はてなキーワード: ボトルメールとは
[B! 表現] ほとんどの人は、そもそも表現者になりたいとは思ってないのでは - ふろむだ@分裂勘違い君劇場
100文字に押し込めてしまったときに溢れだす部分が少しでも正確に伝わらなくなることに耐えられないから。
いいバトルだな。
俺も混ぜろよ。
タイトルと少しの間だけ矛盾することを許されるなら、多分俺は「(凄い)表現者になりたい」んだと思う。
でもそれは俺が望んでいることを実現するための手段として手っ取り早く一石三鳥出来るのが「(凄く売れっ子な)表現者になる」だからというだけだ。
まず、俺は大金が欲しい。
仕事辞めて好きなことだけして生きたい。
美味しいものを食べたいってほどじゃないけど、ふとトンカツを食べようとした時に余計なものがチラついてチリチリしたくない1ミクロンだって。
勉強したくなったときに専門書の値段を見てビビるような人生をやめて、一流の家庭教師を当たり前みたいに雇ってみたい。
とにかく金があればなんとかなる。
次に叶うならば神になりてえ。
神っていうのは人間を辞めて神話のそんざいになりたいとかじゃなくて、「ジャンルの神」ぐらいの立ち位置だ。
その界隈にいる人類の中で最上クラスの完成度で指先から直接発射するように出力したいものを飛び出させたいんだ。
はじめに言葉ありき、ヒカリアレのたった一言で宇宙を包む無数の光子が概念として生まれだしたと聖書は語るけど、これに近いナニカになりたい。
俺が「こういうの欲しい」と思ったら、次に意識が戻ってきた時にはそれが目の前にあって欲しい。
俺が選んだいくつかの限定的なジャンルだけでいいから、そのジャンルの全能になって脳が欲しいと思った物が現実にこの手の中に生み出せる存在になりたい。
俺は神になりてえ。
ただ単に、俺が思ったらそれが実現させてえ。
俺は人付き合いが苦手だ。
職場で人とすれ違うのさえ嫌で必要以上に距離を離して壁に身体を擦り付けるようにあるいては「当てつけか!」と怒られてばかりのダンゴムシだ。
理解したいという気持ちはこの世界に無数に散らばった創作物から作者の言いたかったこと探ししていれば何とかかんとか満たしていける。
でも理解されたさを満たすには誰かに自分をさらけ出さなきゃ駄目だ。
誰かの理解されたさと理解したさ、人に理解してもらえる人間であることの確認と、人を理解できる感受性の再確認、そのためのイニシエーション。だろ?
俺はそれを直接自分の体を人前に晒さないで少しでも済ませたいんだ。
だから創作物に自分ヲタクしてボトルメールを流す見てーな気持ちでこの世界に投げ込んで返事を待つんだ。
アマチュア無線が一時期あんなに流行った理由なんて結局コレだよ!
帰ってくる返事がカーテンの揺らぎだって俺が「届いたんだ!」」と思えればそれでいいんだけど、でもできれば「これはカーテンの揺らぎじゃない!本当に届いたんだ!」したいんだ。
そのためにはとにかくランダムアクセスの絶対数を絶対的に増やし続ける以外の近道はないだろ?
そうした欲望を叶えてくれる手段として「超有名な表現者になる」ってのは全く持って理想的ではある。
「表現者」そのものはともかく一握りの「有名な表現者」になれたら、きっと金と知名度が手に入る。
出張先の土産でとりあえずモンド・セレクションを受賞した中から選ぼうとするように、噂が噂を読んで、顧客が顧客を増やしてファンが生まれて、金が俺の懐に次々入ってくる。
そして俺は、仕事を通して金と存在意義を目指す必要がなくなったことを感じて、自由を手にするんだ!
あとはもう自分次第だろ?
手にした自由の大きさに振り回されて、何者でもなかったという自覚だけが自分のたった一つの武器だったんじゃないかって毎日後悔してるような人生が待ってる可能性だってあるけどさ。
もしかしたら俺は手にした自由をちゃんと強くなるために使って、強くなって、強くなって、強くなって、ある日ふと神に辿り着いてたって気づくかも知れないだろ?
神になる近道なんて時間と自信なんだよ結局は。
表現者として生きることが出来れば、表現し続けるために生きることが出来るだろ?
な?
誰だよこのさも「超バズってて大金持ちになってフォロー10人なのにフォロワー100万人のアカウントがないと表現者じゃないですよ」みたいな意味分からね―言葉の定義を始めた日本語下手くそ侍はよぉ!!!!
まあええわ。
でもそもそもさ、俺は「表現者になりたい」が目的じゃないんだよ。
俺の目的は最初に言ったように「大金」「神になること」「無数の消費者」でしかないんだ。
じゃあ、俺はどっちなんだろうな。
「表現者になりたい」でいいのか?
それとも「表現者になりたい」ではないのか?
は?
知ってるけど夢は見てもいいだろ?
