はてなキーワード: 永遠とは
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231025/k10014236581000.html
10年後の未来にこういうカップルがいたら個人的に萌える、というぐらいの突貫工事
------------------------
傷はすっかり癒えて、うすい手術跡以外は生まれた時から私は女性だったのかも、という勘違いをさせてくれるぐらいには、足の付け根の新しい姿を気に入っていた。昨日までは。
「最近生意気じゃない?こんなもん付けたままなのに、そのスカートも私への当てつけでしょ?」
楽しかった2人での鎌倉旅行から、わたしたちが永遠を誓い合った家についた瞬間、彼女は怒った。
押し倒されてソファに倒れ込むわたしの……見た目上は何も無くなった股間に、彼女はずっとヒザ蹴りを入れていた。わたしたちの身体が揺れるたび、2度と感じたくなかった痛みがわたしを襲う。わたしの、股の奥に埋め込まれた睾丸だ。
小さい頃から男として生まれた自分とその身体を呪い続けて生きてきた。
高校生の時、このままの男の身体では生きていけない自分に気がついて、25歳までがむしゃらに資格やお金を貯めてきた。
それまでも、みて見ぬふりをしているだけで、ずっと自分を傷つけながら生きてきた。
小さい頃からハサミで自分のモノを切ろうとして、少し血が出てやめたりする、そんな衝動がずっと続いていたからだ。
そんなわたしを受け止めてくれたのが、大学生時代に出会った彼女。理沙だった。
バイセクシャルな彼女は、私を男だと思って付き合い始めた。人から好意を向けられるのが初めてだった私は、しばらく、自分が普通になれることを祈りながら付き合い続けた。
ちょっとヤンキー気質で派手な金髪の彼女は近寄りがたかったけど、「優しいところが好き!」と言って懐いてくれる彼女を無下にしたくはなかったからだ。
半年後、どうしても男性としてセックスがしたくなかった私は、彼女の家で泣きながらカミングアウトした。
その時から、彼女はわたしが女性として生きていけるように本当に色々なことを教えてくれた。家族以上に、わたしの第二の人生にとって密接な関係だ。
彼女に手術の相談をしたとき、「女になるのは応援してるけど、金玉は残して欲しいんだよね……私たちの子供、欲しくなるかもしれないしさ。」と言われた。
2033年の今は、昔と違って性別適合手術に生殖腺の摘出は必須ではなくなっている。
それどころか、わたしの通っていたジェンダークリニックでも睾丸摘出はしないことを勧められるようになっていた。確かに男性ホルモンの産出は増えるが、わたしがすでに十分女性的な外観であることと、今後性ホルモンが著しく減少することによる更年期障害のリスクを鑑みてのことだった。
確かに、去勢まで済ませた先輩MTFの方々の一部は更年期障害に近い症状を抱え、女性ホルモン投与の頻度が増えた……と言う話を聞かないわけではない。最近の手術例では、手術後の股間の内側に睾丸を埋め込むことで、去勢せずとも外見を女性のものにすることができるようになっていた。
人生で一度も必要だと思ったことのない、むしろ有害だった睾丸を残すことに大きな抵抗があったが、体調を一番に考えて欲しいという母の言葉と、彼女の意思を考えると、断れなかった。
最終的に手術した病院でも、睾丸の切除は勧められなかった。わたしは、最後まで「いりません」とは切り出せなかった。
私が最終的に手術自体は簡易的なもので、造膣もなし。男性器を解体して、女性器らしいパーツと睾丸だけ残して身体の中に埋め込む……というような手術だった。見た目は彼女と比べて見ても完璧だったし、自分に見るのも嫌だったアレがついていなければそれでよかった。彼女とも、セックスに耽るような仲ではない。
