2018-07-04

今更#Metoo問題(等)の気持ち悪さについて

今更ながら、#Metoo問題はクッソ気持ち悪かった。周りにもそう感じている人が一定数いたように思う。

#Metooという運動論に仮託したエゴが(絶妙にチラリと)見え隠れする例がかなり多かったのではないか。というか、そのようなエゴに基づいて設計された発信(コンテンツ)の方が拡散力や波及力に優れているので、そのような事例(人物)が運動主体のように感じられてしまいがちだった。また、一般にこの種の「隠匿されたエゴ」というのは、人間関係において看破されやすいのではないかと思う。

社会規範を旗印に自分存在を主張する人間は腐る程いる。「自分も同じ経験があるのだけど、〜〜。」という語りは、その種の経験属性を持たない人間による反駁封殺することが目的化されている。本当に社会に何かを訴えかけたい、つまりは、自分の心の奥底にあるトラウマコンプレックスを開示する仕方で、同様の悲劇に見舞われる人を減らしたい(あるいは自身が救済されたい)という祈りに似た何かを持つ人間言葉は、その純度(或いは悲痛さと呼んでもいいだろう)において、読み手に与える心象がまるで異なる。#Metooしかり、この種の運動社会潮流に乗る人間言葉対峙するに当たっては、その言葉目的化されているものが何かを同定することが肝要だろう。

#Metooは一例でしかない。

特定個人糾弾したい、ある時点での自身を事後的に正当化したい、衆目を集めたい、社会規範代弁者たりたい(無論、これもエゴだろう)、という思惑には、そのような目的に結実し得る導線が、(感得されにくい程に小さくとも)作為的に忍ばされている。そんな連中のエゴに回収されてこの種の運動論そのものの純度・信頼性が損なわれることで、狭義の当事者が発信に窮したり、古傷を抉られたり、そこまででなくともそういった連中を不快感強制させられたりする状況は、許せないという言葉は嫌いなので吐かないが(あなたが神か)、相当いびつだと思うし、めちゃくちゃ気持ち悪いと思う。

社会的弱者・困難者を代弁する体で、社会的弱者・困難者に不利益を与えてくれている自称インフルエンサーの皆さんへ。

少なくない人が、言語化構造化ができているかどうかは別として、皆さんのエゴと、それを何らかに仮託する卑劣な手口に気が付いていますあなた方のような人たちが然るべき形で弾劾される社会であることを、また、そのような弾劾が上記した構造を強化しない形で織り成されることを、一個人として強く望んでいます


末筆になりますが、自分は本稿で、性別も、自分が面した過去経験も、開示していません。そんな中で、書き手性別経験、その他属性を措定していたとしたならば、その点について読み手たる貴方再考されるとよいかもしれません(これは、自分個人としても望みではなく、いわば一般論のつもりです。)。

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