はてなキーワード: 麻雀とは
そうか分かった。
俺は「人間がAIに勝ち越しできない」を根拠に反論して、そこに食い違いが起こったわけだ
よくわかった。そんなら増田が正しい。正直麻雀じゃだめなんか、とかポーカーのヘッズアップじゃだめなんかという気もするが、将棋でやることに意味があるのだろう。
もしかしたらこのアイデアで一発流行るかもしれないしな。動物将棋みたいに
じゃ頑張ってな
「性的な目的で考案、作成された衣装(A)」又は「元は異なる目的のものであってもある状況下で性的な目的に用いられるとのコンセンサスが社会的に生じた衣装(A')」を指すと仮定する。
たとえば「穴あき下着」は前者A、「亀甲縛り」は後者A'の例だろう。そして、それらが批判の対象とされるのは、
「それらが性的な喚起力を高くもつとの合意が現に社会的に維持されている(B)」こと、そして「性的存在として眼差すことへの禁忌が社会的に存在する対象にそれらの衣装を着ける(C)」ような場合(つまりAorA'、かつB&Cの場合)と仮定する。この場合、結果として現れる表象それ自体が公序良俗の取り締まり基準を満たしているか否か(D)とは、また別の問題として扱う必要がある(Dは、どんな文脈でも社会的に提示するのは一発アウト、みたいな基準と考えられたい。生性器のドアップ写真、とか。ただこの場合も、「公序」の制限とかけはなれた特殊な状況、場所で許容されるのは言うまでもない。医学書とか。)。
以上を前提として、先日話題になった「オーストラリアのH&M広告炎上」の件と、昨日来話題の「咲バニーガール衣装」の件を合わせ論じたい。先に結論を述べれば、A~Cの基準が異なれば議論が噛み合わないのは当然であり、相手を非常識扱いしてヒートアップするのではなく「相手との間で異なっているのは何か」を考える必要がある。相手が、いかなる表現も100%許されると考えている人(つまりDなどないよ派)でない限りは、見解が異なるだけで、対話の余地はあるはずだからである。ではまず、オーストラリアH&Mの件を整理しよう。
オーストラリアのH&Mが子供向けに「新学期ファッション」をテーマとした広告を打った。広告は、通学バスの社会を想起させる色合い・デザインの背景に、かわいい通学服を着た女児2名がちょっと生意気そうな雰囲気で振り返り、「この子らを新学期ファッションに振り向かせよう」みたいな煽り文句がついていた。これが炎上・謝罪・撤回に追い込まれた件である。
まず、この広告がDに違反していないことは言うまでもなく、それでも炎上したことに対して、いろいろと文句をつける人がいた。多くの人は「こんな程度でいちいち文句をつけるなんてちょっとヒステリックでは…」みたいな反応であり、個人的にそう感じる気持ちもよく分かるのだが、でもちょっと待ってほしい。女児の制服をファッションとして扱うのは、このキャンペーンがまさに狙っていることであり、ファッションを一種の性的喚起力だととらえるなら、この広告は「生意気そうなモデルの表情」「かわいい制服」といった文脈で、Bを印象付けたわけであり、その結果、制服がもともともつA'の文脈(制服に対して性的視線を向けるという界隈の文脈)を喚起した結果、Cに抵触する(保護されるべき女児に制服を着せあざとい表情をさせて晒し上げる)という批判を生んだという風に考えることができる。このことは、A'に陥りがちな服装をファッショナブルな(あるいは扇情的な)存在として扱うときには常に注意すべき危険であり、BからA'→C違反、という道筋がすぐ描かれてしまうことに、広告関係者は神経を尖らせる必要があるだろう。その意味でこれは、「月曜日のたわわ」の一件との連続性が高い問題だった。あれも、Dには全く違反しておらず、おそらく制服でなければ問題化もしなかった広告が、一言の少しだけ扇情的なキャッチコピーを添えられただけで炎上したが、これはもともと危うい位置にある存在で更に一歩危うい方向へと歩を進めることで起きたトラブルなのだと考えるのが適切である。
ただし、表現とは常に時代の尖端で社会の常識と切り結ぶのが仕事であり、そういう突破力を否定し切るのもいかがかと思う。社会的に(まだ)アウトですよ、と指摘するのはいいが、相手を悪魔化したり、あまつさえ、様々な社会の問題の根源や責任がそこにあるかのように攻撃したりするのは、慎むべきだ。社会の様々な問題は、多くの場合間違いなく社会そのものの中に有り、そちらをまず片づけるべきである。ゴミの多い都会を描いた漫画があるとすれば、取り組むべきは都会のゴミをまず片付けることであって、漫画の取り締まりではない。
次に、「咲にバニースーツ着せた姿の広告が炎上」した件。これに対して「高校生にバニーガールなどという性的な衣装を着せた絵が広告として駅頭に出るとは、常識外れもはなはだしい」という指摘が出た件である。一見すると、上のオーストラリアの件以上にひどい案件に聞こえ、即取り締まられてもおかしくないように感じられることだろう。この場合、それが一般的な公序良俗違反(D)の案件である必要はない。たとえば、制服の上から亀甲縛りをした少女を描いた広告にOKが出るか、と考えてみればすぐ分かる話だ。Dに違反していなくても、これはA'かつBかつCで明白にアウトである。では、「咲+バニースーツ」はどうなのか?
