「感情移入」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 感情移入とは

2022-04-02

BLって2倍の欲望が産んだものじゃないだろうか

一般的乙女マンガは、女性主人公だが、これに感情移入できないと楽しみが半減する。

いっぽうBLは両方が男なので、どっちかが趣味なら読み進められる。

気の強い男と、気の弱い男、2つを同時に楽しめると。

いわばカツカレー牛めしのようなものだ。

BLとは女性の2倍の欲望が産んだ限りない欲望産物である

2022-03-31

トラブルを起こすツイフェミが好き。その次に好きなのはフェミとの喧嘩が好きな弱者男性

自分が嫌いなタイプフェミニストや弱者男性って過激化してキモさが増した自分自身に感じる。

闇堕ちした自分を見てるとゾクゾクする。共感できるし理解できる。救いたいけど救えない。

その人たちに感情移入して泣くんだけど、そのときスリルのような快楽を感じる。オナニーとの親和性も高い。

もっと快楽がほしくてツイートを漁る。

刺激が強いのを見過ぎて、自分の何かが壊れないか心配になる。

2022-03-29

どうしても碇ゲンドウ感情移入してしまう30代独男

男の子ならシンジ女の子ならレイと名づける」

というゲンドウのセリフにあるように、両方とも碇ゲンドウの子育てのへたさと言うか不器用さと言うか、毒親に育てられてしまった子供の不幸をみたいな描きかたをされてる。

要は毒親というものはですね、自分にとって手が負えないタイプやんちゃだったり気難しい男の子に対しては冷たくすることで、距離感が生じる。

一方で距離が近いまたは距離を詰めても直接的に反発しない女の子に対しては毒親の方が私物化しようとする。

レイはもう少し複雑でもあるんだけどね

逆に言うとシンジに対して碇ゲンドウが完全な毒親かと言うとそうでもなくて不器用なりに自分の信念とか考えてることは伝えてるんだよね

14歳のクソガキに視点を合わせるほど精神的に出来た親じゃないけど自分が伝えたいことはちょいちょい伝えてるんですよあの人

そこはエヴァンゲリオン子育てを描いた作品だと言う僕の持論に繋がってるんだけど、ジェンダー的に気に食わないとか言ってる人はそれ以前の問題なんだよね

働く女性あんなにたくさん出てくる作品ジェンダー云々言われましても

2022-03-25

エルデンリングストーリーがつまんなすぎる理由を考えてみた

主人公(褪せ人)と物語聞き手プレイヤー)の立場が一致してないのが原因だと思う。

主人公がその時点で知り得ないはずの情報アイテム説明欄に開発者目線注釈フレーバーテキストとか言うらしい)として分散させて、

舞台設定をチラ見せする要素が大部分を占めているせいで感情移入しづらい構造になってる。

自由散策する体験を売りにしてるゲームが、能動的かつノンリニア情報を集めて少しづ理解していくナラティブ採用するのは理にかなってはいるけれど。

モチベーション掻き立てるシチュエーションや成し遂げたあとの達成感に即した物語を、難題にチャレンジする主人公プレイヤーが共有できなきゃ意味がないんだよ。

これさえちゃんと出来てれば最高のゲームになったのになぁ……。

2022-03-24

anond:20220324201517

とはいえ攻撃側が信頼できるかはまだ不明

この登場人物の誰にも感情移入できない感じ、

まるで映画Cubeの初代のよう

名探偵コナンの設定

天才高校生身分を隠して小学生として事件解決する。

作中では、周囲は小学生でなくておっちゃんが事件解決したと思ってるから、この小学生になってるって設定は機能してなくね?って思うが。

視聴者小学生感情移入やすいけど。

2022-03-23

anond:20220323121204

心情が理解出来ない、行動の原理根拠理解できない、何故そうなったのか理解できないって意味じゃないの。感情が置いてけぼりで起承転結道筋稚拙に感じたってことだと思う。感情移入できない大多数とは考え方が根本的に違うからこそのストーリーもあるけどある程度は大多数に寄せないと「どうしてそうなる…」って人物描写萎えたりする。

