はてなキーワード: スクラップアンドビルドとは
常々政治的言説において「右」と「左」という区分をいかにも対置概念のようにしてレッテル貼る場合があるが、その区分がずっとピンと来なかった。何をもってそう区分するのか?人によってその感覚は異なるのだろうけども、本当は対置される区分じゃないような気がしてむずむずしていた。
そこでいろんな政治的言説に触れるにあたり、どうせ区分するんなら、こんな区分ができるんじゃないのかな?という思い付きが出てきた。
------「内向き志向(国の問題の根源を内部に求めるという意味で)」と「外向き志向(国の問題の根源を外部に求めるという意味で)」------
・「内向き志向」というのは、その考えの背景に「自国を取り巻く環境はさほど以前より変化しておらず、国内の変化は、国内の利害関係者の隠された利益による意図によって起こされている」という思いがある。企業で言えば「その施策って市場の要望によるもんじゃなくて、特定の派閥のパワーを拡大させるためにすぎないでしょ?そんなことしたら多数の社員のやる気がなくなって外に人材が流出しちゃうよ?」みたいな。
・「外向き志向」というのは、その考えの背景に「自国を取り巻く環境は常に流動的で急速に変化しており、それに対応していくためには、場合によっては国内の既得権益(国民のも)を制限・縮小することがあってもやむなし」という思いがある。企業で言えば「市場はどんどん変化してるんだから、社員がこれまで築いてきた努力なんか無視して、見込みのないものは切り捨ててスクラップアンドビルドで対応していくしかないよね?でないとつぶれてまうで」みたいな。
おそらく現実はどちらに偏ってもまずくて、バランスをとって考えないといけないのだろうけども。
また、一人の人間の様態には「分裂気質(アンテ・フェストゥム(未来先取り的))」と「躁鬱気質(ポスト・フェストゥム(過去を重視する))」の要素が両方ともあって、そのバランスの中で現実と折り合って生きているのだが、どちらの要素がより濃いかの相違は個人によってあるという話があるが、それとも関係あったりして。
シン・ゴジラを見てきたのだけど、普通に面白かったのだけど、面白かったけどイマイチだと思う点が多かった。
なんとなく原因はわかってて、SF的な部分に気になる点が多かったのと、シン・ゴジラの長所が自分にとって重要ポイントでなかったのが原因、要するに好み。これはカレーが好きとかラーメンが好きとかと同じような話なので、別に好きな人を批判したり見下す意図はありません、この映画が好きな人とは友だちになれると思う。
以下理由と雑談。勘違いもあるかもなのでなにかあれば指摘してもらえると嬉しい。
出てくる科学者が知識としても思考としても科学者っぽくない。自分が科学で飯を食ってるので余計に気になる。オデッセイレベルは無理としても...
・ゴジラが変形したのを変態でなく進化だと呼ぶ。いや変態でしょ。「ゴジラの細胞を分析した結果通常の細胞分裂で突然変異を繰り返しており...」とかそういうSF的な説明があった上で科学者が「これは進化だ」と結論付けるとかだったら個人的には盛り上がったと思う。
・普通ゴジラの通り道の空間線量が変わってるなら「ゴジラが放射性物質をくっつけて歩いてる」が最初に来るべき仮説でしょ。なぜそれが出ないのか。
・ちょくちょく規制庁管轄らしい線量測定を「サーベイ」って表現してて、それも違和感、定点観測はサーベイとは呼ばない。多分モニタリングポストの空間線量。
・「0.4μSvという微量」とか言う会見とニューステロップ。文脈からしてμSvはいわゆる空間線量を言っているのだと思うので、その場合単位はμSv/h、つまり、そこに1時間いた時にどれだけ被爆するか。μSvだけだとなんらかの時間での積算線量とかになる。この差は地味なようで「秒速〇〇発打てる機関銃」と「今日は〇〇発打った」くらい違う。少なくとも「自分のいる場所がどれだけ危険なのか知りたい人」にとってはとても大事な違い。
・「遺伝子情報が人間の八倍だから最も進化した生き物」遺伝子情報の多寡は進化の度合いと比例しない。そもそも最も進化したって何?進化の回数(これも定義が難しいけど)なら虫とか世代交代の短い種の方が多いだろうし、頭が良いとかでないのは劇中から明らか、なら何を持って「最も」なんて言うのか、科学っぽくない表現。
・一回目の上陸時、ゴジラは冷却のために海に戻った。なら、二回目に来た時にも「温めたら放熱できなくなって海に帰るんじゃねーの?」ってなんでならなかったのか。
・確信がないのだけど、劇中でゴジラは体液の循環で体内の原子炉を冷却してるから、体液を凝固させれば動きを止められる。的な話をしてた気がするんだけど、これ、凝固させたら冷却不全になって次に来るのは過熱だと思うんだけど、なんで最後凍ったの?あまりに不整合なので、これについては自分が何かを勘違いしてるのかもしれないと思ってる。
・飛んでるものを撃ち落としただけで「フェイズドアレーレーダーと同じような機関が」って飛躍しすぎじゃないかな。撃ち落とすことが可能なだけなら超音波でも良いしめっちゃ耳が良いでもいいしちっちゃな目が実はあるとかでも良い。なんか測定したっって言ってたっけ?
