はてなキーワード: 便所飯とは
10時くらいに自分の車で外出し、コンビニで昼飯を調達し、パチンコ屋に行く。パチンコ屋は出来れば築15年以内の店を選ぶこと。古い店は換気や衛生基準が一昔前のものがあるからだ。また、パチンコ屋の行列には並ばないのもポイントだ。
パチンコ屋に入ったら、まだ誰も1回も打ってない台に座る。
その台で一日勝負する。金が尽きたらさっさと店を出る。途中で台を変えても良いが、出来る限り人が座っていない台を選ぶこと。
今のパチンコ台は球を台の下皿と自動計量システムが繋がってるので他人の球を触ることもない。
昼飯は便所飯だ。誰の飛沫も飛んでこない。今どきの店なら消毒アルコールもトイレに備わってるから、便座に座る時には必ずアルコール消毒しよう。
私は母親の事が嫌いだ。
私の母親は貧乏な家庭で育ち、小さな事から自分や他の姉妹の身の回りの事を全てこなしていた苦労人だ。母親に弁当を作ってもらったことは1度もないらしく、他の母親らしい事はしてもらえなかったと何度も語っていた。母親はそんな祖母の事を嫌い、自分の子供には親らしいことをしてあげたいと言っていた。
その言葉の通り、小学生の頃から大人になった今も弁当を作り続けてくれた。冷凍食品を使いたがらず、ほぼ手作りだった。
そんな母親を誇りに思っていたし、私は家庭に恵まれていると思っている。
裕福な家庭生まれ、家に帰ればご飯が用意してある。リクエストすれば好きな料理を作ってもらえる。洗濯物を洗濯機に入れるだけで、帰ってくる頃には綺麗に畳んである。綺麗な部屋で寝れる。とても幸せな事なんだろう。
私はいつまでも子供ではいられない。なんでもかんでも親を頼っていた私はいつの間にか自立出来ない大人になっていた。
ご飯の支度を手伝っても「私が1人でやった方がはやい」と母親は笑いながら言う。洗濯物を畳んでも「畳み方が違う。しまう場所が違う」と言われ挙句の果て「普段やらないからわからないか」と嫌味を言われる。
「私出来るよ」と言っても「お母さんがやった方がはやいから」と断られ、「手伝うことある?」と聞いても「何も無い」と言われ続けた結果、私は何も出来ない子になっていた。
コミュ障を拗らせ摂食障害にもなったし、就職活動にも失敗し心療内科にも通っていた。
今も就活を続けているが電車に乗るだけで目眩を起こす。自分の長所が見当たらず履歴書が書けない。志望動機なんてお金が欲しい以外にあるのだろうか。
何よりも世間に出ていく事が怖い。環境が変わることが怖い。家族という小さなコミュニティですら役に立たてない私が、社会に出て何が出来るのだろう。そんな考えが頭を過ぎる。
そんな私に母は言う。
「もっと真面目に就職しなさい。2、3件面接行った程度で就活してるなんて言うな。他の子は100社くらい受けている」
ごもっとだ。
数件落ちただけで落ち込む私のメンタルが弱すぎる。気分転換に趣味に没頭すれば、ただの遊び回ってる就活生にしか見えない。だからそう言われても仕方がない。
そんな事はないが、そう見えてもしょうがないのかもしれない。
1度心療内科に通っていた事を母に打ち明けたが、「あんたのは甘え」と一蹴された。母親にとって現代型鬱は「甘え」なのだから、そう思われても仕方がない。私が過食嘔吐しているなど知る由もないのだから。知っても甘えだと言われそうなので、絶対に言わない。結果は目に見えているから。
断っても弁当を持たせるせいで外食する友達と昼食が食べられず大学生時代はほぼ便所飯だった事も、人の気を引くために浪費しまくりクレカで借金を作った事も全部墓場まで持っていくつもりだ。
誰が産んでくれと頼んだ。こんな世界に生まれたくなかった。私みたいな思いをさせるくらいなら子供なんて作らない。私みたいな子を、母親みたいな子を産みたくない。だから絶対に子供は作らない。
男性への差別や抑圧をやめましょうって話で、身近な抑圧の例としてよく上がるのが「非モテや童貞を馬鹿にする」ことだ。
そういうのをなくしていく方向だと、男性もジェンダーロールからの解放をイメージしやすいだろう、みたいな論調になる。
ぼくは35歳童貞ひきこもり精神障害二級男性だが、あれにどうも納得できない。
そりゃまあ童貞の一人として、童貞であることを馬鹿にされることはない方がいい。そこはそう。
でも、ぼくの/男の/童貞の/人間の生きづらさは、そこが核心じゃねえだろ。
童貞であることが馬鹿にされない社会がいいよね、と語られる時、ぼくはいつもそこに「童貞であることを馬鹿にしないから、君みたいなやつは童貞のまま一生寂しくいてね」という意識を感じてしまう。
ぼくが真に望んでいるのは、童貞であることを馬鹿にされない世の中より、簡単に童貞じゃなくなれる世の中なんだよ!