anond:20220323121204

感情移入、をどういう意味で使ってるかにもよるが

登場人物の多く、特に主人公側の行動理由理解できない作品は見ててストレスが貯まる

「何でそこでそんなことするんだ、こうするのが普通だろ」

ってずっとなるとね

映画の低評価レビューにある「感情移入できなかった」ってやつ

レビューなんて主観からどうでもいいんだけど感情移入できればいい作品という評価基準はどういうことなのかわからない

2022-03-22

アダルト作品を見るとき、同性・異性どちらに感動移入するか

性的表現が含まれるので、苦手な方はブラウザバックするか、こちらの可愛い動画でもご覧ください

 https://www.youtube.com/watch?v=U4FUxKl8DoQ

動画よりエロ動画がお好みの皆さんこんばんは

今日AVエロ漫画を見ながらセルフプレジャーに励むとき

同性側か異性側かどちらに感情移入し、絶頂に至るかについて考えたいと思います

※筆者は女性が好きな男性です

私は昔からアダルト作品フェラシーンやパイズリシーンにあまり価値を感じていませんでした

皆さんそれぞれお目当てのシーン(抜きどころ)があると思いますが、

私はフェラパイズリで絶頂に至ることは全くなく、

逆に手マンおもちゃによる女性(異性側)の絶頂シーンで至ることが多いです

このことに対して私の中でもやもやした気持ちを抱えていました

私は決して女性になりたい願望があったり、男性に責められたい気持ちがあるわけでもありません

それでも気持ちいいことをされ、気持ちよくなる女性に強い興奮を覚えてしまうのです

男性女性に責められる作品を見るときも、責め側の女性感情移入し、至ってしまます

日常生活では必要以上に女性感情移入することはありませんが、

性的行為に関してのみ、女性感情移入しているような状態です

このような性的指向は何らかの名前がついてカテゴライズされているものでしょうか

また、同じような指向を持つ方はいらっしゃるでしょうか

皆さんのお話をきかせてください

2022-03-21

anond:20220321155857

???「もっと強い大人の女性とかマイノリティとかが活躍する作品出せ! アタシたちが感情移入できないだろ!!」

2022-03-20

anond:20220320150608

でもプラトニックラブこそ愛をフィクション投影してるわけで、女性の描き手がレズビアントランスではなくゲイ18禁描いたらそれはもうヘテロセクシュアルすり替えのようにみえる。受けと攻めの型があるのは、そのどちらかに感情移入するからであろう。

(と、やおい女性の性の解放の一端を担ったという上野千鶴子思想が少なから自分に刷り込まれてるわけですが)

anond:20220320153320

って言いながらなろう読んでたら嘲笑

マジレスすると絵なんて俺らと同じ人間ではないんだからエロ要素で少しでも人間に近づいた姿じゃないと感情移入とか出来ないわ

2022-03-18

anond:20220318124645

そりゃ子供のころから大人になってもずっと漫画読んでると素直に感情移入とかできなくなるから

そういうおじさんおばはんが漫画のメイン読者層になってるってこった

2022-03-17

anond:20220315182829

RDR2は観る映画ゲームからMGSシリーズで慣らされてた自分にはハマった。

ただ、ストーリーに重きを置く自分としては巻き込まれ物語立場があまりに嫌なものでしんどかった。

感情移入してしまうと、自分ならこうはしないよなという悪党ムーブが多い。悪党の話だから

いかいかは別として最後は泣いたし、初代をこれからプレイするが泣くと思う。

2022-03-10

anond:20220310210652

性欲が抑圧されてるんだろ。

女向けのエロ漫画とか、主人公はその気はないのにイケメンが強引に迫ってくるってやつ多いじゃん。

性欲あるからエロ漫画読むのに、性欲ない女じゃないと感情移入できないってことになってる。

2022-03-09

anond:20220308232934

主人公に思いっき感情移入する」読み方は弊害が多い。

普通もっと客観的物語を楽しんでいるものだ。

そのほうが気楽だし読める作品の幅も広がる。

2022-03-08

小説が苦手になった

要約

小説を読むのは好きだ。私は小説を読む時、主人公感情移入して読んでいる。そして、本を読み終わった後も本の中の主人公思考から抜け出せない。そのため読了後、本の中の憧れの世界と、自分のどうしようもない生活との落差に驚かされて憂鬱になってしまう。皆さんはこの落差と、思うようにならないことも多い現実に、どう向き合っているのだろう?

