はてなキーワード: 上前とは
一年以上前に「旦那が実録ウェブ漫画を描いている 」を書いた者です。
https://anond.hatelabo.jp/20181214131654
かなり前の日記ですが、そこには
「旦那が実録漫画を書いていて私も登場しているが脚色されすぎている」
ということを書きました。
以前の日記を書いたあとも何度も訴えたけど、
離婚の主な原因は
あーもうこれ将来もずっと変わらないんだな、
全部ネタにされるし漫画の自分が1番かわいいんだろうなと思ったら
別れる決意ができた。
とのこと。箇条書きにすると
・いきなりクレヨンしんちゃんにみさえが出なくなったらおかしいでしょ?だからそれと同じで妻も出続ける
だそうだ。
いやそういうことじゃないだろうと説得しても聞く耳持たず。
私からしたら恐怖だ。漫画の中の妻がいなくても平気っていうのは
どうすんだろ。別の女ができたらそれを妻として描くのかな。
どうでもいいけど。
他のウェブ漫画がどうかはしらないけど、
でも他人の家庭なんか関係ないか。ネットに発表されたことが全てだ。
捏造は不幸を生むと思うし、嘘の報いがあってほしい。
『変身』読んだことありますか?
『城』読んだことありますか?
双方とも百年以上前に書かれた小説で、それぞれ男性の生きにくさについて書かれています。
これらの内容は非常にシンプル。
つまり、「辿り着きたい場所にどうしても辿り着けない」、ということ。
このようなテーマは長編『審判』の作中に登場する掌編、『掟の門前』にも表れていて、これまたカフカを語る上では重要な箇所です。ちなみに、この『掟の門前』について軽くあらすじを述べると、
ある男が「掟の門」の前に辿り着く。
その男は、門番に対して「入れてくれ」と乞う。しかし、門番は決して首を縦に振らない。
門番は言う。「この門をくぐれば終わりという訳ではない。この門の中にも更に門番がいる。更にその門をくぐれば更に門番がいる。屈強な門番達だ。それが繰り返される」
どうしても辿り着きたい場所に辿り着けない。
全力で何かをしようとしても、それは叶えられない。
あのころはサァ
2ch張り付いてラノベ読んでアニメみてオナニーして深夜散歩して(田舎だから昼間ウロウロしてると不審がられる)
静岡の、さらに田舎の町の一軒家、2Fの6畳和室から見てた景色は今でも思い出せるんだよね
あの頃はweb漫画といえば新都社(ニート社)だったんだよなあ
素人個人でも、twitter等で漫画を全世界に公開できる時代になった。
今でも思い出せるタイトルは
「ニート様がみてる」
最近の舞城は「ほっこりディスコミュニケーションホラー」(もちろん面白い)も書いている
斗比主さんがIDINVADED(以外イド)を見たと知り、そういえばここ最近の舞城は「ほっこり」的な設定、掲示板に書かれる家庭内トラブルみたいなのをテーマにしがちだよなあと思いそれらの小説を紹介。
イド見てる舞城好きは当然ディスコとか九十九十九、闇の中で子供とか好き好き大好き〜を推すと思うが、それらは既に10年以上前の作品。
最近の内容はシンプルで濃縮され、(さらに)読みやすいという親切?仕様。
そしてその中に「平凡な家族のディスコミュニケーションなトラブルを書くホラーっぽい小説」があり、それが本当に面白い。
人は死なないし超展開は一切起こらず、じわじわ気持ち悪い噛み合わぬ会話、他人事に出来ない平凡な悪意と恐怖と祈りがあって、つまりやっぱり舞城。
最近と言いつつ10年前に書かれていた。個人的に『鼻クソご飯』に匹敵する衝撃。
幼い子供のいる現実的な家庭で、本当に現実的な辛いことが起こる。
でもその悲劇の凡庸さが刺さりすぎる。この先の自分に起こる悲劇の一例としてリアルすぎる…。
そして散りばめられた主張しすぎない、ナチュラルなほっこり加減!完成度が高い!
●『淵の王』(2015年)
「家族」要素は低めだが、やばい人間関係トラブルに「ロミオメール」というワード(めっきり聞かなくなったスラング)まで出てきて、なんとも小町的なネタに、主人公3人は正しさで立ち向かう。
結構ストレートなホラーで残酷だが(あ、これは人が死ぬ)わりと後味は爽やか系のもちろん傑作!悟堂もいいけど果歩が素敵だ!
