はてなキーワード: 見世物小屋とは
それどのフェミにいってるんですか。
フェミは個で衆を語ってきますが、いざその衆を群という個で扱うと、1という個で話をしはじめます。
そのとらえどころのないフェミを捕まえることができる実像としてでてきた石川さんを女性の世界の代表よろしく対談と決め込んで
自陣のオーディエンスに囲まれて喋る相手が扇動して行動に規律をもたせる様子はもう獣の檻に入れられた草食動物と同じでしょう。
一個人としてなのか代表としてなのか、そして相手に干渉する規模はどのようなものなのか、それを闇雲に「対談」という「リアル」
に持ち出したことが有意義かのように言われて、実質「事務所こいや。話があるで。」状態である公開セクハラに何の意味があったのでしょうか。
差別とは何か、ご相談されているかのようなつぶやきをしたことが何か新しい論の礎となりましたか?
フェミニズムについて男性からみればどちらも性的に消費できてありがたい以外のことが語られましたか?
そのうえで、男性はべつに女性が何を着ていようが、むしろ裸でもいいんじゃね状態でまるで「ここで脱げ」のように「ようこそいらっしゃいました」で締めるなど
たしかに語るに衆となり、指摘されると個になる霧のようなフェミに四苦八苦されているとは思いますが、それくらいは智を以て語りで形になすことができると見込んでの対談だったのではないのでしょうか。
だったのではないのは明白な事実となってしまったので、女性をポリコレに近い「一部の常識」で囲んで殴るという見世物小屋興行としておわり、これからもいろんな女性を危うい所で脅かしていくつもりなのは非常に残念でしかありません。
要するに個となった女性が個人の事実において感傷的になると手が出せないということを卑怯だという代わりに対等だという理由をつけて倒れさせないように殴る方法を見つけてしばらくはこの快楽にふけるつもりなのだと思いますが、それで女性が権利を主張する強さをもてばいいと言葉面は良い言い方で言葉で遊ぶわけですね。
男女別に分かれてみんなが裸で入浴するスタイルの所謂「銭湯」は、結局のところLGBやTを「いないもの」や「居てはいけないもの」とみなす性規範のおかげでなりなってるようなもんだよなぁ。
最近、MtFや男児が女湯に入ることへの拒絶反応をチラホラ見かける。これは「他者による性消費の対象にされない権利」、またはそれが侵害される不快感を主張してるんだろうと思う。でも、LGBが当たり前に存在すると考えれば、そういう権利って今の「男女別にしてみんな裸で入浴」スタイルではどうやっても守れないはずなんだよね。もし今までは「そういう権利が守られてた感」があったとすると、それは結局のところ社会全体がLGBの存在を異常なものとして無視してきたからに過ぎないんじゃないかなー。
まあとりとめもない話なんだけどね。詰まる所、差別的な社会規範を批判するなら、それ自体に悪があるようには見えないけどそういう規範にフリーライドしてるビジネス形態も結果的に攻撃されちゃうし、それはある意味仕方ないのかもね。例えば見世物小屋とかね。
演劇界って常識がなくモラルの欠けた者同士の傷の舐めあい。そんな人達が自慰行為するのをお金を払って眺めている。
まったく演劇人にモラルだの常識だの求めるなんてさ、表現の幅を狭くしちまうだけだぞ。法律違反はすぐさま警察に突き出せばいいが、モラルだの常識だので裁く「一見正義」に騙されちゃあいけない。正義なんてねーよ。
ほんと、見世物小屋だ。
まったく演劇人にモラルだの常識だの求めるなんてさ、表現の幅を狭くしちまうだけだぞ。法律違反はすぐさま警察に突き出せばいいが、モラルだの常識だので裁く「一見正義」に騙されちゃあいけない。正義なんてねーよ。— 谷賢一 (@playnote) 2018年11月19日
ある駅に到着した。ここは咬噛村(こうかみむら)という場所で、駅の中に見世物小屋がある珍しい駅だ。この村は古い雰囲気の残った観光スポットとしても人気がある。駅はとても古い造りで暗く湿っており、見世物小屋は特有の雰囲気を持っている。
