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【社会】集え!出会い求める男女…盛岡で1000人気規模の大型“街コン”開催(男性6500円、女性3500円)
1 : ◆SCHearTCPU @胸のときめきφ ★:2012/01/23(月) 07:29:32.93 ID:???0 ?PLT(12556)
街ぐるみで催す巨大なコンパ“街コン”が各地で花盛りとなる中、盛岡商工会議所は来月9日、
市内35の飲食店と協力し、1000人規模の街コンを企画、参加者を募集している。
イベント名は岩手名物「わんこそば」にかけて「わんこン」。沿岸被災地から男女それぞれ
30人も招待する予定で、男女定員各500人、20歳以上なら誰でも参加できる。
盛岡商工会議所は「県産、特に三陸産の食材をふんだんに使った料理でもてなし、
当日は午後7時スタート。受付後、協賛店に移動し専用の相席で県産の酒や三陸の幸が
飲み食いし放題。1店舗1時間以内の制限で、午後11時までなら何店でも回れる。
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2012/01/23/kiji/K20120123002489290.html
いつも思うんですが、何で金額に差があるんでしょうか。
たいていの人は異性に興味持つ年ごろというのがあり、大体は身近な人に恋をする。
誰かにときめき、ドキドキしたりワクワクしたり、もう少し相手に近づきたいと自然に思い、うまく仲良くなれれば手を繋ぎたいからキスしたいと夢見るようになり、次第に一人の異性が自分にとってとても大事な人になっていくだろう。
でも、好きになった人とすべての人が結婚できるわけはない。
恋愛が結婚に変わっていくのには、その時々の様々な条件がうまく双方合致して合意に達さないとできない。
独身の頃はあっさりと結婚していく友人たちを眺めては、どうやったら結婚にこぎつけるのだろうと、あれやこれや妄想してた。
そして結婚して一時は幸せそうでも笑顔を忘れていく友人や、壊れていく夫婦関係をこれまた眺めては、どうやったら幸せな結婚ができるのだろうかといろいろ考えてみたりもした。
どれだけ妄想しても、幸せな結婚を手に入れられるべくどれだけ条件を整えても(容姿・教養・センス・仕事等々)、そんなのは現実の生活の中ではたいして役に立たないのだと最終的に知った。
世間体という概念により自分の為の結婚から軸がずれ、親の為の結婚に微妙にすり替わっていく感もある。
そして何より女には結婚適齢期というより妊娠適齢期というのがある。
だいたい卵巣にそれぞれ200個づつくらいの卵子の種があり、女性が生涯に妊娠できる可能性は400回くらいとして約33年と3か月、中学生くらいまでに初潮を迎えれば40代半ばには卵が終わってしまう。
35歳を過ぎれば卵は劣化していくし、子宮内膜もやわらかく心地よく胎児を育めるだけのやわらかさや強さは衰えていく。
子どもが欲しいと思わなければ結婚は考えなかったかもだが、この事実に気付いてからはすごく結婚をしたいと強く望むようになった。
当時月収100万以上のキャリアを捨て、子どもを産むために家庭に入った。
子どもを産み育てるにはまず安全な巣が必要で、そして生活していくにはお金もかかる。
仕事辞める必要なんてないじゃないかと思う人もいるかも知れないが、妊娠出産育児の期間中は母親としてこの腕に抱いて育てたかったのと、何より流早産の危険性から妊娠期間中のほとんどを病院で過ごしてた。
飲み代や服代、そして結婚前に主人が作った借金の精算に主人の収入が消えていく現実に気付いたときは、マジで身動きが取れなくなってた。
子どもが生まれるまでは、自分が我慢できるところは我慢しよう、生まれれば子どもには父親も必要だと思う気持ちもあり、それがずるずると7年という歳月になった。
イケメンで憧れのカタカナ職業で年収1000万弱の社長で…と条件だけ書けば何をそんなもったいないと誰からも言われたけれど、ステイタスではおなか一杯にもなれず、心が満たされることもなかった。
おしゃれな会話や趣味の会話でコミニュケーションはそれなりに楽しかったが、ハートで触れあえることはなかった。
何のために結婚するの?
誰のために結婚するの?
主人を愛しているのかどうか、私のとっても一番大切と思うその部分が、いつも泣いてた。
息子には無条件の愛がハートからいつでも溢れてくるのに、主人に向き合うとひび割れてざらりとしている感じがつきまとい、次第に同じ空間で暮らすことが苦痛になっていた。
愛って何?
