はてなキーワード: 法則とは
63. ベイエリアでソフトウェアエンジニアとして生き延びるために役立っていること
https://anchor.fm/todayilearnedfm
聞いてたんだけど、タイトルとベイエリアとかサンフランシスコとかで働いてる人たちのポッドキャストだから、最近のMetaなどのクビ祭りをどうやって生き延びたか?みたいなゴリマッチョな話を期待するじゃん?全然そんなことなくてがっかりだった。
それに話の進め方や根底にある考えが、気に入らない。
例えば、リーダーシップのあり方について冒頭触れてたところ。Bigtechならではの取り組みってありませんか?と聞き役が頑張って引き出そうとしてるのに、話し手がメソドロジー(方法論)じゃないんだよって全否定してて、えー個人の素質に依存しててチームとしてそういう仕組みは作ってないの?ってがっかりした。
また、SOLIDの法則を例にクラスの抽象化の話に繋げるのはいいけどやっぱりそこから先がコードみたら大体思想わかるじゃん?ってな感じだったり(いやそこで例えばさー開発ドキュメントに残すためにこういう仕組み作りをしててね…みたいに繋がったら美味しいのにそんなことないし、そもそも実装に依存するというところで口頭だと難しいかもしれないけど例を上げもせず流すし)、話の根底に個人の資質に依存してる感じが透けてマジで無理だった。
半導体に関しては、
昔、半導体に関わっていてメディアに移動した人でも、国内半導体に対してずっとダメだしの記事しか書かないことが多い。
「税金つぎ込むのは馬鹿げている」というのは誰でも思いつくものだし、日米貿易摩擦といった過去の話を繰り返すなど、
報道をいくら調べても、戦略を立てるのに役に立たない。ネットの暗黙知も役に立たない。
半導体に関わった人でも、分業体制なので、一従事者から見た範囲の出来事でしかない。
ゴール決めて、「人・金・物」が足りてるかが抜けてるように感じてならない。
あと1つの原因に絞りたがるというのもある。
この増田とはとても気が合いそうだ。
ただ普通に真面目に善く生きたいだけなのに、ちょっとしたことで八方塞がりになり得るというこの社会の有り様に苛立ち絶望してしまうのよね。
要は処理場に着くまでに炎上したり収集車にダメージを負わすような状態にしなきゃどーでもいいんだよ
元増田への批判的なこの意見。「適度に破る」という言い方には抵抗があるが、言いたいことはわかるし概ね同意だ。現実的には、塩梅を考えながら生きていくしかなくて、私もそうやって生きている。
件の状況に陥ったら、私だったら新しい灯油に混ぜるか、新しい灯油を買う予定がなければ、雑巾等に吸わせて一般ゴミで出すだろう(モヤモヤしながら)。
だけれど、私が知りたい(考えたい)のは、「こうすればいい(まぁ問題ない)」という裏技的な、あるいは生活の知恵的な回答ではない。
「自治体で少量から回収している」とかの直球の解決策があればそれでいいが、そうではないのであれば社会システムに綻びとも言うべき解決不能さが内在していることについてどう考えるべきかというという問いこそが重要なのだ。
ここまでくると、直球の解決策(「自治体が回収している」とか)で納得するのは、それが解決策であるからではない。この件に関しては、社会システムの綻びは顕れていないことがわかるからである。
生きていくということは、ルールに従うことではないのは当然だ。
生きることは本来自由だ。自然にルールはない。縛られるのは物理法則だけだ。
とはいえ我々は群れ、社会を形成して生きるヒトである。社会には掟がある。掟は社会を営むための道具に過ぎず、また不完全なヒトが決めたものであるから、不完全に決まっている。だから、それらに折り合いをつけながら我々は生きる。掟は所詮は掟、絶対的なものではないという感覚は、社会の外側があることから意識されるものだ。牧歌的な社会では、きっとそうだろう。
ところが、今日我々が生きている巨大で複雑な(特に近代以降の)社会システムには外側がない。社会システムは我々の生全体を覆っていて、そこから逃れることはできない。ところが、この社会システムというやつは全体性があるかのような顔をしていながら、実際には完全には程遠く、そこかしこに綻びがある。その綻びの発見が、コップ一杯の灯油なのだ。
