はてなキーワード: 人間力とは
渦中の損保の元社員。ビッグモーターのような大手ではないけれど、モーターチャネルと言われる中小の整備工場の保険代理店を主に担当してた。
損害保険会社と保険代理店は組織対組織なら商品のサプライヤー側が強いのだけど、現場の営業部門ではそうはいかない。今どきの代理店は複数の保険会社の取り扱いがあるところがほとんどだし、代理店の思惑一つで自賠責と任意保険を他社に切り替えられちゃうわけよ。もちろん、顧客側がネット系を含む保険会社を指定することはあるけど、ディーラーで車を買うと同時に勧められるがままに加入している人はかなり多いよね。
なので、代理店を担当する営業社員はまぁ完全に首に縄をつけられた小間使いと化すわけ。相手の機嫌を損ねたら他社に数百万の挙績が移るし、その結果は上席者からの鬼詰なわけだからそらなんだってするよ。自動車保険の商品力の差なんて知れてるし、営業の人間力(=滅私奉公)に全てがかかってるからね。自分の場合も土日のお祭りや草野球、ゴルフや商店街の旅行と散々額に汗を流しました。営業時に必ず家族との夕食に同席させてくれたIさん、今も元気で過ごしてるかな?
サービスが行き渡ってる以上、保険会社がトップラインを伸ばすには他社のシェアを奪う必要があるし、そのためには乗合代理店から顧客への切り替え提案を引き出すのが一番手っ取り早い。危ない橋ながらも目先の利益に飛びつくインセンティブは少なくとも営業社員にはめちゃくちゃある。今回のケースもそういった中で火中の栗を拾いに行ったのでしょう。
もちろん、保険会社にもリスクを査定する部門はあるし、そういったところからブレーキがかかった可能性は高いと思う。ただ、往々にして保険会社は営業が強いし(査定や本社を非現業と下に見る文化は各社にあるのでは?)、話題の損保は昔から強烈な営業偏重姿勢で有名。営業社員は報告時に後ろぐらさを伏せるのでどこまで社内に危機感が共有されていたのかはわからないが、まぁ起こるべくして起こった事件だなと感じた。
みたいなイメージが地元で強いらしく何気に人気の伝統校だったけど。
入学1ヶ月くらいは12歳の子供らしく席が近い同級生同士がちょい他人行儀に会話したり、とりあえず一緒に帰ったりして緩く仲良くなり始めるんだけど、1ヶ月経ったくらいから明白なマウント合戦が始まる。
いとうせいこうみたいな髪型で強度近視用のメガネ掛けてる「いかにもお坊ちゃん育ちです」って見た目の連中(ていうか半分くらいそんな外見だった。入学初日にクラスのメガネ率弾き出したら8割超えてて仰天した記憶がある)でも、
歳の割に体格良かったり元々の気性荒かったりする奴なら弱そうな同級生に突然馬乗りになって鼻血出るまでボコボコにしたり、
「顔が暗いから笑」で前の席の奴の後ろ髪をライターで炙ったりしてた。
そんな様子を傍から見てて
「こいつらなんて恐ろしい奴なんだ……目つけられたら殺される」
と俺は震え上がってたけど、冷静に考えるとそいつらも皆お勉強頑張ってきたお金持ちの家のお坊ちゃんなんだよな。
粗暴とかけ離れたタイプにしか見えない中学1年のメガネくんが、
血だの火傷だの失明リスクだのにひるまず大笑いで同級生たちを痛めつけてるのは結構異様な光景だったと思う。
あと、家が寿司屋の同級生が裏でめちゃくちゃ笑いものにされてて衝撃を受けたのも思い出した。
下の毛が生えるかどうかの歳で職業の貴賎的な概念をすでに周りは普通に備え持ってたようで、年齢相応に幼かった俺はひたすら
「人の親のことバカにするのは思いっきりタブーだろ。ていうか寿司屋で何で笑ってんの?」
と混乱してた。
一部の人間が大人になって身につける類の嫌な差別心をそんな歳でどうやって身につけてたのか未だに分からない。
野球部が圧倒的に偉かった。
野球部がカーストトップで周りがビビって何も言えないみたいな風潮は多くの学校であるあるなんだろうけど、うちの野球部員はとにかく暴れまくってた。
