はてなキーワード: 権力とは
日本の地質学界ではマルクス主義思想が強かったことや、ソ連が推す地向斜造山論に傾倒していたことなども重なり、センメルヴェイス反射状の反応を起こし、学会で受け入れられるまでには一般社会で普及してから10年以上を要した[58]。
科学と言いながら、結局それは政治や権力や、もっと究極的には世俗世相の膾炙に大きく依存するということ。
天動説派と地動説派の終わりなき永劫の憎悪の応酬に過ぎないのではないのかね。
勝ち負けを科学の基礎に据えればそうした革命もどきの浅ましい構図に堕落する。
だが、本当に科学を求めるのなら、
そして、新しいことを科学者として受け入れなくてはならない究極の悲しみに直面することになるだろう。
信じるが故に信じもしなかったことを現実として信じることを受け入れさせられるのだ
…育んだ命が死に、
命とも思えぬものが芽吹くのが科学なのではなかったのだろうか、・・・?
そこに世俗の勝ち負けだ政治だ権力だ、名声だ名誉だ怒りだ憎しみだ執着だ望みだ富だ正義だ、正統だ、だのが絡んできたら・・・
自らが求めていた正しさの果たして何が正しかったのか、私は一体何を求めていたのか、
見失うことは想像に難くない。
こんな不安定な世界の中では、"正しさ"の輪郭や背骨、根幹などは、何らの頼りにもよすがにもならない
それでも私は、科学が正しいと、
そこにずっとあり続けるものが正しい、というか、信じ続ける、というものが、あるかどうか
そうしたものへの尊崇が共有できない限り、人はきっと、決して、科学というものを語り合い、
況してや分かり合うなどということは適わないのだろうと思う
Libertarian の私は国による免許制度とか国の機関というものが嫌いなので、あたり前に医師会なんてものに好感がある訳ないのですが、そもそも前提がそれのため、スキャンダルが出てきてまぁ当たり前だよね、うん。としか思いませんでした。今更なにを言っているのかがよく分かりません。Power tends to corrupt, and absolute power corrupts absolutely.ですよ。腐敗は権力を与えられた者の責任ではありません。腐敗は権力の属性です。腐敗は権力というものの側面です。側面ですから必ず付随しています。
そもそも論としてあらゆる組織はその構成員のためにのみある。もっと言えば人間が組織を作る理由は自分を守るため以外に何もありません。医師会は組織です。組織であるなら構成員の為にのみ医師会が行動を取ることは当たり前の話です。人間はすべからく利己的なので、医師は利己的です。そしてあらゆる集団は利己的な目的にのみに基いて組織されます。そこに例外はあり得ません。そのために医師会は利己的です。利己的であることは悪いことではありません。むしろ利己的であることこそが、自身が自身として力強く地を踏む最低限のものです。
某スキャンダルが悪いとしても、悪いのは政治家や医師ではない。権力を監視できない全ての責任だ。
私は政府や中央というものが大嫌いですが嫌いだからと言って、叩いていいとは思わない。無駄だとも思わない。不正義だとも思わない。ただ嫌い。私の政治思想と合致しない。でも私の政治思想は正しくないので、社会がどうあってもそのままそれでいい。
そんなことを思う。政府なんてものはシュリンクの極限で、機能しなくなるくらいが丁度いい。レッセフェールで社会は良くなることはないかも知れないが、レッセフェールで良くならないならそれはそれで歩むべき道なんだよ。国家なんて要らない。それで人類が滅びても、歪な状態で生き長らえるよりはずっと良い。それが私の政治思想です。完全自由主義です。ノーランチャートの右上です。が、しかしそんなことを思う人がこれ以上増えてはいけないと思う。
とりあえず良識のある市民の方々はがんばって libertarian というダークサイドまで堕ちてこないようにして欲しい。
追記。
権力」が地域ごとに性格を異にするので、その束縛からの離脱のベクトルも地域ごとに違う、というのがあるな。
同様にフェミニズムの具体的活動のベクトルも、地域ごとにバラバラな感じなので纏まりがない、これは当然。
問題は、そのバラバラな活動を束ねるために、共通項として「女権の拡大」を取ったがゆえに、突き詰めると新たな差別しか生まないことにある、ということだと思う。
どちらかと言えば自分は男系支持派で、男系の続く旧宮家を復活させて今の女性宮家と結婚させてでも男系は繋いだ方がいいと思っている。
しかし、こんなことを考えるのはタブーなのかもしれないが、これまで男系が繋がっていたという証拠は本当にあるのだろうかと疑問に思うことがある。現代の遺伝子が父方の方で繋がっているという男系の考え方は、言ってみれば19世紀のダーウィン以後の遺伝子というものが生殖を通して個体に継承されるという発見を踏まえた考え方であって、江戸時代やそれ以前にそんな現代的な意味での男系が本当に尊重されていたとは考えにくい。
例えば、戦国時代の立花宗茂とか、大名大友家家臣の立花道雪に息子がいなくて同僚の髙橋紹運から養子として貰われてきて立花家を継いでいる。もちろん実子の娘と結婚して婿養子として家を継いでいるのだが、血が繋がっていなくても養子にすれば家としては存続できる、というのが当時の普通の考え方だったように見える。血の繋がりよりも形式上の家の方を重んじるというのは現代では理解しづらいが、まだダーウィンの発見を知らなかったと考えれば理解できなくもない。
