はてなキーワード: 物言いとは
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http://anond.hatelabo.jp/20120108211250
ちょっとはてブだけを貶める形になってしまったので、これはよくないな、と改めて、ネット各地で戦うコメンテーター達の特徴を、ウェブ上の争い事なんかに興味のない女子にもわかりやすく、戦国大名に例えてみたよ!
(※あくまで戦う人をツール全体で捉えたものであり、利用者個人の特徴を言い当てているものではないです。)
勢力が非常に広範かつ多岐に渡るため、一括りにすることが最も難しい国ですが、強いていうのであれば謙信タイプでしょうか。屈強な武将がフォロワーという軍隊を従え、RTという名の十文字槍で取るに足らない足軽兵を駆逐していく様はまさに軍神と呼ぶに相応しく、各地での転戦の多さや、持久戦を得意とせず、短期戦で勝敗を決めるあたりも謙信型ツールといえます。当然、国民の大多数は争いを傍目に見ている農民か、無言のRTで追随する足軽や小物であり、武将クラスは100人に1人も満たないということは付け加えておきます。
ネット界古豪。上杉家を「馬鹿発見器」と称し、馬鹿を発見し次第、少数の精鋭部隊が煽動した後、住人全員で場所を厭わず突撃する様は、まさに信玄が得意とした啄木鳥の戦法そのもの。ターゲットにされた者は、最初は「ネット弁慶が」と油断しているものの、知らず知らずのうちに追い込まれ、気づいた時には過去の悪行を洗われ、身分バレ、職場に電話、の三段撃ちで後の祭りとなります。戦国最強と謳われることも多いですが、一人一人は取るに足らない雑兵なので、軍師や精鋭部隊を抑えることが鍵となります。
疑り深い性格のため、誰にでもとりあえず謀反の疑いをかけて追い込んでしまう彼らは信長タイプです。一時は天下を取るかと思われましたが、それも遠い昔の話。新しいもの好きで、策略や心理戦に長けていながら、非常に威圧的かつ冷酷であるが故、敵を多く作ってしまい、四面楚歌に。うつけを演じ続けて終わる三文役者も後を絶ちません。心ない皮肉を投げ捨ててばかりいると、仕舞いには部下に焼き討ちに遭ってしまうのが世の常というものです。
国内レベルの些細な小突き合いに満足するのではなく、世界を舞台に闘いたい。いつまでもJリーグで満足している俺じゃない。そんな野心溢れる猛者達が集う場所です。これは天下統一を成し遂げた後、世界に目を向け、手始めに朝鮮出兵を企てた豊臣秀吉タイプと言えるでしょう。世界規模で文化や宗教が入り乱れているのでやや面倒な状態になっていますが、10年前のワールドカップの審判買収をネタにコリアを叩けばヨーロッパ各地から賞賛されるレベルなので、知略戦は必要ありません。英語は必須です。
国内では圧倒的な勢力を誇っていながら、今ひとつ目立った武勇を残せていないその戦果は信長の噛ませ犬となった今川義元と重なるものがあります。仕様上、与えられた情報のみに食いつく受け身の性質であるため、そもそも誇り高い戦闘民族とは言い難く、戦国武将に例えることも躊躇われるのですが、場合によってはストレートな物言いで集団で牙を見せる気概も持ち合わせているので油断は禁物です。しかし、基本的には騎乗もできない貴族体質であるため、あまりにも鋭い逸材は埋没してしまうことが多い反面、「そう思う」「思わない」の二択の統治の安定感には光るものがあります。
とにかく流行の場所に乗っかっていく浮気者。「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」をモットーに、あらゆるSNSを使い倒し、寝返りを繰り返した挙げ句に争いに疲弊し、落ち着いた人間が多く集う安寧の地。人を疑わないことを是とし、終始、当たり障りのない会話といいね!の笑顔でお茶を濁す。揉め事などとは無縁の太平の世ではありますが、ぬるま湯の居心地が悪くなればいつでも次の主君に仕える準備はできている、節操のない集団といえるでしょう。
「○○の良さがわからないなんて信じられない!人の心が無いと思う!」
○○に恋愛を入れても猫を入れても通じる。
恋愛にそういったドキドキやらトキメキやらを感じない人にとっては、恋愛は時間と金を食うだけの無意味なものでしかない。
逆に猫からそういった癒しを得られない人にとっては、猫を飼うことは時間と金を食うだけの無意味なものでしかない。
恋愛も猫も、「無意味に感じる」と言うと、「人の心を持たない冷血人間」みたいな物言いをされる。
人の恋愛や猫にケチをつけたわけでなく、「自分は恋愛する気がない、猫を飼う気もない、理由は良さを実感できないから」と説明しただけなのに、
「それは冷たい人間の考え。恋愛・猫の良さを"素直に認めるべき"」と猛烈に干渉される。
どうして恋愛からドキドキや、猫から癒しを得られないという「特徴」はそこまで糾弾されるのだろう。
「犬好きに悪い人は居ない」って何だ?「釣り好きに悪い人は居ない」って何だ?
