はてなキーワード: 誤用とは
鶏口午後の誤用から広がったものと考えられます。鶏口午後とは、朝を知らせることで知られる鶏が午後に鳴くように、本来の役割を全うできずになにをやっても頓珍漢な様、また、その人、です。肛門に鶏の嘴や亀の頭部を挿入することは、本来の機能から逸脱していると言えますから、2が近いと思います。
あっ、世界観ってのは「設定」って意味じゃなくて「どういうレンズを通して世界を見るつもりか」って意味の方ね。(そもそも「レンズ」の方が本来の意味で、「設定」は誤用なんだけど、そっちが広まっちゃったんだよね・・・)
コンセプトが曖昧と意味的にほぼ一緒なんだけど、コンセプトってキャラクターデザインだったり設定だったりも含んじゃうからそっちとはまた切り分けたいなと。
つまる所「お前はどういう価値観や文脈に基づいて動いてる物語を描きたかったんやねん」って読み終わってから思ってしまうような作品は駄目だなって話。
人気の漫画はその辺しっかりしてると思う。
少年ジャンプが「努力・友情・勝利」を掲げているけど、これは雑誌そのものが目指すべき世界観を共有するための仕組みとしていいなと。
鬼滅にしたってドラゴンボールにしたって主人公は努力して仲間とともに敵を倒しているわけで、敵が倒されたのは悪の努力が主人公に劣っていたり友情を蔑ろにしていたからであると描写しているわけだ。
そもそも根本的にこの世界には勝ち負けがありますよってのが大前提として存在しているのもいいと思う。
逆に駄目な作品ってのは「戦うのはよくないことだ!」とキャラクターに言わせるのを悲観的に描写しておいて、いざ主人公たが戦ったら「やったぜ大勝利だ!」とばかりに画面を凄く明るく描いて見せるようなことをね、何の意図もなくやってくるんだ。
それをグロテスクな対比として描いて「結局あーだこーだ言っても俺たちは戦うし、勝ったら嬉しいんだよ。この世は弱肉強食なんだ」とちゃんと描けるならいいんだよ。でもそうじゃなくその場その場のなんとなくな「暗そうな話題だから暗そうな雰囲気」「明るそうな話題だから明るそうな雰囲気」とぶつ切りに描いてしまうと、全体の流れってものがなくなってしまう。
もちろんそれを緩急つけてやるのが狙いの作品ならそれでいいんだよ。チート付与魔術師なんかはギャグみたいに人が暴力にあって、その結果がシリアスに描かれ、その対比によって「冗談みたいな事が起きて冗談みたいに人が死ぬことがあるけど、人が死ぬってのはやっぱ冗談じゃすまないリアルな重みがあるよね。だが、それをあえてギャグで描写するから高低差に振り回されろ」という世界観をぶっ通してくる。世界観そのものを出し入れしてくるんだけど、その世界観の出し入れ自体が作品全体に流れる大きな世界観の中できっちり管理されてるんだよ。
結局さ、駄目な作品を書く人ってのは自分が今何を書いてるのかが分かってないんだろうな。真似っ子の域を出ていない。手段を再現すること自体が目的になっている。「描きたいものが自分の中にない」って言われるのはそういうことなんだろうな。全体を通して何を描こうとしているかを最初に決めずに作り出してるからチグハグなものが出てくる。
キャラクターデザインとかギミックの設定とかばかり先に考えて、そもそもそれで何を描くのかがないんだよ。
「正義感の強い主人公」を設定した目的が「勧善懲悪を描きたい」のか「暴走した正義の悲惨さを描きたい」のか、それが自分の中にないままに作品をスタートさせちゃいけないんだ。「よくある主人公は正義感が強いでしょ?」じゃ駄目なんだよねつまる所。
イスラエルとパレスチナ、何が正しくて何が悪かとかそういう倫理的な問答は置いておく前提で。
なんか、はてなだとハマスの残虐行為は避難しつつ、ウクライナの罪を強く糾弾してパレスチナに一定の同情を見せるようなコメントが人気だけどさー、たぶん世の中的にはこういうコメントは世間ズレ(誤用)したマイナー意見になりそう。
国単位で見たら曖昧な態度でどちらの勢力にもあまり積極的に関わらず、適当に人道支援に金を出してお茶を濁すのが正解なんだろうけど、ただ米英なんかを中心に西欧社会がイスラエル寄りなことを思うと、日本も強いて言えばくらいでイスラエル寄りになるのは不可避でしょ。
軍事絡みじゃアメリカのケツ舐めるしかないのが日本なんだから。
市民感情で見ても、なんか西側諸国が応援してるならそっちが正しいんだろうな~、くらいの感想の人は少なくないだろうし。
はてなでも色んな社会ネタで「西側陣営の一員でありたいならかくあるべき」って意見はしばしば見るけど、西洋追従こそ是とする人が多いのが日本という国なんだから。
あと、ハマスの宗教戦士っぽさも日本だと大きなマイナスになるだろうね。
エルサレム絡みで宗教は深く問題に根差してるので、宗教臭さはハマスだけの問題じゃないけど、それでも脱臭しきれてない狂信過激派オーラはハマスが群を抜いている。
次の文章を眺めてみて欲しい。
『まず第一に、二十世紀に係れたミステリ作品と違って、狂気や妄想を、いわゆる正気の論理で枠囲いされるものではない。第二に、以前の小説作品と大きく違って、可能世界へと分岐する「相対的」な論理を、それが作品内で主題化されないほどに内在的なものとして組み込まれ浸透しているからである。』
