はてなキーワード: オタク差別とは
彼らの
ただ、彼らの気持ちについて一定程度汲み取るべき部分はあるのかなとは思う。
要するに彼らのいいたいことは
「オタクが苛烈に差別されていた1990年代に女性オタクはオタクであることを隠して事実上男性オタク差別に加担していた」
と言いたいんでしょ?
「女性オタクは社会からの抑圧が激しかったので男性のようにオタクと名乗ることは出来ない人が多かった」
って文脈で語る人がちょくちょくいる。
でもこの"言い回し"は社会的な批判を受ける役回りを男性オタクに肩代わりしてもらって自分は影に隠れて利益を享受してたようにみえるんだよね。
「いじめを見て見ぬ振りをした人は共犯者です。」っていう言葉がある。
その前提を踏まえた上で例の"言い回し"をする人について考えると
「オタク差別の共犯者でありながら、現在の自分のポジションを男性オタクより更に弱者に置こうとする卑怯な人」
当時学生だった人が友達グループの中で「クラスの中の気持ちわるいと言われてる男性オタク」の話になってやむを得ず、特定の人の悪口・陰口に付き合わざるをえなかった人はいるはず。
もちろん俺個人としては、そもそもあの時代でも女性かつオタクと名乗っていた人はいたと思うし、そもそも実際に差別行為の主体となっていたのはオタクではないんだから身内で争うのも馬鹿馬鹿しい。
それに、一部の人が隠れていたからと言って全ての女性オタク全体に適用するのは範囲を広げすぎだと思う。
社会全体としては女性は隠れて男性はオタクと名乗っていた傾向にあったとしても、局所的には逆パターンもありえた。
つまり、女性オタクがオタクと周りから蔑まれていた状況で男性オタクが鳴りを潜めていたパターンは極普通に存在するだろう。
という主張はしないし、ちょっと理屈でいってもありえないかなとは思う。
ただ
「女性オタクは社会からの抑圧が激しかったので男性のようにオタクと名乗ることは出来ない人が多かった」
という"言い回し"をする人(女性というわけではなく)に関して若干もやもやした感情を抱くことは俺もあるかなとは思う。
フェミもオタクも、お前らのアレをアレしろよ、といわれてもほぼ不可能ではないだろうか
例えば私は鉄道オタクですが、撮り鉄を排除できないなら鉄道オタク全体が~とか言われても、ぶっちゃけ身内にいないしなんの手立てもない。
いや、それこそ人はカメラのファインダー越しになるとダメになるのだ、投稿系のカメラファンのやらかし最近多いでしょう、マスコミも、とか
というかそもそも今の女性権利ウーマンがどんだけミサンドリーだったとしても女性への差別がないことにはならなかろうし、
オタク差別のときのように、仮に女性をモノ扱いしていることが多く現代では数的な圧力をもっていたとしても、それを理由に差別されてないことにはならないだろう(英国の労働者階級とかどうなる、かの国のだいたいの差別のマジョリティであり時代につれ力をつけてきた多数派だが労働者階級に差別がないわけではあるまい)
各自が持っている被害者意識はある程度合理性があるので、被害者妄想と告発の無効化するレッテルを貼ることなく、妥協できるラインがあればいい
みんな「見たくないものは自分は見ない」で生きてる。それを他人に押し付ける正当性も合理性もない。
この件で「オタク差別」なんて関係ないんだよ。「フェミ」すら実は関係ない。
あるのはただ、「自分の嫌悪感を娘に代弁させて排除を目論むクズ」「他人の人権を奪おうとするクズ」と「その非を問う人間」だけ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/twitter.com/anatatachi_ohno/status/1044032566179721216
これでもすれ違い続けるのには絶望すら感じるな。
あえて性差別的な書き方をすれば、この件は女性の本能(性的リスクが高く自己保存意識が強い)と男性の本能(強烈な性衝動を処理するために形を必要とする)の両方が起点だから、
本当ならそのレベルから説き起こす必要があるんだけれど、それ今のご時世だといくつものタブーが引っかかるし、みんな本能的感覚の言語化をまともにトレーニングされてない。
例えば実際にその女性が性的被害に遭ってるかと関係なく、本能的にリスクの存在を直感するとアラートが鳴る(→嫌悪感として自覚)
これは自動的な物だから8歳の子でも起動する。多分そのうちシュナムル氏も思春期になった娘から嫌悪されるようになるだろうが、構造はそれと同じ。
性の問題って感情の深い部分に直結していて、愛情や自信、尊厳の感覚までも性と繋がっていて影響を受けるから、ここを攻撃されるとどちらも人格防衛のために過剰に反応しやすい。
その強烈なもやもやや本能的嫌悪感を言葉や論理に無理矢理乗せるために、オタク差別だの性的消費だのが持ち出され、社会的な被害者意識と接続されて余計にこんがらがっていく。
思春期の少女が内面の父親への嫌悪感を合理化しようと、あの手この手で理屈を付け正当化するのに似たことを両方がやってるんじゃあるまいか。
オタク差別だの表現の自由だの、そんな事に一生懸命になれる脳の構造がうらやましい。当人にとっては死活問題なんだろうけど、俺にとってはかなりどうでもいい。ミソジニーだのフェミがどうとか、それが目の前に差し迫った問題であるって認識という事はすごく平和なんだろうなと冷笑してますよ!ほら、俺冷笑系ですごくね?