休み時間、虫の居所が悪ければ金属バットで教室のロッカーベッコベコにするし、鉄アレイとか周りの人間の机を砲丸投げみたいにぶん投げまくって大暴れするし。
パフォーマンス感は全然なくて、本当に突然癇癪起こして気が狂ったみたいに暴れ出してたからみんな震え上がって嵐が過ぎるのをひたすら待ってた。
でもそんな彼らがタバコだけは絶対に吸おうとしてなかったのは今でも不思議でならない。
かくいう学生同士のカーストが下位の自分もどういうわけか大学途中くらいから
と、悪い思い出をなかったことにして気づけば母校愛が強いOBの1人にすっかりなってたけど、
最近になって、なかったことにしてた思い出が急に色々脳裏に蘇ってきてモヤモヤしてたのでここに吐き出した。
あいつら何不自由のない裕福な家に生まれ育って、同世代平均を上回る知能があって……
要するに恵まれてたくせに、なんであんな小さい時分から粗暴だったり差別的だったりしたんだろ。
父子2代どころか祖父、父、子3代でOBみたいな家も珍しくない学校だったけど、俺は自分の子供は絶対に入れたくない。
以前ネットで慶応大学野球部の就職先が凄いみたいなのが話題になってて見たけど、うちの学校の同級生連中のほうが良かった。
中高一貫のくせに「現役で早慶受かったら凄え」程度のレベルでしかない学校だったのにもかかわらず、明白にウチのほうが良かった。
1億積まれても入れたくない。
生活保護に使える年度の上限が決まってるんだよね。
んで、それを早い物順にして年度の後半に来た人は追い返すってやるとヤバい。
「生活保護どう考えても通るのに通してもらえませんでした」みたいになると怒られるから。
だから「これはグレーかな」と思ったらひとまず弾く。
ルールで決まってるからではなく「年の合計予算内に収めるため」に弾く。
これは年の終わりに近くなってジャブると通りやすく、逆にいよいよ予算がキツくなると更に締め付けられる。
んで、一度拒否したのと同じ理由で言われて「めんごめんごやっぱ通るわ」は出来ない。
それをやると監査のときに「あれれー?おかしいぞー?基準が統一されてないなー?」ってされてネチネチ嫌味を言われるから。
この辺上手い人は報告書の粒度と書きぶりの調整で「ほとんど同じ理由の案件同士なはずなのに報告書で読むと違う理由であると言い張れる」という魔法を使いこなして出し入れ出来る。
下手な人はそれが出来ないので予算と申請理由のバランスが悪いときはキレるしかなくなる。
結局ね、人間力なんだよね。
は?
税金が源泉なのにそれを言うってのは「僕は増税を受け入れられます」って宣言やぞ?
俺は無理だな。
今年、娘が小学生になった。都内の公立小学校に通っている。そんな娘に「パパは小学校楽しかった?」と聞かれて、僕は「楽しかったよ」と答えたけど、これはハッキリ言って嘘だ。
娘に変な先入観を持ってほしくないから、ポジティブに答えたけれどパパは小学校が大嫌いだった。正確には学年が上がるとともに制度と先生が嫌いになっていった。
平成初期に生まれた僕は小学校3年生まで80年代に開発された所謂ニュータウンに住んでいた。比較的若い住民が多く、大きな電機メーカーの工場などが集積していたので、所得や教育水準もそれなりに高かったのだと思う。小学校も開校20年程度だったと思う。好きな先生もいたし、友達ともよく遊んだ。指の皮が剥けるまでスマブラ64をしていたと思う。
その後、両親の離婚を経て、僕は母方の祖父母の家に住み、かつて祖母や母が通ったという小学校に転校した。明治時代からある古い学校だった。
この学校に転校した時は激しいカルチャーショックに見舞われたので一部ご紹介する。
1.男女でトイレが分かれていなかった。壁際に小便器がずらっと並び、その後ろには個室が並ぶ。要するに男子便所と同じ構造だ。そして、この個室には男子も女子も関係なく入る。ジェンダーレストイレが話題になった今となっては時代の最先端なのかもしれないが、当時は本当に驚いた。
2.自転車に乗っていいのは小学4年生から自転車の解禁が小学4年生以降だった。何も知らずに毎日自転車乗っていたら、ある日学年集会でいきなり晒し上げられてルールを知った。
