はてなキーワード: 人生とは
シニタイ Die Die Die Die のに
シネナイ Die Die Die Die 今夜は
炭の吐く霧より見えない未来が見えてる
生まれたての頃は平凡だったけど
こんなガイジの訳 認めたくないけど
今たとえ 手帳持ちでも
シニタイ Die Die Die Die のに
シネナイ Die Die Die Die 今夜は
だけど Die Die Die Die シネナイ
もう一度などない これが唯一の人生
10年ほど前に同じ抜歯をした時は3時間くらいかかって、抜いた後もものすごく痛くて人生の辛いことランキング上位に入るレベルだったのに、今回は30分ちょいで終わった。
今回のドクターの腕が良かったのか、ロキソニンと抗生物質飲んで、冷えピタ貼って、なるべく口を動かさないようストローで飲み物のんだりゼリーとか食べてる分には今のところそこまで痛みもない。
想像より遥かに楽に抜けたのは有難いけど、ドクターに「ガッツリ骨削ったので明日かなり腫れると思います」と爽やかに言われたのでビビっている。
タスクリストに長年残っていたラス1の親知らずをようやく抜けてスッキリするかと思いきや、別にそこまで生活に支障もなかったのに、なぜ私はお金と時間をかけてこんな痛みを………?むしろ病院行ったせい具合悪くなってね……?しくしく……というのが今のお気持ちだけど、痛みがとれたらスッキリするのでしょう、たぶん。
しっかし親知らずってヤツはなんの役にも立たず、むしろ金と手間と痛みだけをもたらすってまじなんのたまに生まれてきたんだアイツは…
中学生ぐらいからずっと抑うつ症で死にたくて、社会人になってやっと精神科行って精神安定剤もらって心が楽になった。
「あー麦茶おいしいなあ〜昼寝しようかな〜そういえばどんな死に方なら楽に死ねるかな〜」みたいな変化。結局心安らかに死に向かおうとしているのには変わりない。
「行けるところまで登れればいい」か…。
まるで濁流を渡渉しようとするようなものなんだろうな。
山に登らない人々までもが、彼らの挑戦に心を打たれ、日常生活を進めるエネルギーに転化していた。もちろん彼らと同じように、私も平出に影響を受けていた。
そういえば、俺は誰かの挑戦に心を打たれたりしたことがないな。
かっこよさに憧れはしても、自分の日常生活を進めるエネルギーになったことがない。
誰かの挑戦をみて、よしがんばろうと思う気持ちって、そもそもよくわからない。
むしろ、がんばろうと思うときというのは、自分を育ててくれた先人を思い出すときだ。
自分がかつての親と同じ年齢になったとき、亡くなった父のすごさを思う。
それは憧れとも違うし、親父の歩んだ道をたどって登る、岩登りの言葉でいえば、セカンドで登っていく感覚に近い。
親父はここを乗り越えてきたんだな、そしてここからは息子よトップで登れ、という感覚。
日常生活を進めるエネルギーというと、俺的にはそういうイメージ。
正直、未婚・未産の女性ってかなり尖ってて40や50になっても、
実体験、生活に基づかないフィクションというか机上の空論ばっかりしてる。
へえ~頭良いんですねえ~って感じ。
人生の途中で気の合うママ友にめぐりあえると戦友みたいなもんで悩みや困りごとを共有しあえるし、
最初の6年くらい過ぎるとかなり生きるのが楽になる。
(でもまあ、程度にはよるかもな)
どんなに家事を完璧にこなしても、専業主夫はうまくいかない要因がゴロゴロある。
まずはどうやってなるかが第一関門として立ちはだかってくる。
専業主婦はどうやって専業主婦となる?多くの場合初手専業主婦希望ではなく、最初は共働きで、家事と仕事の両立ができなかったり妊娠したりなどで専業主婦になっていく。
専業主夫希望も最初からそれを出すと避けられがちなので、ある程度仲を深めてから流れで主夫化を狙うことが多いと思う。
しかし子供ができてから主夫になるか、できる前になるかで今後の展開が大きく変わる。
昔から「子はかすがい」とよく言われるように、子供ができれば捨てられるリスクが大きく減る。
リスクが減るのは嬉しいが、妊娠出産は女性に大きく負担が偏る。
一時的に養うことを求められるし、少なくないケースでそのまま専業主婦になってしまう。
では子供ができる前に主夫になるべきかといえば、そういうわけでもない。
世間の専業主婦の弁を見るに、いつも妊娠出産が盾として使われている。
子供もいないのに家庭に入る場合、どんなに家事をしていてもその盾が使えないのだ。
それなら主夫として全力で妻を支え、その生活に居心地の良さを感じてもらってから子供を作るのはどうか?