・半減期20日程度の新元素なら、1-2日もあれば半減期の推定はできたはずで、ゴジラを倒してから判明するのは作劇上の都合なのが露骨でちょっとな...
・なんで凝固剤を口に入れたら飲んでくれるの?なんで飲んだら血液に混ざるの?口に入れても吐かれるかも、消化器官で分解されるかも、そもそも口から入れて体液に混ざるの?と疑問は尽きない。
・口に凝固剤を入れるシーンのゴジラの口が下を向いているのであれ流し込んでも重力で流れ落ちるだけでしょ。あの「かみ合わせの悪そうな口」の隙間から。
・最後凝固させてなんで冷えたのか、なんか-196℃(液体窒素温度)って言ってたと思うんだけど、凝固剤とゴジラ血液の反応が吸熱反応だったのかもだけど、そんなところまで冷却させられる化学反応ないでしょ。多分(専門外なので確証はない)。冷温停止がモチーフなら室温で良かった。
全体的に、実在の地名を使ったり自衛隊とか会議とかについてはリアリティがあったり、専門用語がそのまま出たりとリアリティに寄せてるのにSF部分が整合性を投げてる感じなのが落ち着かない。あと、どう見ても福島第一原発事故を意識している作りなのに放射線関連での用語や放射線に関する知識の部分がグダグダなのが謎。個人的には現実には無いとしても、SFだし放射性物質を分解する生物とかそういうのは嫌いじゃないです。
2つか3つなら気にならないけど、ちょっと多い。感覚的にはひっきりなしで出てくる感じ。インターステラーとかグラビティとかオデッセイとかでもこういう違和感はあったけど、頻度が違う。
あまり好きじゃない、これはSF的な所よりもさらに好みの問題。
・閣僚11(?)人が死んだことで政府が変わるきっかけになる的な描写はなぁ...政権交代時はもちろん、自民党政権内ですら総理が変われば閣僚も入れ替わるけど本質的な政府の機能は変化しないのはご存じの通り。閣僚は目標等を決めたりできるので影響は大きいけれど実運用は官僚のしごとなので閣僚が変わっても組織は変わらない。臨時総理が若手に譲る的な意思を見せたのかもだけど、死んでない政治家達は生きてるわけだよね。
・省庁の縄張り意識悪玉論とかもちょっと出てきて安易だなぁと思った。じゃあお前、連携したくてもどこの誰に問い合わせたら良いのかもわからない状態で連携できるか、ったら無理でしょ。突然連携しろと言われてできないのはしょうがないよ。
・なんで誰も「核兵器でゴジラを殺した場合に死ぬ人の数」と「ゴジラを倒せなかった場合に死ぬ人の数」を天秤にかけないのか。唯一の核兵器使用容認の先輩的な人も国際政治的な理由で、登場人物の価値観が判で押したように反核兵器使用なのが気持ち悪い。全編通じて誰も「どの選択肢が一番多くの命を救えるのか」という論点を持つ人間がいない。政治家なのに。
庵野さんのかっこ良いビーム演出とかがさほど好きではない。あまりにも旧作のゴジラ達に思い入れが強すぎて、斬新な演出の庵野ゴジラが好きになれなかったというところもある。この点はギャレス版ゴジラのほうが好き。
斬新であるところは大多数の人にとってはむしろ良い点だったんだろう。
・主人公とか人間の演出とか好きな点が多い。大統領になるとか総理大臣になるとかちょっとくすぐったいけど、いろいろな人が一生懸命なのは良い。
・散々言われているけど臨時じゃない総理大臣とかも含めて「無能キャラ」がいない。馬鹿な勢力もいない。ゴジラがすごすぎるだけってところがかっこ良い。
・総理が閣僚と一緒に死んだシーンは、災害の理不尽さみたいなものを感じて良いなって思った。でも最後まで見ると、あれはエピローグ後に「スクラップアンドビルド」って言わせるための作劇上必要な死だったのかなってなってちょっと残念。
・ゴジラがかっこ良かった。言葉使いの所でツッコミはしたけど、ゴジラは進化し続けていて変形していく、というのも良いギミックだと思った。
次回作があったら見ると思う。
自分は熱核兵器と発電所の問題を混同してしまってたせいか、熱核兵器を使ったら東京に住めなくなることを問題にしてたんじゃないかと思ってたんだけど、発電所みたいにずっと漏れてるわけじゃなくて一発どかんと爆発するだけなら放射能の汚染はそこまでひどくないものなのかな?