こういう一つ一つ、当時の自分が嫌なポイントが増えていったのだが、決定的だったのは先生の質の低さだ。
とにかくヒステリーをよく起こす人で、どうでもいいことで一々叫び散らす先生だった。クラスで少し問題があるとなんでもかんでも集団責任と言い、一々放課後に全員で居残りさせられて迷惑だった。クラスでいじめられている子がいて、僕は転校生でクラスのヒエラルキーの外にいたので、助けようとして喧嘩になったら怒られたり、その放課後に、このクラスにいじめはありません!とか宣言しててこの人もうダメだと思った。毎日上履きに泥を詰められたりして、◯◯菌とか言われてる奴がいじめられてなかったらなんなんだろう。
この先生はかなり変なおじさんだったが、好きだった。いつも扇子を持ち歩き、教室に畳を敷いて、カーテンを簾に変えていた。将棋が趣味で将棋を教えていた。その先生から将棋を教わって将棋を始めたクラスメイトはその後、当時史上最年少で女流棋士としてプロになったのでその一点だけでも凄い人だと思う。
30代半ば/男性
この人はマッチョな見た目そのままの脳筋だった。子供ながらこんなに頭悪いのに学校の先生になれるんだなぁ、と思ったものだ。悪気があるのか無いのかわからないが、事ある毎にうちが母子家庭であることをクラスで話し、当時は今ほどシングルマザーに理解も無かった時代、そして土地柄。そのせいでクラスメイトやその親から「お父さんいないってどんな気持ち?」と聞かれたり、煽ってくる奴がいた。
決定的におかしいと思ったのが、成績の評価だった。大前提として、僕は公立小学校程度のテストならばどの科目も殆ど100点以外取ったことが無かった。年に1回の県統一の学力テストでも成績は学年1位だった。そういうわけで国語、算数、理科、社会の通信簿は常に5段階中の5以外もらったことがない。
ところが、僕はこの先生に「3」を付けられたのだ。そして、自分より頭の悪い子が5を取っていた。この成績を見た母は「1学年1位の息子が何故3なのか?」と学校に問い合せた。実は当時、通信簿の評価がそれまでの相対評価から絶対評価に切り替わった。先生曰く、生徒一人ひとりの成長を元に点数を付けることになったが、100点しか取らない僕は成長が見られないので中評価だという説明だった。
それに加えて、各科目の課題や授業に対する態度が悪いということ。具体的にはドリルとか問題集とか、その学期を通して行うべき課題を最初の1週間で全部終わらせて提出したことが悪い、授業中騒いだり他のことをしたりするわけではないが、かと言って授業も真面目に聞いていないことも理由であったと。
学校の簡単なテストは100点以外取りようが無いのに、どうやって成長を示せばいいのか。簡単な宿題を早く終わらせて一体何が悪いというのか。教科書を読めば一瞬でわかることを延々と説明する授業の一体なにを聞けばいいのか。僕は授業の邪魔することもなく、ただただ黙って大人しく時間が過ぎるのを待っていたのに。
ちなみに結局その後、試しに中学受験に向けた全国模試を受けたら偏差値は55~60くらいしかなくて、中学受験組の中では精々中の上程度だとわかった。そして日能研の「シカクいアタマをマルくする」とかいう広告の問題は全然解けなかった。別に自分が頭が良いわけではないことを理解出来た。そして実際に市川という上の下くらいの中学校になんとか滑り込んだ、というのが僕の実際の実力だ。開成?筑駒?渋幕?全然無理、って感じ。
当時を振り返ると嫌いになった要素がいくつかあると思う。
まず第一に、制度の問題。日本の公教育は、基本的に出来ない子に合わせざるを得ない環境であり、そもそも人間としての最低限の指導しかしてもらえない。加えてその基準は非常に低い所にありすぎて、子どもたちの学力すらもまともに測れない。物差しすら用意していない。当たり前のことが出来るだけでメーターを振り切ってしまう。そして相対評価の謎運用で無駄な不平等を生み出している。
