はてなキーワード: 世界史とは
当時は今ほど人々のライフスタイルが多様化していなくて、学校に言われるがままセンター試験を受ける人がほとんどだった。
親はセンター試験で満点を取ったらしく厳しく育てられたが、私は昔から「勉強だけが全てではない」と考えていたため、重要視していなかった。
センター試験は受けさせられることになったものの、普段どおりの生活を心がけ、前日も夜遅くまで友達と電話した後、その時ハマっていたラジオを聴いていた。
気がつけば3時位だったと思う。
寝て起きたら8時だった。
いつもの休日のように新聞を読んだ後家族とご飯を食べようとすると父親に「お前、今日はセンター試験じゃないか?」と言われてハッと気づく。すっかり忘れていた。
他の受験者はこういう日は気合入れてもっと早く起きるんだよね。
それでも焦ることはなく身支度をして雪の降る中会場へ行くと、テレビで見たとおり既にたくさんの人でごった返しており、何とか自分の教室にたどり着いた。これが「センター試験か。人生で一度くらい経験してもいいかな」と思った。
周りの受験者は直前まで勉強していたが、私は普段の試験と同じように気楽に受けた。
センター試験に向けては特に勉強せず、私の生活で勉強といえば学校の授業を人並みに聞いているだけだった。
いざ試験が始まってみると「なんだ。どれもこれも授業で習ったことばかりじゃないか」と思ったが、センター試験に命をかけている女学生は教科が終わると泣きじゃくる者もいた。勉強したのに報われなかったのだろう。
私はというと、自分の力は出したが、センター試験の対策はしていなかったから、手応えがあるのかすら分からなかった。
結果が返ってくると「こんなものか」と思ったが、東京大学を目指していた友達には「普通は勉強していなかったらこんな点数取れないよ」と評価された。
英語と世界史は得意だったが、ケアレスミスで何問か間違えてしまったのでそんな評価をされるとは思わなかった。
高校の教師には「せっかくだから、大学に行ったらどうだ?」と提案されたが、たった1日の出来事で人生観が変わることもなく、大学にはいかなかった。
田舎なので兄の家に泊まり行った。志望校がその国立大学だったので二次試験の下見になったといえば下見になったけど
最寄りが駅が田舎のどっちを向いても上りの始発駅だったので「電車が混んでいる=座席に座れない」な感覚だったので都会の満員電車にビビり3回くらい見送ったのち、「ギチギチだけどこれに突っ込むのか・・・?」と意を決して乗った。
予備校もなく受験情報は進研ゼミ国立大学コースみたいなやつだけどそこに「時計は見やすい目覚まし時計がベター」とあり、「確かに腕時計などより一覧性が高く一理ある」と目覚まし時計をもっていったが試験会場の大学の大きな教室を見回しても目覚まし時計を持ち込んでるのは俺一人だった。
同じ所で試験を受けた兄に最寄り駅から大学の行き方を聞いたら「馬鹿でもぜったい分かる」と言われたが、たしかにセンター試験受験生と思しき人のながれと駅のコンコースから門が見え横断歩道を渡ればすぐだった。しかし大学の敷地に入ってからがクソ長くて10分くらい歩いた。
田舎の高校なので全体の偏差値より学内偏差値の方が高く、全体だと60後半なのに学内だと70オーバーだったりしたが、世界史Bは満点だったにも関わらず学内偏差は50だった。もちろん、その年度でセンター試験で世界史Bを選択したのが100人近くいて俺一人だけだったから。
「理想的な共産主義」は政治において無意味な概念ですね。なぜなら政治は現実を解決するためのものだからです。
というのも高校レベルの世界史を勉強したらどの国も最初は理想的な共産主義を目指していたはずで、なのに成功した国は結局現れなかったわけです。というか共産主義を実現しようとすると自動的に集団管理の概念が混ざってこざるをえない。あるいは思想洗脳か。
マウント仕草から入ってごめんね。本題として、増田に欠けてるのは、守るべきもの・守られてほしいものの優先度かなと思う。あとは他人という尺度。「自分はこの権利をいらないと思うし、他者にもいらないと思う」ものとか、「他人のこの権利はいらないと思うけど、自分から奪われると困る」とか、そういうので権利の優先度を明確化した方がいい。
世界史知らない人が抗弁垂れてもねwwww
『政権に就いたことのある世界の少数民族政党 - 歴ログ -世界史専門ブログ- 』
https://reki.hatenablog.com/entry/190107-World-Minority-Party
日本では外国人の選挙権・被選挙権が認められていないため、国や自治体の政治において国内の少数民族の利益を代表する政治団体というものが存在しません。
この文章はおそらく国政政党として「琉球民族党」とか「アイヌ人民党」とかそういったものが存在しないことを指摘しているのだろうとは思うが、
また文末には以下のような記述も見える。
急速に「移民」が増えている日本でも、いつの日か外国人に選挙権・被選挙権を与える日が来るかもしれません。諸外国の事例をしっかり学んでおきたいところです。
ここに至ってこのブログを書いた方が「外国人」という単語をおそらくは「異民族」くらいの意味合いで用いていることが読み取れる。
ただし、この記事の目的は上記のブログの誤りを指摘することではなく、
誤った認識の背景に心当たりがあるのでその点について話したい。
