はてなキーワード: グリーとは
5chに連投コピペで貼られてたんだけど、ググっても元の文章が出てこない。
・すぎやまこういち(1931年東京都生。作曲家。日本バックギャモン協会会長)
・植松伸夫(1959年高知県生。神奈川大学外国語学部英語科を卒業後、TVCM等フリーで活躍し、1986年スクウェア入社)
(要約)
すきやま:
だんだんドラクエ関連のスケジュールだけで1年終わっちゃうみたいな有様になってきちゃって、
あんまり他のことができなくなってきてるんだよね。困ったもんだよ。
ドラクエやると、やれCDブックだアニメだときて、レコードもブラスバージョンやエレクトーンバージョンやピアノバージョンが出て、
そうなると色んな出版社がピアノ譜やエレクトーン譜を出す。そんなことやってるから1年潰れちゃうもんね。
植松:
すきやま:
どうしても大変だと思いながら、「このゲームが好きだなあ」ってことになるとついね。
植松:
まさか本当にやって頂けるとはね。言ってみるもんだなとつくづく思いましたよ(笑)
すきやま:
でも楽しかったね、あれは。FFVも大変だったね。やっと僕も上がったんですけどね。
植松君は働き者だなとつくづく思いましたよ。何曲あるの、あれ?
植松:
60近くはあるかもしれないですね。
すぎやま:
60曲あのゲームの中にあるということは、実際作った曲はその裏にもっとあるでしょう。何曲ぐらい?
植松:
1コーラス作ったという感じで言ったら100曲ぐらいいってるかもしれないですね。
すぎやま:
働き者だなあ(笑)
植松:
曲数が多いというのも一既にいいとは言えないとも思ってるんですよね。
すぎやま:
植松:
そんなでもないんですけどね、それでも10曲ぐらいは少ないかな?
すぎやま:
そうでしょ。やってる時はこの曲面白いなと思うんだけど、終わったあと覚えてる数が少ない感じがしたね。
その原因は何だろうと思ったんだけど、多すぎるというのがあるのかもしれないな。
でもやっぱりどんどん意欲が湧いて、ここはこういう曲にしちゃおう、ここはこうしようっていうのが出てきちゃうものだよね。
植松:
作ってる方としてはまだ足りないんじゃないかという気もするんですよね。完成したあとに自分でやってみますよね。
そうすると、こことここの音楽変わってないやっていうところがいくつかあるんですよ。
だから作った本人は全部曲覚えてるから別に問題ないんですけど、
自分以外の一般の人にとっては多いかなとは思ってるんですけどね。
30曲に抑えようとしたんですよ。IVのときもちょっと多いと思ったんです。
今回は絞り込んでやろうと思ってたんですけど、欲が出てしまいますね。
すぎやま:
僕も曲を絞り込むときは断腸の思いでね。切る作業が大変ですよ。
前にも言ったと思うんだけど、むこうのミュージカルなんかを見ると本当に曲数少ないんだよね。
でも植松さんのやり方でいいなと思うのは、1つの曲をシーンに応じてアレンジを変えて出すケースが多いでしょう。
植松:
すきやま:
働き者なんだよ。FFVの曲は植松さんの趣味趣向がはっきり出てるから、
それがある意味でいい個性になってていいなというのがありますね。
スコットランド民謡をはじめとして、民族音楽への傾斜というのがあるでしょ。
植松:
今回そのアイルランドのリールっぽい曲を入れたのって初めてなんですけど、あれを入れますと
ユーザーの意見なんかのハガキに「アイルランド行ってきて帰ってきたらもうこれだ」というのがあるんですよ(笑)
別にアイルランドから帰ってきて、その影響受けてやってるわけじゃないんですけど。
以前から凄く民族音楽に興味がありまして、入れたかったんですけどファミコンのときとかって難しいじゃないですか。
すぎやま:
ちょっとやりにくいよね。
植松:
いつかやってやろうと思ってたんですけど、あんまり興味本位で民族音楽好きだから
入れるというのも安っぽく見えてイヤかなと思ったんですけどね。
先日、すぎやま先生がうちの職場にいらした時にお話ししたんですけど、今トルコ音楽を習いに行ってまして、
すぎやま:
植松:
日本人だったら日本の音楽ルーツとして民謡とかがあるはずだと思ってるんですよ。
日本に昔からある音楽が自分の血の中にあるはずだって自分では思ってるんですけど、