何に絶望しているかといえば、それはインチキさである。全体性があるかのような顔をして、我々の生全体を縛っておきながら、ところが実は完全には程遠く、そこかしこに綻びがあるインチキさである。
何に竦み上がっているかといえば、それは得体の知れなさである。誰が回しているのか分からない、いや誰もが状況に合わせて振る舞っているだけで、誰一人全体性を把握できていない社会において、適当な塩梅でルールを踏み越えて良いという判断の妥当性をどう確かめれば良いのか。ともすれば、カフカ的な『訴訟』に巻き込まれてしまうのでないか、という得体のしれなさである。
何に苛立っているかといえば、それはこのような社会の抱える欺瞞さに鈍感である人々だ。いかにも我々はこの社会に適応(ルールの遵守)していくしかないが、それが孕む矛盾にどうして恐れや怒りを、少なくとも違和感を持たずに平然としていられるのか。
そんなことを私は思うよ。
生きてる意味が あるとかないとか結構ながいこと言われててその時々の解釈が変わってはいても結局「意味はある」みたいな事になってるよね
実際体感として意味あるのかって考えたら「無い」って現実とのギャップに真理を探求してみるけどふつうにしんどいからやめちゃったりもするよね
まず最初に「生きる意味」なんだけどこれは表現的には形容で行程的には「道具」に位置する部分なんじゃないかな
意味が「ある」から「そのために」生きるという文章になるとまるで意味というのが最終地点に存在する目的かのようだけど実際は道具
出発地点から目的地があってそこに行程があるんだけどその到達までの経過に必要なのが本人と道具と燃料 その燃料や道具の部分が意味なんだよね
意味があるからないから 何々をするわけであって 意味のために何々をするではないよね
そこで目的がないから意味自体の意味 燃料や道具を使う必要性がなくなって 結局人生って何なのだって話なのだけど その道具や行程からして見れば生きるってことは容器みたいなもの
範囲であったり状態であったり行程そのものが「生きる」ってことなので いまはただ生きてるだけなんだよね
生きようとして頑張ってるわけでもないし 死のうとしてるわけでもない ほっときゃ生きてる状態が今
なんにもしないと死ぬわけだけど 死にたくないから生きてる 食べたり寝たりしてる それをやめたら生きてなくない状態になっちゃうからね いわゆる死んじゃう
生きてる中が中空でがらんどうだから何いれてもいいわけ それが生きるってことだね
私たちには生きるしか選択肢が与えられていないし 生きる事しかできないから生きてるだけ
選択しなくなったり行動しなくなったりすれば生きていない状態にはなるかな
食べる意味とか寝る意味とか歩く意味とか歩かない意味とか今日も一日お部屋からでない意味だってみんな生きる意味になっちゃってる
人生ってそのからっぽの容器にいろんなものを入れていくと せっかく入れたのだから出したくない 入れたはいいけど出す先がない とか基本プレイ無料のゲームで始めたのに溜まってきたアイテムがもったいなくて課金しちゃう感じ
最初はみんなゼロだったんだよ 無くしたとしても というか貰ったり借りたりしたものしか中にはいってない 生きようが死のうが別になんの問題もないし価値もない
じゃあなんで生きたり集めたりするんだって話だよね 生きてるっていいなとか大事だなとか思っちゃうんだろうなって話だよね
それは瓶にいれた粉をとんとんしたら目の粗いものは上に偏ったり細かいものは下にいったりするのと同じ 物理法則みたいなものなんだ
たった一つの何かだと何かのままだけど 二つになると関係性がうまれてくる 親だったり友だったり双子だったり相対だったりいろんな風に言えるよね
それが三つだったら 四つだったら どんな定義になるんだろう それはもう秒単位でかわるよね 幾千幾万の関係性が常にうごいてる 動いてる量は熱で測れるよね
何ワットだったり何度だったり何キログラムだったり何キロメートルだったり 何時間だったり 誰々だったり そういう単位なんだ
きみの人生 というのは このビーカーの100ml という表現とベクトルは同じ そのビーカーの100mlとかどのビーカーの100mlとか かつてビーカーだったものの100mlとか
AさんBさんの人生とか 巨匠の人生とか 貧しい人の人生とか そういう単位 そこに砂や小石をひろっていれましょうって話なんだ