私は駅に着くや否や、見世物小屋の談志に座敷をあがって噺をしていけと強要された。ここでは噺が運賃がわりとのこと。私は披露する噺はないからと断ったが、止むを得ず小咄をとっさにした。恥ずかしかったが、客の反応はまずまずだった。
私は、すでに日が傾いているが散策することとした。しかし、他所者の私に向けられるその地の住民の視線に居た堪れなくなり、すぐに駅に引き返すこととした。
私が駅に戻ると、白人の観光客がちょうど駅へ到着したようだった。彼女たちは他の人たちの目線を気にすることなく観光を楽しんでいるようだった。
帰り、雨が降り始めていた。例の見世物小屋の談志が「傘を持っていけ」と信楽焼の傘立てを指した。
そのような夢であった。
簡単に言えば持ってる人/持ってない人の二項対立で描かれる映画なんだけど、その境界や定義っていうのがすごく曖昧で行き来する人が多いのが現実ぽいと思う。
ミュージカル映画としては素敵な映画だったけど、その一方で興行として人権侵害甚だしい見世物小屋としてのサーカスが人気を博していたことは考えなければならないことだと感じた。
バーナムは人の個性に囚われない、面白い人ならなんでもいい、という反差別派のように見えるけど、差別される側/する側で二項対立させたとき、バーナムは間違いなく差別する側なんだよね。
現実ではもっとペテン師、興行師としてクソ男だったと思うんだけど、そこを美化しすぎてる、というか観客にそう感じさせるストーリーになってると思った。現実の度合いと映画の度合いが違いすぎるのが気持ち悪かったな。
たぶんヒュージャックマン以外の全員に共感できるし、逆に言えばヒュージャックマンには全く共感できない。
この映画の根本的な価値観は人生の生きづらさ、満たされなさみたいなもだと思って、だからこそNever Enoughがすごく効果的だと感じた。まぁレベッカファーガソンのあの終わらせ方には全く納得できてないけど…
一度負った心の傷は完全に癒されることは全くなくて心のどこかに絶対残ってしまって、だからこそ何をしても満たされないし過度な成功を求めてしまうの、なんとなくわかるような気がした。
でも結局楽団の皆がヒュージャックマンに本当に怒りきれなかったのは彼の満たされなさをみんな理解してたからだと思う。
私も本当に信頼している人には何されても許してしまうだろうなっていう気持ちがあるんだけど、それに近い気がした。ただ、そう解釈するにはストーリーが不十分すぎると思ったし、This Is Meをバーナム(ヒュージャックマン)が見てない時点で、彼らのことをわかってあげる人はいないのかなと切なくなった。
もちろん、みんなでThis Is Meを歌うところは本当にかっこよくて痺れたけど。ただ、この歌を主題歌とするならもっとフリークスと呼ばれた劇団のみんなに焦点を当てて欲しかった。このストーリーなら主題歌The Greatest Showmanの方でよかったと思うよ。
あと、十分に説明されなかったところが多すぎて…一番謎だったの、りんごをくれたおばさんとの出会いなんだけど、あれは一体何を意味してるの??ヒュージャックマンが単なる差別主義者っていうことを明らかにさせただけだと思うんだけど…
あと、町の住民がなぜそこまでフリークスとサーカスを嫌ったのかが描かれてなさすぎて、理由もなく差別するほうを一方的に悪として描いていて、その反動でヒュージャックマンがいい人に見えるってだけでは…って思ったりもした。
あと、LALALANDと比較されがちだけど映画のテーマやモチーフが違うのにそんな簡単に比較できないでしょう…好みの問題でいえば私は完全にLALALAND派ですし。
ただ、似ている部分でいえば序盤の構成はやっぱりLALALANDとまったく同じだと思う。
特にAnother Day Of Sun~Someone In The Crowdの流れとThe Greatest Showman~Million Dreamsの流れはすごく似てると思った。観客の判断力を奪う圧倒的な歌唱力と演出はやっぱり素敵でした。
中卒って見世物小屋に行けば見られるの?