愛してるって感じたい。
それがお金よりなにより大切だと思う年齢になっていった。
「○○に行きたい」とか「○○で××したい」などの願望は旅行の動機にはならない。
どちらかというと「旅に出なくちゃ!」とか「○○へ行かなきゃ!」という衝動のせいである。
その国が私を待ってはいるわけがないのだけれど、へんな使命感で胸がざわめいて、そわそわする。限りなく恋のときめきに似ている。つまり旅行は自分の恋を成就させに行くようなもので、そして恋は一人でするものだから、いつも一人で行く。もちろん寂しいし、誰かと添いたくなるけど、旅行が終わると一人で行ってよかったと思う。この旅行は私のものだ、という満足感がある。誰かと分かち合うこともなく、まるっと自分の記憶にのみ残る。
文字にするとなんだか支離滅裂だし「若いなぁ」とか「痛いなぁ」といわれそうな感情だけれど、こればっかりはどうにもならない。
下記の文章を読んでどういう反応を返すかで大体その人がどういう人かわかるっていう
いろいろ不安に思うことも多いでしょうが、一つだけ決して思い違いをしてはいけないことがあります。
「採用する側」と「採用される側」は平等である、ということです。
就職活動というと、学生が「お願いですから、御社に入れて下さい」と言い、
企業側が「まあ、入れてやってもいいぞ」と言う、なんていう力関係を考える人が多くいます。
しかし、本来はイーブンでなければなりません。
企業側が学生を下に観てはいけませんし、学生も企業側よりも下だと思う必要もありません。
「入りたいと思ったら、入りたいんですが」「採りたいと思ったら、採りたいんですが」
どちらが偉いとかどちらが上とかはありません。
恋愛で、異性と付き合うかどうかを決める時に、「どれだけペコペコしてくれるか」は関係ないですよね。
もし異性と結婚を決めるとすると、気にするのは「どれだけペコペコしてくれるか」ではないですよね。
異性を見る時に「どれだけ下手に出るか」ではなく、もっと大切なことがたくさんあるはずです。
同じように、採用側も、「どれだけペコペコしてくれる学生か」なんて見ていません。
あくまでも、お互いが「良い」と思うかどうかなのです。
「私と御社は合うと思うので、仲間に入れてくれませんか」「当社もあなたと合うと思うので、仲間になりませんか」
と握手したいかどうかというのが学生の就職活動であり、企業の採用活動です。
学生と企業はイーブンですから、自分も企業を「選考」してやる、と胸を張って構えればいいです。
「今から、あなたたち学生を選考していきます」と言っている会社があったとしたら、
就職活動は、内定をお願いしに行く活動ではなく、相手を見つけに行く場所だと思っておきましょう。
分からないことがあれば尋ねていいし、気になるところがあれば聞いていいし、嫌なところがあれば指摘していいし、
許せないところがあれば離れて構わないのです。
そうやって、お互いに理解を深めた上で、「仲間として一緒にやりたいね」という相手を探す。
「どこか入社させてくれるところはあるんだろうか…」などと卑屈になる必要はありません。
素敵な異性との出会いのときめきを楽しむように、素敵な会社との出会いを楽しみましょう。
もっと胸を張って、就職活動を楽しんで下さい。
まず最低限のラインから
・この文章を読んだ時すぐに自分の現状をあてはめて「正しい」「間違いだ」と喚く人は読解力がゼロ。
はてなにはよくいるけど。あとそういう反応が帰ってこざるをえないような、ダメな文章を書く人も多いけど。
読むという行為は書いてる内容が全てじゃない。それにどう反応するかが大事なんだっていい加減学ばないとねー。
その壁を乗り越えた上でいかのような点をチェックされたし。
・この文章を読んで、書き手を優しいと見るか厳しいと見るか。
・そもそも自分から企業を選ぶという意識をもっていたかどうか(3Cの概念を理解してるかどうか)
・就職および就職する企業に何を求めているかを自覚しているかどうか
他にも読み手によっては色々と考える所があるかもねー。
1つだけ書くと、個人的には、新人の就職活動について恋愛をメタファーに使う奴はミスりードだとお思ってます。
入社後についても一貫して使えないアプローチなわけじゃないですか。
ただし、ホルモンやそれによる身体的反応と同じく、それ(その反応)をどう本人が自分の中で意味づけているかが重要、とする学説もある