一度「雅楽(古来の宮廷音楽の総称)」の“ひちりき”(雅楽用の竹製の管楽器)を習いに行ったことがあるんです。
そうすると自分の中に流れている血というよりも、逆にそれがすごく新しい、
ブライアン・イーノのシンセサイザーの音楽に近い印象があったんですよね。
すぎやま:
笙(雅楽用の管楽器)のハーモニーなんかは音の響きが非常にシンセサイザー的な新しさがあるよね。
植松:
そうなんですよ。だからこれはものすごく面白いけど、自分にとっての血ではない気がしたんですよ。
雅楽は朝鮮からのものですけどね、そういうルーツみたいなものを考えていったら、
逆にヨーロッパの民族音楽がすごく自分にピンとくるものがあったんです。
自分にとってピンとくるものを追っかけていく方が面白いんじゃないだろうかと思って、
最近は自分が日本人だから日本古来の音楽をどうのこうのという考えはなくなってきてるんですよね。
すぎやま:
僕ら日本人で日本の文化の中で暮らしていると、いつかは三味線音楽や琴の音楽が耳に触れてるわけ。
和風喫茶やレストラン、エアラインなんかでもいつの間にか聞こえてくる。
アメリカで生まれ住んでるとそれは耳に触れないで大人になっちゃうでしょう。
僕らは耳に触れてるから、知らない間にそういう音感は身についてると思うの。
町の音楽「ミーファー」ってメロディがいくときに、もう1つの声部が「ミーミー」とそのまま引っ張って、
ミとファが平気でガチャーンと使ってるのがあるでしょう(トゥールの村などの音楽)。
植松:
バッテンなんですよね。
すぎやま:
植松さんはあれにある種の美しさを感じるからやってるわけでしょう。
で、僕も日本人だから聞いて「あ、ここいいな」と思ったんですよ。
「ソーミーファー」というのと「ソーミーミー」というところでミとファがぶつかっているのは、
西洋音楽のエフメジャーセブンの中のミとファのぶつかりの意味とは全然違う意味のミとファでしょ。
それは江戸時代の三味線や琴の音楽でしょっちゅうやってることなんだよな。
「ラファミミファミミファファミ」といってるときに、1は「ミミミ」といってミとファがぶつかってるという、
そういうテンションに美しさを感じるという江戸時代の音楽家らの伝統みたいな感覚の流れがあるんだよね。
あの部分を聞いて植松伸夫もやっぱり日本人だと思ったんですよ。
で、僕もアレをイヤだと思わずに、あぁこれいいなと感じて、僕も日本人だなと再確認したんです。
植松:
ミとファの半音でメロディと伴奏が平気でぶつかることがしばしばあるんですよね。
自分でもああぶつかってるな、クラシックの音楽のテストなら絶対にバツだなと思っても、
その響き欲しいしと思ってそのまま残すこともあるんですよ。
すぎやま:
それが間違いか間違いじゃないかというのは、感覚的にそのぶつかりが許せるかどうかなのよ。
いいと思うかどうかなのね。だから西洋音楽なんかも近代音楽以降はガンガンぷつかるでしょう。
それが前後の関係や音楽全体の姿からいって、感覚的にこれが美しいと思えるものはマルなのね。
ミとファのぶつかりあいが美しいと思える感受性があってやったものであれば間違いじゃないんだよ。
ただそれが自分一人でいいと思ってるだけで、世の中全員が気持ち悪いと思ったら
植松:
難しいですよね。音楽を学問にした人というのは、かなり強引だと思ってるんですよ。
どうやって音楽の点つけるんだろうって未だに僕思ってるんですよね。
小中学校を通して音楽というものを学校の教育に取り入れて100点取った人は偉い、
大人になって楽器を手にしなくなっちゃう人が多いんじゃないでしょうかね。
すぎやま:
音楽教育というのがどうあるべきかというものは、これはもっと考えなくてはいけない問題で、
植松:
すぎやま:
笛を吹いたことについて点数つけることよりも、笛吹く楽しさをわからせるのが大事だよね。
だからファイナルファンタジーとかドラゴンクエストの音楽というのは大事なんですよ。
植松:
ドラゴンクエストの音楽が好きになってコンサート行きますよね。
すぎやま先生なんかのコンサートはフルオーケストラでやってらっしゃるでしょう。
それはものすごい影響力だと思うんですよね。
子供がオーケストラを生で聞くチャンスが普段あるかというと、少なくとも僕は子供の頃そんな経験はしてないんですよ。