他の歌手やバンドだと”世の中”だったり”知り合い”だったりに向けて歌っていることが多くて、”独り言大絶叫”みたいなのも多いんだけどアイドルは毎回高濃度で”観客”に向けて歌いかけてる。
恋愛ソングを歌うときであっても、観客に向けて恋愛をしている時の感情を伝えるかのように歌うし、それが変な刺さり方して勘違いするストーカーも産まれる。
アイドルの定番が”応援ソング””意思表明ソング”なのは、歌詞が向いている相手が”観客のファン(未来のファン含む)”だからなんだな。
アイドルってのは”偶像”という言葉が示すようにある種の”宗教集団”を作り上げることがコンセプトにある。
神父が教会で「神があなた方一人々々にかけた言葉を代弁します」と経典や聖書を読み上げるように、アイドルは聞いてる”信者”たちに向けて歌う。
そういった同じ目的のために集まって盛り上がったりしたい人はアイドルが好きになりやすいんだろうなと思う。
普段はそうじゃないけど、そういったことに憧れがある人ととかも。
でも自分は全然違っていて、あくまでこっちは無関係な立場で居たいんだよな。
アイドルがテーマのアニメなんかだとメンバーが仲良くなる過程とかが描かれるけど、それでもあくまであれって最終的には観客に最高のパフォーマンスを見せるための過程なんだよね。
サッカー漫画でチームメイト同士で交友を深めることはあっても、その最終的な目的地はアイコンタクトの精度を上げて試合の勝率を高めるための過程として用意されているような感じ。
現実のアイドルにおける関係性は、”観客”が好みそうなストーリーを用意してその設定を崩さない中で積み上げていってる感じで、実際に楽屋でどうなってんのかは割りと闇なのよね。
全ては”観客”のためにっていうオール・フォー・ワンのプロ意識は立派だけど、それをやられると作り出される”物語”の中にこっちがドンドン巻き込まれていってしまうことになるのがしんどいなと。
何も音楽っていう表現に対して全く何の感情も動かしたくないって訳じゃなくて、あくまで共感までに済ませたいってのが自分の立ち位置。
浜辺に流れてきたボトルメールを読み解いて書いた人間の気持ちを想像するような状態が理想。
相互性のない一方的なコミュニケーションを受けとめるだけで終わってくれることを望んでいる。
でもアイドルってライブにおけるサイリウムの一体感があって初めて完成するわけだから、本気で追っていこうとしたら集団の一部として巻き込まれることは避けられなくなる。
それを避けてしまうと歌われている”観客”ではなくなってしまうんだよね。
最初から自分以外の何か、バンドの親戚だったりこの世界の不条理だったりに向けて歌われているなら、自分がソレとは無関係になっても最初からそうだったので変わらない。
でも"観客"っていう自分が参加できるかどうかを選べるようなものに対して、自分が参加を拒んでしまうと聴き心地が変わってしまう。
どちらの道を進むかの選択肢がこっちに委ねられている。
一方通行ではなくこっちからボールを返すタイミングが産まれてしまっている。
そのタイミングが来たなと感じると、自分は思わず逃げ出してしまう。
「参加する機会を与えられる」ことに対して、「切り離しておいて欲しい」という価値観が反発を起こしてしまうんだよね。
定食屋で店員に顔を覚えられたくない、服屋で店員に話しかけられたくない、そんな気持ちの延長みたいなもんだね。
つまりは、「会いに行けるとしても、会いに行きたくない」んだよ。
導線の作り方がおかしいっていうか、自分と他人が別の人間って理解してないんだろうなって。
正解のルートを先に知ってないと無駄にグルグル移動して回らないといけないような作りになってたり、次のステージに行くルートが全然伝わらなかったり。
ゲームってボトルメールみたいなもんっていうか、最終的にはプレイヤーと作り手のコミュニケーションだと思うわけよ。
アスペルガーの人はプログラムは上手いのかもしれないけどゲーム作りには向いてないよね。
アプリのUIとか作らせても他人と自分が別の人間だって理解できないんだろうなって人は超下手くそ。
「使い慣れてれば場所なんて自然と体が覚えますけど?」じゃねーんだよ。
まあ実際に何度も使って体で覚えるようなアプリだとまだマシではあるんだよね実際に体で覚えりゃいいのは事実だから。
でも基本的に一周クリアして終わりのゲームでそのセンス出されるともう最悪ですわ。
ユーザーは初めて体験するステージなのになんでデバッグで何周もプレイしたお前の前提でやらなあかんのやっていう。
あーマジ最悪だわ。
もう逃げ切れねえな。
必死に笑いを取ろうとして失敗した。
痛いやつだと笑われることはいくらでもあった。
センスのいいことを言おうとして失敗し続けた。
頭がいいと思われたくて必死になりすぎた。
サクラ大戦やったことある人にしか分からねと思んだけど ←ほらこういうのがもう駄目
あのゲームって選択肢がいくつか出てくる間画面のふちに導火線が走って残り時間が表示されるのよ。
それで時間切れになると強制的にバッドコミュニケーションになるの。 ←ほらこういうのアイマスやったことねーと分からねえのに注釈もねえ
俺の頭の中はいつもそんな感じで必死に面白い選択肢選ぼうとした結果いつも爆弾が爆発するの。
じゃあ適当に安全そうなの選べよってなるけど「はい」「わかります」「ありがとうございます」とかなの。
でも時間切れで爆発すると最悪なので必死に「はい」「そうですね」で切り返すの。
マジつまんねーなって俺も思う。
逆に俺からすると他の人が言ってることも別に完璧じゃねえんだよ。
「マックって美味すぎるよね」
みたいなお題が突然来るとするじゃん?
まあ俺はそこで「値段の割には?」「値段関係なくジャンクフードとして絶対的に?」「他のバーガーと比較して?」「そもそもハンバーガー類を総称してマックを代名詞として使った?」「これは食べに行こうって話か?」「いや、実はマッキントッシュの話?」「マクドナルドが濡れ手に粟で稼いでてズルいって話?」「買ってこいのパターン?」「何かの前フリ?」「世界一売れているからって話に繋がる?」「ただの雑談?」「そもそも何と比較して?」「単に同意すればいい?」「同意した途端にやっぱコイツ舌馬鹿じゃんって返す気?」「いや、それとも他の人を舌馬鹿と煽るためにこっちの同意を利用しようとしている?」「つまり不味いというのが正解?」「はい」「わかりません」って無数の選択肢が見えてもう何も分からなくなって「はい」っていうんだよ。
それをコミュ障って言われるんだよね。
でも「話の流れがわからねえ」って返すとそれはそれでコミュ障なんだよね。
もうさ、分からねえよ。
「俺の脳内を超能力で読めないお前が悪い」って言われてるのと変わらねえから。
そういうのが本当に悔しくてさ、違うよお前が表現力ない分を他のやつが必死に補ってくれてただけだろうがよ他人に甘えてる自覚がないお前がゴミなんだよ、って、怖いからソイツらには言えなくてさ。
でも段々と不安になってくんだよ。
俺が間違ってんじゃねえかって。
でも無理だったよ。
俺は小説家になろうでまともに伸びずにぼろぼろになって終わってアカウントも消した。
今は作り直した垢で最後に一言愚痴って全部止めようとこれ書いてる。
非言語コミュニケーションとか言語コミュニケーションとか俺にはよく分からねえ。
でもなんとなく、言語コミュニケーションに限定すれば俺も勝てるんだって心の神棚に飾って毎日祈ってたんだ。
でも違ったんだ。
やっぱ俺駄目だったんだよ。
それを認めねえと前に進めねえって気づいたんだ。
俺は駄目なんだ。
コミュ障なんだな。
どうしたらコミュニケーション取れずに生きられるのかっていつからかずっと妄想してる。
たとえばマトリックスみたいな世界になったらさ、仮想空間の町の中で何度も餓死しながらコミュニケーションから逃げても死なないからまあ大丈夫じゃん。
そこまで行かずともベーシックインカムとか生活保護みたいのでいけるかなって妄想もしたけど、駄目だったよ。
だって窓口で申請しようとしたらそこにコミュニケーションが産まれるだろ?