身体的反応の原因をどう認知解釈するかで、自覚される情動の種類が変わってくるというのはおもしろいですね。
経験不足によって身体反応の原因がスムースに解釈されないということもあるのでしょうか。
実はしばらくの間この感覚をはっきり「ときめき」とは認識できていなくて
“おもに恋愛関係の出来事や創作物に触れると稀に起こる変な衝撃”だと思っていました。
「状況から判断してあの感覚って『ときめき』なのか!」と自覚したあとは
身体反応が起きた後の心の動きも変わっていった気がします。
胸が張り裂けそうとはこのことか!って思った。
肋骨張ってみたい。
それは逆だろう。
家柄やら収入やら、定量化できるもので推し量れるものなんてたかが知れてるということ。
地震の話が多くて、Twitterに張り付いてるのもなんだか気が滅入っちゃうし、友達も少なくて外にも出にくいし、誰にも求められてないけどだらだらと私の恋の話をしようと思う。ソーシャルメディアと恋。
多分というか絶対、本人が読んだらわかるだろうけど、もし万が一読んでも、知らないふりしてね。
その人とは1度しか会ってない。去年の夏に、1度。たった2時間。
友達が留学していて、長期休みのときに彼女を訪ねて遊びにいった。
多くの時間はひとりで観光していたのだけど、一緒に夕ごはんを食べようと約束をしていた日に急に彼女に大事な予定が入ってしまった。
お店キャンセルしてもいいよ、と伝えたのだけど、いやあそこの料理はおいしいからぜひ食べて帰ってほしい、ちょっとどうにかするから、と言われて、とりあえずひとりで向かった。
予約人数を変更してくれるんだろうと思ってた。でも、彼女の「どうにかするから」はそういうことじゃなかった。
今考えるとよくわからないけど、とにかく、異国の地でおいしいごはんを素敵なレストランでいただきました。初対面の男性と。
常日頃からそれが恋になるかはともかく、その人のことがすきかどうかは数分話したらわかると思ってる。
基本的に男の人と話すのってあまり得意でなくていつもびくびくしてしまうんだけど(彼を派遣した友達のこともいっしゅん呪った)すごくすごく楽しかった。
けっこう長く滞在していたなかでも、その夜は特別に楽しかった。
少し話しただけで、この人とは合うな、ってわかった。
気が合う、と言ってしまうのは簡単だけど、そのとき感じてた感情のディティールってもっと身体的なものな気がする。
言葉の選び方、声の出し方、話のテンポ、話題の変え方、「それで思い出したんだけど」のジャンプの程度。
環境もすごくよかった。
夏の夕方から夜にかけて、空は広くて色がきれいに変わっていく時間で、風が吹いてて、料理もワインもおいしかった。
たまたま日本に来る前に知り合っていた人が彼の長く会っていない友人だったりした。
あの日あの天気じゃなかったら気分は違ったかもしれないし、共通の話題のフックがなかったら話が盛り上がる糸口がなかったかもしれない。
もう、タイミングですね。タイミングがとてもよかったのです。そうとしか言えない。
君とは同じにおいがするな、あははわかります、私もそう思ってますよ、だよねわかるよ、また会おうね、と言葉を交わして別れた。
予定がなかなか会わなくて、そのまま帰国した。
もっと仲良くなりたい、とたぶんお互いに思っていて、特段用事もなくチャットするようになった。
「まだ起きてるの?はやく寝なよ」「もう寝るよ!今日オンラインになるの早いね、なにかあるの?」「うん、今日友達の…」。
彼がログインするのを待ってるから最近夜更かしなんだよな、と気づいたときに、ああこれはやばい恋かもしれない、とはじめて思った。
SkypeもGtalkもFacebookも、オンラインになるととても嬉しい。
チャットしながら意味のない一言や単語を書きこんで、即座にふぁぼもしくはLikeしあう遊び。
Skypeのステータスに相手だけがわかるような言葉を載せる。その欄でこっそり会話する。
面白かったブログの記事をメールで送る。何の脈絡もなくWikipediaの読んでるページを送る。
知らないなら聞いてみて、と教えてもらったアーティストの曲のうち、気に入ったものを何食わぬ顔でTwitterで共有する。
Gmailチャット欄に表示されてるよくわからないコメントに対して「なにそれ何があったのw」って話しかける。