とはいえ広島長崎の映像を見ると原爆ドームとかくらいしか残ってないくらいまっさらな焼野原なわけで、現代の建築が70年前よりも堅牢になってたとしても、熱核兵器の破壊力も格段に向上してるだろうし、どのみちまっさらになってたのかな?
スクラップアンドビルドって単語も出てくるけど、やむなく壊れてしまったものを作り直すのと、町も一緒に壊しちゃえーというのとは、心情的にはずいぶんかけ離れてる気がする。
平泉成総理が住民に避難を強いることは生活を捨てさせることみたいなことを言ってたと思うけど、(引用は正確ではないと思うけど)、あれも福島の人たちを見るとやっぱり地元を離れたくないって人は大勢いたわけでしょ。危ないから別の場所に移住してね、なんてなかなか言えることではないのかもしれない。
是非は別として、この書き手が明確に見間違えている、あるいは見落としていることについて
この映画は「ゴジラという災害」と「日本」の戦いであり、明らかにそれを意識した作られ方をしているということ。
つまり登場人物は誰一人ヒーローではない。フィクショナルな意味でのスーパーヒーローは出てこない。
作中でも語られる通りに代替可能なキャラクターであり、しかし彼らが活躍するからこそ「一人の英雄」ではなく「日本」が見えてくるのだ。
さんざん指摘されているように、ヤシオリ作戦の内容は「ヤシマ作戦」と酷似している。
(①敵がエネルギー充填のため停止中 ②空撃は自動的に追尾破壊 ③日本中が集結)
「シン・ゴジラ」の作中に明確なヒーローとヒロインがいれば、エヴァンゲリオン同様に世界はシンジと綾波の笑顔に集約されてしまう。
熱く盛りあがりたければ自己犠牲を出せばいい。感動的なBGMを流せばいい。スローモーションをかければいい。
感情移入を誘発させて、画面に向かって叫ばせればいい。むしろ観客を感動させようと思うのなら、こんなに簡単なことはない。
それを「ないからダメ」ではなく、「なぜそうしなかったんだろう」という疑問を持って本作と向き合ってもらいたい。
そのうえで、内容が気に食わないのなら仕方がない。自分の好きなものと違うからだめ、という見方はあまりにもったいない。
矢口、カヨコ共に親の七光りであることは強調されているし、なによりあるキャラクターの薬指には指輪が光っている。
だが本作で書かれているのは理想の国家であり、登場するのは理想の公務員たちだ。
ゴジラが本性を発揮し、津波、地震、原発とその表すものが明らかになっていくうち明快になるが、
言ってしまえば彼らは「こうあってほしかった」とされる東日本大震災と原発事故に対応する日本国家だ。
だから彼らには徹底的なリアリティが必要とされ、ストイックさが求められる。
悲劇に立ち向かうたびに恋人に電話して、励まされて頑張る、だとか
田舎に帰って親に説教されて立ち直る、とか 死にゆく前に子供の顔を思い出す などの
よくある展開に飲み込まれない、強靭でありながらステレオタイプに寄り過ぎない国家公務員だからだ。
書き手が疑問に思っている「出世の野心」についてはもっと明快で、これは彼らの軽口にすぎない。
「国のため!」「私たちがやらなければ誰がやるんですか!!」といったような言動は安易にナショナリズムを刺激し、
また誰もが聞き慣れており、その言葉は嘘と虚飾にあふれている。なにより非常に陳腐なのだ。
それこそ書き手が「言わせるなよ」と評した「ゴジラより怖いのは人間」といった表現と同じように。
詳しくはゴジラ(1984)をご参照願いたい。
朝起きれば津波。昼休みに流される車。倒壊する学校。鳴り止まないサイレン。
街が泥水に覆い尽くされ、数えきれない人々が瓦礫の山と共に砕かれていく。
バラエティ番組は自粛、CMは自粛、連日の黙祷、増え続ける犠牲者、行方不明者。
確かにこの頃「何度でもやり直せる!全然OK」等と唱えていたら、書き手に同調する人は多かっただろう。
だが震災より既に5年半が経過している。また先日の熊本大震災、あるいは津久井やまゆり園の例に見るように、
悲しみは絶え間なくやってくる。
そういった中で明るい展望を見出し、これからの立ち直りを示唆することが悪いとは到底思えない。
また繰り返すように、本作は理想の国家公務員たちが作り上げた理想の災害対処である。