より正確に言えばセックスそれ自体じゃない、セックスできる人間関係が、恋愛関係が欲しいんだ! 孤独から救われたい! だから性風俗でのセックスは解決にならない! まあセックスもしたいが!
孤独への救済がないことが、ぼくの/男の/童貞の/人間の生きづらさの核心だろ。その寂しさは、孤独を馬鹿にされなくなったからって楽になるもんじゃない。
なのに馬鹿にされなくなるのが旗印になるのは、ズレているし、むしろ目くらましされているように思えてならない。
たとえば、毎日ご飯をトイレで食べている中学生くらいの子を想像してみてくれ。男でも女でもいい。
もしもぼっちが馬鹿にされなくなったら、便所メシしていたその子は教室で一人で堂々と食べれるようになるかもしれないよ。
その子が、モノを食べる時は誰にも邪魔されず自由で独りで静かで豊かで、孤独のグルメをするのが好きなタイプだったらハッピーエンドで文句なしだ。
でも、本当は人とおしゃべりしながら食べたい子については全然解決してない。
「堂々と気兼ねなく一人飯していいですよ! おめでとう!」そう言われて、曖昧な笑いを浮かべた後、窓から二列目最後尾の席で一人食べているその子が、背筋を伸ばしていそうか? 馬鹿にされるわけじゃないのに、背中を丸めていないか?(猫背が悪いわけじゃないけどね)
こういう話をすれば、「結局いつもの女をあてがえ、女を所有したいって主張か」と言われるのが予想できる。
なあ、深刻にぼくが苦しんでいる抑圧の一つは、そういう黙らせ方のほうだぞ?
実のところ童貞を馬鹿にされることなんか大した悩みじゃないんだ。というかそもそも、童貞を馬鹿にされていることなんかそんなに遭遇しないぞ。はっきりと煽られることも多くない。社会全体のうっすらした空気みたいのはあるかもしれないが、グサッとくることは滅多にない。
ぼくが苦しんでいるのは、男が寂しいし他人と繋がりたいし女性と繋がりたいという嘆きや欲求を、罪深く、知能が低く、暴力的で、非倫理的だと断罪する抑圧の方だ。
こいつは効くぜ、ネットを巡っていれば三日に一回は、明確な攻撃性を持って刺してくる言葉に出会える。
昔から、さびしい女が男を求めることは、はしたなくふしだらだと抑圧されてきた。今も続いているだろうし、そういう圧をかけてくる奴はマジでファッキューだ。だが現在、「ふしだらだと言う奴こそが抑圧者だ」という反論も耳を傾けられるようになってきた。
一方さびしい男が女を求めることは、過去には男の甲斐性などと過剰に称揚されてきたが、現在は暴力的だ支配的だと断罪され、抑圧されるようになってきた。そして、「関係欲求の暴力性を強調する奴こそが抑圧者だ」という反論は、ほぼ聞く耳を持たれていない。
ぼくが苦しいのはこっちの方なんだよ!
「女に手を出さないヒョロ男は男性失格」から解放されそうだと思ったら、「女に手を出すキモ男は人間失格」になってるじゃん! 極端から極端かよ!