そうすると、ある意味ですごく羨ましいんですよね。小学校2-3年という頃に、N響の音が年に1回、生で聞けるわけでしょう。
すぎやま:
他のオケなんかのコンサート数えると、20-30回やってるよ。全部ドラクエじゃないにしても、1コーナーとかね。
だから、あちこちに頼まれて棒振りに行く仕事もやってます。それは大事なことだからね。
植松:
すぎやま:
しかし、いつもゲームの音楽作るときに、昔の大作曲家の作品聞くじゃない。
とてもかなわないなと思うことが多いね。
植松:
すぎやまさんがそんなこと言ったらこちらの立場はどうなるんですか(笑)
すぎやま:
昨日久しぶりにバレエ見ようと思って神奈川県民ホールに「くるみ割り人形」見に行ったの。
チャイコフスキーのド天才めって感じだよ(笑)。とんでもない天才だね。
植松:
チャイコフスキーは僕もすごく好きですね。音楽は誰が好きなんですかなんてインタビューとかであるじゃないですか。
すぎやま:
とんでもない大天才だよね、あの人は。
あの時代で20世紀の音楽家が考えて書くようなヴォイシングやってたりするわけよ。オーケストレーションのうまいこと。
植松:
この前、西田敏行がロシアに行ってチャイコフスキーの足跡を辿るという番組をテレビでやってたんですよ。
僕もチャイコフスキー好きだから見てたんですけど、チャイコフスキーはホモであるというのを聞いて、
「ああ良かった」と思ったんですよね(笑)
すきやま:
その良かったというのはどういう意味なの?
植松:
チャイコフスキーも人間だったんだなというね。ま、噂なんですけどね。
すきやま:
モーツァルトなんか完全にいってるよね。大天才でも大欠点があるという。
植松:
チャイコフスキーにしろモーツァルトにしろ、メロディが非常にわかりやすいんですよね。
クラシックって難しいから嫌いという人が多いですけど、そんなことないと思うんですよ。
すきやま:
ベートーベンとかブラームスあたりはみんなそうだよ。いいメロディもってるよ。
植松:
すぎやま:
植松:
だからドラクエなんかはオーケストラでやっても子供が聞けるんですよ。
すぎやま:
ドラクエにしてもFFにしてもメロディ大事にしてるからそこに強みがあるでしょう。
他にもFFでは民族音楽的なのがありましたな。デデンッデデンッ…てやつ(笑)
植松:
すきやま:
だからそのうちトルコも出てくるぞ(笑) FFでは吟遊詩人というジョブがあるじゃない。
吟遊詩人がマップの中のトルコやアイルランドみたいなところへ行ったりするとそこの音楽を覚えて、
それを戦闘中に唄うと何かが起こるみたいなことがあれば面白いんじゃない。
植松:
すぎやま:
増えるね(笑) でも吟遊詩人というジョブがあるから使えそうな気もするね。
植松:
一度何かに絡めてやってやろうと思ってるんですけどね。
どうしても容量がそういう余分なところまで回らないんですよ。
すぎやま:
植松:
すぎやま:
ダンジョンも違う?そんな気もしたんだけど。
植松:
いや、ダンジョンという曲は1曲しか用意してないんですよね。他で使ってるのを使いまわしてるんです。
すぎやま:
でもなんかすごく多い気がしたな。
植松:
実際多いんですよね。飛空艇は1曲ですし、チョコボは2曲だし。
すぎやま:
チョコボはまた面白いね。あの音楽と動きを見事にシンクロさせてて良かった。
植松:
あそこらへんはプログラマなんかと楽しんで作ってましたよ。
すぎやま:
植松:
ヘタクソなやつが最後はコンサートピアニストぐらいにしてくれと言われたんで、
最初はメトロノームにも合わせられないようなところから始めて、最後はドビュッシーまで弾けちゃうんですけど、
あのドビュッシーの曲(月の光)をみんなあんまり知らないんで、ガッカリしちゃったんです。
すぎやま:
グリークとかチャイコフスキーのピアノコンチェルトみたいな方がコンサートピアニストみたいな気がするからね。
植松:
そうですよね。最後のが弱かったのが残念だったな。
すぎやま:
植松:
息抜きというやつですね。でも結構一生懸命やっちゃうんで、息抜きできなくなっちゃうんですけど。
すぎやま:
作ってる本人はいいんだよ。遊ぶ方は息抜きできるんだから。植松さんはドラクエは上がったの?