場所や状況や条件で入れる砂とか小石は種類が異なるし量も質もかわってくるかもしれない でもかならずみんな100mlなんだ
詰まっていてもスカスカでも軽くても重厚でも1秒を100秒で過ごしたり0.5秒だったという人はいない
そこに絶望だけが詰まっていて1年間だけとか 30年も繰り返してきてこうなったとかこんな程度でしかなかったとかもある じゃあ量が違うんじゃないかって気になるよね
でも同じなんだ 年とか量とかでくらべると違うっておもうから違うわけで 一生っていう一個の単位 命だったものとして単位をつけたら 一個だよね
それが濃ゆいとか重いとか大切とか小さいとか軽いとか またほかの人の人生の行程の中でそれを入れていく これはもうただの動作なんだよね
人生に意味とか重さとか言うのは 100mlって重いの?軽いの?貴重なの?意味は?って事と同じじゃないかな
そういうものなんだと思うよ
生きていたことが他の人の人生という入れ物の中に入っていく限り その連鎖はとまらない
土や水や木とか いろんな生き物とか物質とかが変化したり移動したりしていくうちに近いものや仲間 それを取り込むものなんかが出てくる
関係性が増えたり変化したりするんだね
人間に限って言えば もしそんな生き方をしたらどんな人生になるのか という経験値をためていくために生きて増えるんだね
たくさん増えてたくさんの選択肢からたくさんのサンプルがそれぞれ個別に違うことを経験していくんだ
その中からつづけて変化を継続させたいものが同種を産んで増えてさらにいろんなパターンをあつめてく
じゃあその先になにがあるのとか どうしてそんなしくみになったの っていうのはわからない なんかそういう仕組みなんだ
その根本的原因を探ってもいいし きにせずなにか目先のことにとらわれてもいい
もちろんなんにもしなくても なんにもしないっていう他の人にはない独自の行程がたまっていくからね
人間のつくった人間社会の対価をもって交換するシステムでいえば 食べて寝るだけのなんにもしてない人生には意味がないとかいわれるかもしれない
それは社会が独自の目的と独自の動作をもっているからね 人間の社会ではそれが定義されていないから 未定義のそれには名前がないということを意味がないと言われる
社会になにか求めるのであれば社会的なことをするといいかもしれないね
生物的になら 自分の生命の意味とか価値を大自然に問うてもいいかもしれない キャンプとか旅とかそんなものを使ったりできる
運命について意味があるのかないのかなら 宇宙の根源とかなぜ物質は変化するのかとか ビッグバンの前は物質は1だったのかとか考えてもいい
とりあえずはなんかぼーっとしてたいけどやばいきもするからグダーってしてるのをシャキっとしてパッとした人生に意味がほしいとか思うなら とりあえずはなんか音がうるさい所に出かけてお金をつかえばいいと思う
社会の中ではお金がないとなんにもできないのでなにするにもお金 でも仕事もしたくないしできないしお金がないから意味がないんじゃないか と思うのならばその社会の範疇にないものなら社会が必要とするお金がなくてもいいよね
機微な人間関係とか自然や物質的なものは 社会の範囲は権利か損害かしか定義してない
パトロンを探すとか深い関係性でかせいだお金を使わせてくれる人をさがしてもいいし おちてるもので取得してもいいものを価値あるものとして社会に流し込むみたいな商売してもいいし 加工技術をもってその成果を売ってもいいんじゃないかな
人に迷惑かけなければ社会の仕組みにしばられていきていく必要もないからね 実際社会の範囲内でも縛られてない生き方を最大限発揮してる人はいるんじゃないかな
生きるってことはその空きスペースである人生の中になにか入れていくものだ って話なんだけど そんなの意味なくねってやっぱり思うよね
それは自分がすることについて自分がみても 自分がどうしてそういうことをすることになってしまったのかわからないし わからないことをわかろうとしたり意味をつけようとしても わかんないよね
自分とは何なのか 自分はだれなのかとか意味はとか考えても 自分はわかんない 自分の目から見えて自分で考えられるのは自分の視野にはいる部分だけなんだから 自分を形作ろうとする手段とか材料しか見えないんだよね