インターネットぶつかりおじさんにカンパし、一度ブロックされて解除された後2023年10月の今に至ってもなお彼やその賛同者の多くをX(旧twitter)でフォローし続けている、推理小説作家・評論家小森健太朗の著作「探偵小説の論理学」269ページから引用した文章である。
氏のSNSにおける華々しい戦歴の説明は割愛する。冒頭で引いた氏の文章を眺めることからはじめ、氏のSNS上における無数の陰謀論傾倒の人生、ひいては暇アノン化する文化人やネットユーザたちについてなんらかの理解を得ることができないか見てみたいのである。
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『まず第一に、二十世紀に係れたミステリ作品と違って、狂気や妄想を、いわゆる正気の論理で枠囲いされるものではない。』
主語がないのは先に出ているからである。一つ前の文の「西尾維新の作品」がこの文の主語である。そして、この第一に~第二に~というのは疑問に対する答えの列挙である。
『それではなぜ、なぜことさら西尾維新の作品を様相論理と親和性のあるものとしてとりあげられるべきなのか。』
冒頭の文の一つ前に置かれたこの文がその問いである。なぜ「それでは」なのかというと更に一つ前の文で↓のように認定しているからである。
『様相論理一般が、それらの作品により適合するのではなく、われわれの住む世界にある論理、どの作品にもある論理一般において様相論理は適合性を有している』
つまり、著者はこの箇所で「西尾維新の作品こそ様相論理が合う」と言いたいのである(なお、『様相論理は適合性を有している』だとか『様相論理と親和性のある』とかいう語句の意味は不明)。
それを踏まえた上でも文の後半は日本語がおかしい。いやそもそも『それではなぜ、なぜことさら西尾維新の作品を様相論理と親和性のあるものとしてとりあげられるべきなのか。』の「‥‥作品を~~とりあげられるべきなのか」という文も変なのだが。受動態ならば‥‥作品が~~とりあげられるべきなのかとすべきであろう。とはいえ文意は理解できている(と信じたい)ので無視しよう。
・(西尾維新の作品では)狂気や妄想が、いわゆる正気の論理で枠囲いされるものではない
・(西尾維新の作品は)狂気や妄想を、いわゆる正気の論理で枠囲いされるものとしていない。
引用した文のある段落の一つ前の段落で、彼らの作品における狂気の取り扱い方について『現実の正気の論理が前提として背後にある。狂気や、いわば正気の世界に枠囲いされる形で、際立たせられる』と説明されている。この書き方ならば前世紀に書かれたチェスタトンや泡坂妻夫らのミステリ作品との違いを述べていることが明確である。
なお別の案として、第二に~の述語に繋がっていると見ることもできる。が、そうして読むと能動態・受動態が変になるのである
・『二十世紀に書かれたミステリ作品と違って、狂気や妄想を、いわゆる正気の論理で枠囲いされるものではない』‥‥『ものとして組み込まれ浸透しているからである』
この能動態・受動態が変というのが引用の二文目の問題でもある。
例によって主語だが『‥‥組み込まれ浸透している』の主語はなんだろうか?そもそも『組み込まれ』『浸透している』は同じ主語を持つのだろうか?候補は『西尾維新の作品』と『可能世界へと分岐する「相対的」な論理』の二つである。
『西尾維新の作品』は『組み込まれ』がおかしいのは‥を組み込むという能動態に直せば明らかである。『西尾維新の作品』を目的語とした「西尾維新の作品を組み込んでいる」には意味を見出すことは不可能である。
『西尾維新の作品』は『浸透している』は、意味としてはありえる。だが使えるのは読者の認知度などを述べる文脈などであり、どこに浸透しているとかいった説明の無いこの文では意味を持たないであろう。
すると『西尾維新作品』は、『西尾維新の作品では』という句であり、主語は『可能世界へと分岐する「相対的」な論理』と見るべきである。これならば受動態能動態を変えても意味が通じるであろう。
・(西尾維新の作品では)『可能世界へと分岐する「相対的」な論理』は‥‥組み込まれ浸透している
・(西尾維新の作品には)『可能世界へと分岐する「相対的」な論理』が‥‥組み込まれ浸透している
いけそうである。しかしそう理解すると今度は九段の文の書き方があまりにも奇妙に見えると言わざるを得ないのである。
『(西尾維新の作品では)可能世界へと分岐する「相対的」な論理を、それが……組み込まれ浸透しているからである。』
「を、それが」と書いた理由はなにかあ在るのであろうか‥‥???「‥‥を」とするならば「それが」をそこに付けず「組み込み、そしてそれが浸透している」というようにすべきだし、受動態のまま「組み込まれ」を使いたいならば「を」をなくして「‥‥が~~組み込まれ浸透している」と書くべきであろう。なぜここまでねじくれた、好意的に見て文法違反スレスレで読みにくい書き方をしているのだろうか‥‥???著者も校正者もなにかおかしいと思わなかったのだろうか???