なんとなくその原因もわかる気がして、それは綱渡りの競争で勝者にならなければならない義務感が全面化していることなのではないかということだ。
職場はもちろん、親、兄弟姉妹、配偶者、恋人、友人、あらゆる人間関係で安心できる場所が少ない。
もちろん、子供でもない限り「無条件に自分自身を受け入れてくれる場所」なんていうものが誰にでも用意されているわけではないのは当り前だけど、
今の日本の社会って「失敗できない」という感覚が強過ぎやしないだろうか?
「あいつは使えない。使えないやつとはつるまない方がいい。いつ自分の評判に響くかわからない」。
実際、中学生あたりの年頃に、いじめる側にまわるかいじめられる側になるのか戦々恐々とする構造とあまり変わらない。
裏で働いているのは利害関係の論理で、この利害の理屈があらゆるところに顔を出している。
でも、個人的な関係まで悪化するかはともかくとして、ビジネスの場ではある程度それは仕方の無いのことだ。
しかし、恋愛関係が損得勘定なのは珍しくないとしても、親兄弟や利害が無いはずの友人関係までもが損得で勘定されかねない今の状況はどうなんだろうか。
いけてるやつとつき合いのあるいけてる自分、いけてないやつとつき合っているいけてない自分。
そして、自分は自分の友人や親兄弟や恋人から見て、いけてるのかいけてないのか?
あるいは実際はそういうわけでもないのかもしれない。
親兄弟・友人同士の関係における損得勘定感覚、利害の論理はもしかするとそれほど前面化しているわけではないのかもしれない。
だけど、ここで重要なのは「そう感じられる」ということだ。不信の種にはそれだけで十分だ。
社会生活を送るにあたって「失敗できない」という緊張を延々と強いられたらどうなるだろう?
誰に対しても「へまをすれば自分は徹底的に見捨てられる。だから決してミスをしてはいけない。この綱を踏み外してはいけない」
という強迫観念を持って日々を生きなければならないとしたらどうなるだろう?
そして、失敗してしまった人間が「自分はへまをしてしまった。綱から落ちてしまった。だから自分は見捨てられても仕方ない存在だ」
と感じているとしたらしたらどうだろうか?
恐れる人間は当然のようにその恐れの原因である自分の物差しを、そのまま他人を評価する物差しとして使う。
この場合「へまをしないようにそこに精力を傾けて努力している私は、へまをした人間を切り捨ててもいいのだ」という感覚だ。
こうして実感された全方向における関係性の「綱渡り感」は社会的現実になり、再生産され、綱から落ちた者への容赦ない冷笑・蔑視・罵倒は正当化される。
とにかく明るく元気で前向きにいることが義務づけられているこの空気の中、
少しでも気鬱な表情を見せれば途端に敗者の匂いが漂い、それだけであらゆる場面で敬遠の対象になってしまう。
今までの日本社会ならば、失敗したとしても、明るく元気で前向きにいることが可能だった。
社会全体が経済的な繁栄を享受する中で一度二度つまづいたとしても、もう一度立ち上がってライフコースを再構築するくらい日本社会の路は太く安定していたからだ。
「なあになんとかなるさ。死ぬわけじゃあるまい。人が人でなくなるわけがあるまい」が現実だったのだ。
だけど、今や日本社会の路は一本の綱になってしまった。誰かがどこかで失敗することは避けられない。
そんな社会で私たちは「一度躓いたら徹底的に孤立する」という「綱渡り感」から逃げられない。
「みんながやっている綱渡りなんだ。敗者が孤立するのは当然だ」という声があらゆるところから聞こえる。
でも果たして本当にそうなんだろうか?本当に失敗した人間は孤立しなければならないんだろうか?