全部が自販機を押すようにアマゾンで発注するように完結するならイケルんじゃないかって。
でもそういう世界にはなってねえだろ。
でもどうにかならねえのかな。
生きていくこととコミュニケーションの結びつきが強すぎるんだよ人類は。
そもそも親に育てられてるやつ多すぎだよ。
植物は、なんなんだろうな。
でもアイツら本当にコミュニケーションしてねえのか確信が持てねえんだよな。
結局アイツラの身体にも電気信号は流れているわけで、それで交信とかしてるとしたらやっぱ駄目じゃねえか。
俺はコミュニケーションしたくねえんだよ。
いや、したくねえわけじゃねえんだ。
ミットにめがけず投げあったボールを勝手に拾って勝手に投げ合うだけの世界でいいんだ。
全てがボトルメールみたいに誰あてかも曖昧なままで終わって欲しいんだよ。
読み返したわ
実は今まで小説とか描いても怖くて読み返してねえんだわ
いやー読むと分かる
これは駄目だ
文章の書き方に型がねえな
型破りってわけでもねえし天衣無縫でもない
継ぎ接ぎだ
よく小説の修行で好きな作家の書き方を真似してやってみろっていうが
アレはつまる所その作家の型を真似て書くことで「型にそって書く」という感覚そのものを身につけるために合ったんだな
真似ることの最終目的は「自分がイメージする理想の自分」を演じられるようになることで、その準備としてまずは既にイメージの固まった作風を真似して演じるという概念を筆で理解するってことか
分かってきた
分かってきた折れた筆を取り直すのもダルいな
つうか好きな作家とか居ねえよ
だって俺が好きになる作家ってつまりは俺が描きたいことを俺よりうまく描けてるってことだしつまりは目の上のたんこぶだろ
俺は最強に成りてえんだ
さっき諦めと言って何いってんだって話なんだが俺としてはやっぱ作家とかになりたいのは俺が最強であることを証明して俺は最強だから絶対にコミュ障じゃねえって俺の中に植え付けられた最悪の敗北感を屈服させることなんだよ
でもあれか
いやそうなのかも
いやそもそも悪役とかそういうのですらないんだろうな
なんでもないんだ
マジで無なんだな
その上でコミュ障なんだ
産まれてきたのが間違いだな
俺さ、「生きててよかった」みたいなのが大嫌いなんだよ
だって「生きててよかった」ってのは「死んでたほうが良かったか」って疑問を掘り起こすじゃん
生きててよかったと死んでりゃよかったでポイントを比べ合おうと頭が動き出すじゃん
すると今までに感じてきた死んでりゃよかったが次々思い出されるだろ?
それどころか他人の迷惑になるから死んでたほうが良かったのかとか振り返らされるじゃん
なんで「超気持ちいいーーーーー」とか「死にたくねえ!だってゲームやりてえええ!!!」とかで終われるものをさ
いちいち「生きててよかった」なんて言い方にするんだ
こういうことに無頓着で想像の翼が生まれつきへし折れて出てきたカスどもに「お前、コミュ障」とか「つまんない」って言われるのマジで許せねえんだよ
やっぱ屈服させてえよ
「お前、マジで面白いしコミュ力すごいっす。僕が間違ってました。そんなことも思いつかないほどにカスでした。無知の知の逆ですね。言い方は知りません。バカだから」って言わせてえよな!!!
言わせてえよな!!!!
言わせたかった………
本当に悔しい……
「Q.円周率の第10桁目と20桁目と30桁目は?」
「Q.2の平方根の第10桁目と20桁目と30桁目は?」
「Q.完全数を答えよ」
は?
もう死ねよ。
完全に萎えるわ。
これが許されるのはVIPRPGまで。
ニコニコのツクールゲーですらこれやっただけで☆5入れようとしてた人が☆1に入れ直すわ。
マジで脳が終わってる。
すげーよ。
この要素だけで完全にクソゲーだもん。
ゲームって究極的には作り手と受け手のコミュニケーションじゃん。
「わからん殺しいいよね……」「いい……」
みたいなのを延々と楽しむ遊びじゃん。
言ってしまえばTRPGにおいてGMとPLが「ほぅ……久しぶりに楽しい卓になりましたね」「いやーわかりみがあふれる」って出来るかどうかの世界をボトルメールのような形でやる文化じゃん。
それでいきなり「さ~~て剣と魔法の大冒険の途中ですがクイズです!僕の大好きなスポーツの最強チームの歴代スコアは~~~~」とかやられたら一気に冷めちゃうじゃん。
まあ確かにゲームでいきなり「アイドルたそまじカワユスな~~拙者開発チームで一番のキモヲタにござるぞ~~話聞いてくれたから10ゴールドあげちゃうぞなもし次回作もしくよろ~~」とかやりだすキャラはいるけど、それだって通行人が突然狂っただけだから許せるわけじゃん。
マジメに問題文とにらめっこしてたら「それなwwww実は俺のめっちゃ好きなスポーツの点数書いてんwwww」とか言われたらキれるでしょ。
マジさー違うんだよね。
世界観を壊してほしくないのよ。
壊すにしても、壊してるって自覚とお互いの同意を持って壊して欲しい。
こっちがマジメに「むむむ……これも地図読み人のスキル……この世界の冒険者はこのレベルでダンジョンを研究するゆえ……」ってなれるラインの中をさまよってるのに突然現実を持ってくるなよ。
マジでうぜー。
いや、面白いパターンもあるがお前はマジでつまらないとハッキリ言うわ。
ハッキリ言う。
公務員人でもなってろ
ボトルメールか。いつか嫁が同じ人に届くといいな。
わかるー。俺もSNSにありがちな「求めすぎる姿勢」にはちょっとなーと思う。別におならが臭くても嬉しくはないが。
誰に届くかわからない、反応もない、見てもらえるかすらわからないけど、外の世界に放り投げてみようっていう、外の人間と繋がりを持つにしても、そういう慎みの精神が足りないんじゃないかと思う。
肥大化した自我を周りに押し付けながら「承認されたい!分かってほしい!」だなんて、傲慢もいいとこだろ。
あと、ネットのせいかなー、これはなんにも根拠ないんだけど、「相手にわかってもらえるように伝える能力」の低下がかなりひどくなってると思う。どんだけ適当に書いても、自分と同じ見解の人間、わかってくれる人間がネットを使えば苦労せず簡単に見つかるから。
