「基本は顔をさらさないけど理由がある人がさらす」じゃないよ。
だから顔を出さないと、何か妙な理由がある信用できない奴なんじゃないかとか、ノリが悪かったりめんどくさい奴かなみたいに思われるよ。
そんなに多いの?どんだけいるの?
私はアラサー喪女のワープアだ。最近、私と同級生だった子のお母さんから、私の親のもとに電話かかってきた。この人はいわゆるマウンティングが好きな人で、私なんかは格好のネタなのでこうやってよく電話がかかってくるのだ。そんな人切ればいいじゃん、と思うが、切れないのが田舎の辛いところである。母の話を聞く限り、息子の栄転が決まって結婚したので、自慢するために電話をかけてきたらしい。彼女は母にこう言ったそうだ。「増田ちゃん(私のこと)、大学出てるのに、人生いったいどうなっちゃってるのよ〜」と。母が私にこれを伝えた理由は単純ではないと思う。決して言えない母の私に対する本音を言うチャンスだったのかもしれないし、傷つけられてとても一人では抱えきれなかったのかもしれない。私の反応を見て、状況を変える気があるのかとか、ストレス耐性を見たかったのかもしれない。わからない。でも本当に傷ついた。確かに私の人生は誰が見たってとっちらかってるが、私なりに必死に生きている結果だ。それをああだこうだと評価しても良いのは、家族とか、転職関係者くらいじゃないのか。彼女は私(と私の母の)の自尊心をぐちゃぐちゃに踏みつけることで、ちょっとした甘美な喜びを得たのだろう。これが人間のやることかよーーー!…………って、反論できる立場ですらないんだよね。アラサー喪女ワープアでなければ、彼女はそんなことを言わなかったし、母もそんなことを言われなかった。私も何も言われなかった。平和に回ってたはずなんだ。私が間違わなければ。悲しみとか怒りが込み上がってくるけど、あんたそれ言えた立場じゃないよ。ってシャットアウトされたエネルギーが、涙になっている零れてくる。泣いたって何も解決しないし本当に呆れるんだけどさ。ほんとに子供なんだよね。でもつらいししんどいから増田に書いた。次からはこういうエネルギーは全部転職のための勉強にぶつけます。読んでくれてありがとう。あなたのこれからの人世が良いものでありますように。
ついこないだ無条件降伏したばっかじゃん
その前も黒船から大砲をちょっと打たれただけでスネ夫みたいにジャイアンにへりくだったし
フビライ・ハンのときも神風が吹かなかったら土下座してたんだろ
二度あることは三度あるからもう戦わないほうがいいよ
の話をするのもなんであるが、先頃「ああ東大話法だなあ」という会話を経験した
安富先生の東大話法はある種の人に対する正当で的を射た批判であると思うが、一般向けに提唱されたためか、いかんせん書きぶりがフワッとしている
批判の対象が詭弁を駆使する相手である手前これはあまりよろしくない。「それは東大論法だ」などと言ってもあの手この手ではぐらかされてしまうだろう
安富先生のまとめたことは2-1-2以降、および2-2以降に含まれることになるだろう。基本的には批判、あるいは"これからされるであろう"批判を回避するための詭弁であり、それを「議論を"分かりにくく"するための修辞」や「自らの立場を利用した権威的態度、権威論証」が支える形である。
さらに詭弁の形の一つとして付け加えたいのが2-1-1にある「自ら発言の後からの修正、限定」である。これは安富先生の挙げられた中に明示されていなかったように思うが、個人的にはこれこそが実は「東大話法的な」議論の中核を成しているのではないかとさえ考えている
もちろん「発言に対する後からの説明、注釈」は常識的な範囲では普通に行われるし、従って直ちに論理的誤謬であるということはできない。意味が正しく伝わらなかった時に後から「より詳しく」注釈するのは当然のことである
しかしながら、権威的な立場から発せられるがゆえに重々慎重であらねばならない言葉に対して、それが批判にさらされたからといって後から読み手の予想し得ない限定条件を付け加えたり、ある用語が通常用いられない特殊な意味で使われていると釈明したりするのは誠実性の問題であろう
あまつさえ「元の発言は当然そのような(極めて限定された)意味に受け取られるべきで、そのように受け取らなかった読み手が悪い」といったようなことを言うに至っては、まごうことなき詭弁である(「当然」という部分は権威論証的であるし、誤読の責任を相手に転嫁することは「本当に意味の齟齬があった」にしても不誠実である。もちろん大部分は、批判を無効化し回避するための方策として「相手が誤読したことにする」べく、後から意図的に作り上げられたものである)
言葉の意味や文法は辞書や文法書がア・プリオリに定めるものではない。膨大な一対一、多対多の関係の中において得られた広範な"合意"の集成であり、辞書や文法書はそれを抽出しているにすぎない。まして特権的な人物がその意味をなにがしかできるものではない
そのような合意の元に発せられた言葉の意味せんとすることを、批判を回避したい、相手に責任転嫁したいという邪な欲求のために後から自分の恣にしようとすることは、言語活動の中でももっとも不誠実な部類の行為であろう
日本は1度失敗したら這い上がれないって言われますね。しかし最近は少しずつみんなの意識が変わってきたように思います。
こんなの良くないな-。チャンスを上げないとなーって思う人が多くなってきてるんじゃないですかね。
でも実際は、自分はいいや、他の人がチャンスあげたらいいじゃんって人多くないですか?