余談だが、様相論理において可能世界ごとに分岐(というか異なる)のは、命題への真偽値の割り当てであったり個体領域である。それらは一般的にいって「論理」と呼ばれるものではない。このあたりも意味不明なのである。ようはポストモダンにおける科学の誤用濫用の仲間である。さておきこれまで氏の華々しい戦歴を目にしてきた者の意見として言うと、氏の癖として、彼がカンパしているインターネットぶつかりおじさんと同様に、勝手に定義した「A」を、他の意味の「A」と気軽につなげて論証をするというものがある。いわゆる「媒概念曖昧の虚偽」と言われたりするやつである。こうした論証上の誤りに無頓着な事も陰謀論にたやすくはまる一因と言えるのかもしれない。
海法紀光や、アレな発言を非難する者がしばしば指摘していることであるが、氏は、理由をあげたり説明したりといったいわゆる論証をする際こういった文章を頻発する傾向がある。特に、自身の立論が苦しくなってくると、文法が崩壊していると感じられる弁明が増えるように見えるのである(quantumspin氏による批判とそれへの応答なども参照せよ)。主語や述語がみつけにくいのもよくあるパターンのひとつである。小説以外の活動に関しては、ずっとそういうやり方で通して来ているのかもしれない。
これは結論に対して必死に理由を拵えているせいというのもあるのかもしれない。そのような、結論にあわせて理屈を拵えることをよしとする姿勢もまた陰謀論への傾倒を片側から支えているようにも思えるのである。
などなどと、かつて新本格のムーブメント到来に歓喜したものとして心苦しい気持ちを抱いていたのであるが、最近大きなヒントを見つけることができた。
https://twitter.com/furukawa1917/status/1708364352540246446
氏にとって人類の進歩は虚構的観念であるらしい。勿論、氏のいう虚構的観念は、非難されればすぐにその中身を適当に入れ換えられるブラックボックスであり、「生活費切り詰めてカンパ」と同じ程度の軽口でしかないのやもしれない。
だが、そういうことかと得心もしたのである。
かつてポストモダン思想が華やかなりしころ、同じ世代にあって「進歩なんて幻想だ」と嘯いた者は多かったのではないだろうか。なにしろ、特に思想や政治について色を出さず、特に「後期クイーン的問題」等の話題に珍説を披露したこともない有栖川有栖氏の作品においても、「ホイッグ史観」「進歩史観」といったかたちで冷めた態度が見られるのである。
311以降かどうかは定かでないが、SNS上では、ミステリ業界の「知の欺瞞」が手ひどく叩かれる時期があった。氏も基礎的な誤解を指摘されてはよくわからない弁明を書き連ね、最終的に相手が呆れて去っていくということがしばしばあった。その後、左翼・リベラルに敵対的な気分をもつひとは自らを「科学的」と自認するようになり、小森もなんとなく菊池誠氏などをRTしたり科学的な雰囲気のある人々の輪に入ることで、これまたなんとなくのうちに過去の知の欺瞞は有耶無耶になった。
しかし上記の発言から察せられるように、頭はポストモダンのままだったのである。この点を傍証する発言はひとつではない。
『紀藤さんは、カルトと宗教の弁別ができる超越的な裁定者であると自認しておられるのでしょうか?』
これは、統一協会が話題になった際、紀藤弁護士の発言に対して、なされた引用RTである。
カルトであるかカルトでないかの区別ができることが『超越的な裁定』だと言うのである。その理由もふるっている。
『カルトと宗教の線引きがわからないのではなく、できないと言っています。』
まさにあの堕落したポストモダン思想にかぶれたあの世代の、あの辟易するような懐疑的態度を思い起こさせるものである!!!認識的な不確実性を理由として判断の正しさを否定する。現実的・実践的な正しさをすっ飛ばして「超越的」なものに基礎づけようとする(そして、その不可能性からお好みの結論を導く)。‥‥ところで、なぜ「分からない」「できない」「不確実だ」という判断だけは正しいと信じられるのか自分にはまったく理解できないのだが‥‥‥笠井潔なら教えてくれるのであろうか‥‥????
