はてなキーワード: リアリストとは
頭良い人間はマクロの環境を改善する事をまず考えちゃうし、頭悪い人間は自分にしか興味無いから根性論と精神論でミクロの自己利益だけを追求してマクロをより悪くする
頭いい人間はマクロとミクロどっちが効率が良くてどちらがより効果的かや、長期的目線での影響とかを考えて行動するんだよ。
自分の影響力が極小なのに「俺は頭がいいからマクロの環境改善を考えるぜ」ってリアリストとはかけ離れ過ぎてるし、その思考の結果起こす行動がアンフェって馬鹿すぎるわ。
馬鹿って「頭がいい人はこうする」みたいな型が好きだよね。
頭がいいなんて曖昧な概念だし、頭がいい人の中には一定数「利己的な幸福を追求する」って結論を選択するのは明らかなのに、「利他的行動は頭がいい」「利己的行動は頭が悪い」ってわかりやすい基準つくっちゃうの認知能力にキャップある馬鹿の考えた「賢い人の像」って感じでマジで笑えるわ。
児童子どもに「金融リテラシー」を持たせるために『ナニワ金融道』『闇金ウシジマくん』を授業で読ませろ、扱えっていってた連中。
「政治のリアルな戦略」「外交のリアリズム」を考えさせるためにボードゲームの『フンタ』『ディプロマシー』を授業でやらせろっていってた連中。
『はだしのゲン』より小林よしのりの漫画読ませたほうが平和教育になるって言ってた奴もいつかいたな。
お前らだよお前ら。自称リアリストのSNSでクソすることしか生き甲斐のない連中。
ちゃんとそのための運動やってるか?子どもいるなら自分の子どもにちゃんと読ませてるか?いないなら親戚や近所の子どもにそうするように仕向けてるのか?
SNSや5ちゃんだけじゃなくて学校や教育委員会や新聞やテレビや地元の議員にもちゃんと影響力及ぼせる実名形式署名形式で運動してるのか?
子どもがウシジマくんやゴーマニズム宣言戦争論読んでる光景を作り上げて具体的に何がしたいんだ?
勘違いしてる人が多いようだから言うけど、「原爆という過去のことでいつまでも騒いでいる」とか「被爆者の権利を訴えているのが同和っぽい」とか、そういうコメント自体がズレている。
もちろん、いろいろな差別も健康被害も受けている被爆者の人権を守る活動もある。
でも、今の被爆地や被爆者団体・被爆者遺族が願っているのは、「もうこれ以上、核兵器を使ってほしくない」ということなんだ。
そのために、核兵器の被害の深刻さ・威力の強さを世界中の人に知ってほしくて発信している。この地獄が二度とこの地球上で発生しないように。それが願いなんだ。
ある調査によると、2023年6月現在で世界には12520発の核弾頭がある。戦術核の威力は1発あたり、広島原爆の5〜10倍だ。
広島の原爆では、当時の人口 35万人に対して、1945年12月末までに14万人が亡くなった。
今の核兵器が実際に使われたらどうなると思う?