なんで自分があげないといけないの?もっと余裕がある人があげたらいいじゃんとか思ってませんか?
みんなが変わらないとだめなんですよ。
ムッ
ローガン・ポールひどいな。やりたい放題じゃねーか。
一般人と警察にモンスターボール投げつけたり道路にゲーム投げつけたり市場で乗り物に乗り込んだりさ。
差別だよあれは。
こういう差別って外国を面白おかしく紹介する番組に影響されてるんじゃないか?
日本は変わってるって言い過ぎてんじゃないの?
わかる。
コメントは邪魔って人もそりゃいるが、コメントがあった方が楽しめる!っていう層も沢山いるし、
それは文字コメントでなく音声コメントのようなものである応援上映会が人気なことからもわかると思う。
「コメント付きでネットで見ることばかり楽しまれるからディスクが売れなくなり、アニメ側から距離を取られる」なんて話もあるみたいだけど、
それなら何か新しいシステムでもって、ネットに接続してるPCやテレビやBDプレーヤーならディスクと同時に最新のコメントを見られるとかすればよかったろう。
映像も音もないが作品ごとにコメントだけする場所とかあってそれは無料で見られて、ディスク再生と共にそのコメントを流せるとかやれば、
今回は少年ジャンプ+
ああ、終わった。
本作のテーマを大まかに語るなら、“役割”や“虚構”みたいな話になると思う。
当初期待されていたような、悲しき宿命を背負ったヒーローの活劇ものでは決してない。
むしろそういったものを虚構とし、その偶像に翻弄され、各々の役割に苦悩しつつも時に順応し、時に戦い生きようとする者たちの群像劇みたいな感じ。
話は二転三転しつつも、実はこのテーマ自体はちゃんと一貫していたりする。
最後のサンとルナの邂逅だって、二人は本来のサンとルナではないわけだからね。
そういったテーマや作者の伝えたいであろうことを踏まえたうえで、私が本作を面白かったと思っているかというと……うーん。
展開は行き当たりばったりのように感じるけれども、連載当初の作者のインタビューから解釈する限り、大まかなプロットは決まっていたっぽいんだよね。
それであの始末なのだとすると、構成力不足か読者との意識のズレがあるのかなあと思う。
私もよく感想書いていたから、少なくともある程度は本作を評価していたのは間違いないんだけれども、喉に小骨が刺さっているような気分だ。
主人公が部活に誘われて、最初のうちは渋るものの最終的に入部する、まあ紋切り型。
とはいっても紋切り型が悪いわけではなくて、大事なのはその型に何を入れるかだからね。
その点で「書道」などといった選ばれにくい題材をチョイスしたのは妥当な判断だと思う。
難点は主人公の苦悩が陳腐で、思春期特有の漠然とした虚無感の延長線上でしかない点かな。
だから身内の死という要素を付け足して、その動機の希薄性を緩和しているわけだけれども、そのせいでかえって主人公の苦悩が身内の死のせいなのか若者の陳腐な万能感からなのか有耶無耶になっている。
そもそも芸術的な話って、一般人から見て「何がどうすごいのか」についてアカデミックな解答がないと共感しにくい。
その状態で、肝心の「なぜ書道なのか」について観念的なことばかり並べられても、結果として雰囲気だけで描いているという印象から抜け出せない。
まあ一番悪いのは謳い文句書いた人だよね。
「衝撃作」とか謳っておいてこれといったインパクトがないんだから肩透かし食らう。
キャラクターの描き方が上手いなあって印象。
主役はタイトルにもなっているノリなんだけれども、言動の突飛さと激しいスケート(?)シーンを同時進行で見せることによって、「変人だけどすごい」という説得力が増す。
コメディやギャグ漫画でも、絵の説得力って大事だなあと改めて実感した。
まあノリの造形はあんまり好みではないけれども、見せたいものが伝わっている時点でデザインとしては成功だと思う。
それぞれが「友愛か、恋愛か」みたいなことで悩んでいるんだけれども、これが三者三様であることを改めて見せてくれたなあっていう。
他の主要人物が一応の答えを出して立ち回ろうとしているのに対し、二葉の場合はそこら辺が漠然としている状態。