目の前の路は、落ちたらまっさかさまに孤立へと落ちる、一本の綱なんだろうか?
実は、目の前の路を「綱渡り」にしているのは僕たち自身なのではないだろうか?
僕の弟は今大学4年生で、本命ではないけれども、某企業から内定を頂いている。だけど本人はひどく落ち込んでいるようだ。
大企業へ就職する者が多いという周りの友人に比べた時、弟は、既に失敗している、綱から落ちてしまった、という思いがするのだそうだ。
驚いたことに、留年してもう一度本命の企業(某広告代理店)に挑戦したいと言い出す始末。正気の沙汰とは思えない。
挙句の果てに、弟は僕に対しても卑屈な態度をとるようになってしまった。
僕の会社は弟の内定先よりもはるかに知名度の低い会社だというのに、だ。そんな弟を見るのは軽くショックだった。
だけど、自分の周りを見てみても、もしかしたらそういう感覚は、この日本社会ではもう当り前なのかもしれないと思うようになった。
共に氷河期の就職戦線を生き残った大学時代の友人が、弟とまったく同じ卑屈な態度をしていたからだ。
失業をきっかけに鬱になってしまった彼の元を彼の妻は去っていった。幸か不幸か彼らには子供はいなかった。
そして友人は変わった。ひどく自分を卑下し、まるで「まともな人達」と同じ場所で生きていること自体が申し訳ないことかのように振る舞うようになった。
彼の失業や離婚に心を痛める人間は世界で彼ひとりしかおらず、他の誰一人として彼の心痛を共有できるものはいないかのような物言いをするようになってしまった。
氷河期世代の割に比較的のんきに生きてきた僕は、今とても恐ろしくなっている。
今まで考えたこともなかったけれども、もし僕が会社から解雇を告げられたら、あの卑屈な表情を僕に向けてきた弟や友人は僕を嘲るだろうか。
僕の恋人は負け犬を見る様な目で僕を見て、そして僕から離れていくだろうか。何より僕はそんな態度をとり始めた周りの人間を恨まずにいられるだろうか。
人生の苦しい状況で、支え合うことよりも、蜘蛛の糸を奪い合った亡者達と同じように蹴落とし合うことを選び、
ひたすら損得と利害だけで行動するような餓鬼の如きなにかに成り果ててしまうのだろうか。
綱の下に広がる網は、綱の上を歩いている時にははっきりと見えるけれど、一度綱から足を踏み外した瞬間に消えてしまうのかもしれない。
なんという恐ろしさ。徹底的に孤立するから綱から足を踏み外せない、でも誰かは足を踏み外さなければならない。
ならば蹴落とす、自分が落ちない為に。落ちたやつには目もくれない。
こんな緊張があらゆる人間関係で全面化してしまったら、そりゃ狂うわ。
綱をうまく渡れている時でも生きている心地がしないもの。
「もし、お前の一番の希望が通らなかったとしても、その時は僕がどこかにコネをつけてやるから。そのくらいはなんとかなるから。だから後悔の無い様に思いっきって挑戦してください」と。
そして、友人にはこうメールする。「元気?お前が暇なうちに久しぶりにまたオールナイトでも見に行こうぜ」。
彼女にもメールを送る。「お仕事おつかれさん。今度、温泉でも行っておいしいごはんでも食べて一日中ぼーっとしてゆっくりしよう」。
多分、会社の同僚にも送るだろう。今はもうあんまり顔を合わせなくなった大学時代の友人や高校時代の友人にも。父と母にも送ろう。
少なくとも、僕にできる部分だけでも常に網を張っておこうと思う。
きっと今は、そういうひとりを思いつめさせないように気遣う努力がひとりひとりにとって必要な時代なんだと思う。
そうじゃなきゃ、みんな悲惨な気分を内に秘めて、そして隠しきれずに卑屈な顔をしながら生きていかなければならなくなってしまう。
いいことがあれば共に喜び、わるいことがあったら共に悲しみ、そしてまた再スタートを切ることをお互いに後押しし合わなければダメなんだと思う。
これだけ厳しい時代なんだから、経済的な意味でも、人間的な意味でも、そのくらいのことができなければ、僕たちは人間でなくなってしまう。
事実として
女は若い方が価値が高い
この事実から見て元増田の言っていることは間違ってないというか至言なのだよ。
と捉えたのだろう
いかにも女が一人で出来ることをわがままからぐずぐずサボっているかのような物言いだけど、
女がさっさと結婚するためには男が必要だっていう当然の発想がなさすぎて引く。