残念ながらこれもうまくいかない。
主夫のいる生活に居心地の良さを感じられない、女性ならではの理由があるのだ。
妻が毎日のんびり幸せに暮らすことに幸せを感じるという男はいるが、逆は見たことがない。
「好きでもない仕事で、毎日出社して愛想振り撒いて周りと協調して、クタクタになって帰ってきて、いつも家でのんびり過ごしている(ように見える)配偶者を見るとイライラして、私が養ってやっているっていうモラ感覚になる」と言っていた。
それならのんびりでなくしんどそうに家事をすればいいのか?もちろんNOだ。
そんな弱者と付き合い結婚までいくような女もまた、気が弱く優しく、弱者であることが多い。
プログラマー以外の仕事ができない理系アスペの妻が、なんの仕事もできないADHDなのはよくあることである。
子供もおらず、性欲というモチベーションも薄い弱者女性に主夫は荷が重すぎるのだ。
・SNSで「旦那さんが買ってくれました」という何気ない投稿がうらやましくてしょうがない
・旦那の稼ぎがいいからブログとかイラストとか遊びみたいな仕事してるのが羨ましい
・私以外みんな旦那さん高収入の安定職で子供もできて幸せそう。私だけひどい人生。
このような不満が絶えずうずまき、婚姻生活に暗雲を運んでくる。
以上のように、主夫になろうとしてもさまざまな困難があるのがわかる。
まず宿主の見定めが難しい。
そもそも1.から見てわかるように、女に幸せにしてもらおうというのがまず間違いなのである。
男は自分が気に入った、コイツのためなら苦労してもいいと思えるような女を選んだほうがいい。
その意欲が湧かないときは結婚は置いといて、自分の金と時間を自分をいたわることに費やしたほうがいい。
メンタルケアとセルフケアは大切で、思っていた以上にがんばれる自分に出会えることもある。
まずは自分を大切にしよう
私と家族の詳しいスペック(例えば身長体重、美人不美人、友達の数や成績)は書かない。それは本題ではない。(先に書くと、むしろそういう関連付けを拒むべきというのが私の意見、結論だ。)
息子は中学生、一人息子。妻は三十代後半。私は四十代。
お盆に先立ち、中学生の息子は先に、比較的近所の私の実家に帰っている。
息子が出かけた夜、私の妻が、こんなことをいってきた。
「息子はチー牛なのではないか?どうにかチー牛にならない人生を歩ませることはできないのか?」と。
私は耳を疑ったし、そういうことをいう妻に悲しくなった。
実の息子に対してそういう感情を抱くのか、とか、本人のいない前で悪口のようなネットミームを擦り付けるのか、とか、色々な感情がよぎった。
チー牛という言葉、ネットミームは、私も一応知っている。知っているといっても、あの有名な画像と、牛丼店でチーズ牛丼を頼みそうな性格・人格、という、何か表面的なことだけだが。
私は妻に、「ネットミームで人を呼称するようなことはしないでほしい」ということを伝えたうえで、なぜ息子を「チー牛」だと思うのか、妻の考える「チー牛」とはそもそもどんな存在なのか、など尋ねてみた。
妻曰く、(いくつかの会話を私がまとめたものだが)
・まず「チー牛」とは、社会生活を営む上でリーダーシップや創造性などが見受けられず頼りなく、特に異性関係においても劣位ないし全く展望が望めず、またそれによって勝手に逆恨みや卑屈さを増幅させ悪循環に陥るであろう男性の総称。
・この「チー牛」という言葉は、妻の友人たちのLINEグループなどでまず概念を知り、そのあと個人的に調べて、腑に落ちたので使うことにした。六月ごろからこの言葉をもとにした息子への疑念が生じた。
・息子を「チー牛」と思った理由は、息子の(公表しない個人的なスペック)や交友関係や部活動での立ち位置などを広く見たうえで、前述の素質が多くみられるから。