結論から言えば、「日本人」という言葉が2つの定義を持ってしまっている点に問題があるように思う。
当然、少数民族だろうが何だろうが日本国籍を持っていれば「日本人」であり、現時点で既に参政権があり、結社の自由もある。
大和民族や和人などとも呼ばれる。歴史的経緯としては縄文人と弥生人の混血らしい。
これらははっきりと区別するべきだ。
もっと言えば混乱を避けるために前者(国籍)の意味においてのみ日本人という単語を使うべきだ。
逆に、日本国籍を取得したにもかかわらず肌が黒いとか白いとか、目が青いとかそういった理由で「日本人」とみなさず、
「外国人」と呼ばれる人々がいるのはかなり不合理で、差別的ですらある。
おそらく上記ブログの執筆者の勘違いもこの辺に原因があるのだろう。
とはいえ、自身の民族的出自に愛着や誇りを感じていて、ぜひ名乗りたいという人もいるだろう。
「大和系日本人」とか「フィリピン系日本人」とか、あるいは「ブラジル系」「朝鮮系」「琉球系」「アイヌ系」等々、好きなように名乗ればよかろう。
もっとこだわりがあるなら「ブラジルにルーツをもつアフリカ系日本人」などと名乗ってもよい。
(逆に例えば大和系日本人が日本国籍を離脱してアメリカに帰化したなら大和系米国人がよかろう。歴史的には日系と呼ばれているが)
まとめ
思った以上の反応を頂いて驚いてます。
コメントへの返信など、追記しようかと思ったのですが、長くなったので別記事にしました。
興味あったら見てください。
https://anond.hatelabo.jp/20200102201209
釣りっぽく書いたけどほんと。
結構色んな意味で読書や知識というものに関する意識が変わったので、なんかアウトプットしたくなった
なお、名著そのものを知ったことに関する感銘とかは今更私が言うまでもないので省きます。
書きたいのは100分de名著シリーズを対象にした読書を集中して実施したことに関するメタ効果に関して。
スペシャル版とか、ブックス版はもう少し厚いけど。どれも約120ページで、読書慣れしてる人なら2-3時間で読める量だと思う。
いやそれじゃ読んだことにならないだろ原典あたれよ、って思うよね。私もそう思っていた。
だから最初の20冊くらいは解説本を読んで、原典にあたって、と繰り返していたけど、以下の2つのことに気づいて一気に解説本を読む方向に転換した。
勉強とか、何でもそうだと思うんだけど、繰り返し出てくるものって記憶に定着しやすくなる。
さらに、その要素が「影響を与えられた」ものの解説として出てきたり「影響を与えた」ものの解説として出てきたりする。
何でもそうだと思うんだけど、流れというか構造の中にある知識って単発の知識より遥かに定着しやすくなる。
なので、バックナンバーの中で関連のありそうな同時代、同地域、同分野の本をグループ化して間開けずに読んでいくのが効果的に思えた。
まぁ要するに、それを読むだけで半年とかかかりそうなものがチラホラあったということ。
そこに突っかかっているうちに飽きて来ることを懸念した。
実に20年ぶりくらいに読書にエンジンがかかっていることを実感していたので、これに水を指したくなかった。
よく「文系は作者の気持ちでも考えてろ」と言われるけど、「本気で作者の気持ちを考える」ってのは実に尊い活動だと考えられるようになったこと。
今みたいにリアルタイムに意見のやり取りが出来るわけでもないのに、驚くほど人間の考えや意識ってのは「繋がって」いることがわかった。
ある偉い人がいいことを言うに至った過程を忘れてしまうのは人類の損失だなと。というか、理系と一緒なんだよね。
アインシュタインの相対性理論だって、洞窟で暮らしていたアインシュタインがある日突然思いついたわけじゃない。
それに、曖昧さを嫌い、論理にはもととなる論理が明確に存在する理系学問「ですら」そうなんだけれど、
現時点の主流見解は現時点の正解ですらなくて、考え直しが迫られるのはよくある。
そういうとき、どこから間違っていたかどこから考え直すためにも、歴史的な思考の経緯は絶対に失わせてはいけない。
文系の学問の究極の目的は、新しい思考を生み出すことと思っているけど、新しいものを生み出すために今までの流れを知ることも必要だ。
果実を生み出すのがポンと生まれてきた天才的な作家や哲学者だけれど、
天才の誕生を待つ間その過程を丁寧に残すのがむしろ普通の文学者の役割で、
アカデミズムとしての文系学問の真髄はそちらにあるのかもしれないと思った。
これ、理系のブレイクスルーを起こす天才待ちと同じ構図だよね。
(天才、と呼ばれる人間も自身の業績についてちょっと違う視点で物事を捉えただけ、とかちょっと違う組み合わせを思いついただけ、と語るのはよくあることだ。)
「かなりいい勉強になった」
「大学生の頃にこういうことをやっておくべきだった」
「あ、でもこんな事やってたらそれだけで四年間終わっちゃうか?」と。
そこで計算した。
100分deというくらいなので上記解説本一冊は、約100分の映像となる(補足説明踏めると1-2割、解説本のほうが情報量多い気がするけど)。
以下、とても雑な計算だけれど。
100冊なら、約11単位。計算してみて驚いたが、たったそれだけ。
一般的な大学生は1年に20-30単位取得するだろうし、卒業には120単位程度必要だ。
定義上サボり気味の大学生の半期分程度の勉強しかしていないことになる。
嘘でしょ?