ビーカーを入れるビーカーはあっても それはそのビーカー自身じゃないし ビーカー自身は自分のことをビーカーとはいわない
場所や用途によってはジョッキやグラス 植木鉢やえんぴつたてと言われてるかもしれないし そういうものだとしてあるかもしれない じゃあビーカーがビーカーだと言っているのは本人だけで その場のみんなはそうは呼んでないわけだよね
ビーカーはえんぴつたてだ グラスだ 植木鉢だ って「意味」を持たせてるのは 関係性をもった自身以外のだれかや何かだよね
意味っていうのは 自分で自分にもてるものじゃないんだ 他の人の中につくられるものなんだ
長い箸の使い方が天国と地獄で違うって話があるんだけど 天国ではすんごい長いお箸でご飯を食べろといわれて自分の口には入らないから他の人にあげて その人から自分はご飯をもらうんだ
地獄では自分でたべようとしてうまく口にもってこれないから誰も食べれないって話
自分が自分で自分に意味をもって自分を自分で生かせたら 別にこの世に存在しなくてもいいんだよね つまり存在しなくていいから 存在してない
この世にある物はあるものとして確認できて触れて移動できてなにかしらの関係性を築ける ただ存在するだけでも存在するだけという意味をなしてる
存在するものが存在するということを「意味」といってるだけなんだけどね
存在しないものが存在する世界に1点でもあったら そこに存在するものが接触したら存在しなくなっちゃうよね どんどん吸い込まれて無になっちゃう そうはならんやろ
この世が存在するためにどんな端々の小さな粒ひとつでも 存在させるために存在してる
何か反応が返ってくるところにいて 反応が返ってくるというだけでもかなり大きな意味を示して実感するとおもうんだ
それが君の道具であり燃料であり理由であり意味なんじゃないかな
他の人と比べて何々 みたいなことも思っちゃうだろうけど 計測基準の差だよ 仕事してようがしていまいが 遊んでいようがいまいが 比べて勝ち負けを示したいなら示そうが示すまいが とりあえずそこが無でないならそういうものだと思うよ
そういう意味を踏まえて 本当に無が存在したら めっちゃ怖いよね
意味のない人生という人なのか時間なのか現象なのか存在なのかわからない黒い一点に触れたらみんな消えちゃうの
こわくない?
通常、多種類の魚を1つの水槽で混泳させる場合には、徐々に、魚を増やしていく方法が推奨されています。
その際に、気性の荒い魚を先に入れることは避け、性格の穏やかな順に魚を増やしていくのが、魚同士の喧嘩の予防にはおススメです。
後から入れた魚が、気の強い種類の魚だったとしても、「先に水槽に入っている魚の方が強い」という法則が崩れることはないので、魚同士の喧嘩が起こらず、混泳がうまくいくケースが多くなります。
勝手に期待しといて勝手にガッカリするのおかしいけどう〜〜ん・・・
語彙力・リズム感・構成力がめちゃ高だが、常識に分類される知識をすべてパージするギャングスタラッパーもといネットラッパーは以前も書いたが、
今回は別の方
語彙力・リズム感・表現力がめちゃ高で随所に本が好きなんだなぁ感があり純文学アピールもするが、
・・・い〜や・・・どうしたって、そ〜はならんやろ、みたいな・・・
おそらく、この方は文体模写もめちゃくちゃ得意なはずで、萌えオタクなら必ず一度は目にする某作家とぶっちゃけ少し似ている
ただ軽快さは遥かにこの方の方が上で、クリアボイスの歌手が唄うようにスムーズに言葉が入ってくる
『え?今なんて言った?』と全くならない
おそらく、相当、幅広い分野の本を読まれていると思うのだが・・・・まぁ殆どのお話には大抵お約束があるよね?
だいたいログラインで興味を引くような展開になっているわけなのだけど・・・何故それを・・・全無視・・・なのか?
これが、読者に好かれる人物にする法則さえもブン投げていれば、逆に、『そうなんだ』って腹落ちするが、何故かそこだけはぶん投げていない
合わない人は合わない川端康成(ワイは好き)みたいな淡々とした話でも、欧州の監督が撮りそうな何も起きないノンフィクション風の体裁の映画みたいな話でも、
プログレみたいな実験的な話では無いのだわ・・・いや・・・強いて言えば、ボカロの曲でありそうか・・・?
でもよくよく考えるまでもなく、ワイくんもそこそこさまざまなコンテンツに触れておきながら、比喩ではないガチうんこばかり捻り出しているので、