現代でも、政治家とかを見れば例えば安倍晋三の弟の岸信夫とか、岸家を継ぐために母方の岸家に養子に入ったりしている。庶民から見たらめちゃくちゃだが、伝統的な家柄ほど家というものが大事なのかもしれない。戦国時代やそれ以前からの古くさい考え方が今も残っているということだ。
問題は、血の繋がりよりも家、というのがコンセンサスだった長い長い時代の中で、どうやって天皇家だけ現代的な意味での男系という概念が維持できていたと言えるのか、ということだ。一応神道の宗主の形は取りながら室町以降歴史の裏方にいた天皇家で、本当に無垢に男系が維持できていたと言えるのか。権力欲剥き出しの藤原摂家たちが側近にいる中で(しかも母方で見たら既に藤原氏と血縁で混じり合っている中で)、どこかで養子に置き換えられることなく連綿と純粋な男系を維持できてきた、と言えるのだろうか。(陰謀論に踏み込まずにこの論を考えるのは非常に難しい面もあるのだが。)
好意的に見るならば、そうした科学的な男系の立証は不可能だが、たとえどこかで置き換わっていたとしても同じく歴史上重みがあり天皇家の親戚でもある藤原氏(近衛家、一条家など)の子孫だから問題なし、ということだろうか。たぶん、現代においてどこの馬の骨とも知れない庶民から男系を奪われるのとは較べるべくもない、ということだろうか。
あのnote記事は、これまで認識が難しく存在が疑われることもあったものを言語化して認識しやすくした、という点に意味がある。
多くの人が指摘するように細部に雑な点はある。
女性に責任を負わせようという文章じゃないので責任の押し付けは感じなくていい。
ジェンダーロールというと男性の強さや権力の話も含まれるのでピントがずれる。
特に女性から、「そんな差別はない」とか「それは男女共通の問題」と言われ続けてきたものを、「あるかないかで言えばある」「男女共通の問題とはいえ、男性だけに特有の事情もある」というところまで議論を推し進めたのは大きな功績。現時点での女性への要望もそれだけだ。
100年以上の理論化と闘争の歴史のあるフェミニズムと比べると、まだまだ生まれたばかりで目標も定まらない運動で小さな声を上げただけだが、「あるかないかで言えばある」は状況改善に向けた第一歩として多くの人に勇気を与え共感を得た、ということ。
「「弱者男性」という概念がフェミニストの弱者性を盾にする理論(権力勾配論など)を無効化するための概念」というように、「弱者男性」をあくまで対フェミニストの便宜的・戦略的概念としてとらえる見方は、「弱者男性」という概念に心底から共感して同一化(アイデンティフィケーション)している当事者の人達にとってはとても失礼な議論ですね。賢しらに言葉を操って、当事者が辛さとともに吐き出す自己定義を簒奪しながら敵を叩こうとするやつは死後裁きに合うであろう。
そもそも、「弱者男性」という概念がフェミニストの弱者性を盾にする理論(権力勾配論など)を無効化するための概念だから。
まあ、今までフェミニストが批判してきたものにはいろいろあるけど、それに対する反論と共に最近のものをあげてみよう。
何件か、性犯罪が証拠不十分だったり、証言がうまく取れなかったりして無罪になることがあったことで、「疑わしきは被告人の利益に」といった原則について批判するような言説が表れ、フラワーデモなどを通じて、刑事処分に対する粗雑な意見が出てきた。
医大入試で女子の得点が減らされるということが差別だという批判があった。
しかし、これはそもそも過重労働の勤務医を医局人事で回すためだった。この問題を解決するためには、多額の資金を半永久的に投じるか(=不可能)、高度な医療にかかりにくくする(自腹を切れる金持ちはかかれる)が、誰も答えられず批判された。
具体的な被害者の存在しないコンテンツや広告について、女性差別を肯定する風潮に繋がるとか、あるいは見た人が不快になるといった批判を繰り広げた。
そんな理由で規制できるなら、解放同盟の狼藉と同じことができてしまう。
また、規制しろとは言っていないという言い分もあったが、実質的に商業的に排除されたら成り立たないのに、おためごかしにすぎない。BLやTLを表示図書(エロ本コーナー・専門書店オンリー)にしてから言え、という話になるだろう。
男性によくみられる、闘争的だったり支配的だったりするような傾向について、有害な男らしさとして批判し、排除を求める言説が繰り広げられた。
だから、「負の性欲」とか「統計的傾向」で女性の性向がさぐられ、その倫理性を厳しく吟味されるようになった。
つまり、フェミニスト批判者は、フェミニストの主張を単純に適用すれば問題があり、逆用することもできるという批判を繰り広げてきたわけだ。で、これに対してフェミニスト側は「女性は差別されてきたから」「権力勾配があるから」「弱者だから」といった、弱者性を盾にする理屈で批判を無効化しようとした。
しかし、実際には、権力を持っている女性も、権力を持っていない男性もいるし、強いフェミニストもいえれば、弱いアンチフェミニストもいる。こんなのは当然の話だ。
そこで、それらを基に「弱者男性」という概念を用いて、弱者性を盾にするフェミニストの立論を無効化しようとしているわけ。
最初から、喧嘩売ってきやがったフェミニストの方を見てるんですよ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4702368850467300258/comment/RIP-1202