娘を持つ母として、もう本当に怖すぎる。ゴリゴリ削られる会話達。
主人公母娘達の言葉や感情をどう受け入れるか迷ってる間に「家族」のヤバさをさらっと見せつけられ翻弄され、でも行き着く単純さにはやっぱり人への肯定がある気がする。
はい素晴らしい!
●『畏れ入谷の彼女の柘榴』(短編『群像』2019年11月号)
夫婦間の気分悪くなるほど噛み合わない会話の緊張から、怒涛の説教モード、しかしその説教臭さを吹き飛ばす最後の祈りが響く。
あああ、あああああああ、こういう小説を、たくさん読めますように。
しかし最近の猛烈な濃さの話を読んでると、『スクールアタック・シンドローム』なんか可愛いというかちょろく感じます(めっちゃいい話だけど)
あと『ビッチマグネット』、これたぶんタイトルのイメージと内容全然違って順当な少女の成長物語、めちゃくちゃ名作。ちゃんとほっこり要素入り。
それとid:yunastrさんご紹介ありがとうございました。
ゼロ年代の亡霊兼舞城王太郎のガチオタです。(でも最近の『裏山の凄い猿』も『勇気は風になる。』も読んでいない。単行本未収録が多すぎる…)
志村が死んだ時に20年以上前の映像引っ張り出してきて今でも無修正おっぱいをバカ殿で放送しているかのような口ぶりでキレてるし
アップデートアップデート言う奴ほど昔のイメージに固執して今でも悪いことやつまらないことをやってるに違いないってレッテルを貼る
アップデートできてないのはそっちだろ
それ今はもうとっくにやってないよって言われても「たとえ今はやらなくなったとしても昔ひどいことをしていたのは事実なんだから責任を取れ!」みたいなことを言い始めるし
昔やってたけど今はアウトだからやらなくなった表現ってほぼすべての長寿作品に存在するだろ
ドラえもんやサザエさん、アニメ・漫画以外ならタモリ倶楽部でも紅白でも徹子の部屋でも鉄腕DASHでも初期の映像血眼になって探して掘ったらやべえ場面なんてそりゃ出てくるだろ
今は時代に合わせてやらなくなった
それじゃ不満なのか?何がしたいんだ
俺はそもそもが通信制高校で働きながら卒業したから、テレワークというか自宅で学習するのが当たり前だった訳よ。
そんな俺からすると学校休みで遠隔授業だ、いやできない、とかそんな感覚に違和感覚えるんだよね。
特に違和感があるのが、私立の学校はWeb教育とか出来るけど、公立の底辺学校では無理、みたいな言説。
それを言ったら通信制なんて底辺も底辺、そもそも受験なんて無いし、中退したような奴がゴロゴロいたんだぜ。金もないから働きながらなんてのは普通。
いや、その基準に合わせろとか言うんじゃねえんだよ。そっちのノウハウ使えば良いんじゃ無いのって思うんだよ。
俺の時代の通信制だとレポートって言う紙の問題プリントがあって、年初にそれを丸ごと渡されて1枚ずつ解いていく。
教科書の他に、普通の学校なら先生が話をする部分をフォローした「学習書」って専用の補助教材が配られてそれも見ながらやるの。
で、週一で登校日があって、スクーリングやるの。登校日は日曜日と月曜日で全く同じ時間割、同じ授業が行われるので、こちらの都合でどちらを選んでもOK。
これを今の状況に当てはめるなら、学習書をそのまま流用して配っちゃだめなの?
当時(もう10年以上前)は完全に郵送でやりとりしてたけど、今時だったらWebでもフォローできるだろうし、そういうことやっちゃだめなん?