はてな匿名ダイアリーって、ボトルメールみたいだよな。ネットの海に匿名で流す。
まだ少しだけ残っているけどもうほとんど残ってないよね。
どうしようもない人間がどうでもいい事書いてるだけの日記帳サイト。
役に立ちそうな話をしてる人だらけになってしまった。
お前のどうでもいいリアルのどうでもいいアニメの感想を偉そうに語ってみせてくれる日記はなくなった。
でもSNSにあるのは何かが違うんだよ。
というか、SNSという物の性質が俺の求めている物をどうしようもない人間から奪ってしまうんだ。
社会性、人との繋がり、見栄えを気にした生活、そういった物を次々に供給してしまう。
俺は寂れてホコリを被った廃墟を見に来たのに、廃墟マニアの人が足繁く通ってゴミ拾いや清掃をするせいで滅びているなりに小ざっぱりとしてしまっているのが嫌だ、みてーな感じかな。
駄目だなまだ言語化しきれてねえな。
しばらく後に再チャレンジっすか。
とにかく俺はさ、素人がHTMLカチカチ打って日記を更新していた時代にあった孤独感が好きなんだよ。
今の世の中は孤独さが薄れすぎてる。
インターネットが人間同士を天網恢恢疎にして漏らさずと言わんばかりに徹底的につなげてしまうから、どうしようもない奴らの距離感が近くなりすぎてるんだ。
まるでボトルメールやアマチュア無線を送り合うような、交信をしている相手はいるけどその間をガラスのような強固な障壁がはっきりと阻んでいるような感覚、あの頃確かにあったそれが今の風通しが良くなりすぎた世の中にはねえんだ。
空気の淀みが足りねえ。
誰もが近すぎる。
時々増田を覗きに来る。
思いつくままにどうでもいいことを書いてみたりする。
読んでも書いても、ほっとする。
ほっとするって言うと変かもしれないんだけど。
自分が書いたどうでもいいことにレスやブクマしてくれる人がいたりする。こんなことに反応してくれる、顔も知らない人がいることがなんだか嬉しい。
いろんな人のいろんな考えや思いや落書きみたいなものが流れていって、ほんの少し人生模様を垣間見たような、スクランブル交差点の真ん中に立ったような、なんとも不思議な気持ちになる。
心がギスギスするような文に出会うこともあるけれど、時々ビックリするような、読めてよかったと思える名文に出会えたりする。
増田やっぱ好きだわ。
ボトルメール交換アプリとして怪文書のやり取りを楽しむものらしいがまだ何が面白いのかは掴めない。
何が起きているのか調べるとどうやらこのゲーム(アプリ)が動画広告をちまちまダウンロードしているらしい事実に辿り着く。
アプリを買わないと広告が表示されるけど、広告をガマンすれば無料で使えるよというアプリは今までもあった。
しかしここまでのペースで動画広告を落としてきてパケットを喰らい尽くしてくるアプリは始めてだ。
動画広告というユーザー目線を捨てた発明+アプリを無料提供しつつそれなりの収入を得たい作者の気持ち+スマホのパケット制限
最悪の組み合わせである。
だがそれを普通の広告と同じ感覚でスマホにバシバシ投げつけるのはどうかしている。
頭がおかしい。
こんな嫌がらせをしてその商品やサービスの購買意欲が湧くと思っているのは頭がおかしい。
ヘイトを稼いでるだけの行為を最新の広告スタイルとして売り込まれて納得している広告主も頭がおかしい。
頭がおかしい。
2017/04/12 追記
http://anond.hatelabo.jp/20170412233837
↑お久しぶりです。書きました。
先日「寝ぼけてピンクローターを買ったかも知れない」とこちらに書き込んだ25歳処女ですが、今朝方、無事にピンクローターが届きましたので、早速試して使用感をご報告したいと思います。
まず、注文したのが23日、この日は祝日ですので、まあ実際買っていたとしてもしばらくかかるだろうと思っていたら24日の朝には注文確定メールが届いており、また夕方には配送完了メールも続けて届きました。迅速すぎる対応に恐れおののきつつもメールをよく読むと、ラブグッズの使い方を具体的に説明してくれるページや、エッチな漫画が読めるページなどへのリンクが貼ってあります。商品が届く前から気分を高めてもらおうというショップ側の気概に涙が滲みます。エッチな漫画は私の好みの作風ではなかったのでエロ広告を見るのと同じ目で流し読みました。バイブを使用してひとり感度を磨いていた女性が「こんなに乱れる○○、見たことない……エッチで可愛いね……」と彼に耳元で囁かれてビクビクと達するシーンには思わず私も震えました(バイブだけに)。私もこんなふうになるんだろうか。正直怖いしこの彼氏もなんか怖い。
さて、世間が緑と赤と性欲と怨念に包まれに包まれた本日、神のひとり子イエス・キリストがきったねー馬小屋で産声を上げた聖なる日に、とうとう私の住むアパートの宅配ボックスにその包みが授けられました(所在無く家にいましたが、真顔で出られる自信がなかったのです)。ぱっと見Amazonと大差ない小さな段ボール箱ですが、よく見ると随所に配送業者へのメッセージが仕込まれています。ピンク色の「大切に届けていただき、ありがとうございます!」という先回り感謝メッセージは公共のお手洗いで散見するものと同種で、しかし何か暗い思念のようなものを感じます。考えすぎでしょうか。とにかく「受け取る本人以外にバレない」ための工夫がこれでもかと仕込まれており、「優しさの塊」が届いたと言って過言ではないでしょう。「っていうか、箱についてグダグダ長々書いてねーで、さっさとそれを体に当てがってあんあん言ってるところを実況しろよ」と思われている既に履いてない紳士諸君には大変申し訳ないのですが生憎私は本日死ぬほどヒマなのです。なるべくこの事実から目を背けていたいのです。実は、この部分を書いている時点ではローターの電源を入れてすらないので、この先私がどうなるかは私でも分かりません。とりあえずリスカしたくなっても思い止まるように、カッターの刺さったペン立ての横に家族の写真を置いてみました。有効であるかは定かではありません。っていうかね、この時点でだいぶキテる。正気を取り戻して続けます。