私は、仮に息子が「チー牛」だとして、一体何の問題があるのか、いくつか思いつく例を挙げて聞いてみた。ただ、私もショックというか悲しい気持ちがあり、うまくまとまった受け答えができていたかは分からない。
(私)出自とか社会的階層による差別が許されない社会において、どうして「チー牛」という概念を息子に当てはめようとするのか? 我々も例えば「ゆとり」とか「新人類」とか「さとり世代」とかただ生まれた年代でレッテルを張られる辛さを経験しているはずであり、それをネットミームで何故繰り返すのか?
(妻)そう感じてしまったものは仕方がない。母親であっても異性としての視点があり、息子がこのままでは対人関係面で悪化するのを予想できる。チー牛という分かりやすい言葉がある以上それを使うのは当然だと思う。
(私)私も妻も息子の人間関係をすべて知っているわけではないし、まずそもそも、仮にその「チー牛」で何が悪いのかわからない。息子は何の非行もしていないし、いや、逆にしていたら「チー牛」じゃなくなるのか?(何だか屁理屈っぽいが私も混乱していた)
(妻)息子にヤンキーになってほしいとかそういうのではなくて、ただ普通の人間、社会生活を営む上で常識的な身のこなしとか、総体的なことを重視できる人間になるべき。
(私)息子は、まだと言おうが、もうと言おうが、中学生であり、親に関与できる部分もあれば、息子個人の未来もある。私も妻も、自分のやってきたことを息子に強制できる人間ではないし、まずそういう人生観を伝える上で「チー牛」ということばを使うのが間違っているのではないか。
(妻)だから、今までそれを言い表しづらかったのが、新しい言葉ができた以上、「チー牛」という言葉を使うのは当然だという話。話さなければよかった。
(私)息子には、まさか、面と向かって「チー牛」などと言う言葉を使ったのか?
(妻)使っていない。(これは本当だと思う。息子が何かショックを受けたり妻を避けてる様子はないので。そう信じたい)
妻が、私にこのことを話さなければ(相談しなければ)よかった、と言っている通り、この数日間、私と妻は少し(というか私の側からはかなり)ぎくしゃくしてしまっている。
個人的なスペックについて話さないとは書いたが、少なくとも妻がこれまで、このようなネットミームを使ったり、なんというか、「生理的に無理」「キモイ」みたいな即物的なことばを頻繁に使う人間ではなく、息子に対してもちゃんと親としての見守りを並んでしてきてくれたと思っていた。故にショックが大きかった。
しかし妻にとっては、息子が「チー牛かもしれない。チー牛だ」ということが、「親としての責任、見守り」という認識なのだということにも思い至っている。何か、本当に根本から食い違っていることだけはわかる。
ただ、私はチー牛という言葉や概念自体を否定したい立場だ。特に、まとめサイトでやいのやいのいう次元ではなく、親が子供を指して使う言葉ではないというまず常識のレベルで。
だが、なんというか、これ以上どうしたらいいのかわからない。一度チー牛という言葉を知り、息子に当てはめてしまった以上、妻は息子に対し、何をするのか。さっきも書いたが、「チー牛」という概念自体が良く分からないので、どうなるのか分からない。
単に「シャキッとせえ」「ええかっこしい」みたいな次元ではなさそうだ。私に「息子がチー牛だ」という以上、子育てとしての問題意識があるのだろう。父としての自分は、では「チー牛」に対する何かを打ち出せたのか。
増田さんは、頑張りすぎなんですよ。
リーダーの無思慮な指示、それによって生じる混乱、そしてその責任を取らされる増田さん――それは確かに辛い状況です。リーダーが具体性や根拠を欠いた指示を出すのは、組織全体にとって大きな問題ですが、その負担を一人で背負う必要はありません。