そして先生の問題。先生の魅力というのは、学力だけでなく教育への熱意や広く言えば人間力など様々な観点があると思う。そしてその仕事の過酷さが度々話題になるように大変な仕事なのもわかる。
しかし僕が出会った先生は今思い出してもヒステリーなオバさんや脳筋が多く、学歴的にも大凡、他人に物を教える事ができるようなレベルではない。人間力含めたって精々小学生くらいにしか教えを説けるレベルになかったと思う。
考えてみれば、そこそこの学歴を持つ友人を見渡した時、高校の教員や大学教員になった奴はいても小学生の相手をしている奴なんて殆どいない。
そんなことを考えると、子供を私立の小学校に入れる選択肢を考える親の気持ちもわかる。ただ、個人的には小学校の時に悪かった友達が大人になって逮捕されたりしてるのを見ていると、人種の坩堝に身を投じて色々な人がいるということを理解するのも大事な気がする。
娘よ、そういうわけでパパは小学校が嫌いだった。お前が思ってるよりしょうもない大人が先生をやっているからな。そういうことにも一つ一つ気づいていきながら人生を歩んで欲しい。
全くその通りだ。
「大人らしい大人なんてオイルが流れるロボットだ!自由な心を持った大人になろうぜ!」というマヤカシを信じて、ちょいワルを気取ったダセー大人になったまま帰ってこれない人が大勢いる。
運の悪いことに下にはさとり世代がいるのでそれと比較してしまうと「え?あの年齢であの言動って人間として終わってない?」となりがちだ。
本当にキツい。
時代に合わせて「求められる大人のレベル」を調整できる余力を残した人達は今どき基準でパワハラを回避して動けている。
でもそうじゃない人、不器用なくせにカッコつけようとしてレールから飛び降り、そのままガキクセー大人になって帰ってこれなくなった人達は本当に悲惨だ。
部活の先輩みたいなノリで先輩風を吹かし、昭和~平成初期の部活の中ぐらいでしか許されないようなハラスメントをガンガンしつつ、たまにジュースを奢っておけば下からは尊敬の眼差しで見てもらえると思っている。
実際はそんなことはまったくない。
繰り返したハラスメントは恨みノートに蓄積し、限界を超えたタイミングで慰謝料へと変換されていくし、自分が得ていると思っている尊敬は薄っぺらい愛想笑いを本物と信じたい心の弱さが見せる幻だ。
完全に終わってしまっている。
老人であれば「頭がボケて来たようで」とまだ幾分生暖かい目を向けてもらえるが、これでアラフォーアラフィフぐらいだと「まだまだ脳みそは健康だろうから単純に性格が悪いんだな」で切り捨てられる。
不憫すぎるよ。
人間力に生まれつき乏しい人達が、それに見合った生き方を選ぶべき所を時代に流されてしまったんだ。
遊び人とつきあった真面目くんが人生を持ち崩す様を、10年単位の長い長い時間をかけて行ってしまったようなものだ。
ゆるゆると長い時間をかけて下ってきた蟻地獄の深さがエグすぎて、もう今の人生脱出するのは困難な所まで来ている。
彼らには翼がない。
だから落ちたら終わりなのに。
可哀想に。
よっぽど力のある人間だったら引き上げられるのだろうけど、多くの人間は自分1人が歩むので手一杯だから上からそれを見ていることしか出来ない。
題名の通り。私みたいなアラフォーおっさんが一緒に働くには優秀すぎてつらい。
20年前くらいだとSEとかプログラマって「未経験者歓迎!」みたいな感じでデジタル◯方とか言われて
就職先がないやつの受け入れ先みたいな感じだったじゃないですか。
もしくは「いや朝も起きれないし人間と会話も苦手だしプログラマくらいしかできる仕事ないんで....」みたいなやつが潜り込む先というか。
どっちも私のことなんですが。
それがまあ日々先輩方に厳しく温かい目で(厳しく)育てて頂き、気がつけばベテランと呼ばれる域になり、なんとか日々のお仕事もこなせるようになりました。
新人さんなんかの育成なんかも任されるようになったんですけど、最近の若いエンジニア、人間として優秀すぎません?