会えないけど、生活の様子や思考の足取りを辿るやり方はたくさんあった。
私たちにとってソーシャルメディアはしてることと考えてることを浮かべていく場所だった。
相手の視界にチラチラ入るための努力。あるときは直接的に、あるときは間接的に。お互いにしてるし、それをわかってる。
どうしてチャットって、こんなに仲良くなった気がするんだろう。思い込みすぎかもしれない、と思うくらいだ。
とても深く話した(と思ってる)。時差はあるけど、「今この時間」は同時に共有してた。私の「おはよう」から彼の「おやすみ」までずっとつなげていたこともあった。お互い都合がよいときに書きこむ。
都合が悪い時には返信しなくていいから送る側も比較的気軽で、いつのまにかオフラインになっても気にしなくて、あとからログを読み返してにやにやできて、
盛り上がったら流れが速くなって楽しいし、話しながらURL貼れるし、私のなかでチャットって、電話とメールのよいとこどり。
同じ画面と文字しか共有していないけれど、背景に広がる景色や時間は違うけれど、むしろ「違うところで違う時間で同じものを見てくすくす笑ってる」事実が私たちを親密にさせた。
画面に浮かぶ「おやすみ」と「おはよう」のあいさつはあまりに優しい、と毎回思う。
あなたの生きてる時間軸は別にあるなかで、自分のためだけに向けられた言葉じゃんね。
この大きな地震の日、私は家にいなかったんだけどTwitterは直後から更新してた。
とりあえず東京は大丈夫だよ、電車は動いてないから帰れないけど、安全なところで無事だよ、と答えた。
いろいろと心配されたあとに、どうしようもなくなったらうちに来てもいいよ、高飛びしちゃえ!と言われた。
すごく個人的な話だし、もっと言葉を失うほど大変なひとがいたのは百も承知だけど、それでも遠くでそう言ってくれるひとがいてうれしくなってしまった。
遅くまで起きて待っててくれたみたいだ。
いや、心配してくれる家族はいたのだけど。もちろん。うまく言えない。
東京にいてもなんだか友達にも会いにくいし、ひとりでTwitterとテレビを見てると何か感情がせり上がってくる感じがするけど、
彼とチャットしながら不安とか見たり聞いたり読んだりしたことへの印象とかを「話して」いると気が紛れる。それは安心するってことなのかも。聞いてくれるひとがいることで気を確かにしてる。
今、被災地でなくても、東京に大事な人がいるひとは、話すことタイプすることで救われてることもあるって知っててね。
ある意味ずっと緊張状態なんだ。息が詰まる。停電は起こるのかな、電車は動くのかな、東京にいていいのかな。うまく他人と話す機会がないのって予想以上にキツい。
自分はそんなにパニックになる方ではないと思ってたけど、普段通りのことにとても安心してるので、やっぱり何か気が立ってるのだろうと思う。現在進行形で。
電話は回線もったいないから、Skypeやチャットやメールで、「げんきー?」「疲れたらこっち来たらいいよ!」って話しかけてみてください。
インターネットがあってよかった。
遠くにいても「今ここ」を一瞬で作ることができること、一緒に文章を読んだり音楽を聞いたり、笑ったり楽しくなったりときめいたりできること、インターネットが与えてくれた一番大きなことだと思ってる。
プラスの感情を増幅させることも、マイナスの感情を軽減させることもできてる。
疲れた~って言ってたら元気出して!って猫画像まとめをひっぱってきたり、
最近読んだこの本がおもしろかった、ってAmazonのURL貼って「レビューひどいな(笑)」って笑い合ったり、
クリスマスの街すげーきれい!って言うから、撮った写真を Picasaで見せてもらったり、
こんなに日本の報道されてるよ、って一緒に英語ニュースの動画みたり。
ネットで恋してるけど、超リアルだよ。むしろ対面で話すよりも素です、きっと。
ソーシャルメディアは、パブリックとプライベートの狭間をわざと作るツールなんだなって思う。
「あのひとに」見られてるかな、見られてないかな、をどきどきすることと「みんなに」見られることを意識してるのって全然矛盾しないんだよね。
宛先を明言しない色気っていうか。どちらでもないあいまいさ。にやにや発生装置ですね。
3月末に一度帰ってくる予定だったんだけど、この地震でやめることになりそう。