要約終わり

小説を読むのが、苦手というか、嫌いになった。

ちょっとまでは、めちゃめちゃ小説を読んでた。

小学生の頃は、学校図書館にある本とか地域図書館の本をかなり読んだ。

中学生の頃は、学校図書館の本だけでは飽き足らず、友達からラノベを中心に本を借りて読んだ。

高校の頃は、「国語勉強」と言い訳して読書受験勉強を1対1ぐらいでしていた。

でも大学に入って、小説を読むのが苦手になった。

小説を読んでいるとき楽しい

登場人物気持ちに思いっき感情移入して話を読み進めるのにはワクワクする。

とっても綺麗な情景描写を見つけたときは、まるで自分が本当に綺麗な景色を見てるみたいでとっても感動する。

悲しい話だったら心が締め付けられるし、いい話だったら心がぽかぽかする。

ハッピーエンドで本が終わった時には、感動して涙が出そうになる。

でも、小説を読み終わった後が嫌いだ。

小説を読み終えると、小説世界現実との違いに驚く。

頭の中は小説世界でいっぱいで、私は主人公になったみたいに心が揺れ動いている。

でも現実はそうじゃない。

今は春休みから勉強ぐらいしかすることがない。

友達と遊ぼうにも、あまりにも突然すぎて誰も乗ってくれないと思う。

悩みや困っていることを真剣相談できる友達はいない。

逆に相談してくれるような友達もいない。

頭がぐらぐらする

本の中と現実が違いすぎて、その落差に頭がついていけない。

本の中では、楽しいことと、辛いことがバランスよく混ぜ合わされて出てくる。

そしてその出来事を、確かに主人公自分経験にできている。

主人公の行動が、周りに影響を及ぼしている。

そして何より、物語は都合がいいとこしか書かれてない。

高校生が主人公小説なら、雨の日の通学が面倒な様子とか、あんまり書かれていない。

友達と何を話していいかからずに悶々とする様子とか、あんまり書かれていない。

自分のいないところで友達が楽しそうに遊んでる様子とか、あんまり書かれていない。

現実はそうじゃない。

楽しいことも辛いこともある。

でもそれと同じぐらい、面倒なこともあるし、どうしようもないこともある。

本と違って現実は決して都合のいいところで終わらない。

いつまでも終わりが見えない道が続いてく。

本を読み終えると、まず現実との以外に驚く。

そして、もっとこうしていたらと自分の今までの生活を責めてしまう。

もっと友達と遊んでいたら。

面倒くさがらず行事とか習い事かにいっていたら。

後悔というよりは、諦めだ。

どうしようもない。分かってる。

その時の自分にできる最善の選択だった。分かってる。

でも現実は本の中と違って退屈だし、私は本の中の主人公と違い、空虚人間だ。

でもその事実に、どう向き合えばいいかからない。

今後どう振る舞えばいいかすら分からない。

結局憂鬱になって終わっちゃうだけだ。

その感覚とどう向き合っていけばいいかからない。

今日は重松さんの「一人っ子同盟」を読んだ。

小学生の男女の幼馴染が、お互いの家庭環境の悩みを共有しつつ成長していく話だ。

男の子は近所に引っ越してきたみなしごとの関わり方に悩み、女の子はお母さんの再婚相手とそのことどう関わっていけばよいか悩んでいる。

物語が進むにつれだんだんとお互いに秘密を共有しだし、仲が深まってきた中で、突然に女の子引っ越しが決まり卒業式を迎える。

最後に二人で一緒に夕焼けを見て感傷に浸って、物語は終わる。

きれいな景色を見ていると、いろんなこと、もう、どうでも良くなっちゃうね。」

本の中で女の子はいう。

本当にそうだと思う。きれいな景色を見たり、きれいな本を読んでいると、いろんなことがどうでも良くなってしまう。

でも、本の中では男の子がこうつづけている。

「そうだといい。でも、きっとそうではない。どうにもならないことって、ある。けっこうたくさんある。」

この本を読みながら、私は小学校の頃を思い出した。

幼馴染はいなかった。本当はいたのかも知れない。

でも、私は幼馴染になるほど人と関わる努力をしていなかった。

本の中と違って、現実はどうにもならない。

どう受け入れていけばいいのだろう。どう向き合っていけばいいのだろう。

私は本の中から、その答えを読み取れなかった。

皆さんはどうやって、簡単に変えることができない現実と向き合ってますか?