ジャポニカ学習帳が、虫の写真を嫌がる子供がいるから虫の写真を使うのを止めた、って話にも猛反発してた辺りからして
エロが規制されるのが気に食わないとか、オタク差別が気に食わないとか、そういうんじゃないよね。
自分がジャポニカ学習帳使う年齢でもなければ、その年齢の子供がいる訳でもない連中にとって
ジャポニカ学習帳の表紙なんか本来はどうでもいいし何の関心もないだろうに。
ただ、「虫の写真を嫌がる子供は殆どが女の子だろうし、それに苦情を出すほど子育てに関わっている大人も
小学校教師以外だと殆どが父親ではなく母親だろう」と想定される中で
とにかく「女が何かを主張するのが気に食わない」「その女の意見に企業が従って何かが変わるのも気に食わない」だけだろ、あいつら。
今回はたかがポルノ表紙が批判されたことに対して「オタク差別だー」だもんなあ。ポルノ表現は少なくない女性差別的要素を含むものだし、全年齢対象で表に出せば当然それなりに批判を受ける可能性がある。で、今回、多くの人の目にとまって議論を呼んだ。ただそれだけの話ではある。批判されたくないなら最初から全年齢対象らしくもっと穏やかな表現にするべきだった。ラノベであっても性的でない表紙を採用しているほとんどのラノベは批判されてないのだから。
ラノベ全体が批判されてるとか曲解する人間が必ず出てきて「そうじゃないラノベもある」とかいう反論をするけど、批判されてるのは「ラノベの中でも女性差別的な性的描写がきつすぎる表紙を採用した一部のラノベ」(の表紙)だけなんだよ。一部のやばいやつを、このままやばいまま売りたいならゾーニングして普通のラノベとは分けるべきじゃないでしょうかという話でしかない。これがラノベオタクの頭の中でラノベの規制問題に勝手に発展して、オタク差別になっちゃうっていうのがなー。女性が女性差別的な表現を不快に思うのは当然だし、オタクもそういうきつい表現を不特定多数の人の目に触れるところに置くのは自重する(ことに賛成する)、くらいの思いやりはあってもいいんじゃないの。
まず、この日本で日本人の成人男性は圧倒的強者なんだよ。その前提が欠落している気がする。「強者が弱者に配慮する必要などない!」という意見もあるだろう。でも世の中にはそういう意見に反対する人たちもいて、人権を拡大するために頑張ってきた歴史がある。社会全体で弱者に配慮して、彼らにとっても生きやすい世の中を作っていくというのが文明社会なんじゃないか。長い時間をかけて血を流して人類はそういう段階までやっときた。それなのにオタクたちは「俺たちこそ真の弱者だー」とやって議論をひっくり返している。これはほんとに現代人として呆れてしまうというか。抑圧し差別してる強者の側がむしろ被害者面するという醜悪な構図。まあとても日本人的な振る舞いとは言えるが。
基本的にはまずは強者が譲歩するべきだ。それが正義だ。なぜ弱者である女性たちに自分たち強者に対する配慮を求めるのか。ポルノ絵でまず最初に一方的に女性に殴りかかっておいて、批判されたら「オタク差別だー」「表現規制だー」「弾圧だー」といって騒ぐ。この一方的な構図が不正義だと思わないのか。しかも今回フェミニスト側が言っているのはかなり譲歩した穏当な意見でしかない。出版することをやめろだとか、規制しろなんて意見はなくて、「性的な表現のきつい絵を子供の目につくところに置かないでほしい」という極めてありふれた素朴な意見にすぎない。
「お父さん、これ気持ち悪い…」というツイートを発端にもう何度目かわからない表現の自由論争が巻き起こっている。
ただ今回の問題、いつもとちょっと様相が違うのではないだろうか?