お気に入りのムーミンのふわふわの部屋着を着て、「生活の木」のアロマを焚いて、ホットカーペットに寝転がりました。いまだ湯気を立てているホットミルクには甘〜いはちみつをたっぷり溶かしてあります。無骨な蛍光灯は消してしまって、間接照明の柔らかな橙の灯りを点けました。BGMはEllie Gouldingの"Love me like you do"です。女子力の過剰摂取で吐きそうです。箱の中から今日のおともだち、ピンクローターを取り出しました。パンパカパーン。ピンクローターの名の通りピンク色です。当たり前ですね。私は何を言っているんだろう。ころんとしていて、可愛いかたちをしています。えっちなくせに、清純そうな顔ちゃって、こいつぅ〜。電池を入れて、いよいよスイッチを押してみましょう。寝ぼけた私は高級志向だったようで、この1200円のローターは三段階に振動の種類を変えることができる高性能です。まず一段階。ぶいぶいぶい、と予想以上に大きなモーター音を立てながら、ピンク色のカプセルが振動を始めました。いやほんと、すごい震える。びっくりして思わずカーペットの上に取り落としてしまうと、ローターはぶいぶい言いながら少しずつ前進を始めました。えっ。可愛い。そういう小動物みたいになってる。ハムスターを飼いたいな(でも一人暮らしでハムスター飼ったら終わりかもしれない)と考えていた私には少し嬉しい発見でした。カーペットの上を蠢くローターを暫し鑑賞します。引っかかったら、おしりを押してあげたりして。なにこれ、かわい〜〜!! 母性本能がくすぐられたところで、えっちな気分も高まってきました。高まってきている、ということにしないと、進みませんので、便宜上そういうことにしておきます。
はあ。だいたい、こんないかにも性欲掻き立てられたいで〜すみたいな電子機器を手にしているだけで目眩がします。塾や習い事、部活だって滅多にサボったことのなかった私です。真面目ちゃんなんです。それは私の「25歳処女」という肩書きが何より雄弁に物語ってくれているわけですが。まあ、とにかく、「いきなりデリケートゾーンには当てずに、身体中をゆっくりとマッサージしましょう」と解説にあったので、とりあえず一番弱い設定で、体のあちこちに押し当てていきます。しかし、デリケートゾーン、という遠回しな言い方は何でしょう。女性誌なんかでオナニーのことをセルフプレジャーだの、セックスのことをラブタイムだのと呼んでるのを見るにつけ、そっちのほうが卑猥というか、シュールじゃないかと思ってしまいます。腰、おなか……振動が下の階に響いていませんように……脇、胸の周り……うーん、くすぐったいような、そうでもないような……そして首まで来て、私は、とうとう気づいてしまったのです。これ……むっちゃ肩こりに効くわー!!! そうでした。もともとこういうグッズは通販などでは「小型マッサージ器」として販売されていたのでした。この頃肩こりに悩まされていた私は、いつもボールペンのノックするところで刺激していた首の付け根や肩にピンクローターを思い切って押し当てました。きっ、きっ、きくうぅ〜〜!!! 堪らずスイッチを二度押しして、フルパワー振動に切り替えます。ぎちぎちに張った私の肩の筋肉を容赦なく責め立てるピンクローターの前になす術もありません。ほわ〜〜!!! ンギモッヂイイ!!! こめかみや顎に当ててもキモチイイので、美顔器のようにも使えるかもしれません。なんて子なの、ピンクローター。肩こりも解消できれば小顔効果まで期待でき、更にはえっちに乱れることさえ可能にするなんて。たまげたなあ……。
しばらく肩に当てて堪能したところで、私はハッと我に返りました。いかんいかん、これでは釣り増田だと思われる。そういえば昔、今よりもっと暇だった学生時代、それこそハタチそこそこピチピチの頃、ボトルメールアプリで捕まえた男とちょっとえっちなやり取りを幾度か交わしたあと、実は50過ぎの禿げたキモい童貞オッサンでした〜!!! と嘘暴露して相手を絶望に陥れる遊びに熱中した時期がありました。相手は50過ぎの禿げたキモい童貞おっさんに「ねえ、どんなこと想像してひとりえっちしてるの?」などと聞いて時間を無駄にしたと思って後悔しますが、実際は彼はハタチそこそこのピチピチの女の子とメールを交わしていたわけです。時間を無駄にしていたのは誰でもなく私自身であったことに気付くのにはしばらく時間がかかりました。
さて、とうとうここまで書いてしまったので、もはやこの性欲掻き立てられたいで〜すみたいなピンクの淫乱かわいこちゃんを自らのデリケートゾーンに押し当ててセルフプレジャーに浸りビクビクしないわけにもいかなくなって参りました。クリスマスです。ヤマトのおじさんが大切に心を込めて運んでくれた優しさの塊です。これを使って25歳独身処女のシケたクソのような12月25日をサイコーにハッピーなメリメリクリスマスへと華麗に変身させねばなりません。もう逃げられない。クソッ、彼氏欲しい。来年は、2016年こそは、寝ぼけてクリスマスにピンクローターを買うような人間にはならないと、ここに宣言致しまして、私はしばらく、失礼させて頂きます。
結論:
いろいろ迷ったんだけど、まあインターネットで知り合った人たちだし、インターネットの見える場所でお祝いの言葉を書くのも悪くないかなーと思って、なんか書いてみることにするよ。わかった人はてきとーに拡散でもなんでもして、ご当人たちの目の届く場所にでもこのURLを届けてください。ま「そういう人」なので、こっそりとどこかで見ていたりはしたわけですけど。
ボトルメールよりはもうちょっと確実性のある手紙でも、ひとつ。
つーか結局は自分語りな。この場合は自分語りしないと伝わらないこともあると思うんよ。