やってる本人が「好きでやってる、誇りを持ってやってる」ことが、その職業が生き残ることには繋がらない。誇りを持って頑張ってたって、人力車は観光スポット巡りにしか生き残れないし、電話の交換手は消えた(特殊な回線だと生き残ってるらしいが)。
身体障害者の就職先として、自分の身体を「奇妙なもの」と見世物にするサーカスや見世物小屋があったが、あれは「身体障害者は奇妙なもの、珍しがって怖がるもの」「自分一人で何も出来ない身体なのだから、人に見せることしかできない」という「常識」があった時代だから成立してたもの。「身体障害者は誰でもそうなる可能性があるもの」「手足が不自由でも技術や道具を使えば普通の仕事はできる」となれば、普通に働けばいいわけで、「人に身体を見てもらってお金をもらう」という商売は成立しなくなる。
まあ、ミゼットプロレスは逆に、その身体性だけでなく技術を見せる方向で復権してるわけだけども。『水曜日のダウンタウン』でミゼットプロレスラーが活躍してたのは痛快でしたね。
「美を商売にして何が悪い」って悪いことなんか一つもないわけです。「誇りを持ってその仕事をやってる」こともいいことです。
でももう、この世の中は「見た目がきれい」なだけでお金をもらえるほど楽な世界じゃないと思う。
女子アナは、きれいで賢くてニュース読めてバラエティも出来て当たり前。アイドルは、可愛くて演技出来て歌えて踊れてトークが面白くて当たり前。モデルも、ファッショニスタで情報発信力があって当たり前。ミスコンだって、今は知性や表現力を問われてる。
しかし、グリッドガールは、主催者が「そういえば、何でスタート前にサーキットをウロウロするだけのきれいなお姉ちゃんに金払ってんだろう」と思ったら、それまでの存在じゃないかな。それ以上の存在価値が無ければ、「見た目が華やか」なだけのお姉ちゃんに払う金なんて真っ先に切り捨てられるものだ。不況になったら、社員のお嫁さん候補としての高卒お茶汲みOLがいなくなったみたいなもんで。
スタート前のドライバーに対するアシスタント業務とか、メカニックの最終チェックが出来るとか、チアガールみたいに金が取れるショーが出来るとか、そういう「華を添える」以外の存在価値をアピールすれば、「この人たちは可愛いから突っ立てるのではなくて、こういう仕事があるから外せないんだよ」って生き残れたと思うんだけど。
試写会にて視聴
事前情報は3つ
・そこまで期待してない
貧乏な出で仕事も首になったけど、機転と発想で成功を目指して見世物小屋をやる
予想以上だった
歌がすげーよかった
見終わった後すげーテンションあがった
映画始まる前に主役のヒュージャックマンの特別な映像で「これはサクセスストーリーです。特別試写会をぜひ楽しんでください」みたいなビデオメッセージがあった
ストーリーがよく言えば王道でわかりやすく、難しいことを考えなくてもいい
この時期の試写会だってのに途中でトイレに立つ人が数人いたくらいで咳もくしゃみも1回も聞こえなかったくらい見てる人を入り込ませる力があった
それがすごく日本的なセンスのシーンで、個人的にものすごく面白くてほんと大好きだった
さりげない・何気ないシーンだけど、ものすごくいとおしいラストシーンの一つだった
歌がすごくいい
思ってたよりもかなりよかった
どこがよかったか
メロディが印象的で見ながら口ずさめるくらいの気持ちよさがあった
歌って踊ってるシーンを静かに見てる自分たちがなんかすごくあほなことしてるように思えるくらいだった
ガルパンの絶叫上映じゃないけど、これも同じような上映やってほしいなと思う
ハーモリーと名付けよう
声質とかもろもろあってる必要があると思うんだけどマジでぴったりだった
どちらもめちゃくちゃきれいで歌単体ですごく心地よかった
キャラはよかった
ヒュージャックマンってやっぱりロバートダウニージュニアに似てる・・・
新聞の批評家は最初いやみキャラかなと思ったらそれだけじゃなかった
むしろそれがあったから最後らへんの展開で生きたキャラになってた
あと歌はサントラ欲しくなった
ストーリーが悪く言えばありがち
作中で結構時間たってるように見えるのにみんな全然見た目が変わらない(特にヒュージャックマンの子供たち)のが違和感
ミュージカルだから字幕だったけど映像がめまぐるしいのと字幕追うのとで目が回った
ただでさえめまぐるしくて目がすべるのに字幕で見る映画じゃないなと
ミュージカルだからそこを吹き替えってのは難しいし吹き替えたら声も意味も変わっちゃうからやらないほうがいいのはわかるけど
セリフと歌はところどころ聞き取れたけど、歌が盛り上がってるとなんていってるかはほぼ聞き取れない
試写会限定だと思うけど、スタッフロールの後、いきなり日本の女子高生が映画の歌で踊りだす動画が流れたこと
結局映画の宣伝ってことらしいけど、映画の直後に見せられると本編とのギャップがありすぎていろいろとひどすぎる出来にしか思えなかった
余韻が台無しにされた感じがして残念だった
試写会前の宣伝PVで、銃夢っぽいけどタイトル違う?と思ったけど後で調べたら銃夢原作の映画だった