日本よりさらに放射能やばい!!って言われてるなかで成田行きに飛び乗るのはそりゃあ気が引けるだろう。残念なことに具体的進展は延期です。
でも私はこの地震で彼に精神的に頼ってることを自覚してしまったし、画面の中で仲良くなっただけかも、ってごまかせなくなった。
なんだかもったいなくて、ずっとSkype通話はしてないのです。常に文字なのです。だから本当に2時間しか声聞いてない。
一日でも早く平穏が戻りますように。
1981忘年会でLL一筋な人が酔っぱらって「大規模データ処理がさ〜」なんて言うもんだから遠くで話聞いてたらお子様レベルの内容で噴飯ものだった件について書く。
LL馬鹿「この前会社に頼まれて20GBのテキストデータを処理しちゃってさ〜 まじで難儀したよ〜」
Aさん「へーそうなんすか」
LL馬鹿「でもMySQLのインデックス適切に張れば大丈夫 インデックス大事よマジで」
LL馬鹿「MatzRubyだと遅いから1.9YARVで処理したら2倍処理が速かったね YARV凄いよYARV」
Bさん「pythonだともっと速いっすよ!テキスト処理ならpythonいいっすよ!」
LL馬鹿「あーわかるそれ!でもインデント嫌いなんだよオレw」
20GBって、、、、20TBならまだわかるけど、、、、、
後で知ったが妙にクールにLL馬鹿の話を受け流してたAさんはHadoopやらバリバリの人らしい
はあ、、、LL一筋の人ってLLが世界の中心でLLで何でも解決できるとか思っちゃってるみたいだし恥ずかしい生き物だと思いますよ
それでいて「Javaは本質的なコードが少ないから駄目言語」とか言っちゃう
オレも数年前までPerl最高な世界にどっぷり使ってたけど排他的で馴れ合い丸出し日本人コミュニティにうんざりしてJava勉強しだしたけどまじで正解だった
なんつーか時代に乗れてる感じ?
時代を作ってる感覚にすら襲われる瞬間もある
大規模データを処理するってのはそういうことですよLL一筋諸君
そろそお前らも時代を作る側に来いよ
さて寝るか
自分の場合、憧れの人はいつもいるものの、見ているだけで満足するタイプ。
遠い昔、「ご飯行こう」とか頻繁に誘ってくれる人がいた。
断る理由もなかったのでそういった誘いにずっと乗っていた。
正直に、相手のことは嫌いではないけれど好きでもないと言った。今考えると酷い。
相手はそれでもいいよ、と言ってくれたので一緒にいることにした。
半年経った頃、この人は自分のことが本当に好きなんだな、とふと思った。
一年後、自分は相手をとても好きになっていた。自分でも驚きだった。
相手がどんなことをしたら喜んでくれるかとか、何をするにも相手の顔が浮かぶようになっていた。
もっと一緒にいたいとか、一緒に出かけたいとか、もっと相手のことを知りたいとか・・・
明日会うのかと思うとドキドキして服装や身だしなみに気をつけたりとか、
そういったのが恋の症状かと思っている。
そんな自分は恋と遠ざかってしばらく経つ。
もう一度ときめきたいなぁ、と思うけれど仕事にあれこれ奪われ(これに不満はない。分かっていたことなので)
余裕もなくなるし、お金も時間も気力も仕事に注ぎ込みたいと思う気持ちもある。
恋はムリしてするものではない。
でも「好きじゃないのに付き合うのは嫌だ」というのはなんだかもったいない。
嫌いじゃなかったら付き合ってみる、という選択肢があってもいいと思う。
片方がとても好きで、もう片方は「まあいいか」程度でも付き合うことはできる。
人の気持ちは良くも悪くもかわるので、いつの間にか好きになっていたりする。
小便の切れが悪い。
残尿感とか言うほど大袈裟なものではないのだが、んー…果たしてコレって残らず排出されたと見てよいものか。という懸念というか、不明瞭な感じがいつもある。
そこで便器の前で排尿が終わった後の時間を長く取り、微妙に屈伸運動をしたりつま先立ちを繰り返したりして、これで完全に排泄されたのだという爽快が訪れるのをいちおう待ってみる。けどもう長らくその爽快は味わっていないようだ。仕方なくしまい込む。やれやれと立ち去る。この一連の儀式は我ながらなかなかに哀しくて間の抜けた絵面である。とてもよろしい。