だいたい、女を所有するとか女に手を出すとかって言われやすいのがおかしいよな。現代において人間関係は相互の結びつきなんだから、互いに手を伸ばし合って握り合うもんじゃん。
ぼくはその相互関係を求めてるのに、一方的な所有をしたがってるのだと言われるのは心外だ。
それに男から手を伸ばす行為はちょっとでも不手際があると怖いとか暴力的だとかイタいとかキモいとか言われる。
真面目で丁寧なメールのつもりが長すぎてキモいロミオメールになったり、4℃をプレゼントしたりサイゼで食事したり、気さくなやりとりのつもりがおじさんLINEと言われたり、タイミングの変な告白が告ハラと責められたり、鼻の下を伸ばしたり、胸やお尻を見ちゃったり、英字Tシャツ着てたり、OKな下ネタとNGな下ネタのラインを見誤ったり……それくらいの失敗するだろ。もちろん殴ったり怒鳴ったり痴漢したら通報されるべきだけど、恋愛慣れしてない色気づいた男の不手際レベルのものをそこまで揶揄して、恐怖感を与える迷惑行為とまで断罪してたら、ただでさえ自信なくやってんのに萎縮して手を伸ばせなくなる。
そして動けなくなったぼくに言うんだ、「待ってるだけだからダメなんだ」「施してもらえると思ってるんだね」「受身で奉仕してもらう関係を望んでるみたいだけど、それが相手を所有したいってことだよ」。
こう論じていけばわかるかもしれないが、揶揄されて本当に辛いのは、童貞への揶揄じゃなく、臭くて常識がなくて外見や服装が悪くて無神経で会話が下手で不快でキモいことへの揶揄と抑圧だ。
それによって自尊心が削られ、動けなくなり、人と関われなくなる。童貞維持はその関われなくなった結果に過ぎない。
たとえばオタクは臭いと言われるけど、あれはオタクへの抑圧というより、臭い人間への抑圧だと思うし、それがキツい。
自臭症患者が増えるのも納得ですよ。
毎日風呂に入れ、デオドラントコントロールしろ、小奇麗な服を着ろ、美容室に行け眉を整えろ、ちゃんと人と会話しろ、常識を持て、思いやりを持て、価値観をアップデートしろ、老害になるな。
そういうのができない奴は、馬鹿にされても抑圧されても当然だ、キモくて不快なんだよ、迷惑だから人と関わるな一生孤独でいろ。
おいおいおい、おいおいおいおいマジかよ。そんな残酷なこと言っちゃうかよ。
この手の毎日マメに心身を整える営みがクソ苦手な人間が少なからずいるってのにな。
童貞は人と関わるななんて言われたことはないが、こっちは毎日のように目にするぞ。男に対しても女に対しても言われる。男からも女からも言われる。
さらにヤバいのは、この不快な人間への抑圧というのは、「君みたいなやつは童貞のまま一生寂しくいてね」に簡単に繋がるってことだ。
「増田君、クサくてブサくてキモくて会話通じないよね。君みたいな人って不快なんだよね。不快だから人と関わらないでほしいんだよね。人と関わらないでほしいからもちろん女の人とも関わるべきじゃなくて、非モテで童貞のままだろうね。童貞って要素を馬鹿にするのは止めるから、その孤独は受け入れてお行儀よく独りで対処してね。これはみんなの幸福のためだから抑圧じゃないよ」
だがその叫びは、きっと迷惑だと怒られ、耳を傾けてくれる人は少ない気がしている。
私も毎日マメに心身を整える営みがクソ苦手なんですけど、スネ毛も脇毛も剃らずに髪ボサボサのまま話しかけてもいいですか? たぶん嫌だと思うんだけど。
こういうブコメがついた。
いいですか? という問いに対しては、いいですよ、と答える。
いきなり体験談を語るが、ぼくは以前、髪がほつれ気味で70年代みたいな花柄の模様の目立つ、くたびれたヒッピーみたいな女の人に話しかけられたことがある。
いきなりでびっくりしたけれど、何やかんや世間話をして、実はバス代がなくて貸してほしいと言われた。
なんとなく雰囲気が変わっていて話すのが楽しかったので、もちろんいいですよ、と400円を渡した。
あとでこれを他人に言ったら、典型的な寸借詐欺じゃんと言われたので多少ショックだった。
でもぼくはあの女の人をあの時気に入っていたのだ。
話が長くなったが、ぼくは好意のない相手とは手袋越しの握手すら嫌だが、好意を持つ相手であれば三日ほど風呂にも入らず作業してる最中に居眠りして口から垂れそうな涎を素手で受け止めることもできる。
あなたがオシャレかどうかとか、清潔か否かは、気に入るかどうかを左右する一要素でしかないので、ネット越しでもリアルでも実際に交流しないと気に入るかはわからない。
そのためにはぼくがここで連絡先を公開するべきだが、申し訳ないが、それをする勇気はない。
なぜならこんな、世の中から怒られるだろう記事を書いた上で名を明かすのはあまりにリスキーだからだ。
そもそもこの記事を匿名ダイアリーに書いたのは、記名でこういう話をしたら面倒で厄介でキモくてクサくて女をあてがわれたがってる奴、と思われて、しょっちゅうネットで議論してるような人たち以外の普通のネットユーザーとは関係がブツブツ切れると容易に予想できるからだ。
記名でするのが躊躇われるくらい、こういう訴えや吐露は、すべきでないものとして扱われている。
「その悩みは君自身がそれを『悩むべき欠点である』『~でなければならない』として自分を縛ってるからだよ」式のカウンター、最強カードの割に言われた側にプラスになることがほぼないから禁止にしたほうよくない?