2022-03-02

anond:20220302123534

BL関係性がとか、壁になって見守りたいとか言うけど、個人的には懐疑的

BLは受け主人公が圧倒的に多くて、ようは主人公男性感情移入して、男に犯されたいんだよね。

と、考えると、シスヘテ女性基本的には百合じゃなくてBLに行くものと思ってる(もちろん例外はある)

2022-02-28

anond:20220228225650

主人公が気に入らないと(感情移入できないと)駄作認定する頭おかしいのっているんだよな

2022-02-25

ライブ配信型Vは二次元オタクにとって可視化された楽園であると同時に可視化された地獄という話

ロシアウクライナ侵攻したりした日に某所で引退発表があってダブルパンチを受けた層は一定数いるのではないかと思うし、増田にも前者の記事はあふれ返っているので後者について語る。

(別に前者と比較できるほどの話だと思っている訳ではない。戦争より大きな芸能問題なんてあるわけがない、当たり前だ)

ただまぁ、遠い国で戦争があっても「怖いな」「ロシア史にこういう流れあったな」とは思っても、現地で起きた悲劇のすべてに感情移入することはない。『アクタージュ』の原作者前科者になって連載が打ち切られても「続きが読めなくて残念だな」とは思っても、原作者に同情はしない。どちらも遠い話だし、後者であっても自分が好きなものと作者は別物だからだ。世の中の悲劇のすべてに感情移入していたらどんな聖人でも発狂してしまう。よそはよそ、うちはうちだ。

その『よそ』を『うち』に変えてしまうのがライブ配信型の魅力であり、最も恐ろしい地獄でもあるという話。

Vtuber

Vtuberというのは、元々『二次元キャラが本当に生きていたらいいのに』というオタクの願いを部分的に叶えるものだった、と思う。

2017年末にキズナアイ動画を始めて見た時は「はー珍しいことやる人がいるもんだ。面白いな」ぐらいの感想ではあったが、確かに感動した。ニコニコ動画時代には謎技術で見たこともないような動画投稿している投稿者がわんさかいたが、その一種のような認識だった。その後四天王だの何だのと次第に盛り上がり始め、新しい時代が来たなぁと眺めていた。配信型を見るようになったのはブームの始まりより後だった。2020年末頃だ。

元々東方Project好きだったこともあり、ハードシューターがいるという話を聞いて観始めたのがきっかけだった。観てみると確かに面白いバラエティ番組芸人トークに笑うことに抵抗はなかったし、配信系に馴染みがなかったのも「男女を問わず別に人間の顔を画面で見続けたいと思えない」という理由だったので、『アニメキャラゲームトークをしている』感覚で観ることができた。(この辺りは「中身の人間がいるのは論外」派も根強いようなので人によるらしい)ともあれ日常的に配信を観るようになっていくと、学生時代ボーカロイド全盛期を思い出してどこか懐かしかった。何事も流行りというのは流行っている内に楽しんでおくと、時代の空気を味わえるものだ。ミーハー万歳

コミュニティ

そのうちにわかってきたのが、このジャンル本質は『コンテンツ』ではなく『コミュニティであるということだった。考えてみれば当然でもある。作品一方的に受け取るのが『コンテンツ』なら、コメントを本人に送り、配信内でやり取りし、あるいはリスナー同士の横の繋がりも増える。(そういえばラジオ同様「リスナー」という表現を使うのは何故だろう? ライブ動画を観てはいても、本質は声ということだろうか)これほど双方向的ならば、それは勿論『コミュニティ』だ。

コミュニティ』に加わるということは、例えばMMOオンラインで深夜までチャットで盛り上がる仲間ができるようなものだ。毎日のように遊んでいるから、相手が大体何をしているのかわかる。家族友達、と言っても言い過ぎでないのは昨今増えたという「オンラインゲーム婚」とやらを鑑みても明らかだ。画面の中から一方的に渡されるだけの『コンテンツ』と違い、『コミュニティ』では画面の向こう側に自分から何かを届け、加わることができる。実社会にとても近い。精神的な、代用品にもなりうる。

そして人気の高いライブ配信者、特にそれがグループであればクオリティ保証されている。その『コミュニティはいつも楽しく、賑やかで、甘酸っぱく、可愛い現実自分人生では味わうことなど到底不可能なほどに。この構図は従来の何かによく似ている。そう、『二次元』だ。現実逃避をして二次元コンテンツに耽溺し、そこに行きたい、加わりたいと考えるオタクはずっと昔から存在していた。