バニースーツがAであることは誰も否定はしない。従って、論点は、B「それが性的な喚起力の高い服装であるとの社会的合意があるか」、また、高校生が「性的存在として眼差すことへの禁忌が社会的に存在する」ことは前提とした上で、これらの少女が「高校生である」ことが明示されているか、の2点ということになる。
C 「咲」に登場する少女が高校生であることは明示されているか? これについては、残念ながらこの広告に関する限り、疑わしいとしか言えない。批判者は咲が麻雀部に所属する高校生であるとの知識をもって批判しているが、咲はそこまで社会的認知度が高い漫画ではない。アニメ化されたとはいえ視聴率は1%に届かない程度、DVD売り上げでも、1期7758枚、2期4939枚、3期4565枚…。(※)アニメファンには実写化、映画化……とされた人気作のイメージがあるかもしれないが、社会現象になった数々の作品に比べれば売り上げが一桁少ない。加えて作品ジャンルが「麻雀」という、一般的にいって高校生とは結び付けづらいものだ。この広告を見た多くの人が「高校生にバニースーツ」という風に見る、と主張するのは難しい。ただし、一定年齢層以上の人で、アニメ画は全て少女(ロリ)にしか見えない、という意見をお持ちの方がいることも、一応認識はしている。
(※DVD売り上げはhttps://nizilove.com/category/number-of-anime-sales/page/2/の値。)
B それが性的喚起力の高い服装であるとの社会的合意があるか? おそらく批判者が一番「何を言ってるんだ?!」と思うポイントであり、今回一番議論が噛み合っていないところだと思うが、Aのような服装が時代を下るにつれてBの意味合いを失っていくことは、歴史的にはよくあることである。たとえば、髪型一つとっても、「結わない髪は淫らである」といった固定観念が、遊女などの流行を取り入れつつ徐々に変遷し(※)、現代の人は単に「かわいい」という感覚で振り乱した髪の毛を奔放になびかせているのはご存じのとおりだ。「そんな髪型は昔は遊女が流行らせたもので…」と説教をして、いま、一体誰が首肯するだろう? 時代が下ればある衣装が「もともともっていた意味合い」が薄れていっても、何も不思議はない。つまり、たとえAであったとしても、時代によってBではなくなるということは別に不思議ではないのだ。
(※たとえば参考:「『女髪結』考」https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/record/21365/files/KU-1100-19940930-01.pdf)
では、バニー衣装はどうなのか、といえば、これはまさに時代が変化しつつある過程なのではないかと思われる。自分は決して専門の立場ではないが、そもそも夜の店の主流がキャバレー→キャバクラ等へと変遷していく過程で、「性的な接待衣装としてのバニーガール姿」というのはもはや古典的なイコンとなり、現役の「風俗衣装」としての意味合いをかなり失いつつあるのではないか。たとえば「社長さん」御用達で半世紀以上の歴史を誇る「エスカイヤクラブ」では、支援の声を受けて「ワンランク上のおもてなし」としてバニーガールによる接待をうたっている(https://www.esquire-club.co.jp/general/about01/)が、これなど、バニーガール姿がほとんと「祇園の芸妓」的な存在と化しつつあることの表れではないだろうか? そもそもの出発点においてからが極めてトレードマーク・コスプレ的な衣装であったバニーガール衣装が、現代においてコスプレ的ではなく生き延びている事例というのがどれほどあるだろう。
