はてなキーワード: 法規制とは
・欧米では人権意識が高いリベラルな人ほどAIに反対してて、(人間の尊厳を奪う、人種ステレオタイプの助長、人権侵害、ネトウヨのプロパガンダや偽情報への悪用が主な理由)米国民主党もリベラル派がAIが人権侵害で反対してる事を理解して、その方向で動いている。
・バイデン大統領も世界に先駆けて法規制に動いており、ニューヨークタイムズや大学教授などの知識人も反対の立場を取っている。
https://people.com/joe-biden-ai-executive-order-mission-impossible-villain-8385476
・逆に、右翼ほどAIに肯定的で、4chに生息するアメリカネトウヨなどはクリエイター層を冷笑している。(クリエイター層はリベラル派が大多数だ)
・右翼は偽情報のプロパガンダが規制されると不利になるため、AI反対派を攻撃している。
・AI推進派は表自(表現の自由戦士)で、ポルノの自由や、「AIコンテンツはポリコレの影響を受けて無い」を理由にAIを推進。
・ITテック系も本音は金儲けがしたいので、「Wokeism(リベラル思想)にはうんざりだ」と、イーロンマスクやラリーエリソンなどのIT起業家が続々共和党支持へ袴替えし、本音を表している。
だから、AI推進派は欧米では極右として扱われてる。だけど本邦では何故かウヨや表自と一緒にAIを肯定して、偽動画作りなどのネトウヨと同レベルに堕ちる奴もいる。
アヘンの毒性が科学的に証明されるまで、人類はアヘンを毒だとは知らなかった。
現代も、バケガク的証明されてないのをいいことに規制が進まず毒だらけなんだわ
アニメとAVとその他エロ作品と低脳が書き込める掲示板とソシャゲとSNSと推し活とスマートフォンのある種の仕組みは法規制するべきだと思いますよ。
どれも短期的な超常刺激に満ちていて、射倖心や刺激を強く与え、人格を変容させ、人間をボタンを押し続けるマウスに変えて時間と精神的体験を搾取し、有害情報をばら撒いている。
アヘンを売るためにアヘン中毒にさせたのと構図が一緒ですよね。あの時代に逆戻りしている。
低脳が書き込める掲示板は、三百代言のおおほら吹き、風邪の原因は悪魔憑き時代に人類を逆戻りさせている。
あれを反省して、科学的手法を発展させてきたのに、大学や研究室での知識や教養の拡散とは全く違ったおおほら吹き時代レベルの手法での情報蓄積と拡散を可能にしてしまっている。
インターネットや情報社会、起こってることがまた中世レベルに逆戻りしてる
日本に至っては、そもそも近代以降のレベルに到達したことがない。
迎合せよ偉い相手やルールにNoを言うな変な人は沢山いるから黙って機嫌取りしろ意見を言うのは面倒で賢くない、
(↑現代レベルの論理性を兼ね備えていないよね。ここからも文明が論理的に再構築された現代レベルには届いておらず、女は痛みを感じないからレイプによる精神的苦痛はバイブで治るとか真面目に言ってる中世レベルだとわかる)
元増田だが、いわゆるゾーニングが十分に行われており、過剰な「エロ」規制になるのではないか、という懸念は理解できる。また、そこそこ古くオタク文化に触れてきた元増田としても、キモイという分断的な動機から安易な規制論に立っているのではないかと感じることも少なくはない(松戸のVTuberも温泉娘も突っ込みどころはあっただろうとも思うがそこは本論から離れていくので割愛。規制すべきものだったとは思っていないので。)。その意味でも、繰り返すが法規制に慎重であるべきだということに異論はない。
ただ、現状で、R18規制がかなり緩いサイトは散見されるところで、ちょっと戯画的に言うと隠れて「河原で拾ったエロ本を読んでいた」時代とは性的なものへのアクセスの容易さがかなり異なる時代であることも否定しがたいように思う。また、業界での自粛のようなものも、インターネットの世界では利かせづらいところもあるだろう。ゾーニングがあるから、だけで本当に良いのかということも、やはり真剣に議論をするべきところで、馬鹿にするという態度で良いことはないのではないか。