軽々しく核武装論を唱える人は「リアリスト」だと自称しているだろうけど、この現実の脅威が分かっていないと思うね。
もう一度言う。「原爆は過去のこと」ではない。現在進行形なんだ。
ちなみに「君たちはどう生きるか」の小説は未読、過去のジブリは金ローで流し見(ハウル・ぽにょ・風立ちは映画館で観た)、宮崎駿の生い立ちも知らんしインタビュー等全く見てない。
他の人の考察も見ていない。この考察が正しいかどうかは分からない。
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→主人公=宮崎アニメを見て育ってきた(もしくはこれから見る)この映画の観客である我々だと思う。
なので主人公の原風景や心内風景と我々が宮崎アニメで見覚えのある風景を重ねることで主人公=我々を強調する意味がある。
■謎展開
そのたび
→アオサギは主人公が感じている自分の中の嫌いな部分。だから主人公は出会ってすぐ敵対したし、主人公を心理世界に誘った。
自分に誘われて冒険してるんだから主体的と言える。キリコもヒミも自分が作り出した像なので主体的と言えるのではなかろうか。
→「父が好きな人」というのが正に動機を説明していて、主人公は自分の中にある夏子への複雑な気持ちと対峙するために夏子を助けに行く。
複雑な自分の心境に触れることには痛みが伴うので禁忌となっている。
→夏子は主人公を守るためにわざと厳しく接して追い出そうとしている。
厳しくされた事によって主人公は夏子を夏子母さんだと認められるようになり、心の禁忌領域が晴れて夏子も救われた。
→異世界に来たくて来たわけじゃないって劇中で言ってた気がする(記憶曖昧)。呼ばれたんだと思う。
→映画の演出のことは全く分からんが、着替えシーンによってリアリティ出すことで、その後火事の中に飛び込んでいく視界が歪んでるシーンの非現実感が増している気がする(小並感)。
アオサギが主人公自身であることから弓矢にも意味があると思われるがその辺はまだ言語化できてない。
■ヴィランの不在
→アオサギは主人公自身なので主人公を心内世界に誘うし主人公の助けにもなるし主人公と和解する。
で、なにか代償が起きるかというと「なにも起きない」。えーーーーー!?じゃあなんで「触るな」って言ったの?
→これは根拠のない妄想だが、ばあや人形を触って倒れちゃうと、現実世界のばあやになんか悪影響でも出るんじゃないだろうか。知らんけど。
さっき主人公=我々と書いたが、大叔父は宮崎駿を表していると思う。
彼はこれまでの自身の監督作品を通して我々に「積み木」を伝えたかったようだ。
たぶん、「(ジブリ作品を通して)観客それぞれが自分にとって価値ある大事なものを見つけてそれを自分で組み立てろ。」と言いたいんだろう。
即ち「君たちはどう生きるか」と言っている。
インコは何を表しているのか。物語の力を信じないリアリストなのかな?とは思うが、禁忌を口実にヒミを使って何を取引しようとしていたか分からない。なんか大叔父と会話してたかもしれんけど忘れた。
全く何の比喩なのか分からない。インコとペリカンが分かってないということは映画の中の結構な部分が分かってないことになりそうだ。悲しい。
分からない
そんなこんなでまだ分かってないことが多い。記憶から抜け落ちてるとこもありそう。このあと他の人の考察読んで分かったことがあったら追記するかも。
https://anond.hatelabo.jp/20230714085047
元増田曰く
とのことだが、みんながそうやってトレパクを認めてズルして得た結果が幅を利かせちゃったとしたら、そんな業界、分野は早晩潰れちゃうよ。一時的にズルしたやつが儲けて、それで終わり。ズルしてないやつは馬鹿らしくてやってられないから去る。あるいは経済的に去らざるを得なくなる。ホンモノの供給はストップする。
ホンモノのエモーションとやらをたくさん感じたいならズルは認めるな。
真っ当な「過程」を経て得られた「結果」のみが価値を持つってのを個人レベルでも社会レベルでも徹底しないと、やがて結果を享受できなくなる。
「いや大げさやな。そんなならんやろ」って思うかもしれないが、もし運良くそうならなかったとしたら、それはズルを認めない人がたくさんいてくれてるおかげなの。「みんな過程とか大切にしちゃって、世の中結果がすべてだろ」って「物事の本質をついた冷徹なリアリスト」みたいな言い草で語ることちゃうよ。