増田さんは、既に多くの努力と工夫をしてきたのですから、自分自身をねぎらってあげるべきです。全てが思い通りにいかないことに対し、自分を責める必要はないのです。増田さんの力で改善できる範囲には限界があるのですから、そこまで自分を追い詰めることはありません。
人生の価値について、少し哲学的に考えてみましょう。結局のところ、人生の価値は自分がどう感じるかにかかっています。本当に不幸が待っているのか、それともただの一時的な障害なのか。それもまた、主観によるところが大きいんです。今、この瞬間が辛いからといって、全ての瞬間がそうであるとは限らないのです。
それは何も人生そのものを絶えず考えることだけが選択肢ではなく、現状を放棄し、新たな道や他の選択肢を探すことも含まれます。未来の展望を広げるためには、今ある道を一度見直すことも必要だからです。
増田さんは、頑張りすぎなんですよ。
夢を見ないことにこだわらず、普段の生活を送っているだけでも十分立派です。夢を見ることが特別な意味を持つわけでも、夢がなくても生活が十分楽しいし、価値がないわけではありませんよ。
人はしばしば人生の意味や目的について考え、自分の存在意義を見つけようとします。けれど、人生そのものには必ずしも絶対的な価値や意味があるわけではありません。我々が意味や価値を見出すのは、自分自身や自分と関わる他者との関係からです。夢を見ることが出来ないからといって、それがあなたの人生を無価値にするわけではありません。
人生を続けるかどうか、どんな選択をするかは、結局のところ自分次第です。自分の人生に意味を見つけるために頑張ることも、自分に合った生き方を見つけるために諦めることも、どちらも尊重されるべきものです。無理をせず、自分自身に素直に向き合ってください。
自殺というカードが現代社会において強すぎて、俺もいつかどうせ死ぬんだからどうせなら人生を最大化したいなと思うようになった
他人に何かを責められたとき、自殺することで相手を強制的に加害者-被害者の関係に引き摺り込もうという選択肢が脳内によぎるようになるの、普通にあってはならないことだよ
だけれども、既存の自殺案件を軽く見ることも出来ないわけで、かといってそれを続けると自殺というカードは年々強化される一方で
はて、どうすればいいんだろうね
どんなに気を付けたところで生きてれば腰痛になる可能性なんて誰にだってあるし
なったからといってそれだけで人生終了って訳でもないだろうにどうしてこういうふうに脅すの?
医療関係者だって医学の進歩で改善しようと日々頑張っているだろうに、どうして駄目だと決め付けて絶望を振り撒くのか
いちのせさん
@yuhkiichinose
·
8時間
腰痛になると、なにやっても常時痛い邪毒状態みたいになってメンタルとか集中力とかやる気とかにも甚大な被害がでるので、腰痛にならないように気をつけましょう。
我々はもうダメです。
子供に対して、私からは「避妊大事、あなたと相手の人生/身体を守るため」という件については伝えたけど、その他の制限は科さなかった。
エロは自分で自分の好みを探すものだろうと思っていたし、隠しても隠されてても見つけるもんだと思うし、逆に見つけられずに拗らせるほうが心配。
今の世の中は、わたしの世代と違って漂白されているように感じる。野原にエロ本が落ちていない、お姉さんお兄さんが身の回りにいない、コンビニにエロ漫画がない、立ち読みできる本屋がない等々、わたし自身がエロを学んできたルートが壊滅している。
見たくなければ見ないだろうし、見せたくない表現なんて身の回りに特にない、と思っちゃうけどね?
