死者に会いに行くこと。
そしてその仲間たちの間に深い友情があるということ。
だが物語の紡いだ形は全く違う。
『スタンド・バイ・ミー』は友情を「幼い頃にあった輝かしい宝物」としている。
その友情がそれぞれの人生を輝かしいものにするようには描いていない。
むしろ友情や思い出の有無が人生を決定づけないことにこそ、友情というものが独立して価値あることの証明だと言う主張が見て取れる。
物語の終着点にあるマクガフィンを意図的に無意味なものにすることで、友情の価値を純粋に描こうとしている。
『よりもい』で描かれる友情には成長がある。
友情を通して人は成長し、成長していくことで人生を自分の臨んだ形に切り開いていけると描く。
この作品における友情はある意味で人生を切り開くツールの一つである。
最終目的地にいる死者も主人公一行の1人にとっては重要な人物であり、友情のおかげでこの人物との再開を果たすことが出来たという物語構造となっている。
友情はそれ自体が価値を持つだけでなく、人生における目的を達成させるための助力となるとして描かれているのだ。
『フリーレン』においても友情は人に変化と成長を促すものとして描かれる。
フリーレンの旅は死者の辿った道を再び巡るものであり、そうしようとフリーレンを動かしたのもまた死者との間にあった情愛だ。
旅に出ようとしたことそのものが死者との間にある友情の証明であり、物語の描く過程全てが触れ合いによって人が変化したという結果だ。
それはその相手が死んだあとであっても変わることはない。
他者との関わりが人間の中に永遠の変化をもたらすものとして描く『フリーレン』、他者との関わりは輝かしい思い出以上でも以下でもないと描く『スタンド・バイ・ミー』
どちらが優れいてるという話ではない。
求められる物語が変化したのだ。
「ただ懐かしくて素晴らしかったんだよ」だけの友情物語では納得しないのだ。
「あの思い出が輝かしいから、自分は変われたんだ」と主張できなければ、その思い出の輝きに納得してくれないのである。
即物的で寂しい時代になった……などと老人のように嘆く気はない。
ただ、時代は変化していくのだなと感じるだけだ。
振り落とされないようには気をつけたいな。