コミュニケーション能力とか、人当たりとか、会話力とか、頭の回転の速さとか。技術力じゃなくて。
そういう「優秀な人がつく稼げる仕事」みたいな位置づけに「SEとかプログラマ」がなっている、というのに、いまだに違和感が拭えなくて。
いい大学を出て「自分でプログラミングを勉強してインターン経由で入社しました!」って言われるとなんかこう、はえーすごいなーって感想しかない。
今はそういう時代ではないんでしょうが「技術力さえあれば人間性なんて(以下略)」みたいなモヒカンたちにぶん殴られながら育った身としては
なんかこう育ちからして違うな....と思ってしまいます。(議論を避けすぎる傾向があるのは技術者としては良くないと思いますが、それもまあ経験積めば変わるでしょうし)
多分時代が違えば.... IT技術ではなくバイオテクノロジーの方が大当たりした世界とか、メイドロボを作ろうとした男たち(今どうなったんでしょう?)によりロボット技術が超すごいことになった世界とかだったら、そういう分野に行ってたんだろうなあ....とか思うと、なんかこうモヤッとした気持ちになります。
https://twitter.com/nijisanji_app/status/1670657686667661312
酷いやらかしをしておいて、卒業配信すら出来るのは、えにからの温情だと推察出来る。
そこそこに稼いでくれていたんだろう。
それはともかく、このライバー、マジでやらかししかやってない印象が強くて、割と初期の方からロールプレイを放棄していた。
自分はその頃から、マジで嫌になったんだけれど、なんで嫌になったのか、これをきっかけに思い出してみた。
結論としては、端的に言えば嘘のつき方が下手くそすぎた、に尽きる。
VTuberというのは多かれ少なかれ、嘘で塗り固めた存在であり、それに関してはある程度許容して見ていた。
年齢や容姿などなど、色々と設定という名前の嘘をベースにキャラを演じるというのが、現状のVTuberのスタイルだし、それに関していちいち噛みつくつもりはない。
彼/彼女らの配信を見ている層や、切り抜きしか見ない層(俺はここ)、動画のみ視聴勢など視聴者は色々なスタイルで彼/彼女らの活動を眺めている。
ロールプレイに関しては、初期の方では結構頑張ってやっているが、途中からだんだんと、あるいは配信から数日でやらなくなるというのが定番のスタイルであり、その点は視聴者はまあ、そりゃそうだろとして眺めるのが通常だ。
この点で、郡道はかなりの期間ロールプレイをしていた。そっちの方が注目が集めやすかったというのがあるかもしれない。
しかし、色々な所でボロを出していたのと、ロールプレイ中に作成した動画が倫理的にどうなんだと疑問視される物に加え、その扱い方が雑だったのが。嫌いになる決定打となった。
やるなら、もっと徹底的にやって欲しかったし、やらないなら、最初からやらないで欲しかった。
何にせよ、何をやらせても”中途半端で雑”というのが、彼女に対する偽らざる俺の評価だ。
こんな奴が、問題を起こさない訳がなく、定期的に炎上していた。本人的には話題になってオッケーとか思ってたのかもしれないけれど、世間はその点に関して厳しい見方をずっとしていたと思う。
ファンの方はともかく、それ以外の人は、中途半端さと雑さにイライラしていた人が多かったという印象だ。
そして、2023年3月のWBCでの問題発言で、完全にライン超えしてしまい、今回の卒業という話になったのだろう。
何にせよ、ライバーとしての質が低い人が外されるのは時間の問題だったと思っている。
ここ数年、VTuber界隈では色々なキャラクターの引退(と転生)が激しく行われているが、ここに来てVTuberとして生き残れるのがどういう路線なのかというのがだんだんと浮き彫りになってきた。
自分なりにまとめると
・信念
・根性
・コンプラ
この3つを兼ね備えていないと中々生き残れないというのが実情だと思う。
あまりにも多すぎる才能持ちの中でどうにかして輝こうとすると、コンプライアンスギリギリのところを攻めて目立とうとするバカがいるけれど、そういう奴は短命だし、契約が切られることも多い。
コンプラのマージンを理解してタップダンスを踊れるくらいクレバーでないと、目の肥えた視聴者たちを楽しませることが出来なくなっているというのが現状だ。