それと、仮に偏見からの議論であるとしても、言論に対し「先制警戒で攻撃」されることに「文句を言えない」世界こそ表現の自由が死んだ世界なのではないかな。
https://courrier.jp/news/archives/347289/
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/courrier.jp/news/archives/347289/
元記事は決して出来の良い記事ではなく、その点はちょっと困るところもあるのだが、いわゆる「非実在」青少年のポルノ画像等の規制論についてインターネット、というか少なくともブコメでは、およそ話にならないと馬鹿にする論調が人気だ。もちろん、規制の厳しい欧米各国で必ずしも児童の被害が少ないとは言えないことや、他の架空の違法行為の規制との兼ね合いなど問題はあり、当該表現自体が直ちに特定人の権利を侵害しているものではない以上、法規制には慎重であるべきであることには私も異論はない。ないのだが…。
この手の規制論が児童の人権を保護する立場の人たちから度々出てくるのは、現実に児童を食い物にするような事例に対峙する際、いわゆる「グルーミング」的な問題によく対峙することになるためだろうと思われる。十分な判断力や性的な知識がないこと、あるいは、愛情への飢えのようなものを犯罪者に利用され、「自発的に」ポルノ画像を撮り、送らされるというような児童の事例は枚挙にいとまがない。そのような事例に「他の子もやっている(ように見える)」ことが影響していないだろうかというと、していないとまでは言えないのでは…となるのは無理なからぬところのように感じる。例えば万引きが「普通」の環境で育てば万引きをする子になりやすいということは感覚的には否定しがたいのではないか。
もちろん、データがあるのかというと、ほかの社会的な影響を除いてそのようなものに触れることの効果だけをデータとして出すのは困難であると思われるため、根拠はある程度感覚に頼るしかないところはある。その点でどうしても弱いところはあるのだが、それでも児童保護という一定のパターナリズムが許される分野において、露骨な表現くらいは規制するべきではないかという議論が、馬鹿にするべきものだとは思えない。理由と手段との対応関係を考えても、これを認めたらあれもこれもと際限なく規制されるディストピア、みたいな話にもならないだろう(非実在児童ポルノが規制される欧米が日本と比べて顕著に表現の自由が規制されている社会に見えるだろうか。)。なんにしても、とにかく相手を馬鹿にするところから始めるような議論が人気になる風潮は何とかならないのかと今日もふんわり悲しい気持ちになるところである。
https://querie.me/answer/ST8s9I6rozezVXc5z41p?timestamp=1702007027
既に回答欄で必要なことは書かれているが、「有害な本を出さない道徳的義務があるに決まってますよ。」等の表現にひっかかってしまう人はいるようだ。誰がその正しさを担保するのかというような噛み合わない指摘がブコメには散見される。そもそも、質問自体が少し混乱した内容になっているように思われるので、前段の「事実誤認や著しい誤りがある本は出版するべきではない」という主張について、少し内容を変えて「(ある書籍を)出版するべきではない」という表現に表現の自由が認められるだろうかという観点から考えてみたい。
まず、おそよどのような主張であれ、その内容に一切かかわらず、言う(表現する)ことが正しく、言わない(表現しない)ことが間違っているという価値観を持っている人は、恐らくいないだろうというところから始める。「どのような」という中身は、回答者のいう「デマ」や「他人に害を与える」内容のものかもしれないし、名誉棄損(他人に害を与えるに入るだろうが)やステマ広告かもしれないし、ある表現をするべきではないという内容の表現かもしれない。その範囲に関しての価値観はそれぞれに違いがあっても構わないし、むしろ違うはずだが、およそ常に表現がされることが正しく、されないことが正しくないという主張は、誰にも支持されないだろうとういことは前提にできると思う。