これらの教材は通信制高校の先生たちがワークグループ作って共同で作ってるらしいんだけど、他の学校も参加して似たような枠組み作ってやればいいじゃない。なんで全部自前で用意するような話になってるのかなあ。
授業もさ、登校日を半分とか1/3とかにして、複数日同じ授業やればいいじゃん。
後は私立の通信制は他にも色々やってるらしいんで、そういう所から教育システム買ってもいいと思うよ。
とにかくさ、そういう風にできないのかな。
まぁ小学校とかがつらいのはわかる。
ご時世の自粛。
「足並み揃わないなら無意味だ」と考えるのは間違いだという話。
レジや電車などで直接的にも、手すりや便所を介して間接的にもです。
直接/間接はあまり関係なく、また接触の濃厚なものは大きくカウントし、薄い接触を小さくカウントした上で、それらの総計を「人と人との接触機会の全体の量」としましょう。
接触機会量とでも呼びましょうか。
政府が8割減らしてくださーい!と言っているのはこの「接触機会量」です。
だからまあ「満員電車に乗らなくする」とかはとても効果高いですし、
「自動販売機で買った缶ジュースの外側を毎回完全消毒する」とかは効果の量としては低いです(無意味ではない)。
そしてなぜ8割?かというと、単純に計算上、8割減らすと総患者数が減少に転じるからです。
いまは1日でx倍という増え方をするわけですが、このxが1以下になり1日で0.9倍・・・とかになるということです。(※厳密には指数関数的減少ではないですが)
長い時間では0人になるでしょう。
「足並み揃わないなら無意味だ」と考える人はここまでは理解していて、「8割を達成=患者数が減る=患者がいなくなって終わる」とならないと「無意味だ」と思っているんだと思います。
まず、このコロナウィルス流行で皆が困っているわけですが、その「解決」とはなんでしょうか?を考えねばなりません。
国内の自粛が完全に行き届いて、8割どころか10割を達成し(国民全員が誰とも会わない生活をする)、患者数が減ってゼロになっても実はまったく「解決」ではありません。
海外ではまだ流行るでしょうし、暗数といって数字に出ていない感染者はいます(それも、最近の南カリフォルニア大学の調査によるとかなり)。
永遠に鎖国し、永遠に自粛すれば感染者ゼロの社会を生きることができますが、それは「解決」ではありません。
(単に我々が困っている状況が伸びるだけです)
チャチャッと自粛して沈静化して自粛解除してコロナのない暮らししようやー!って思うのは間違いで、それは全員が協力しても達成できません。
(ワクチンができれば別ですが、それは年内レベルの話ではなさそうなので置いておきます)
「8割」で患者数の減少、あるいは現状維持を目指すというのは、このためです。
人類はいままで科学と医学でいくつもの感染症を克服してきたでしょうか?
いいえ、違います。
人類が克服(根絶)したのは200年以上前にジェンナーが人類初のワクチンを開発した「天然痘」だけです。
「新型コロナウィルスのない世界」はおそらくほぼ確実にきません。
強力なワクチンができて全世界に接種したとしても、恐らく根絶までは数十年かかります。
コロナウィルスは根絶できない。ならば我々は何を目指しているのか?
「コロナウィルスが”普通の病気”になること」を我々は目指しています。
かかったら死ぬ人はいるけれども、治療薬があり、病院で手当をすることができる病気になることです。
現在のところ端的に言えば、病床と人工呼吸器の数が増えるか、重症化を一定割合で抑える薬(恐らく有望なのが最低2つあります)ができることです。
一般的な風邪(いくつかの旧来コロナウィルスを含む、感染症)は日本だけで年間のべ2億人ぐらいが罹患します。
症状がわかり、医者が鑑別でき、薬を処方でき、インフルエンザに至ってはワクチンまであります。
この状態であれば、風邪やインフルエンザやノロウィルスがそうでないように、コロナウィルスは我々の社会を止めるものではなくなります。
ここまで話して本題に入ります。
自粛が目指すものはウィルス根絶ではなく増加の遅延です。(減れば、なお良いですが)
治療薬や医療体制が整えば、我々にかかる制約は解除となり、これがゴールです。
つまり、「足並みが揃わなければウィルス根絶ができなくて意味がない」という考えは、ゴールそのものの設定が間違っています。
目的は遅延なのですから、最初に言った「接触機会量」を減らせば減らしただけ意味があります。
また自粛してないで江ノ島でウェーイしている人は、通常通りの行動をしているだけなので、自粛している人の効果を打ち消しているわけではないです。
「足を引っ張っている(接触機会量を増やしている)」というよりは「協力してない(接触機会量を減らしていない)」が言い方としては正しいですかね。
もちろん協力しろよ馬鹿野郎、なんでワイだけが自粛してんねん、という怒りはあっていいんですが、
アレを見て腐る必要はぜんっぜんないです。
最悪なのは、江ノ島ウェーイを見て自粛をしている人たちが自粛をやめてしまうことです。
繰り言になりますが、
なんでこんなことをつらつらとかいているかと言うと、江ノ島ウェーイを見て「ワイの自粛意味ないわーもう自粛しないわー」というマインドの人が増えたら、
それこそ良くないからです。