結局の話、己の欲する結論のためにいい加減な理由づけを許容する態度、あらゆる価値・論証・実践的合理性等を無効化した気になれる堕落したポストモダン思想、メチャクチャナ言説をまともに文章を読み批判をすることのできない現代ニッポン論壇・批評コミュニティの無力さ、そうしたものが無数に積みあがって悲惨な令和の余.命事件へと通じる道が敷かれたのかもしれないと思うのである。
まぁ自分も誤字・誤用はなくなって欲しいとは思ってるよ。ほぼ諦めてる側だけど。
じゃあ、例えば「確信犯」とかはもう無理かね。
世間一般ではそうでもないかも知れないけど、若者の中では8割くらいで「延々と」が「永遠と」になってるのを体感してるので、これも何とかして欲しいところ。(ネットでいくら言っても変わらなかった)
実は人間は「いままで正しいと思っていた言葉が誤用だった」みたいなネタが大好きだし他人の誤用を指摘するのも大好きなんだよ。
社会の8割くらいまで広がったらどうにもならんが4割くらいならまだぜんぜん挽回できる。
「的を得る」とかだいぶ減っただろ。
じゃあ元の話に戻るけど、その誤字を・誤用を指摘しても、現実にそれらが広まることを止められなかった例があるわけだから、既にその誤用が広まってしまってる時点で、それを目にした第三者が許容する・しない、どちらの心持ちであっても意味なくね?って話。
直接対面してる相手が誤用してるなら指摘できるけど、誰かが目の届かないところで話してる・話してた場面には居合わせられないし何も言えない。
理想的に、全ての人間がそれぞれ正しい知識を持ち、かつ学び続け、もし会話中に誤用があったらすぐそれを指摘し合う社会になったら、防げるかもね。(元マスはそういう方向に万人を啓蒙したいのかも知れないけど) だけど、そこでそれを阻害するのが上で言った「社会のグループ化」じゃないかな、と。
1.涼しい顔をする
本来の意味:自分に関係のある事柄であるにもかかわらず知らん顔をする
→「知らん顔をする」に替えろ
2.忸怩たる思い
→「恥じたる思い」に替えろ
誤用:他人に情けをかけるとつけあがってそいつのためになんない
本来の意味:他人に情けかけておくと恩返し的なものがあって結果自分のためになる
→「情けは自分の為」に替えろ
わかりやすさ重視、誤用より誤読を無くすことを優先しているからだろ。
TVというのは歴史的にいかに裾野を広げるか?を追求して生きたメディアだ。
多少間違いがあっても頭の優劣による理解力の差を無くすことを追求してきた。
まさにその通りだと思う。
ら抜き言葉のように、誰にも誤解が生じない言語の用法は「誤用」ではない。
単に「昔とは言い方が違う」だけでしかない。
それは個人の好みであり、正しい用法として押し付けるものではない。
というか、文法や語法は法律と同じで、世間が変わったらアップデートされるべきだ。
実際に、私たちは古文を話しているわけではない。適宜、それらを更新してきたのだ。
だから、既存の文法や語法と、現在皆が使う用法が合致していないのなら、その文法や語法の方が間違っているとさえ言える。
副詞としての「一番」は熟語である。「ビールが一番好き」「こういう日はビールが一番」などには、漢数字を使うべきだ。
助数詞として「番」が添えられる場合、たとえばバッターの打順などであれば算用数字の「1番」でかまわない。
このふたつの簡単な見分け方は、数字の部分を他の数に置き換えても意味が通るかどうか。
たとえば、「ビールが2番好き」と言うことはない。
数字を含む熟語に算用数字を混ぜる誤用が近年増えている。というか、テレビにテロップが多用されるようになった頃から多い。
中でも「1番」は誤用の目立つ言葉の筆頭だったのだが、とうとうNHKまでこの誤用を平気で電波に乗せるようになってしまった。同じ日の同じニュース番組内で「第3者」という誤用もやらかしていたので、この日のテロップ係がかなり意識低い系だったものと思われる。「第三者」も「二人称」などと同じくそれじたいがひとつの熟語であるので、算用数字を使ってはいけない。
そのうち「1石2鳥」、「3寒4温」、「5臓6腑」、「7転8倒」、「8面6臂」、「10人10色」、「50歩100歩」、「議論100出」、「1000軍10000馬」などの表現もテレビで見られるようになっていくだろう。「2人3脚」はすでに広く使われていそうだ。