YESにしろNOにしろ相応の立ち回りをするべきなのに、二葉の消極的な性格もあいまって上手くできない。
それが前半の、二葉の将来に対する煮え切らなさと本質的な部分では重なっているわけだね。
学生たちが進路について考え始める時期に設定したのは、話がゴチャつくか空気設定になる可能性もあったけれども、なんか上手いこと繋げていくなあ。
まあ、タイトルからしてアンドロイドの人格に焦点を当てた作品であることは明らかだから、話は最初からスッと入っていく。
SF要素や哲学的な話は希薄で、矛盾はしていないように見えるけれども陳腐だとは感じる。
そもそも主題は「過去に辛い経験のある二人が、共に前向きに生きることを決意する」といった話だろうから、まあ作りはこれでも良いと思う。
期待していたものとは違うけれども、ストーリーと紡がれるドラマ自体は割と嫌いじゃないよ。
週刊ジャンプで連載されてたのに、コミックス発売記念の漫画をジャンプ+でやるのかっていう印象はあるけれども、まあ本誌でもジャンプ+の宣伝はよくするから細かいこと気にしたって仕方ないか。
この手の転移モノの話で未来に飛びたがるってのが逆に珍しい気がする。
現代だと、むしろ旧文明な異世界とかのほうがポピュラーなイメージがあるし、磯兵衛が過去に飛んで原住民相手に知識をひけらかしてドヤ顔するほうが“らしい”気もしたから。
でも、ここで「未来のほうが楽ができる」っていう発想は確かに“らしい”。
それに転移ものとしては最低限のツボは抑えていて、ジェネレーションギャップ(?)や、順応しようとする描写、肝心なところは大体「母上」というチートで解決っていうのも(笑)
とはいえ新鮮味は薄く、周りの登場人物が明らかに子孫で実質同一人物なので、現代を舞台にしつつも空気感はいつも通りだね(まあ、本作はもとから現代の話がちょくちょく入り込むことが多かったけれども)。
最後に磯兵衛はちょっとした成果を出すけれども、いわゆる枯れた技術の水平思考になっているのはちょっと感心した。
近年の異世界転生・転移もののマンガ読んでいる私からすると、現代の文明を旧文明の世界で活かすパターンが多かったから、その逆パターンもポピュラーになってもいいよねと思った。
子供を主人公にして過激なことやらせるってのは、まあ鉄板といえば鉄板。
主人公であるギコの序盤のアクションはケレン味が強く、まああんまりマジになって見るべきものじゃないことはすぐに伝わる。
ギコの人格を成熟させるのではなく、あくまで年齢相応に設定したのは良かったと思う。
アクションとのギャップでメリハリが出るし、分かりやすい未熟さはキャラクターとしては魅力にもなりうる。
反面、プロットは前時代的な勧善懲悪ものにしかなっていないのは残念。
結果としてはギコの一方的な勝利で終わるので、バトルシーンは総じて面白みが薄い。
例えるなら、小学生向けの漫画誌で描いていた作家がちょっと過激な描写に挑戦してみたものの、その頃のクセが抜けていない作風っていう感じ。
ボクシングを題材にはしてあるものの、スポーツものというよりは青春ものって感じ。
ほとんどモノローグ調で語られる主人公のセリフと、反して明朗快活なヒロイン。
だが本質的には同じ苦悩を抱えており、互いが想いを分かち合おうとすることでトラウマを払拭するという構成は良いと思う。
気になるのは、主人公の設定がボクシングシーンと噛み合っていないというか、分かりにくいところかな。
今までは防衛本能で殴っていたけど、共有できる仲間がいることを自覚したので冷静になれた、みたいな感じに解釈したけれども。
部活モノとして表面的に見るならば、今回感想書いた『I WILL ROCK YOU』と似ているんだけれども、テーマによって印象は大分変わるね。
『多少マシな相手だって、こっちが最低な人間だったらだんだん心がすさんで、嫌な奴になっていくよ?』
真面目にそうだよな…
あと、何だかんだ生活の切り回しの作業実行の大方は女にやらせるんだから、男の我慢は常識的な範囲に女がいる限り・偏執的なこだわりがない限りは女よりずっと楽だろ。