そのような時代の変化の過程において、「バニースーツは性的!」という批判と「ただのコスプレじゃん?」という意見が、まさにBをめぐる議論として立ち現れてくるのならば理解ができるし、それははっきり言えば単なる「時代感覚の差」の問題に過ぎないと思われるのだ。たとえば、高校生が文化祭でメイド服を着る、あるいは、小・中学生が習い事でポールダンスを学ぶ……ある年代以上の人からすると、目が点になるのか三角になるのか知らないが、そんな事例であろう。だがそれらは、時代の変化の中で起こるべくして起こる変化の一様態でしかない。
つまり、これらは決して表現の自由だとか差別とかいった問題ではなく、単なる「年寄りと若者の時代感覚の違い」に起因する問題だと認識した方がいいと思う。ならば、相互に批判しあう人たちも、この問題からいずれも学ぶことがあるはずなのだ。こういった問題で、敵味方を作ってがあがあがなりたてるのはよろしくない。何よりも必要なのは、分断ではなく対話と理解であるはずなのだから。
先日とある麻雀大会主催者兼VTuberが「打牌批判でモチベーション下がったので選手参加止めます」って言ったわけ。
それで2日間くらい麻雀プロ含めて喧々諤々の論争してて、インフルエンサー側は概ね「打牌批判やめろ」って意見が主流だった。
この件でインフルエンサー擁護する人は安易に打牌批判はダメ素人は黙ってろと言いがちだが、おそらくそいつらとインフルエンサーのラインには距離がある。
特に意味のない「ナイス1p切り」とかいうチャットでもタイミングによっては打牌批判とみなされるかもしれない。
レート戦で負けが込んだ状態には単なる煽りですら打牌批判扱いするだろうし。
この定義が曖昧な概念をコミュニティ内で禁止した時点でコミュニケーションエラーが始まっている。
アンチや初見が打牌批判をしていたらインフルエンサー側もブロックして終わったと思う。
今回そうはならなかったのは、従前から視聴者だったファンが打牌批判とみなされるチャットを繰り返したからだろう。
例えば
「チャット欄で視聴者同士の会話は禁止」…読んでそのままの通り
「チャット欄に関係のない他の配信者の名前は出さない」…そのままの通り
「他所の配信のことをチャット欄に書き込まない」…そのままの通り(通称 鳩行為の禁止)
これらは指示が明確なので守られてきたので守られた。良い関係性が築けていたが、そこに突然
が登場した。誰も打牌批判が分からないし、わかってた人は単にその人のオレオレ基準で自制していただけで。
そして他の視聴者のあれ、打牌批判じゃない?と思ったとしても、
「視聴者同士の会話は禁止」もあるし、SNSでの自治行為がマナー違反であるのは暗黙の了解としてある。
しばらく薄氷の上を歩くように運用していたが、いつの日か崩壊する。実際何人もしてる。
難しいね。
今後麻雀配信を見るときは打牌批判を行わないように精一杯忖度してみるように気を付けましょう!
絶対無理だぜ! 人間言われたことも満足にできないのに、言われてすらなけりゃしっちゃかめっちゃかになるぜ!
必要なのはコミュニケーションの再構築であってSNSで何言っても多分無駄だぜ!
バベルの塔は倒れた!