書き手が腐るほど見てきたという作品群は、恐らく以下のようなカタルシスの産み方を目指していたものだろう。
→④予期せぬアクシデントが発生する
→⑤とっさの機転で切り抜ける
が、本作はその点を利用していない。しようとしていない。それは映画を見ればわかる。
まずは②にあたるものが本作にはない。作戦の目的以外、つまりどう実行するか?の点について、
本作では最後まで伏せられている。
発破をかけたビルでゴジラを押しつぶすという作戦を観客に提示する、その絵だ。
ビルと鉄道に「日本の技術力、ひいては日本そのもの」を読み取るのもいい。
(今までゴジラに破壊されてきたものの逆襲という背景を深読みしてもいい)
もし書き手が少しでも頭を使って本作を見ていれば、流石にゴジラを東日本大震災と重ねているはずだ。
そこから何も読み取ろうとせずに、フィクション世界の物差しで本作を「ご都合主義だ」と言っているのであれば
読み取り方を完全に間違えている。
本作はリアリティを追求しつつ、観客に「これは東日本大震災のメタファーですよ」「そして彼らは非常に有能な公務員たちですよ」と
前半までに否応なしに畳み掛けることで、
本作の、少しでも間違えたら全てのシーンが冗談になってしまうヤシオリ作戦について「嘘」を認めさせるという高度な作り方をされているのだ。
書き手は「私は震災で家族を亡くしている」などという設定があれば、
・押し潰される団地
・頻出するガイガーカウンター
・明確に原発封鎖を目的としたコンクリートポンプ車に似せたゴジラ沈静化作戦
ここまでされても「ごく自然にゴジラを震災や核と重ねることもでき」ないのであれば、
ここまで書いた文章はすべて無駄で、純粋にリテラシーの問題だ。
褒める褒められないの視点に立ててすらいない。
問題文が読めていないのだから、出した答えが正解しているわけがない。
もちろん、書き手を否定した文章すべての答えが正解であるはずもない。
だからもちろん、こういう人にこそブルーレイを買って何度も見なおしてもらいたい。
映画は何回も見れば見方が変わるものだし、繰り返し話すことで理解は当然広がっていくはずだ。
一回で全てを理解してしまい自分の中に全てを落としこんでしまった人よりも、この書き手は本作を何倍も何倍も楽しめるのだから。
あーあ、今までの活動もなかったことにされそうだ。
(または停止しましたとか書くとか。)
活動した側としては、そもそもいつの間に公認にしやがったんだよという気持ちでいっぱいだが。
勝手に公認にして効果がないと判断したから勝手に公開停止しろとか。こちとら義務ではないし頼んでもないし、公認になった経緯も知らないし。公認としての活動量の条件も提示してなかったんじゃないのかよ。
ややこしいから公開停止というのは分かるけど、アーカイブとして参照する人はいるのでは。そうすると停止と宣言するほうが正しい気もするが。ダメだったら消すのスクラップアンドビルド方式なのか。
最近、「なかったことにされる」ことについて考える。
ろくでもない勘当された兄弟の話を、自分が連れてきた彼女に何の前触れもなく話されて彼女が口きいてくれないという話とか。
その親はいくら勘当した兄弟でもいなかったことにされるのは嫌だと思ったのかな、と思った。
まあそれとこれは違うか。
http://d.hatena.ne.jp/bewaad/20100514/p1
BewaadさんのエントリーがTwitterとかで盛り上がっていた。こういう良いエントリーを読むと自分も何か書いてみたくなる。とは言え、氏の議論への反応ではなく、氏の議論への反応を見ての感想なのだが。
twitterをつらつらと眺めていて、ある種いわゆるリフレ派の最大公約数的な意見だなと思ったのが以下のコメントだ。
個人的にリフレ派諸氏に言いたいのだけれど、開き直ってもいいと思うんだよ俺。「gdgd言わないで全部ボタン押せ、学術的な決着はその後だ」と。俺は少なくともこの立ち位置に立脚してるし、この立ち位置が「ただの素人のリフレ派」にとって最も強いと少なくとも俺個人は思っている。
http://twitter.com/kumakiti2ch/status/13936833688