他にも、以前は極東の島国のタレントが世界に届くというのは、難しいことだったが、現在は箱の力や目新しさ、そして幾らでも偽装できる外枠(すなわち、2Dイラストレーター/3Dモデラー/エンジニアたちの技術力)で、世界に簡単にリーチ出来るようになった。
そうなると、島国限定でしか通用しないネタよりも、世界標準で通用するネタキャラの方が響くようになっている。
この辺を理解して演じられる人は立派な才能だし、それこそ信念、根性、コンプラという3本柱が無いと必ずどこかでコケてしまう。仮に、それらを兼ね揃えていたとしても、何かしらと文句が付けられる世界線に突入しているので、今後VTuberを目指そうとしている人たちにとっては非常に厳しい世界になってきたなと感じている。
結局のところ、人間力という言葉に集約されるかもしれない。それを伸ばしていく以外に、この世界では戦えないと思う。
人間力を鍛える上で、学校における疑似社会活動はある程度役立つが、それ以前の倫理観など学校教育ではカバーしきれない所は、各家庭でなんとかしなきゃならないんだけれど、そこをしっかりやってる人たちしか生き残れない、そんな気がしている。
いわゆる「いい子」ほど生き残りやすいというか、いい子以外は生き残りをさせてくれないヤバい世界だから、それを職業に選ぶ時点で狂ってると個人的には思っている。
昭和の笑いってこういう笑いなんですよね。
誰かが失敗してるのを見て人間力を見下して笑う。
笑いが見下しの笑いなんですよ。
ドリフのお芝居とかだって結局は「アホ」「バカ」「ハゲ」「キモ」を見下して笑うのばかりでしょ。
自分より下の立場を見つけられたことに対して安心して笑っているような人達。
そう考えると現代の笑いって本当に豊かですよね。
日常の中にある不可思議さの再発見から来る知的なお笑いの文脈が着々と出来上がっている。
魅せ方をカジュアルにしたマジックやミステリーのような笑いです。
知性のある笑い。
誰かを揶揄することで自分とその周りの人間の小ささによってつけられた傷を必死に誤魔化そうとするような惨めな笑いじゃない。
笑い方にさえ人として当たり前に持ち合わせるべき脳力が要求される。
境界知能の向こう側に行ってしまった人の手にはもう笑いさえ与えられることがない世界が近づいているということですよ。
不採用だった。全力は尽くしたが、致し方ないと思った。約一週間後、mixi日記でキャプテン君が住友商事の内定を取ったことがわかった。第一志望だったので、そこに行くらしい。その日記には、いろいろと別世界のことが書いてあった。
・去年の秋、大学に五大商社の人が来て、体育会の部活に挨拶に来た。その時に一緒に食事をして、「ぜひ弊社に!!」とスカウトを受けた(五社中の三社)。
・ほかに受けた化学メーカー(東レ)の最終面接では、「御社は第二志望です。住友商事が第一志望です。そこに落ちたら弊社にお世話になります」とはっきり宣言したうえで内定を獲得。
・三菱商事も、三井物産も、伊藤忠商事も、選考を途中で辞退。自分とは合っていないと感じたため。
この時ほど、人間力というものの差を実感したことはない。アイツはすごかった。俺とはレベルが違う。俺はサッカーしか頑張ってこなかったけど、あいつはサッカーだけじゃなくって、受験勉強だって、人間関係の構築だって頑張れる人だった。
いやアイツは、どんなことにも本気で取り組むことができる。それでいて人間が好きだ。そういうエリートなのだ。当時も今も、俺はキャプテン君が羨ましい。俺もそんな人間になりたかった。なれなかった。
もし、今どこかでキャプテン君が俺の増田日記を観ていたとしたら、匿名でいいからコメントがほしい。誰だとわからないように隠してくれて構わない。
今では俺は、こんなに落ちぶれてしまった。正社員じゃないし、年間収入だって今のキャプテン君の五分の一に満たないだろう。クビになる可能性だってある。毎年、戦々恐々だ。
今でもサッカーが好きだ。自室の中にはサッカーゴールが置いてあるし、試しに蹴ってみることもある。部屋の壁にぶつけないよう、慎重に、慎重に蹴っている。たまに飛び出してしまうこともあるけど。