この国同性婚認められてねーし。
追記:
個例しか無いんでアレなんだけど、やっぱ知り合いカップルとか大学入学くらいから続いてるんだけど
収入と時間の兼ね合いがアレすぎて結婚できねーみたいなの多いよー。
「子供はしっかり育てたい、けどそのためにはキャリアは間違いなくブッツリ行く。旦那? 激務過ぎてむしろ支えてあげないと…」
みたいなね。
美しいものに限らず、楽しいもの、嫌らしいもの、何でもいいけれど、形容詞で表すことのできる多種多様なものどもを受け入れられる態度って素敵だと思う。
意味が分からなくても、価値が分からなくても、取り敢えず特定の形で成り立っている物事や出来事や関係性なんかを受け入れてみる。受け入れてから批判なり肯定なりすればいいと思う。
個人的に拒絶って拙い行いだと思う。拒絶してしまう人がいることや、拒絶してしまう対象があることは受け入れるけれど、そういった否定がありうることが少し悲しい。
食わず嫌いだとか偏見持ちだとか、理解出来ないからや理解したくないからって否定するのは、勿体無いことだと思う。
無論、否定と云う行為はその人にとっての社会観を形成する大切な境界線を引く作業に他ならないのだけれど、小さな領域を囲う図形を描いたって勿体無いような気がする。
まあ、その領域内での物事は大いに煮詰まるのだろうけれども。
でも、漠と広がった領域内で薄味の世界観に浸るのもまたいいのではないかなあと思うわけで。
意地の悪い優越感ゲームのような物言いだけれど、受容性だとか許容性って大切にしたいなあと感じるのです。
需要とか許容ばかりしていても駄目だけれどね。
つまりは、みんな違ってみんないいってことなんだな、きっと。
なんかいろんなとこで何度も出し尽くされてるネタな気もするけど、リアルで相談できるひとが全然いないので増田に書いてみる。
大学生なんだけど、恋愛ができない。というかどうしたらいいのかわかんない。ほんとに。
この人のこと好きだなっていう感情にはなる(ので、正確にはタイトルには誤解がありますすみません)けど付き合いたい、この人の恋人になりたい、とどうしても思えない。
もっと言うと、性的な関係になることにものすごく抵抗がある。嫌悪に近いのかもしれない。
別にトラウマがあったわけじゃない。トラウマ自慢したいわけじゃないです。
大好き!と思ってデートとかするじゃん、それでちょっと手なんてつないじゃったりする。向こうもなんかけっこうその気だし、一緒にいてすごく楽しい。
まぁ次のデートあたりで既成事実になりそうだ。そんなの告白される前からなんとなくわかる。
でもそこで改めて立ち止まってしまう。
付き合う前からそんなこと考えてる私が馬鹿なのかもしれないけど、この人と性的な行為をしたいかっていうと全然したくない。
でも恋人同士になったらそんなの避けられないっていくらなんでももうこの年だしわかってる。
自分でも毎回最低だなって思うけど、手のひらを返したように「あなたとは付き合う気ないですよ、よいお友達ですけど恋人ではないですよ」オーラを出して無言で圧力かけまくる。
告白する隙なんて、「そういう関係だよね」を言う隙なんて、与えないように細心の注意を払う。
ごめんなさいと思いながらほとぼりが冷めるのを静かに待つ。終わる。鎮火。
はあ。よくない。っていうかごめんなさい。
今まで彼氏いたことがないわけじゃない。最初の人とはかなり長いこと付き合ってた。
セックスが嫌いなわけでもなかったし、むしろいちゃいちゃしてる時間楽しかった。だから単純な嫌悪でもない気がする。
で、まぁどっちのせいでもなく別れた。繰り返すけどなにかトラウマを植え付けられたわけではない。
暴力とかも全然ない。未練もない。彼との想い出を汚したくない!とかそんなドリーミーな感情もない。
2人目に付き合った人は、よくある話だけど彼氏と別れてめそめそしてたときに優しくしてくれて雰囲気で付き合うことになった。
とっても仲良しでいっしょにいて超楽しかった。彼とは手つないだりキスしたりはしたけど、なんだかんだごまかして(実家暮らしという最強の切り札…)結局最後までセックスしないで別れた。
そんな長く付き合っていたわけでもないんだけど、でもひどいな自分…とは思った。明確に避けてた。彼のこと嫌いじゃないのに!全然!