それはそれとして、この不甲斐なさが一体いつ頃からのことなのか今ひとつはっきりしないのである。子供の頃は小便を終えた後、もっとすっきりした感じがあったような気はしている。けど意外にそうでもなく、すっきりしてなかろうが格納した後に垂れ流そうが子供特有の無頓着で意に介さなかっただけという話もありそうである。長じて快便を体調良好のバロメータとする意識を持つようになったせいで、不健康や衰えとは無縁であったはずの子供時代を美化しすぎているのかもしれない。「昔は良かった」は容易に陥る思考の陥穽だ…って、要は記憶を辿ってもよく分からないということが言いたいのである。
似た話で起き抜けなどに鏡を覗くと、そこにある皺にふと違和感を覚える時がある。あれ、こんな所に皺などあったっけ?という疑問が浮かぶのである。寝相の関係で圧迫されてできた皺が一時的なクセになるのはよくある事だけど、そうではなくて明らかに顔の一部となっている。すると昨日今日でホイホイできたとは考えにくい。ということはむろん前からあったものなのだという結論になる。けれどそれが一体いつ頃からそこにあったのか、今ひとつはっきりしない。
どうも近ごろ、私にとっての過去というものが加速度的に曖昧でおぼろなものになってゆくようでそこはかとなく恐ろしい。これはあったはずの出来事を忘れてしまうというだけの話では収まらない。
それまで「当たり前」どころか「前提」ぐらいにすら思っていた、私なりの物の見方や感じ方。そういう、いわば私の存在の中核となっていたもの、「私はこういう人間だ」と規定していたもののかたちでさえ次第に風化して崩れていっているように思われてならないということである。私という人間の輪郭が段々とぼやけていっているということである。
大きな喪失を感じるのが、そのときどきで抱いた感情や内的体験の味とか匂いのような質感が失われてゆくことである。幼児の頃の私は、なんでもないような絵や光景によくメルヘンな気分を味わった。子供の頃には、些細な風景写真や映画によく世界の広大さそのものへの憧憬の念のような感情が湧き起こった。
気恥ずかしいが、そういう「ときめき」がどんな感じであったか、さかしらに言えばときめきのクオリアとでも呼ぶべきものが思い出せない。ごくたまに、なにかの偶然がトリガーとなって自分の中によみがえる(匂いがきっかけとなることが多い)ことがあるまで、そんなものがあったことすら忘れてしまっているのである。けど私にとって、そういうものこそが生の実感であったはずのものだった。どうも今の私は魂を抜かれた抜け殻が生きているかのようである。
ご存知のとおり、人の肉体は固定されたものに見えて実は流動的である。代謝によって肉体を構成する物質が絶えず入れ替わり、我々がふだん石や木材のような固体のイメージで捉えている骨でさえ骨代謝という働きにより成人3年で完全に入れ替わる。言い換えれば3年前の私と今の私は正真正銘別物である。生命とはモノではなく、コトなのであって、渦とか波とかの現象と質的に同じなのである。こういう話を聞くにつけその確かな拠り所の無さ、脆さ儚さを思わずにはいられない。うたかたに例えた古人はまことに正しい。
まして人間の精神のような無形のものの流転の様は推して知るべしなのである。「私はいつだって私だ」というのは単純に言ってただの錯覚で、絶えずアメーバのように形を変えているイメージがより近いと私は思う。自分では一定の形を保っているように思っていながら、そのじつ絶えずなにかが流出し、知らずになにかが流入し続けているのである。朱に交われば赤くなるのだ。
下り坂の年齢にあると、その流出してしまったものの大きさのほうが堪える事実である。流入してくるものも無くはなかろうがどうも良いものには思われない。
「○○な女はやれる」なんていうアホ臭い童貞の妄言が出回ってるね。
かわいい子ほどやれるとか、背の小さい子ほどエロいとか、巨乳ほど尻軽だとか、そんなん「そうあって欲しいだけ」でしょうが。
私が本当にやれると思う女は、自分から性犯罪被害告白してくる女だね。
軽いものでは痴漢、重いものではレイプ。男に対してレイプされたって告白してくる女は、まず確実にやれると思うよ。
ただしメンヘラであることが多いから、後々注意が必要だけどね。
彼女たちはやったら付き合ってくれる、ずっと構ってくれると信じてそういう迫り方をするから。
不器用なんだね。自己評価が低すぎるとも言うけど。彼女たちなりに苦しんだ結果の、強引な方法論。