キャプテン君はどうだろうか。今でもサッカーをやっているのだろうか。とにかく今は、二十年前の思い出が懐かしくて、愛おしい。涙が止まらない。
第一志望の企業を不採用になった後は、坂道を転がるみたいだった。入りたい会社を受けども受けども、内定は得られない。二次面接までは行くのだが、そこではなんというか、明らかにやる気みたいなのが足りてなかった。
春を過ぎた頃だったか。同じ京都にあるITベンチャーを受けに行った。詳しい時期はもう覚えてない。はっきり言ってしまうが、㈱はてなだった。実は大学生の頃からはてなユーザーだったりする。
俺と同じ大学出身の人が面接をしてくれて、縁を感じた。エントリーシートも筆記試験も一次面接も、特に問題なく進んだけど、二次面接で一気に苦しくなった。
志望動機とか、会社を将来どうしたいとか、自分が将来どうなりたいとか、そういうことを喋れなかった。しどろもどろだった。どう考えてもこれは落ちた――そう思った。
相手の面接官は、「自分が入りたい会社というのはね、自分が将来どんなキャリアを描きたいのか、どんな人間になりたいのか、そういうところから逆算して決めていくんですよ」「今のままだと、増田くん、僕らの仲間になれないよ。ほかの会社だって難しいんじゃないかな」「もっと、ゆっくり立ち止まって考え直そう。増田君がどの会社に行くとか関係ない。真剣に考えて」と、人生のアドバイスまでしてくれた。
後日、大学のパソコンにログインすると、二次面接の結果通知がきていた。『合格』だった。次の選考に進めるらしい。これが最後通牒だと思った。「次でなんとかしろ」。そういうメッセージだった。
結局、俺はダメだった。はてなは辞退したし、ほかの選考が続いていた会社も悉く落ちて、ようやく内定を得られたのは夏の終わりだった。烏丸御池の辺りにある小さい広告会社だった。※今は別の場所に引っ越している。
この頃には、千亜子ともあまり会わなくなっていた。就活期間中は、お互いに忙しいから会えなくて当然なんだけど、まさか俺のせいでここまで会えなくなるとは。
千亜子は、その年の初めから一気呵成に就活に励んでいた。それで、俺より四か月も早く内定を決めていた。千亜子がスチュワーデス(CAのこと。当時は呼び方の過渡期だった)に内定したと聞いて、やはり只者じゃないなと感じた。劣等感だった。
この頃の自分というのは、なんかもう、劣等感がすごかった。就職活動でサッカーはできないわ、千亜子には会えないわ、勉強だって最後の単位を取り終えるあたりで躓いていた。
フツーの人生だったけど、それなりに成果を得てきたつもりだった。持ってる側のつもりだった。でも、俺はダメだった。今でいう抑うつみたいな状態になっていた。
秋になると千亜子と会うようになっていたのだが、よそよそしくなっていた。俺が内定した会社を告げると、「あー、よかったね。一緒に東京行けないのは残念」と言っていた。
もうすぐ最後のインカレという時期だった。ある日のアルバイト帰り、千亜子とキャプテン君が働いている河原町通りの飲食店の近くを通ると、千亜子がいた。ほかの大学生数人と一緒だった。私服だったし、おそらく飲み会帰りだろう。
店の近くまで行ったところで、自動ドアが開いた。すると千亜子が中に入って行って、上の階へと小階段を昇ろうとする男子学生(※キャプテン君ではない)の背中を掴んで、ぐいっと引きずり降ろしていた。
ちょっと驚いたけど、別に険悪な雰囲気でもなかった。それで、何やら彼と顔を近づけて話を始めた。この後の段取りとかを話してたんだろうか。俺のすぐ傍にいたほかのアルバイト友達と思しき学生が、こんなやり取りをしていた。
「そういえばキャプテンさん、最近千亜子さんにアタックしてる」
「二人とも一流企業だし。似合ってると思う」
こんな話をしていた。※当時の日記に書いてあった。
惨めな気分だった。俺が千亜子と釣り合ってないのは確かだ。内定した会社のランクが違うから。俺は就職活動に失敗した。インカレだってスタメンに選ばれなかったし、アルバイト先でも俺よりすごいやつは何人もいる。
人生で、ここまで負けまくるのは初めてだった。「畜生」と思ったけど、当時の俺にはどうにもできない。
千亜子にフラれたのは、新年が明けてすぐだった。大学のカフェテリアで、夕方に一緒にコーヒー飲んでる時に、「卒業するし、そろそろ終わりにしない? いい人、いるんでしょ。知ってる」と言われた。