驚いたついでにもっと攻めた想定をしてみる。
こんなことを意識している大学生はほとんどいないと思うけど、15時間の講義には、30時間の事前学習と30時間の事後学習が想定されているらしい。
http://www.ohshiro.tuis.ac.jp/~ohshiro/univlaw.html
原典には上記したとおり全16巻あるものもあれば、100ページもないものもあるから、慣らすとだいたいそれで読めてしまうとする。
「最も頭の冴えた4年間に」「専門家が選んだ良質なテキストを」「専門家の解説付きで、必要なら質問し放題の環境で」「1200-1300冊読んで理解する」
場所だ、ということだ。
ああ、確かにそれをこなせば立派な「学士様」になれたろうと思う。
私は修士を持っているが、この10分の1も学士になれた気はしない。俺はなぜあんな無駄な時間を、、、
可能なら、放送大学なりでもう一度大学生をやってみたいと思う。
なんというか、これから実施していきたい諸種のおもーい本を含む読書に挑む筋トレというかジョギングと言うか、基礎体力を作ってくれた感ある。
活字を追う体力、意味を捉え続ける体力みたいなのがないと、ほんとうの意味で読書を趣味にすることは出来ないと思った。
ていうか、楽しむ余裕がない。
スポーツと一緒で、やる気と勢いだけでやっても続かないと言うか。
この1年やってきたことは運動部の1年生が実施するような、練習をするための練習。これがまず必要だったとろこで、その役割を果たしてくれたと思う。
練習のための練習として、この「解説書読破」が有用だったと思う理由は以下の2つ
週末、朝と夕方に一時間読む気でいればその日のうちに「また1冊読めた」と思って寝れる。
平日でも、風呂に入ってる30分で読めば25%終わり、はっきりと進んだ位置にしおりを挟んで寝ることが出来る。
進捗が目に見え、さらにすぐ終わりが見えるというのは精神的に楽だ。
価値が保証されている書物を、その書物についての深い理解があることが保証されている著者が解説する本であるということは、
読んでいた時間が無駄になることはない(たとえ激烈につまらなくても3時間で終わるし、つまらなければ原典を読む必要はないという判断ができるということだ。)
という確信を持って取り組めるということだから、これも精神的に楽だった。
つらいだけのうさぎ跳びとかしたくないのよ。
いろいろな本の中で語られていたことだが、
日々「モヤッと」してることはたいてい昔の人も同じこと感じていることがわかった。
下手の考え休むに似たりではないが、自分程度が疑問に思ったことはきっと昔の頭の良い人が一生かけて考え抜いているので
自分の中で結論出そうとするより同じ疑問を持っているであろう偉人の著書にあたったほうが
考えを前進させる上でコスパが遥かに良いことが芯から理解できた。
実はこれが一番の収穫だと思っている。
というわけで、これから年末にかけていよいよ原典にあたっていこうと思う。
の前に
解説本読破の中で出てきたいろいろな付随知識、これがまとまりそうで纏まらなかった。
これをまとめてからの方が、今後の知識吸収速度が格段に上がりそうな気がすると思って、適切な本を暫く求めていたが結論はまさかの高校教科書だった。
今読むととんでもなく面白い本だ。まさに私の求めていたものだった。無論完璧じゃないが、知識の統合がすすむすすむ。
なぜ俺はあんな無駄な時間を、、、と思うけど、おそらく解説本読破と順番が逆じゃだめだったろう、OKOK。
さて、年末に山川をやっつけたあと、原典の中で特に気になっていたものを30冊ほど買った。解説本で実施した筋トレ効果で読むスピードが上がっているが、
途中で気になった関連書籍とかその年気になった本とかをはさみつつ、100冊(巻数でいうと200近い)読み終わるのは3年後くらいの想定だ。
来年もシリーズは続いていくので、積ん読もどんどん増えるだろう。