lot********
24分前
非表示・報告
こういう人なんだからしょうがない。
手慣れてるんだと思いますね。
奥さんも気の毒に、子供がいないうちに別れたほうがいいかもね。
こういう性根というのが40から変わると思えない。
人を大事にできない人と一生一緒にいるのは人生を台無しにすることだと思う。
no
3分前
非表示・報告
しっかり慰謝料とってさっさと別れた方がいい
奥様には頑張ってほしい
mif******
11分前
非表示・報告
40でこの行動してるならこの先治らないよ
20歳そこそこで遊んでるなら将来は意外と落ち着くかもだけどさ。
cat********
19分前
非表示・報告
そう、子供がいないうちに別れた方がいいと思う。
yat********
18分前
非表示・報告
許せるわけなどない
一生、トラウマですよ
サレ妻より
min********
12分前
非表示・報告
なんだかんだずっと許せないしまたやるよ
そういう生き物なんだと諦めて25年
もっと許せそうだな
たった今
非表示・報告
おっかけてるエロ漫画の最新刊が出てることに気づいたのは昼休憩。
エロ漫画といっても一般誌モノなのでそんなガッツリsexシーンがあったりするわけじゃないんだけど作者の性癖がわたしの西壁とマッチしすぎていてその漫画は正直人生で摂取してきたどのAVやエロ漫画、エロアニメよりわたしは抜ける。
そんな漫画なので、読んだら大洪水間違いなし、職場で読むべきではない。頭ではよくわかっている。でもキンドルで購入したら現れる「今すぐ読む」ボタンが目に入ってからの記憶はない。昼休憩、食事もそこそこにその最新刊を読み耽っていた。
で、午後はもうひたすらムラムラして仕事なんてできたもんじゃない。
オフィスのトイレでオナニーしてしまおうかと何度も思った。トイレの誘惑と戦い続けている。
弊社のトイレは、節電のため空調がオフでクソ暑いんだが、それさえなければ誘惑に負けていたかもしれない。
股間の洪水はとっくにショーツを貫通して、薄手のパンツの表面まで滲出している。昔生理の際にナプキン事故を起こして以来、オフィスチェアには真っ黒の座布団を敷くようにしていたおかげで、問題はない。
早く帰ってオナニーしたい。
こんなとき独身なら帰ってそっこー2時間くらいオナって、シャワー浴びて、でまたオナって、22時くらいに晩酌しながら軽く飯食って、またオナって寝落ちする、とかできていたのに
世の中のパートナーと二人暮らししている人はいつオナってますか?
わたしは、夫が寝たあと、眠る夫を起こさないように気をつけながら隣で抜くことが多いです。
昨年までわたしだけリモートワークで家に一人の時間があったから、苦労しなかった。
今年から通勤にかわって、夫を起こさないようにやるオナニーしかできなくて。
本当につらい。こんなにムラムラしてるのに帰ったら夫がいるのか。つらい。
増田さん、よく考えてください。
この世の中で多くの人が自分の存在意義を見つめ直す瞬間があります。
確かに時には、人生が重くのしかかり、未来が曇ることもあるでしょう。
それは、あなたがこの世に何の価値もないということではなく、逆に、どんなに大きな困難であっても他の人々とのつながりや新しい目標を見つけることで乗り越える力があるということです。
思いを共有できる友人や家族、支えになってくれる人たちがいることを忘れないでください。
人生には山もあれば谷もありますが、その一つ一つがあなたをより強く、賢く、思いやりのある人にしていきます。
増田さん、忘れないでください。あなたの存在は、大切な人々にとって計り知れない価値があります。どんなに暗い時でも、光が差し込む瞬間は必ず来るのです。