そんな彼女が、いま私につかみかかって、身体に不本意に埋め込まれた睾丸を狙って膝蹴りをしてきている。
発端はきっと大したことじゃない。
そのとき、彼女は冗談でわたしの股間を蹴ってきたのだが、痛くてうずくまってしまった。
その日はお互いパンツルックだったのだが、確かに今日はそれが怖くてロングスカートを履いていた。
ここまでイライラさせてしまってるのは、たぶん、わたしには縁がないが、時期的に生理前だからだ。
下腹部に来る痛みとも言えない痛みと、いっそこのまま潰してくれないかという暗い気持ちと、吐き気。
なんだか旅行の疲れと痛みと無力感で遠のいてくる意識の中で、「理沙に内緒でもう一度お金貯めて、金玉取ろう」という決意だけが残った。
絶対的貧困と、相対的貧困があるように。弱者かどうかにもそれはある。残業だって、ないわけじゃない。勤務先や、大学時代の友人は、もっと自由な時間を過ごしている。
休日はひとりぼっち。実家には帰れない。孤独な私に、追い打ちをかける同僚。楽しい余暇や、家族の話なんて、聞きたくない。
精神疾患だってある。だから私は、パートナーを探せない。職場の理解はあるけれど。でも、それだけじゃ足りないのです。
そんなことは、最初からわかっているのです。けれど、日常で接する人々は変えられない。考え方を変えたって、やっぱりつらいものはつらいのです。
恋愛系が駄目だ! 純愛だろうがドロドロの多角型方だろうがなんだろうが、駄目だ。駄目だ! 駄目なのだ!
フィクションだろうが、ノン・フィクションだろうが駄目なようだ。
何故なんだ? 分からないけどもゲロゲロとなってしまうのだ。キモイのだ。
恋愛で頬を染める連中を見るだけでキモイとすら思ってしまう。吐いてしまう程に!
では自分の恋愛話はどうなのか? それは勿論ながらゲロゲロである。
なんであんな汚物のなかの汚物ような悪臭漂う臭い台詞を撒き散らすことが出来たのだろうか? 永遠の謎である。
若さ故の臭さという奴だろう。加齢した臭さのほうが万倍ましなのである。
僕のような臭い人間は「君の瞳に映った僕に乾杯! 乾杯!」といってオナっていればいいのに、ひねって臭い台詞を言って女子をベットに誘導してた過去がキモイ。
なんてキモイのだろうか? 恋愛する奴はとにかくキモイ。恋愛話を聞いてるだけで胸が苦しい寿命が縮むくらい苦しい、そうだ! 恋愛するような奴らは人殺しと同じなんだ。自覚があるならさっさとそのキモイ恋愛をヤメテ俺様にかしずいて謝罪しろ! 恋愛してすいません、許可願えますか? とな。だが、俺は許さんし、許可しない。何故なら恋愛する奴等がキモイからだ。本当に爆ぜてしまって構わない。
アメリカの抱える問題や日本人の抱えるアメリカへの憎悪と愛がテーマだと思っているのでそんな感じでまとめた(亮君が旭日旗デザインの服着てるし、上ちゃんは逆向きのアメリカ国旗の服を着ていたりとヒントは多かった)
ビビるやつ ビリです
ビビるやつ 追い出す
飲まなやってられん決死の生
あの誰もが夢見たアメリカ
無理不利ぶりピリピリ限界
嫌やな現状
嫌々慣れんとdie
言うなりゃストレスという敏感チェーン
言えば全てがジャッジしあうpeople, lot of bitches
指舐めねば please cheese me
That’s 法 suck スーパースターの勝者
脳裏痛い倭な俺らメン
Be 新た下野命
盲目のペリリューパワー
あの誰もが夢見たアメリカ
無理不利ぶりピリピリ限界
嫌やな現状
嫌々慣れんとdie
言うなりゃストレスという敏感チェーン
言えば全てがジャッジしあうpeople, lot of bitches
指舐めねば please cheese me
That’s 法 suck スーパースターの勝者
脳裏痛い倭な俺らメン
Be 新た下野命