今日、そんな予感はしていた。サッカーの試合勘みたいなもので、雰囲気でなんとなくわかる。今年の初詣は千亜子の予定が合わずにダメだった。おそらくキャプテン君と一緒に行っていたのだろう。
当時、『いい人』はいなかったけど、「そうしよう。お幸せに」って言ったら、「お互い、これからの人生でいい思い出にしていこうね」と千亜子が言った。
当時の日記には、そんなことが書いてあった。記憶や言葉をごまかしてはいないはずだ。当時の俺は、そこまで弱い人間ではない。40を過ぎて今それを読んでいる。やはり涙が止まらない。
これで結びになる。
就職してからの俺は、うまくいかなかった。仕事の才能は平凡のようだった。しかし、大学時代の失敗を引きずっていたせいで使えない人間だった。「あんた、サッカーすごかったんやないん?」みたいなことは何度も言われた。また、同じ会社で「学生サッカー選手権で活躍するところを観た」という同年代の社員もいた。
確かにそうだったかもしれないが、最後に出たインカレだって、負けかけの試合で後半でお情けで出してもらったくらいで、別に凄いわけでもない。アルバイトだって、ずっと居酒屋で頑張っていて、そこで最後に新しい彼女作れるかなって頑張ったけど、五人以上にアタックして全く相手にされなかった。素の自分というのは、モテる方ではなかった。ちょっとサッカーができるくらいで女にモテようなんて傲慢だった。
そんなこんなで、気持ちが沈んだまま新年度の四月を迎えたのだ。でもって、実社会で通用するはずもなく、新卒で入った広告会社は二年で辞めて、後はずっと契約社員とか派遣社員だ。
キャプテン君と千亜子は、俺が広告会社を辞める頃に結婚した。mixiの日記を読んだけど、それはもう凄い結婚式だったらしい。総合商社勤めだけあって、マイミクだったら無条件に結婚式招待OK!! という宣伝をしていた。会場までは知らないが、きっと東京都内のオシャレな会場だったに違いない。
俺は行かなかった。お金がないのもあるが、なんかもう、人生が面倒くさかった。
不惑になった今でも、当時の俺の何が悪かったんだろうと振り返ってる。昨年末も、実家にあった段ボール箱を引っ張り出して、当時の日記を読んだ。大学二回生から付けている日記を、半日かけて読んでいったのだ。この増田日記のベースになってる。
俺の何が悪かったのか? 三点にまとめると、次のようなところか。よくない行動のハットトリックみたいだ。
・就活で失敗した程度で凹んだのはおかしい。どんな会社に入ろうと未来はあった。
・どんな自分でも自分自身なんだって気が付いてなかった。失敗したって、自分という人間の価値が下がるわけじゃない。むしろ、失敗前の自分<失敗後の自分だ。それがわかっていれば卑屈になることもなかった。俺は挑戦したのだ!! そんなメンタルだから、就活もサッカーも恋愛もうまくいかなかった。
・サッカーができるくらいで調子に乗っていたこと。どれだけサッカーができようが、それは実社会で必要とされる力の一部分にすぎない。大事なことはもっとある。
・もっと自分を認めること。生きているだけでもすごいんだと、自分を褒めてやりたかった。人間にはみんな価値があるのだ。
いや、四つあるんかーーーーい!! と、大学時代の俺だったら、陣内智則みたいにツッコミを入れていただろう。今はそんな気力もない。
あの頃に戻れたら、とは思わない。いや、本当は戻ってみたいけど、それは間違いだ。これまで負け犬なりに努力してきた自分を否定したことになる。過去の自分を裏切ってる。だからダメだ。
今の俺は、あの時よりも成長してる。だったら、もっと成長できる!! もっと頑張ったら、幸せになる未来があるのかもしれない。結婚はできそうにないけどな。
ここまで読んでくれた人、ありがとう。何人読んでるかはわかんないけど。
気持ちの整理をつけることができた。また来週からは、しみじみと社会人生活をやっていきたい。
どうすれば幸せになれるんだろうかと考えて、ひとまず、今年の春から地元の草サッカークラブに入ってみた。自分自身が練習してるのもあるけど、子ども達に教えることもある。
ひとまずは、こんなところでいいのだろうか。まあ、ゆっくりやってみよう。幸せでありたい。増田やブックマーカーのみんなも幸せにな。