簡単にやれたから捨てるのも簡単だろうとか思ったら大間違いよ。
あとそういう子のレイプ体験談は、男友達にゴリ押しされてなんとなく同意してやっちゃったようなセックスを、
自分を正当化するためにレイプに変換しちゃってることのほうが多いから。
なかには本当の被害者もいるのかもしれないけど…2割以下ってとこじゃない?ほとんどが捏造だよ。
だから真面目に同情すると馬鹿をみるよ。まあそんなピュアな男珍しいと思うけどね…
やっぱ、男は男に肩入れするもんだよね。
メンヘラでない本当のレイプ被害者は、被害を本当に信頼できる近しい人以外には話さないものです。
さして親しくもない男友達にホイホイ言っちゃうのは正常な神経じゃない。絶対にね。
中高ではぜんぜんモテなかった地味な処女の女子大生とかがやっちゃう感じね。
レイプされたって言う子よりは思考力は正常なんだけど、やっぱり不器用は不器用だと思う。
私を女として意識して!っていうメッセージだよね。表現の仕方が微妙だけどさ。
メンヘラの子より、勇気を出して言ってるパターンが多い気がする。
だからやる前に「やるならちゃんと付き合って」的なことを言うかもね。
でも口のうまいヤリチンに一番都合よく食われそうなタイプで、女の私から見ても可哀想だと思う。
彼女たちには良心のある彼氏が出来て欲しいね…そこはほんと運だけどね。
複数の男に好かれてる自慢。メンヘラほどでもない構ってちゃんの子がやります。
「A君っていう彼氏が居るのに、B君に告白されちゃった…ねぇC君、私どうすればいいかな?」
そういう自慢げな"恋愛相談"をしてきます。実際、性的魅力としてはスペック高い子であることが多いです。
でも病的な浮気性。可愛いから本気でその子を愛してる彼氏が常に居るんだけど、彼氏はボロボロになります。
こういう子は後腐れないんで、いただいちゃっても比較的大丈夫な感じ。
性的スペックが高い(イケメン、高身長、細マッチョ、ミュージシャン・美容師などのその子的にかっこいい肩書きを持ってるとか)
タイプの男であることが多いので、はてな系の男にはそういう美味しい機会は訪れるのかしら?
ちなみにガチイケメンはこういう子の浮気相手に頻繁に使われるので、
そのイケメンがよっぽどの低能でなければ本命彼女すら信用できない女性不信に陥ることが多いです。
非モテからすれば羨ましいかもしれないけど、私の目にはそういう男、不幸に見えるよ。
いきなり恋バナ振ってくる男には気をつけよう。元彼の話とか、元彼との関係(主に下ネタを匂わせてくる)とか。
本命の女の子の過去の男の話は聞きたくないもんです。すごく気になるけど凹むから知りたくない、そういうもの。
それを聞きまくってくるということは、好きでもなんでもない。
そこにあるのはあなたが過去の恋愛を思い出してときめき感が蘇ってきて、ちょっと気分がフワフワした、そこに乗っかってやっちゃおうって魂胆だけ。
ナメられてます。ヤリ捨てられます。やっちゃったら、あとで男だけの飲み会で自慢されるだけです。
大事にされてるかどうかの判断は、彼氏の男友達に紹介されるか否か。
男友達に「これが俺の彼女です」って紹介されたらガチで愛されてると思います。私はね。
その後お互いあんまりモテなかったり、案外普段も気が合ったりして、そのまま結婚ってパターンも中にはあるのかもしれない。
でも確率が低いので期待はしないほうがいいと思う。
女は言うまでもないけど、男だって雑な方法で経験人数ばかり増えると磨り減るよ。
なんていうか、水商売っぽい雰囲気が出てくる。男でもね。
ときめかない
その「ときめかない」理由が知りたい。
ときめきを感じないのは「ジェンダー規範的に男らしくない」か「見た目が好きじゃない」の
どちらかが原因だと考えているが、他に理由があれば教えてほしい。
詳しくは書けないが、漏れも症例に漏れず、とある団体、ここでは宗教団体としようか、
団体に未練はないが、心から本当に好きで、
だけど何年も会話もない片思いの女性のことだけが気がかりだった。
でも眺めてるだけで叶うことのない恋にピリオドが打ててそれはそれでいいことだと思った。
けど、漏れをバカにする声の中に彼女の声が聞こえることに気付いた。
本当は彼女も喋らない性格なので声なんて聞き分けられないのだけど、
からかってくる人たちは頭も悪くてつまらないのだけど、