ずりぃ Atomic Bomb. いと喰らわせる富増える
もう奪わないでね。そんなにないから。
脳裏痛い倭な俺らメン
Be 新た下野メン
ビビるやつ ビリです
ビビるやつ 追い出す
コードチェンジの練習してたらなんかパフザマジックドラゴンを思い出した。
鼻歌歌ってたら懐かしくなって歌詞調べてみた。寂しくて良い歌詞だった。永遠の存在と大人へと変わりゆく少年の、いつかは終わってしまうけれどそこに確かにあった友情。違う時を生きる二人の話。
トイ・ストーリーのテーマってこの歌に集約されてるかもしれない。今やってる葬送のフリーレンはもっと淡々としてるのかな。
昔車のラジオだかステレオだかでめちゃくちゃこの曲と似てるというか、限りなく同じ様なメロディの歌を聴いた気がする。カントリーロードとカレーの歌よりも似てた気がする。
今、いわゆる左翼界隈・フェミニスト界隈が一斉にパレスチナ擁護・イスラエル叩きに走っている。
起きている事態を見れば安易にパレスチナ擁護なんて口が裂けても言えない筈なのだが(同時にイスラエル擁護も不可能)
ハマスによる民衆へのテロ虐殺は見てみぬふりするのは今までの言動からすると違和感しか無い。
特にフェミニスト。普段からあれだけ女性の人権人権人権人権人権人権人権人権人権人権人権人権人権と煩い人達が
民間人を狙い全世界に向けて若い女性を凌辱し殺害したハマス=パレスチナを擁護する事などあり得ないとしか思えないのだが
彼女ら・彼らにとって、女性の権利云々などはあくまでも政治的主張でしか無く、実際は党派性如きの前に平気で無視される代物なのだろう。
死者に会いに行くこと。
そしてその仲間たちの間に深い友情があるということ。
だが物語の紡いだ形は全く違う。
『スタンド・バイ・ミー』は友情を「幼い頃にあった輝かしい宝物」としている。
その友情がそれぞれの人生を輝かしいものにするようには描いていない。
むしろ友情や思い出の有無が人生を決定づけないことにこそ、友情というものが独立して価値あることの証明だと言う主張が見て取れる。
物語の終着点にあるマクガフィンを意図的に無意味なものにすることで、友情の価値を純粋に描こうとしている。
『よりもい』で描かれる友情には成長がある。
友情を通して人は成長し、成長していくことで人生を自分の臨んだ形に切り開いていけると描く。
この作品における友情はある意味で人生を切り開くツールの一つである。
最終目的地にいる死者も主人公一行の1人にとっては重要な人物であり、友情のおかげでこの人物との再開を果たすことが出来たという物語構造となっている。
友情はそれ自体が価値を持つだけでなく、人生における目的を達成させるための助力となるとして描かれているのだ。
『フリーレン』においても友情は人に変化と成長を促すものとして描かれる。
フリーレンの旅は死者の辿った道を再び巡るものであり、そうしようとフリーレンを動かしたのもまた死者との間にあった情愛だ。
旅に出ようとしたことそのものが死者との間にある友情の証明であり、物語の描く過程全てが触れ合いによって人が変化したという結果だ。
それはその相手が死んだあとであっても変わることはない。
他者との関わりが人間の中に永遠の変化をもたらすものとして描く『フリーレン』、他者との関わりは輝かしい思い出以上でも以下でもないと描く『スタンド・バイ・ミー』
どちらが優れいてるという話ではない。
求められる物語が変化したのだ。
「ただ懐かしくて素晴らしかったんだよ」だけの友情物語では納得しないのだ。
「あの思い出が輝かしいから、自分は変われたんだ」と主張できなければ、その思い出の輝きに納得してくれないのである。
即物的で寂しい時代になった……などと老人のように嘆く気はない。
ただ、時代は変化していくのだなと感じるだけだ。
振り落とされないようには気をつけたいな。