AI絵は是か非かみたいな話や、いわゆる「作品と人格は別」論については賛否両論あっていいと思うが、トレパクだけはあかんよ。
野生児のやつのブコメでここにつっこんでる人がいたけど、たしかにこういう思考って無邪気に表明していいもんだったっけ?と思った。ブコメでもよく見かけるから、麻痺してそうな感じだけど
私もリアリストだから、基本的にはヨッピーの言ってることはわかる。子供を野生児にしたいというのも、大筋ではわかる。
仮に日本が(どういう形でかは知らんけど)終了しても、よその子供はどうなってもいいけど、自分の子供だけは助かってほしいという気持ちもわかる。
が、それって、そんなに無邪気に表明していいやつだったっけ?という。
日本が終了して、日本人が我先に日本を去っていくとき、最後まで日本から逃れられない人たちというのは、おそらく弱者だろう。病人だったり、貧乏だったり、コネがなかったり、学がなかったり。最後まで日本に留まるしかない人たちというのは、こういう属性ではないかと思う
いつか日本を捨てる予定である、というのはこれらの人たちを切り捨てて、自分だけが幸せになれれば問題ないという考えの表明である、ということに鈍感な人が多い気がする
内心の自由は制限してはならないというか、そもそも制限のしようがない。
お宝の在り処や仲間の情報は爪を剥がしたり石を抱かせれば確認出来るかも知れないけど、本当に信仰を捨てたかどうかは踏み絵を踏ませたところで確かめようがない。
人を疑い始めれば果てがないし、だから適度に他人の善性を信じる、適度に無関心でいる事が他人を信用するという事になる。
スラム街で札束見せびらかしながら歩きはしないが、気心の知れた友達に財布を預けた後いちいち中身の勘定を始めたりもしない。
そういったバランスがないとパラノイアになって狂うか、全てを悪い方に邪推する鬱陶しい人間になる。
目に見えないものに気を揉むのが怖くて、目に見える部分で全てを判断するようになってしまうかもしれない。
このヒトには沢山お金をつぎ込んだんだから、それは間違いなく自分への好意に繋がるはずだ、とか。
人の善性を手放しに信じたいけど、それだと裏切られた時にツライ。だったら最初から全てを疑おうというのはとてつもなくナイーブな態度と一体のものだ。
でも常に邪推をするのがリアリストである事だ、なんて思ってる人も割といるみたい。
まあ疑う分には別に勝手だと思うんですけど、その猜疑心を相手にぶつけるのって果てしなくウザいですからね。
いちいち人の動機とかを邪推する人もいますよね。とてもウザい。
例えば「音楽が大好きでバンドでギター弾いてます」って人に、イヤお前の本当の動機はモテたいだけだねとか言ったりする。
露悪的な思考を拗らせて、人の動機とは常に損得勘定であったり不純なものであるという事にしたくてたまらないらしい。
イヤ仮に嘘だったとして、だったらどうなるってんだよって話で。
対人関係において自分の問題にならないところでまで邪推を始めてしまう。
ギターに憧れて練習したけど挫折してしまった、という話に対して「それは本当に好きじゃなかっただけの話だ」みたいな事言う人もいる。
どうしても本気でなかったという事にしたくてたまらない人。
こういう時に言う「本当の」という前置きは、概ね「私の考える、こうあるべき姿」と言い換えられる。
もし本当に「本当」があると決めたのなら、それは宗教なので。
本当の鮎があるのは美味しんぼの世界だけです。美味かろうが不味かろうが養殖だろうが冷凍だろうが鮎は鮎です。
他人の言葉をすぐ「それはお前が~だっただけ」と相手の「本当の」内面を決め打ちしてすぐ矮小化しにかかる。
どんなありきたりな悩みにも、そこには当人ごとの個別性がある訳で。それを無視してお前がカスなだけだと言っても、それは言った側が気持ち良くなるだけ。
まあウジウジした人間見てイラつくという気持ちもあるだろうけど、勝手に苛立った側が一方的に憂さ晴らしをするのってただのイジメですからね。
ハナから相手の悩みに寄り添う気なんてない事もあるだろうし、それなら適当に流せばいいだけでいちいち人の心を邪推する道理はない。
世の中もっと無関心でいい。どこまで疑った所で他人の心の真実は手に入らない。
そもそも相手がウソツキであった所で問題がないのなら、いちいち邪推する必要もない。
気に入らない事があればカッコつけて「お前が~だっただけだろ、どうでもいいけど」なんて言わず、素直に「俺はお前が気に入らねえ」と言って欲しい。
そもそもどうでもいい旨をわざわざ伝えるってどういう了見だよ。