将来の夢も、性的対象が同性だったり異性だったりも、孤独も、生活水準も、作業能力も、社会からの評価も、全部気の持ちようで自分を解放すれば現状に満足できるんだよ~みたいなの、そんなん言われましても大体の人は深い疲労感と共に黙るしかできませんぜ。
特に「性的愛情のある関係が欲しいが同性愛は無理」に「それはホモフォビア。同性同士で支え合えばいいじゃん」っていうの、ビアンやゲイに「異性愛でいいじゃん」っていうようなもんだよ。
2019/8/13 朝 追記
またモテない女がいないことにされてる、という反応もあった。
ぼくが童貞だから、処女について踏み込んだことを言うのは腰が引けて、積極的には語れなかった。
ただ、「孤独への救済がないことが、ぼくの/男の/童貞の/人間の生きづらさの核心だろ」と書いたことや、便所飯をする子供のたとえで性別を限定しなかった辺りが、一応、モテない女への目配せであった。
伝わりづらかったようなので、男でも女でもいい、など多少加筆しといた。
童貞の男ではなく、孤独な人間が苦しいのだ、というのがこの記事の要点である。
その上で、実感を持って語れる、男性である故に孤独から脱出しづらくなっている具体例について多めに書いたけど、そこはまあ許してほしい。
でもぼくの/男の/童貞の/人間の、の辺りに主語がデカすぎるとも言われてるので、どうしろってのよ~って感じ。
実は、以前にも孤独と童貞について書いてブクマが集まったことがあるのだが、それぞれ書いたのが2014~5年(再投稿2017)と、2017年だった。
そして、二年後にまた報告してくれというコメに星がついていた。
この記事はそれをすっかり忘れて書いたものだが、不意に思い出した上に時期的に合っているのでトラバしておく。
ただ、今では考え方の違う部分もあるので、この記事の意図が過去と同じだと読解するのはやめてほしい。
それにしてもぼくは二年毎に孤独に耐え兼ね吐き出したくなるのだろうか? いや、静かに埋もれた記事もあるので、そういうわけでもないな。
大前提:息が臭いなどと違いクチャラーだからといって誰かに迷惑をかけるものではない。他の人の権利と衝突しない個人の自己決定権の範囲。
じゃあなんで、食事を「音を出さず」食べないといけないという規範があるのか。
育ちが分かるから、って多いけど、それは音を立てない文化圏出身でない両親のもとで育った家庭の人にもそれを言うん?多様なアイデンティティを尊重するんじゃないの?それって差別じゃない?
(もちろんそういう人は過剰適応して、綺麗に習得する人も多いと思う)
付き合う人間の幅が狭まるって言う人いる。
でも、単純に考えて、クチャラーを気にする人より、気にしない人の方が多くの人と付き合えるよね。
他人の食事の取り方を気にして付き合う人間の幅を狭めているのはあなたなのでは。
今の食事の取り方はある程度合理的だし、便所飯の方法を教えると言う点で学校教育で教えるのは賛成できる。
でも、そこに食事の取り方で人間を判断していい、という教育がはいるのはマズいだろう。
育ちなんて本人の責でもないないことで、人間を判断します!なんて臆面もなく言う人がこんなにいることにドン引きしてしまった。
それはそれでいいけど、そんな考えでリベラルとか名乗らないでくれ。
たった今、このイラストを見てある種の衝撃を受けたのだが、
なんと、弁当を食べている学生が全然嫌そうな顔をしていないのだ。
私は、辛そうな表情で昼を食べている様子が当然であると想像したのだが全く違うのだ。
一体これはどういうことなのか?
便所飯というと、私の認識としては、人間関係の困難が理由で便所の外で昼を食べられない人がやむを得ず便所で食べる、というものだが、仮にいらすとやさんも同じ認識だとすれば、この学生の表情は全くありえない。
そのような困難はあるべきではないし、あってもなんとかして克服しなければならない。私はそう考えていた。
だが、いらすとやさんはこう考えたのかもしれない。ほかではいろいろあるかも知れないが、安心して昼飯を食べられるところがここにあるのだから、今はいい。
いや、もしかしたらこの学生は、便所の外でも普通に昼飯が食える状況にあるのにわざわざ便所を選んだ、という奇人なのかも知れない。
うーん、それにしても、いらすとやさんの考えることは奥が深いと言うか人の生活や生き方に対する切り口、観察眼がすごいというか、その中にも優しさがあって、素晴らしいと思った。