感情論としては、正直同意せざるを得ない。不況長すぎ。いらだつ気持ちは自分にもある。そもそも、経済政策が理論に先行したことは今まで何度もあった。むしろその方が多いんじゃないだろうか。ならば、限られた情報と能力と選択肢の範囲内で、最良のものを選んでいく、そういう割り切りは必要なはずだ。
ただ、この割り切りは我々外野の人間がするものじゃない。それは為政者の仕事であり、責務であって、我々が出来る事じゃない。残念ながら。もちろん、全部ボタン押せと言ってはいけない、とは言わない。それをやりたい人は政治活動・宣伝活動として大いにやればいい。でも、外野の我々にとってもっとも意義深い仕事はそれではないと思う。
本当に大切な外野の仕事は、ボタンを用意すること。そしてそれを磨くこと。政策の選択肢を提案し、そのコストも、ベネフィットも、考え得る全てのリスクも、全てが出尽くすまで叩いて叩いて叩きまくる。もう鼻血も出ないほどに叩き合ったその末に出来たコンセンサスを為政者の前に積み上げること。それこそが外野の仕事ではないだろうか。
もちろん、いくら完璧に鍛え上げた最良のボタンを用意しても、それが採用されるとは限らない。ユーロの通貨統合の直前に、どれだけの学者が議論を積み上げ、賛否両論のボタンを用意してきたか。30代以上の人なら覚えているはずだ。そして、過半数の経済学者(と記憶している)が提出した反対意見は結局為政者達に却下されて、今の惨状に至ることになる。それでも、例え捨てられるとしても、政策オプションというボタンを磨き上げる行為が無駄だと思っている経済学者などいないはずだ。今は捨てられても、一度磨き上げられたボタンはいつか必ず何かの役に立つ。
翻って、過去5年間、いや10年間、リフレ派の論者の人たちは自分たちのボタンを磨き上げてきたのだろうか。自分にはそうは思えない。「インフレターゲットでデフレ脱出」、という意見に「いや、コミットメントの問題が解決されてないでしょ」とツッコミが入った。それに対してリフレ派の人たちはどれだけ真っ向からの反論をしてきたのか。財政政策だってあるじゃん、みたいな議論に逃げてはいなかったか。それは「このボタンじゃ機能が足りないんじゃない?」という客の質問に、「その機能は別のボタンについてるから大丈夫です」というようなものだ。それじゃぁ意味がないんだよ。一つのボタンじゃ機能が足りないなら、その半端なボタンはさっさと捨てて、二つの機能を統合したボタンを客に見せるべきだ。客のツッコミに耐えられるようなボタンが出来るまで、スクラップアンドビルドを繰り返すべきだ。
それを怠り、自分のボタンにケチが付けば「いつまで文句ばかり付けるんだ」「ぐだぐだ言ってないでボタンを全部押せ」と叫んでみても、それが為政者に届くわけがない。未完成品のボタンを山ほど差し出して、時間がないからとにかく全部押せと。国に大してそんな押し売りが出来るほど我々は強くもなければ偉くもない。我々に出来るのは、地道にボタンを改良していくことだけだ。いつか、どこかでそのボタンが役に立つことを信じて。
本来は、そのボタンは役に立つはずだった。リーマンやベアスターンズが破綻したときに。でも我々はその議論には殆ど貢献できず、結局似たような議論がアメリカのブログで繰り返されて、あっという間に向こうの議論が先に進んでしまった。これは本当に恥ずかしく、悔しいことだった。少なくとも、自分にとっては。
最後に、ひとつだけリフレ派に提案したい。リフレ派は今すぐ内部抗争をするべきだ。インタゲインタゲと繰り返す人と、財政政策が重要だという人が、同じ意見のはずがない。例えアイデアの95%が同じでも、残りの5%が違うなら、そこを徹底して叩き合うべきだ。そうしないと、お互いの前提条件に違いがあることに気づけない。自分が(多くの場合は無意識に)仮定している前提条件を明らかにして、再検討して、その上で始めて政策オプションというボタンを改良することが出来るのだと自分は思う。そこを怠るから、インフレターゲットの時間的不整合性を問う意見に「財政政策があるからいいじゃないか」というような議論のすり替えを行って、そのおかしさに気付けないのではないかと思う。