とりあえずそうだなー、びっくりした。びっくりはしたんだけどさ、なんていうか、あんがい意外でもないんですよね。ああ、なんか辿りつくべき場所に辿りついたっていうか。
そうね、まあ「彼」とでも呼んでおきましょうか。
彼との出会いは、俺が以前やっていたサイトの掲示板にまで遡る。俺がしょうもない日記書いて、共同で管理してた友人としょうもない対談みたいな記事作ったりして、まあ全体的にしょうもないサイトだったんだけど、掲示板だけは違ってたのね。エロゲやったりする人の多くがそうであるように、俺にも「青春」とか呼べる時期なんかなかったんだけど、もしあったとしたら、あの掲示板にそれはあったんじゃないかな、と思う。二十代後半だったけど。いいだろ別にいつ青春やったって。周囲に女とかぜんぜんいなかったけど。別にだからそういうのはいいんだって。
インターネット始めるまでは、自分の趣味のこととか話せる相手がいなくて、それで、俺は異常だと思ってたんだよね。こんなにフィクションに異常な思い入れする人間とかほかにいない。いたとしてもそれは同居人くらいで、ほかにはどこにもいないんじゃないか。まあ日本には人間が1億人くらいいるので、確率としてここに二人いる以上、もうちょっとはいてもいいんじゃないかなーと思ってたんだけど、サイト始めてみたら、思ったよりも多かった。そうやって集った同好の士のなかに、彼はいた。
あの掲示板って、ちょうどいまでいうツイッターみたいな空間だったと思うんだよね。界隈の人たちのたまり場みたいな感じ。あずまんが大王の塗装のバスとか出現したっていうんでわざわざ見に行って実況してみたりとか、やってることが本質的に一緒。そんな掲示板のなかで、彼の存在はひときわ異彩を放っていたと思う。寡黙でありながら重量感があり、切れ味も抜群、常に陰のようなものがあるのに、どこかすっとぼけた確信犯の諧謔がある。
同居人ともども彼の書き込みのファンになったね。彼が書き込んでくれるのが楽しみでしょうがなかった。
なんていうのかな、戦友、みたいな意識があった。骨の髄までフィクションに冒されて、二次元のキャラと添い遂げるくらいの勢いで大好きで、ほかに希望なんかなくて、掲示版みたいな場所に吹き溜まっててさ、でもそこしかなかった。ほかの人がどうかは知らないけど(たぶん似たような感情は持ってくれてると思うんだけど)、このクソみたいな世界のなかで、なんとか喘ぐように呼吸して、それこそ酸素に飢えた金魚みたいに口をパクパクさせながらなんとかエロゲとかマンガのなかに救いを求めて、そんでもって掲示版でなんか吐き出してる。ここでは本音で話せる。道端の路地の向こうに、あるキャラクターがいるかもしれない、永遠に会うことができないそのキャラの面影だけ追いかけてふらふらと散歩を続けるような、そんなポエムじみたことや、そういうバカで真剣でどうしようもない自分を笑い飛ばすようなことや、そんなことを日々繰り返して、それでもまあなんとか生きてるよね、別に積極的に生きる理由もないんだけど、とりあえずフィクションあれば俺ら呼吸はなんとかできるよね、みたいなそんな日々。
そんなのがまあ、俺にとっての青春だった。
そんな日々をともに過ごしてきた人たちに対しては、友人というより、仲間というより、やっぱり「戦友」っていう言葉がしっくり来る。
そういう場所を瓦解させてしまった理由ってのは、いくつかあると思うんだけど、まあいちばんは俺が結婚したからだな。
俺、アホだからさあ、どっちかしか取れないんだよね。真剣だったからこそ、ってのはあるかもしれないんだけど、少なくとも結婚するっていう事実の前では、俺はフィクションを捨てるしかなかった。だって、そこに魂の半分を置いてるんだもの。好きになるのも嫌いになるのも、すべてはフィクションのなかにしかそういう対象っていないんだもの。現実の人間なんて書割じゃん。こちらに実害を及ぼす人間だけが脅威で、あとは男だろうが女だろうが、じーさんだろうが幼女だろうがひとしく恐ろしいものだったわけで、それが、たった一人といえども「人間」を選んでしまったわけ。それは「世界を選ぶ」ということとほとんど等価だった。全否定してきて「フィクションを摂取する俺の肉体を生存させるための意味しかなかった」世界のなかで、俺は伴侶を得て歩いていかなきゃいけないわけよ。いいったって悪いったって、俺ひとりじゃない。とにかく俺は世界を切り開いて歩いていかなきゃいけない。
そうやって俺はフィクションを捨てて、書くことすら捨てようとした。
でもねー、書くのだけはやめられなかった。
言ってみればさ、フィクションを捨てること、書くことを捨てること、すべては裏切りじゃん。もちろん周囲の人はだれ一人として裏切りだなんて思ってなかったと思う。複雑な気分を抱えていたことは想像に難くないんだけど、俺が「この世界」に幸福を求めようとすることを咎める人なんてだれもいなかった。
だけどさ、逃げるようにサイトやめて、俺そういう不義理っていっぱいやってて、いつ見捨てられても不思議じゃない人間なんだけど、彼はそんな俺をずっと見捨てないでいてくれた。彼だけじゃない、俺の周囲にはそういうありがたい人たちがたくさんいて、俺は今日まで生きてくることができた。
いまはもうそうじゃなくなったけど、書くことだけが俺にとって救いだった時期ってまちがいなくあった。書いて、読んでくれる人がいる。そのことだけで「ひょっとして俺は生きていることを許されるのではないか」と思えるようなそんな日々があった。
ここに至るまでの十年以上、そのほとんどの歳月を、彼はだれよりも俺の読者でいてくれた。極端にいえば、命の恩人だ。ほかの数人の人たちと同様、彼は俺を生かしてくれた。読んで、なにごとかの感想を書いてくれることで「少なくとも書くことだけでは、生きている理由がある」と伝えてくれた。