その中で、具体的にどの表現がされるべきでないものなのかということについては、社会の構成員間で価値観の違いがある以上、社会的に決定せざるを得ない。その決定は、各々の異なる意見を表現によって交換すること、すなわち、議論によって形成されていくべきだ。そうやって、名誉棄損や著作権法違反への表現の規制は認められてきたわけで、その議論を担保するからこそ表現の自由は民主主義社会において重要性があると言える。つまり、表現の規制についてもその限界は議論によって定められるべきだということも前提にしていいだろう。
ここで、「出版(表現)するべきではない」という主張に表現の自由が認められないとすれば、表現に関する規制について、常に片側の議論の主張を欠く状態になってしまう。無論、あらゆる表現において表現されることに価値があるとか、表現すべきではないことについては議論の余地なく決めることができるという前提があれば、そのような表現規制も許されるだろうが、これは今まで書いてきた前提とは反する。つまり、出版するべきではないという表現にも表現の自由は認められ、一定の尊重がされるべきであるに決まっている、ということになる。
その上で、質問者に戻るのだが、出版するべきかどうかという判断に「事実誤認や著しい誤りがある」かどうかという観点を入れた場合、いわゆる思想の自由主義市場の問題、すなわち、誤っているかどうかという判断自体が表現を戦わせることによってしか得られれないものではないかという問題が出てくるという側面がある。その点から、およそと事実誤認等を理由にした表現の事前の抑制は行うべきではないという主張はあり得るだろう。ただし、医薬品に関する虚偽の効能の広告規制のように、実際には事実に反することを理由に法規制される出版行為がある場合もあることからわかるとおり、少なくとも現行法解釈上は思想の自由主義市場的な価値はほかの価値との相対的な衡量の中で認められるものにすぎない(出版という一行為態様が禁じられるということが直ちに表現そのものを封じられるわけではないということも考慮すべきだろう。)。抽象的な議論を離れ、個別の事例の判断になれば、消費者保護等の観点からの規制をおよそ認めないという人は少ないのではないかと思われ、そうだとすれば、その限界の判断は批判を含めた議論の中で決められるべきという上述の議論に戻ることになる。
インターネット上では、いわゆる反キャンセルカルチャー的な文脈から、批判表現自体ですぐに表現の自由を持ち出し反批判を行う意見が散見されるが、批判表現は表現の自由で認められるべき重要な表現である。少なくとも、近時話題になっている角川の事例においては、表現の自由な交換による意思形成を超えた、事実上の表現規制的な圧力がかかったとは私には到底考え難い(まあ、そう考えたい向きがいることも仕方がないことだなとは思う。)。他方で、個人のツイッター(X)上の大したことのない発信に鬼の首でもとったかのような大量のリプライが付くような場合など、この時代において考えるべき問題も存在しないわけでもない。批判表現という表現の自由にとって重要な表現を一般論で封じ込めて「論理的にすっきり」しようとするのではなく、一つ一つの事例にきちんと頭を悩ませることが重要なのではないかとふわっとさせて終わりたい。
法で取り締まってない合成化合物が平気で売り買いできるって怖いよなあ
大麻グミって名前だからある程度は自衛できるだろうけど、仮に爽快グミなどの名前だったら知らずに食べちゃう人が増えると思うわ
そういう意味で、大麻グミって名前と、販売時の注意事項と年齢確認ポップアップは販売側も購入側も一定の危機回避できる仕組みで頭いいなあと感じた
規制側としては、合法とか脱法とかくだらない言葉遊びにならないように、類似化合物を販売する際の枠組み新たに作るべきなんじゃねえのと思うけど難しいんかね
「精神安定、高揚などを目的とした合成化合物を配合した飲食物の成分表示、販売時の注意事項の明記、年齢(または体重)当たりの許容摂取量の目安の明示」
ぐらいは制度化できそうだけどなあ
現在のように、違法指定かそれ以外かの2択だと、脱法と法規制のいたちごっこでしかないから、中間の枠組み作るのがいいんじゃないかと思うわけですよ