画面の向こう側

ライブ配信型Vは二次元のものではない。だが、二次元と同じ効能果たしてくれるから、その代用品にはなり得る。かくしてオタクは『画面の向こう側の二次元コミュニティ』に加わる手段を手に入れた。これこそ可視化された楽園だ。この世の何処かにはあるかもしれない、いいやあるはずもない、と諦めていたきらら世界観。それが実在すると思えた。何割かは演技かもしれないが、しかしすべてではない。あまりにも長時間毎日ライブ配信がある。『素』を隠し通すのは不可能に近く、むしろ『素』をある程度出すことが人気の秘訣にもなっている。

からこそ、それは可視化された地獄にもなる。

演技ですらなく、『素』で『楽園二次元キャラ』が現実過酷さによって苦しむ姿をリアルタイムに眺め、想像することができるのだから百合に男を挟むな、なんて次元ではない。きらら漫画を読んでいたら急に震災コロナが登場してメインキャラが何人も死んでしまうようなものだ。大炎上間違いなし、トラウマものである

結局のところ彼女達(あるいは彼等)は現実を生きる生身の人間だ。現実過酷さの中で当たり前に生きている。だからろくでもない事態にも見舞われる。本人が原因になることも、しょうもない理由で叩かれることもある。それは別にこれまでもごく普通にあったことだ。

ただ、可視化されただけ。家族でもなければ身近に感じることがなかった苦痛を、日本中世界中に分け隔てなく配って共有することができるようになっただけだ。

タイトル通り、この変化はあくま二次元オタクかつ、ライブ配信型Vを許容できる層に限られる話でもある。人気アーティスト声優が死んだり結婚したり引退したりで阿鼻叫喚の嵐になるのはいものことだ。珍しくもなんともない。ただ「二次元イラスト」が聖域で、仮に宇崎ちゃんポスターのように現実炎上したところで、作者に何が起きたところで、作中世界のキャラには何の影響もない、という感覚はここにはない。

『画面の向こう側』に手を伸ばせることはとても魅力的で、そして地獄だ。

何度か自分でそれを経験してからは、二、三歩引いた距離感で観るようになった。離れて見れば『コンテンツ』として面白いのは変わらない。ただ『コミュニティ』にまで加わると、火傷をするからだ。古き悪しき2ch時代ROM専文化は、ここにきて自衛意味を取り戻しつつある。

この投稿関係者が見ることもありえるかもしれない。今でも心から応援している、とは書き添えておく。

ライブ配信型Vは二次元オタクにとって可視化された楽園であると同時

~~ロシアウクライナ侵攻したりした日に某所で引退発表があってダブルパンチを受けた層は一定数いるのではないかと思うし、増田にも前者の記事はあふれ返っているので後者について語る。

(別に前者と比較できるほどの話だと思っている訳ではない。戦争より大きな芸能問題なんてあるわけがない、当たり前だ)

ただまぁ、遠い国で戦争があっても「怖いな」「ロシア史にこういう流れあったな」とは思っても、現地で起きた悲劇のすべてに感情移入することはない。『アクタージュ』の原作者前科者になって連載が打ち切られても「続きが読めなくて残念だな」とは思っても、原作者に同情はしない。どちらも遠い話だし、後者であっても自分が好きなものと作者は別物だからだ。世の中の悲劇のすべてに感情移入していたらどんな聖人でも発狂してしまう。よそはよそ、うちはうちだ。

その『よそ』を『うち』に変えてしまうのがライブ配信型の魅力であり、最も恐ろしい地獄でもあった。

Vtuberというのは、元々『二次元キャラが本当に生きていたらいいのに』というオタクの願いを部分的に叶えるものだった、と思う。

2017年末にキズナアイ動画を始めて見た時は「はー珍しいことやる人がいるもんだ。面白いな」ぐらいの感想ではあったが、確かに感動した。ニコニコ動画時代には謎技術で見たこともないような動画投稿している投稿者がわんさかいたが、その一種のような認識だった。その後四天王だの何だのと次第に盛り上がり始め、新しい時代が来たなぁと眺めていた。配信型を見るようになったのはブームの始まりより後だった。2020年末頃だ。