でもね、そこにあるのは感謝じゃないんだよなー。いや感謝もしてるんだけどさ、あるとすれば「あのとき俺ら一緒にいたよな」っていう深い感慨だろうか。ああ、俺らはあのころ、あんなに生きるのが面倒でやってらんなくてつらくて、そんでもまあ十数年後のいまも生きてるよな、なんかかなりおもしろめでかつ珍しめの人生とやらをやったけど、まあ死んでねえよな、明日以降もなんとかやってくんだよなー、みたいな。
そんな彼が結婚する。
別に「結婚」っていう単語に無条件で反応しておめでとうなんて言う気はさらさらないんだけど、とにかく、彼は「見つけた」んだというひとつの明確な証拠ではある。結婚という形式に付随してくっついてくるいろんな義務とか権利とか、ようわからんけど、いろいろあるものをすべてひっくるめて引き受けて、たった一人の人を死ぬまでの伴侶として選んで、生命が終わるときまでは生きていくんだという決意の表明だ。そういうものとして「結婚」っていう形式はなんとも明瞭だ。
彼はそれを選んだ。
だからさ、変な話なんだけど、俺の感情としては「安心」っていうのがいちばん強いのかな。彼の生み出したさまざまなものの魅力の大きな源泉は「孤独」だったけど、それゆえに彼にはいつも荒野を歩いているような感じがつきまとっていて、もちろんこんなもん言葉になんてしないんだけど、その孤独のデッドエンドを彼が見てしまったらどうしよう、みたいな漠然とした不安はいつもあった。
そう、彼はもうひとりじゃない。
これかな。そうだ。あなたはもう、ひとりじゃない。ひとりでなければ、ふたりであれば、それはきっと世界を手に入れたも同然なんだ。この広大な世界を歩くのに、ひとりっていうのはなんともつらい。あまりに大きい。世界がその美しさの片鱗を見せたときも、厳しさのかけらを降り注がせたときも、たったひとりでは言葉すら虚空に消えていく。
あなたは、あなたの見た世界の美しさを伝える相手を得た。いや、最初からそれをふたりで見ることになるんだ。
それがどれだけ素晴らしいことかなんて、もう言葉にはできない。
たったひとりのための、あなたであるように。そのことがそのままであなたを幸福にするように。あなたと、あなたが選んだ人の幸福が、そのままで世界の美しさにつながる回路を形成しますように。
ちなみに、お相手の方もネットを通じて決して存じ上げぬ方ではございませぬ。存じ上げているっつーよりはもうちょっとよく知ってる。
なんで、この場を借りてお願いなど。
まあ、俺がいまさらこの場で言うことではないかもしれませんが、幸せにしてあげてください。言われるまでもねーよカスwwwと思われるかもしれませんが、それを承知でなお俺はそう言いたいのです。彼の孤独や、彼の傷つきやすさや、それでいてあんがい飄々としているところとか、飄々としているようでいて、もっと深いところで傷ついてたりするところや、そういうものをほかの人間よりは多少はよく知っている人間として。
なんかねー、ひとの旦那つかまえて俺のほうがよく知ってるヅラすんじゃねえよって叱られそうだけど。
そんでもまあ、そういうこと思っちゃうくらいには、彼は俺にとってかけがえのない人だったりするんですのよ。
あと還暦になったらクソどうしようもねえ鼎談とかやる予定なので、そこは多目に見てください。あなたもご存知の友人の環境が非常に劣悪です(もう一人の畏友とじょじぱんつのゴムを両端で引っ張ったり縮めたりしながらにやにや笑っている)。
まあ、なんですか、直接に会ったら俺のことだからビシッと決めて「おめでとう」とか言えそうもないんで、いまここで言っときます。ほら、しゃべるよりも文章のほうがうまいこと自分の考えてること言える人だから。
おめでとう。
つーかまあ、びっくりした。
新婦の方には俺も会ったことないんで、まあそのうち会いますかね。
第一報を知ってからすぐにうちの奥さまに知らせようとしたんだけど、あの人、ここんとこあるゲームにはまってて、仕事してる時間以外、寝るかゲームするかしかしてなくて、いま爆睡中。起きたら知らせるつもりですけど、たぶん反応はこんなもんすよ。
僕が欝になって早3年。
それまで割とまっとうな人生だったし、
チヤホヤもされてた。同期に比べて収入も、身分も良かったし、女の子にも(多分)モテたし。
そんな僕がある事件をきっかけにスッテンコロリンと人生の階段を転げ落ちている。アレだよ、階段が一気に滑り台になるコントみたいな感じ。
きっとこれもTLっぽく流れていってしまうんだろうなぁと思うとちょっと切ないけど、
これもひとつのボトルメールみたいになって、誰かに届くかも?という前向きな気持で書いてみます。
欝を含めた「こころの病気」って、罹った人以外は絶対に理解出来ないっていうのが僕の持論です。
例えば、先進国で毎日1ドル以下の生活をしている人を、一般的な日本人が想像できないのと一緒で。
マリー・アントワネットのような? ちょっと厨二的発想かもね。すんません。
んで、まぁ何が言いたいかっていうと、
誰も理解出来ないこの「病」を理解してもらうには、多分「死」しか無いと思うんですね。
つまり「死ねば」理解してもらえる、っていう、一種の希望が僕にはあって。
そりゃぁもう嬉しいに決まってるじゃないですか、人がどういう形にせよ、知ってもらえるんですよ!
一応!そんな苦しい気持ちを聞いてもらいたい!構って、構って!で2つの病院行きました。
ひとつは、初めに僕を「欝」と診断した医者。2年後にさじ投げましたね。
もうひとつはそれなりに良かったけど、高い。ネットでも結構有名なところです。
でも、もうやめました。治んないもん。
そうそう、昔、「いのちの電話」に3時間ぶっ続けでかけまくったけど、全部話し中で結局1度も繋がらなかったこともあったなー
あれ、絶対良くないよ。余計絶望するっちゅうに。
今の僕の希望は、
「可哀想」でも「辛かったんだね」でもなんでもいいです。
ただ、心残りなのが、やはり家族。
僕には子供がいないので、両親がどのような反応を示すかはあまり理解できないけど
大好きな映画、ナンニ・モレッティの「息子の部屋」みたいな感じで、しばらくは絶望するけど、それからなんとか生きていく、みたいな感じになりそうだな。
あれ?意外と大丈夫じゃね?