うわーちょっとこれはやばいぞ、私ちょっとまずいんじゃないの、とうっすら思った。やっぱりそうだった。そのあとずっとそうだ。
またこんな風に別れちゃうのかもな~って思っちゃって、恋人をつくる気にどうしてもなれない。
女の子の友達には「はやく彼氏つくりなよ~~」「○○くんとデートしてどうなったの!?」とか聞かれる。
大学生はひまなんだもの、恋人がいないやつにいかに恋愛させるか、は話題として鉄板すぎるわけです。
そのいつも同じような質問にあいまいに笑って答える。「なんかめんどうなんだよね」「なんか気持ちがのらないんだよね」
ほんとは具体的にわかってる。いつもストップかける点はわかってる。
でもそんなの恋愛至上主義の女の子たちの前では、あまりに瑣末すぎる部分、だ。
「とりあえず付きあえばいいじゃん!」で終わるし、その答えに一理どころか納得できる部分が(少なくとも彼女たちのゲームのルールでは)大きくあるのもすっごいよくわかる。
付き合う前からそんなことが頭をよぎってしまう自分がおかしいのかおかしくないのか、そこでそういうことしたくないって明確な理由もなくでもかなり強く思ってしまうのがおかしいのかおかしくないのか、それすらちょっとよくわからない。
考えすぎだよ、とか言われちゃうとそれで終了なんだけど……
若いんだから恋愛しないと~、という物言いはよくわかる。でも無意識にブレーキ踏んじゃう。
恋愛したくないわけじゃない。好きな人がいてどきどきしてる時間はすごい楽しい。
でも現実的に恋人っていう二者関係に陥ると考えるともうつらい。
似たようなこと感じたり考えてきた人がもしいたら、いったいどうやってマインドを切り替えたのかあるいはあきらめをつけた?のか教えてほしい、です。
元増田です。的確なレスありがとうございます。
こういう話、相談する相手がなかなかおらず、ましてやはっきりとした物言いをしてくれる人もいなかったので、すごく嬉しいです。
やっぱり認識が甘いですよね…。何かあってからじゃ遅い、一番困るのは私のはずなのに。
相手が私をどう捉えているのか(舐めているのか、本当は遊びのつもりなのかなど)は、正直よく分かりません。
普段接している感じでは遊びの関係じゃないと信じていますが、私の一方的な思い込みと言われればそれまでです。
…馬鹿ですね。はい、馬鹿だと思います。相手のせいにしてもしょうがない。
金銭面の負担以外でも大人だな、と感じさせるシーンはこれまで何度もあって、
やっぱり学生はまだ子供で社会人は大人だ、となんとなく分け隔てた考えを持っていましたが、
私も大人でした。というかSEXする以上子供だろうが責任を持たなければ。
SEXするなら避妊は当然という考えが薄れてきていたのもあると思います。
運よく妊娠せずにこれていたため、徐々に危機感をなくしていたんだと思います。
ですが、おかげで改めて避妊に対する意識を持てたように思います。
やっぱり、避妊はしなきゃいけない。して当然のこと。
「いやなら見るな」というビートたけしについて、これは以前ネットゲリラが原発問題に関連してコメントしたとおり、芸能人のヨイショ、単なる野次馬の言葉なのだから、それほど大げさに取り上げることではないのではないかな。
http://shadow-city.blogzine.jp/net/2011/04/post_8072.html
フジテレビに対するデモがあるというが、まあ先日のお散歩同様、元気にお祭り騒ぎをすることは極めて健全な社会現象じゃないのかな。
民間会社の活動にアレコレいう筋合いがあるのか、という物言いは、ちょっと常識をうたがう。
市民である私たちがいいたいことがあれば、いつだっていいたいことを言う。その権利がちゃんと保障されているのが日本国のはず。
もちろん、いいたいことを、「どうやって」言うのかは、その振る舞いが当然問われてしかるべきだけど。