元々東方Project好きだったこともあり、ハードシューターがいるという話を聞いて観始めたのがきっかけだった。観てみると確かに面白いバラエティ番組芸人トークに笑うことに抵抗はなかったし、配信系に馴染みがなかったのも「男女を問わず別に人間の顔を画面で見続けたいと思えない」という理由だったので、『アニメキャラゲームトークをしている』感覚で観ることができた。(この辺りは「中身の人間がいるのは論外」派も根強いようなので人によるらしい)ともあれ日常的に配信を観るようになっていくと、学生時代ボーカロイド全盛期を思い出してどこか懐かしかった。何事も流行りというのは流行っている内に楽しんでおくと、時代の空気を味わえるものだ。ミーハー万歳

そのうちにわかってきたのが、このジャンル本質は『コンテンツ』ではなく『コミュニティであるということだった。考えてみれば当然でもある。作品一方的に受け取るのが『コンテンツ』なら、コメントを本人に送り、配信内でやり取りし、あるいはリスナー同士の横の繋がりも増える。(そういえばラジオ同様「リスナー」という表現を使うのは何故だろう? ライブ動画を観てはいても、本質は声ということだろうか)これほど双方向的ならば、それは勿論『コミュニティ』だ。

コミュニティ』に加わるということは、例えばMMOオンラインで深夜までチャットで盛り上がる仲間ができるようなものだ。毎日のように遊んでいるから、相手が大体何をしているのかわかる。家族友達、と言っても言い過ぎでないのは昨今増えたという「オンラインゲーム婚」とやらを鑑みても明らかだ。画面の中から一方的に渡されるだけの『コンテンツ』と違い、『コミュニティ』では画面の向こう側に自分から何かを届け、加わることができる。実社会にとても近い。精神的な、代用品にもなりうる。

そして人気の高いライブ配信者、特にそれがグループであればクオリティ保証されている。その『コミュニティはいつも楽しく、賑やかで、甘酸っぱく、可愛い現実自分人生では味わうことなど到底不可能なほどに。この構図は従来の何かによく似ている。そう、『二次元』だ。現実逃避をして二次元コンテンツに耽溺し、そこに行きたい、加わりたいと考えるオタクはずっと昔から存在していた。

ライブ配信型Vは二次元のものではない。だが、二次元と同じ効能果たしてくれるから、その代用品にはなり得る。かくしてオタクは『画面の向こう側の二次元コミュニティ』に加わる手段を手に入れた。これこそ可視化された楽園だ。この世の何処かにはあるかもしれない、いいやあるはずもない、と諦めていたきらら世界観。それが実在すると思えた。何割かは演技かもしれないが、しかしすべてではない。あまりにも長時間毎日ライブ配信がある。『素』を隠し通すのは不可能に近く、むしろ『素』をある程度出すことが人気の秘訣にもなっている。

からこそ、それは可視化された地獄になる。

演技ですらなく、『素』で『楽園二次元キャラ』が苦しむ姿をリアルタイムに眺め、想像することができるのだから百合に男を挟むな、なんて次元ではない。きらら漫画を読んでいたら急に震災コロナが登場してメインキャラが何人も死んでしまうようなものだ。大炎上間違いなし、トラウマものだ。

結局のところ彼女達(あるいは彼等)は現実を生きる生身の人間だ。現実過酷さの中で当たり前に生きている。だからろくでもない事態にも見舞われる。本人が原因になることも、しょうもない理由で叩かれることもある。それは別にこれまでもごく普通にあったことだ。

ただ、可視化されただけ。家族でもなければ身近に感じることがなかった苦痛を、日本中世界中に分け隔てなく配って共有することができるようになっただけだ。

タイトル通り、この変化はあくま二次元オタクかつ、ライブ配信型Vを許容できる層に限られる話でもある。人気アーティスト声優が死んだり結婚したり引退したりで阿鼻叫喚の嵐になるのはいものことだ。珍しくもなんともない。ただ「二次元イラスト」が聖域で、仮に宇崎ちゃんポスターのように現実炎上したところで、作者に何が起きたところで、作中世界のキャラには何の影響もない、という感覚はここにはない。

『画面の向こう側』に手を伸ばせることはとても魅力的で、そして地獄だ。

何度か自分でそれを経験してからは、二、三歩引いた距離感で観るようになった。離れて見れば『コンテンツ』として面白いのは変わらない。ただ『コミュニティ』にまで加わると、火傷をするからだ。古き悪しき2ch時代ROM専文化は、ここにきて自衛意味を取り戻しつつある。

この投稿関係者が見ることもありえるかもしれない。今でも心から応援している、とは書き添えておく。

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