手抜きと言ったら配偶者が発狂した、それは嫌な事ですよね?」
増田のことなのか、増田が見たそうめんのツイートなり記事なりにでてきた夫婦のことなのか。それとも話題になった餃子のツイートから敷衍して増田が考えた思考実験?の夫婦の事なのか…?
発狂とはなにか?私はそうめんの記事は何も読んだことないから、餃子のツイートのことを記憶で書く。
「冷凍餃子を出したら子供が美味しいと言い、夫がそれについて『これは手抜き、れいとう』と教えた。そのツイートに対して怒りのリプライが多数付いた」というものだったけれど、怒りは発狂なのか?
その怒りは、「手抜きを手抜きと言われたが手抜きと認めたくない事の表出」であったのか??
(私には、夫は言語化していないが「手抜きは無価値」という意見だと受け取り、美味しいと言う子供に「その食物は無価値」と教えること、他者が提供したものをたとえ真実でも一般的に低評価の表現である「手抜き」と評価することへの怒りであると感じられた。もちろん増田がどう感じようと、何も感じなかろうと自由)
あと、わからないのは、そうめんが手抜きだと言われて、確かに手抜きだ、と認めたら、発狂はしないものなのか?
「そうだよ、手抜きだよ!うるせえ今日は疲れてて手抜きしないとやってられないんだよ!このクソ暑いのにガスつけて大鍋でそうめん5束もゆでて、お湯大量にガロンガロン沸かして吹きこぼれないようにつきっきりでまぜて、タイマーかけてゆだったら間髪入れずに流しで湯切りして、流しベコボコ言わしてそれから流水でしめるんだよ最初はあっちいんだようっかり素手突っ込んだら火傷だよ!そんで伸びないうちに出すんだが、あらかじめ薬味とめんつゆと器と氷を用意しとくわけだ、人数分な!ああ、そうめんなんかすぐ食べ終わっちゃうから、お代わり用にもう一回大鍋で湯を沸かし始めないとな!あー疲れた疲れた!手抜きだよ!天ぷらよりは遥かに手抜き!悪かったな!その手抜きでもしんどいんだよ!!」って私、発狂しちゃうけど、手抜きだよ?
他のおかずも出すからめんどくさいけど、そうめん自体は簡単。ご飯のほうが炊飯器が炊いてくれるからもっと簡単ではあるけど。
発狂されたら嫌なのはわかるよ、書いてて自分嫌な女〜と思ったもん。でもそうめんが手抜きかどうかの同意と発狂はあんま関係ない気がするよ…。
そうめんが手抜きという認識(増田の認識)に発狂されたらいやだから、結婚なんてするもんじゃねえ、というのはつまり、結婚というものをしたら、増田の認識に対して発狂されることが頻発すると推測できる、という事かな?あるいは一度でも増田の認識に発狂されるようなことがあるなら、それは耐え難いということか…?
うーん、そういう面もあるだろうけど、手抜きという言葉のネガティブ性を軽く見積もってる気がするなあ。
そうめんは細い、というのとそうめんは手抜き、というのではついでに伝わってしまう意味が違うというか…。
手抜きという言葉にはネガティブ性はない、とは言えないと思うんだけど…。
増田は「手抜きという言葉にはネガティブな意味はないのに、勝手にネガティブに受け取って発狂されたら嫌だ」と言ってるように見えるけど、老若男女問わず「手抜き」と言われてフラットな受け取り方をするのは、場合を選ぶか少数派かではなかろうか?
フラットでない、ネガティブな意味を込めた「手抜き」の使用例の方が多いと思うし。どうしてもネガティブな意味がついでに伝わりがち…。
増田が、手抜きと言われてもそれに同意する場合は発狂(不快の表明?)しないひとなら、それは得難い美質だと思う。でも世の中たぶん、老若男女そんな人格者ばかりじゃないよね。
大阪万博会場3Dと、当時の写真が見れるサイトみつけて、ノスタルジックエモおしゃすぎて死にそうなのと、
1970年に生まれていなかったことを激しく悔やんだので、HPの感想と、私のEXPO70の呪縛について語る。
https://www.asahi.com/special/expo70/#3d
(朝日新聞の回し者ではありません。政治思想とかもないので、あしからず)
こんなにエモちらかしたイベント、今やっても大盛況になるに決まってるじゃない。
むしろ、今の日本の経済状況で、こんな大規模に各国のパビリオンを作れるとは思えない。それが悲しい。そして1970年代の、生き生きとした日本をノスタルジックに語るかつての日本人たちと同じテンションで話せないのが悔しい。1970大阪万博をテーマにした作品は数多くある。20世紀少年にしろ、クレヨンしんちゃんのオトナ帝国にしろ、万博世代でなくてもノスタルジックに浸れるが、当時を経験している人々と同じ熱を持てるわけがなく、見聞きした情報で脳内補完するしかないのだ。
これはクリエイターの作風にも影響すると思う。共通言語で語れる何かは、その世代の時を生きる人たちに対して、何らかの影響を人生に及ぼしたるものであり、共感を与える。語らずとも全国民が共有して認識している事柄、そして気持ちを揺さぶる何かに、1970年があることが、とても羨ましいのだ。
翻って、我々の世代での共通言語とは何か。私が物心ついた時からの記憶では、地下鉄サリン、阪神・淡路大震災、9.11、3.11、そしてコロナだ。これらは、世界レベルでの共通言語かもしれないが、ちっとも、たのしくない。わくわくしない。ノスタルジックを感じさせるものではない。なんなんだろう。
大阪万博のに関連したキーワードは、とっても心が踊る。「エキスポ」「パビリオン」「人類の進歩と調和」どれもなんか楽しそうで、なんかかっこいい。インターネットもなく、情報が少ない時代に、情報がとんでもなく詰まった、夢のテーマパークが、現れたらそりゃ楽しいよね。現代は逆で、情報過多な社会と言われている。取捨選択しないと自殺まで追い込まれるくらいに情報が多い。
楽しい自由は、ある程度の不自由の上に成り立つと思っていて、制限がある中でその隙間をぬって自由を見つけるから達成感があるのかなと思う。授業中にマンガ読み放題だったら、多分読まない。今は情報が多過ぎるがゆえに、しんどいニュースがいっぱい拾い上げられやすいのかなと思う。誰かを叩いたり、妬んだりのほうが視聴率やアクセス数が稼げて、キラキラした未来の裏を暴露して足引っ張ったり、前向きなことやるより後ろ向きなことを世に出したほうが短期的にお金稼げるのかなと思う。
あとは勢いが出なくなってる。でけーイベントやろうと思うと、ある程度頭空っぽにして、イケイケドンドンで進めていく人がいないと、周りの意見ぜーんぶきいてたら企画倒れすると思う。岡本太郎の太陽の塔、当時だって反対する人が沢山いたというのだから、今だったらできてないかも。後世から見て賞賛されることも、現世で叩き潰されたら、なんも残らんなと。保守的に立ち振る舞うのが今のSNS社会の処世術だけど、破天荒なやばい人が拾い上げられなくなってる気がして、なんでも世論に問いかけて同意を得るのは違うんじゃねーか、と、渋谷駅の岡本太郎の絵を眺めながら、思った次第であります。