/ つーかお前定期的に書いてる因幡組のやつだろ? 推しの誕生日ライブに男性麻雀プロが2名出演するから逆ギレしてるだけじゃねーか。
やめたげてよぉwww
消しやがったなこのチキンがよぉ
もともとVTuberなんて本来は観る側からしたらいくらでも替えがきく娯楽コンテンツの1チャンネルに過ぎないんだから
嫌ならその期間だけ自分の嫌いなものを扱ってない別のVTuberでもゲーム配信者でも全然関係ない動画でも見てりゃ済む話。
このひと打牌批判にかこつけてるけど、あんまり麻雀興味ないから推しのVtuberに麻雀配信して欲しくないだけだと思う。
この人が打牌批判したそうには読めないし、打牌批判が許されたからといって麻雀配信が楽しめるようになるタイプにも思えない。
自分の好きなジャンルの配信して欲しいんだろうけど、推しの配信をコントロールしようと思いだしたら黄色信号なのでいったん離れた方がいいと思う。このままだとモンスター化しそう。
確かに麻雀配信はつまらんが、そもそも今のVTuberがやってる毎日のように生配信垂れ流すスタイルは、どうせ消化しきれないので、多少興味ない配信が増えてもあまり気にしてない
麻雀やってるVtuberが「何度も打牌批判するなって言ってるのにやってくる奴らのせいでモチベーション保てねーわ」的なこと言ってる奴がいてすげー擁護されてるけど、ネットに晒すってことは有象無象がたかってくるってことなんかもう何十年も言われてることだろ。
Twitterでヘタ打ってバズって大炎上して「知り合いに向けた内輪向けのジョークのつもりだった」って釈明したら「ネットに晒すってことは誰が見るかもわからんし、何言われるかもわからんってこと。そんなこともわからないんだったら家のチラシに書いとけ」みたいなことをしたり顔で言うわけじゃん。
ネット上で何かやって注目稼いで金に換えるってことは良くも悪くもわけのわからん有象無象魑魅魍魎を呼び寄せるってことなんだよ。注目はされたいです!でも嫌な人は一人も来てほしくないです!ってそんな世界はない。
そんなになんか言われるのが嫌なんだったらオフで集まって家で打っとけ。もしそれを盗撮カメラかなんか仕掛けてまで批判してくる奴がいるんだったらそれは流石に警察に行け。
何年インターネットやってんだよ。
麻雀でもやれば?
・野球、麻雀など人口が多くて1度のミスで水の泡となりやすいコンテンツは正直ゴキブリホイホイみたいなもので
誰でもコメントしやすい環境では脊髄反射で打牌批判のようなコメント書く人間にとって有利すぎるので
正直触れないほうが身のためではないか
・APEXも自身が大して強くないにもかかわらず、コメント欄でプレイ批判をするコメデター問題が頻発しているので
こういったのもなるべく配信を控えたほうがよさそうではある
・それでも配信したいならモデレーターをつけて即BANすべきだと思う
天開にも正直思うところはあって
・正直主催側が選手側としての辞退をする選択を取った時点で神域リーグの在り方も考え直した方がよかったのではないか(被害が参戦者にも及ぶため)
https://www.youtube.com/watch?v=A3GlTTFMSyM
要はあまりにも自分の麻雀配信に対してのコメントが地獄すぎていい加減にしろってなって、神域リーグというVtuber主催の選手になるのを辞退したというお話
で、この件で身内に打牌批判しているやつがいるが!?みたいなやつらが現れる
はっきり言って議論にもならないから言っておくと、それはちゃんと批判した側とコミュニケーションが取れており、教えをしている身だからであり、ある程度の関係性が取れているから行えるのである
不特定多数でしかない匿名のやつが全然コンセンサスが取れてない素人の打牌を面と向かって批判していいなんてことがあり得るはずがないのだ
これが麻雀プロで打牌でこっちの方がよかったのに!!と勝手気ままに自分のTwitterでつぶやく分には野球のテレビ観戦で管巻いている居酒屋のおっちゃんと同じなのでまだかわいいもんである。
それにプロというものがいい打牌をするために金をもらっているので、どうしようもない打牌していたら金を返してくれ!と叫ぶ気持ちもわかる。
だが、素人の打牌をとってきて批判しているやつらは、それはもう草野球に対して河原で管巻いている人間と同じでそんな人間がいるなら普通逃げるだろ。怖くない?草野球のワンプレーで隣で怒鳴り散らかしながら批判しているおっさんがいたら。
もちろん打牌として明確に悪い選択というものは存在する。こちらの方がよくないか?という疑問点も出てきたりする。それを言うの自体は別に否定しないし、身内でワイワイするのはもう好きにやっていいと思う。だが、それはそれとして、その人間がやっている配信のコメント欄でやるな、メンションを送るな、タグをつけてわざわざ見せようとするな、というただそれだけの話でしかない
「一定以上の関係性がない人間の面と向かった打牌批判はいらない」というこれだけの事実が難しいのは百も承知だが、麻雀を詳しいと自称している人たちが軒並み打牌批判は委縮するってバカの一つ覚えみたいに言っているのが何とかならないかなあと思っている今日この頃である