あ、これ遺書じゃないです。まだ死にませんから通報とかやめてね(はーと)
ただ、結構ガチでヤバイんで、まだ精神的に余裕がある今のうちに、ちょっとだけ吐露させていただきました。
じゃーな!
http://anond.hatelabo.jp/20080716014058 のブックマークにある
喋り好きと非コミュが並立しうるんだろうか。
というコメントに対して反射的に思ったことを書きます。
私は喋り好きです。そして多分非コミュと呼ばれてもおかしくないタイプです。ですので、「ソースは俺」話で恐縮ですが、私としては並立し得るのではないかと思っています。
ただ、元増田の話から察するに、この場では「喋る」という言葉は「会話をする」という意味として使われているようです。そうだとすると、私を実例として挙げて「並立し得る」なんてとてもじゃありませんが言えません。
つまり、私が「前後の関係を無視して言葉を字面通りに捉える」というミスリードをして、その結果、「喋り好きと非コミュは並立し得るよ!」「しうるよ!」というシャウトが私の脳内に響き渡った、ということを書きたくて書きました。
以下はそのミスリードを維持したまま脳内でちらついた具体混じり話です。人によっては本文とも蛇足とも捉えられると思いますが、私はそのどちらかであると定義する気は特にありません。
大きくなってから知ったのですが、私は喋ることが大好きです。しかし、その好き成分を悉く潰してしまうほど会話が下手で、そして苦手です。何故大きくなってから知ったかと言うと、独り言に対してずっと持っていた恥ずかしさや嫌悪感が、独り言の実践とともに薄れたためです。
きっかけはネットラジオでした。はじめは「自分の音声がリアルタイムで隔たったどこかに届く」ということにボトルメールのようなロマンを感じて手を出しました。しかし、そのうちどこかに届くことはかなりどうでも良くなって、ネットラジオという建前の下にひたすら音声を発するということに惹かれるようになりました。お茶を飲み飲み十時間くらい楽しく喋り続けるなんてこともしょっちゅうありました。リスナーさん用のメッセージボードもお義理で用意していましたが、リスナーさんが期待する反応というのをほぼ全く考えずに喋るため、時が経つにつれて殆ど使われることはなくなりました。
そのうち声を向ける相手がマイクでも壁でもあまり変わりはないということに気付き、無意識ではない独り言も発するようになりました。ちなみに無意識の独り言は昔から発しています。ウェブ日記のようにその時々に自分が思っていたことを、建前上であれ誰かにアクセスされる可能性のある形で記録するのは面白いことだという意識があるので、ネットラジオやそれに準ずる録音自体は今もある程度続けています。ただ、外部から干渉される可能性が「ほぼゼロ」から「ゼロ」になるという壁のメリットはとても魅力的なので、時間の占有率は壁の方が高くなっていっています。
約四年の間にそういう環境や意識の変化を経験し、私は「喋る」ということ自体は好きなんだなあと認識するようになりました。その一方で「会話」への苦手意識はますます強くなりました。人と話す時にとちったりどもったり、相手の話の内容を聞き返したり聞き間違えたりする頻度も増しました。幸運にも無理に人と話さなければいけない環境にはいないので、自分から人(というかスムーズな会話ができないと不快感を露にする人)と接点を持たないようにすることで現状は安寧を維持しています。今のところそこで問題は生じていませんし、問題を感じてもいません。問題を感じたらまた意識改革があると思うので、その時その時で対処していけばいいやと楽観的に考えています。
そんな感じで現在は殆ど家族の人としか話をしていません。それにつれて、音声を介する話だけでなく、介さない話も減りました。ネットで文章による対話が何日かに一回の割合で成立したりもしますが、殆どはここのように話題そのものを主軸とした一期一会のような対話です。会話になると成立する頻度はぐっと落ちますが、音声の会話より成立し易い感じがします。どちらにせよ人と交わりたくてそこに参加した訳ではなく、むしろそれはリスクとして捉えつつ参加したり参加するのを断念したりしています。
そういう生活をしているので、友達もネット友達もいません。知り合いはそこそこいますが、積極的に会話なり何なりを持ちかけることはまずありません。持ちかけられるのも自称変わり者さんからのみです。こんな自分に関わっていただけるのは大変ありがたいと思いながら反応を返しますが、持ちかけられて嬉しいとはあまり思えません。
自分を非コミュであると称したことはまだ無いのですが、誰かから(主になじる意味合いで)非コミュと称されてもおかしくない人格だとは思っています。自称しないのは、口下手な私がこんなホットな言葉を口にしたら、うまく扱えなくて「私ってば今流行りの非コミュなんだよ、かっこいいでしょ!」というような誤読をされるのではないかと恐れているからです。人と交わりたがらない性格を恥じる気持ちはあまりありませんが、胸を張って主張する気もありません。しかし、読む側が分かり易いつっこみ用のキャラクターに飢えている時は、まず口下手な人をそういうキャラクターに仕立て上げる傾向があるので、そして私はそんなピエロ役に仕立て上げるための悪意ある誤読を快く受容できるほど心が広くはないので、そのきっかけになる可能性のある非コミュと言う表現は避けるようにしています。
ただ、今延々と述べた内容も、「自分ではフツーだと思ってるんですけどー、人からはよくちょっと変わってる子だねって言われますー」というようなありがちかつ下手くそな自分アピール手法と捉えられて、本来抱かれなくて済むマイナスイメージをむやみに付加している可能性もあるので、場合によってはあえてすっぱり「非コミュである」と言い切った方が良いのかもしれません。迷ったのでこうして思いのたけを併記することにしました。
長々と書きましたが、要するに私は一方的に喋るだけ喋って、そのくせそれに見合った分の人の話を聞きたがらないタイプなのです。口の上手い人、エンターテイメント性を意識している人なら「喋りたがり - 聞きたがり」のような関係を結ぶことも可能かもしれませんが、そんなことを要求されるくらいなら私は無口な人のふりをして過ごします。そういう人は容認されるかどうかはともかくとして、あちこちに存在していると思います。「並立」が容認レベルなら並立は難しいと思いますが、存在するだけでいいなら並立はし得りまくってると思います。
オチは考えてみましたがこれといって適切なものが思いつかなかったのでそのまま終わります。