彼女の声はいつもかわいくときめきに満ちていて「私も好きだったんですよ!」とさえ言ってくれた。
ただ、いつかこんなばかげたことが終われば、
そのままの生活を送っていれば話すこともできなかったし、
そんなこんなで1年が経ち。薬は飲んでいないのだけど、
レモン哀歌の智恵子がレモンを囓るともとの智恵子に戻るように、
ふと、もとに戻ることがある。
そのときの虚無感。
実際は前と変わらず漏れのことなんて微塵も気にせず暮らしている。
例えるならば、華やかで夢のような舞踏会から帰り、
気がつけば惨めな姿でまた明日からの仕事について考えなければならない、
明け方の硬いベッドで途方に暮れているシンデレラだろうか。
「やだよーやだよー」と体をくねらせて悶えた。
そんなんだったら妄想の住人のままでいいよー。
それから2年。それがいまの私なのである。
とことん甘えさせてくれる懐の広い女性がいいんだろうな。
非モテ女も男に苛められる影や表であざ笑われる嘘告白される等々なかなか酷い青春送ってるけど、そんな女性を見たら償いたいって思うんだろうか。
セクハラや痴漢やレイプなど男性から酷い目にあった女性全般にも償いたいんだろうか。
でもそもそも自分に何も悪い事してない人から償われたいっつのは謎感覚だなぁ、だって償ってくれて満足するって事は、その相手を自分を傷つけた人の代表のように見てるからだよね、そんな相手を好きになれないと言うか、個人的には恋人と関係ない事で傷ついて恋人に求めるっつったら償いより癒しだと思う。
ひとが浮気をする理由がわかった。
父名義でwillcomを2台契約してそれで連絡をとりあっていたと聞いて
と思ったのだけれど、そうなのだ。
高校生のカップルみたいな、甘酸っぱい思いがしたかったんだな彼は。
だってもう二度と高校生に戻れる事はないし、
自分の奥さんにそんなときめきを感じることも多分なかったんだろう。
ドキドキしたかったんだな。家をこっそり抜け出て、お揃いの携帯から電話をかけて、
期限つきの秘密の恋を楽しんでたんですね。
なんだかとても人間らしくて、笑ってしまった。
自分は浮気なんてされたくないと思うけれど、特別な努力をしてときめきを維持し続けないと
男女ともに浮気はありうるのかなーと思う。
目的は「自社や自社商品に関するコメントがツィッターに流れていないか?」を
定点観測するため。
なので、能動的にツィッターをしているわけではない。
IDも取得したが、自分からつぶやいたことはない。
「有名人のつぶやきをフォローすると面白いですよ」と言われるが、
アップロードされるから、時間を割いてつぶやきウォッティングする必要性を感じない。
Google検索でも、ほぼリアルタイムにツィッターを拾えるから、
臨時ニュース的なことはGoogleを追っていけば充分だと思う。
これほど「ときめかない」サービスも珍しい。
当時は「こんな世界があるのか」と驚きとときめきのばかりだったが、
その後でも「Googleの出現」「Q&Aサイトの出現(自分の中では人力検索はてな)」
「ソーシャルブックマーク」「ウィキペディア」「ウェイバックマシン」
「Googleアース」「Googleストリートビュー」などは
「とくめく」サービスだった。
一方で、非公開SNS(ミクシィ)や仮想空間サービス、アバターには
「全然ときめきを感じなかった。」
自分の中では、ツィッターは「全然ときめかないサービスNo.1」である。
何故だろうか?
そもそも
「140字内という制約を課すのって、技術の後退じゃないか?」という先入観だろうか?
新規の技術性を全然感じないのである。
「140字内のつぶやきなんて、自分のブログですればいいじゃん」と思う。
「ブログは長文で更新頻度が1日1回程度がデファクトスタンダード」という自己規制なんて、
勝手に取っ払えばいいのである。
自分は、ブログ時代到来前から、自らが11年前から管理運営する掲示板に、
超長文を投稿することもあれば、50字程度の「つぶやき」を投稿したり、と
気ままに使ってきた。
おかげさまで、常連の方々が出入りする掲示板に成長し、自分の「つぶやき投稿」に対して
適度なレスが入るし、逆に常連が「つぶやいている」ケースもある。
そういう自由気ままな使い方をしている自分から見れば、ツィッターは「制約が多すぎる」のである。
ツィッターは理解すればいいのか?