というのもこれ、数多ある意見・見解を突き合わしていくと、事の本質は「ある人たちにとって不快感を催すものがそれを見たくない人の目に入ってしまう場所に置かれていることへの是非」に収束する。
それがラノベなのか、それともBL本や女性誌であるかどうかや、表現されてる内容が教育的に不適切か否か、はたまた昔に比べて今は云々、女性蔑視、オタク差別等々は枝葉の議論に過ぎない。
敷衍するとこの問題の第一の当事者と呼べるのは、「過激な表紙の本を目立つところに並べている特定の書店の担当者」と「見たくないものを見せられてしまっているその書店の利用者」であり、「過激な表紙を描いている人(創作者・表現者)」や「過激な表紙の本を作っている人(出版社)」の当事者性は一段低いところにあるのだ。
だから「本屋で不快感を催す人」と「表現自由を守りたい人(創作者等)」がいくら言い争ったところで、微妙に話が食い違うだけでこの問題はなんら前進も後退もしない。
つまり、この論争はいくらやったところで決着が付くはずもないもので、こんなものはさっさとやめるべきなのだ。
...で終わってしまうと本当に無益なので、問題解決の一助になればと、拙いながらも私見を披露したいと思う。
先に述べたように、この問題の当事者は「過激な本を並べる本屋」と「不快な思いをしているあなた方(やその子供)」だ。
ゆえに本当に今の状況をどうにかしたいのであれば、ネットでブツクサ言うのではなく、その本屋に直接クレームを入れるべきだと考える。
本屋さんを利用する一顧客として、「子供の目に映るところにああいうの置いてあるとちょっとアレなんで少しばかり置き方を考えてもらえませんか」と苦情をいれるのだ。
もし反応が悪かったり個人で言っても効果がないなと感じたなら、子供の通うPTAに掛け合って不健全店舗として校則なりに指定して子供が行かないよう指導してもらうように活動する。
ちなみに出版社に苦情を入れるのは無駄なのでやめたほうがいい。
過激な表紙の本を売る出版社にとってあなたは別に「お客様」ではないからね。
(もちろん、書店への苦情が功を奏して売り場改装がすすめば出版社も最適化して穏当な表紙に変えていく可能性はあるが。)
あくまでもそのお店の利用者として、あるいはそのお店を利用する子供の保護者として、意見しよう。
お店だって「大事なお客様の貴重なご意見」なのだからきっと何らかの策は講じるはず。
さて、ではもしあなたの身近なお店に過激な表紙の本が売っていなかったり、売っていたとしても目立たないところにそっと置かれているのであればどうするか?
それは幸運にもあなたはこの問題の当事者ではないということだ。
この一連の論争に参じても、時間と精神を浪費するばかりで何も得られるものはないから、心の平穏のためにもこれ以上追うのはやめよう。
最近りゅうちぇるさんから火のついた、タトゥーを叩く流れと擁護する流れがあるなぁってTwitter見てたら
叩く側は「ルーツは反社会的勢力に繋がるし、威圧的で怖い、そもそもいかついやつしかいれてないじゃん」と言ってて、確かに。と思った。
擁護する側は「それとタトゥーそのものを叩くのは筋違い。身体の自由の侵害だ!」と言ってて、こちらもなるほど。と思った。
まぁ主義主張は様々あるけど乱暴に言えばタトゥーに対する「社会、世間一般のイメージ」と「個人の趣味」の殴り合いみたいな印象を受けた。
で、時間軸をもうちょっと前に遡って、表現規制の話が盛り上がってだったかな?オタクがパブリックエネミー呼ばわりされたことを思い出した。
あれはコンテンツの加害性から話が発展して「ロリコンとか女性蔑視とか良くない価値観を持ったオタクが多い!」「それに加えてオタクどもはその構造にたいしての自浄作用を持たない」みたいな論調に「その価値観を持つ人間とオタクコンテンツをいっしょくたに語るな!」「そもそもロリコンはいけないのか?」みたいな反論をしてたような気がする。詳しくは覚えてない。
これも結局はオタク、オタクコンテンツに対する「世間のイメージ」と「個人の趣味」の殴り合いみたいな話なんだろうなと思う。
で、時間軸を戻して今。
なんかTwitterをみていると今タトゥーを擁護している人は昔オタクを叩いてて、今タトゥーを叩いている人は昔オタクを擁護してた人な気がする。全員いちいち確認はしてないけど、観測範囲だとタトゥー擁護派にはけっこう強めにオタクぶっ叩いてたので覚えてる人がいた。タトゥー叩き側には名前にパブリックエネミーとか入ってる人がいた。台本交換したのかな?って感じだった。
こうすべきだ!みたいな偉そうなことは特に考えてないしもちろん別の問題だ!って言われたらそうなのかも。別になにも調べてない。オタクもタトゥーも当事者は「個人の趣味」だし「誰にも迷惑をかけてない(?)」ものだからほっといて!って言ってるみたいなのでほっとこうと思う。