植松:
実は最後のダンジョンの手前でFFVのアレンジCDの仕事に入っちゃいまして、まだなんですよ。
すぎやま:
上がってないの!?
植松:
今日までに終わらせるつもりだったんですけど。
すぎやま:
僕は対談頼まれたときに、12月中だと聞いてそれまでにFFVを終わらせる自信ないって言ってたんだけど、
元祖プロゲーマーを称してるからには面目にかけても上がろうと、しゃにむにやって上がりましたよ。
途中でやんなっちゃうゲームだと上がれないけど、やってて楽しかったから相当寝不足になりましたよ。
植松:
今回はアマチュアの勝利ですかね。スクウェアのメンツって、単独で独立して音楽で食っていけるか、
絵で食っていけるか、企画で食っていけるかという連中がまだ1人もいないんですよね。
すぎやま:
植松:
いえいえ。平均年齢がまだFFチームでいうと25ぐらいなんですよね。
すぎやま:
ドラクエチームもそうですよ。皆さん若い。僕1人だけ飛び抜けてるんだ。
植松:
結局若い、何かやってやろうという奴らが集まってるんですよね。
そいつらが泥まみれになって一緒くたになって限度知らずの頑張りをするんですよね。
全てのプロの人がそうというわけじゃないんですけど、中にはお金と割り切って仕事をする方もいらっしゃいますよね。
そうするとある程度から先の気力とか頑張りを越すというのは難しいというのがたまにあるじゃないですか。
そういうことが5のチームには無かったんですよ。
とにかく最後の最後まで、〆切のマスターを任天堂に送る朝まで、どこまでできるかということをみんながやったので、
そこらへんの適当なプロの人を集めて作っても、ああいう気合いの入った作品は出来なかったんじゃないかなと思うんですよ。
今になってやってみると、あそこをこうした方がいいというのはうのはいっぱいあるんですけど、
終わった時点ではもうこれ以上はできない、とみんなが思ってるんですよね。僕もあのときはそうでしたしね。
すぎやま:
結局世の中を見てると、FFにしてもドラクエにしてもそうだけど、
好きで好きでとことんまで頑張るという人が集まってるところのゲームがヒットしてるんだよね。
植松:
アイマスをしない友達との会話で、アイドルマスターミリオンライブ!をプレイしていることを話したり、好きなキャラクターについて語ったときに、
「え? ミリオンってぱっとしない方のやつだっけ?」
「シャニマスの子ならやってなくてもなんとなく知ってるけどミリオンは君の話からしか知らないなぁ」
みたいな反応をされることはありませんか?
もしくは
複数人での会話の際にシンデレラガールズやシャイニーカラーズの話題は出るけれど、ミリオンライブの話題が出ることはない
だとか。
(私の周囲はアイマス好きの多い環境ではないのもあると思いますが…)
ミリオンのアイドルたちが好きでプレイしている身としては、よく苦々しさを感じているところです。
「なぜこんなにも魅力的な子たちなのに広まらないんだろう? 認知されないんだろう?」
今ミリシタアプリ内でアンケートをやっているいうことで、ミリオンに盛り上がって欲しいという気持ちから知恵がないながらも頑張って考えてみました。
そこで考えた一つの仮説が
「ミリオンのアイドルたちって、実は魅力が無いんじゃないか?」
というものです。
「何を馬鹿なことを」
「アイドルに魅力がない?そんなわけない。魅力的に決まってる」
「Loadingが長くてもミリシタを遊んでるのはアイドルに魅力があるからだ!」
ミリオンのアイドルたちが好きな方であれば「魅力がない」なんて戯言でしか無い阿呆の駄文、
もしくは「さてはアンチだなオメー」と感じるでしょう。
私自身としては長年
「魅力はあるんだけど見た目がキャッチーな子が少ないから、すぐにはわからないのかも。触れてもらえればハマる人ならハマるよ~」
と思っていたのですが、ここ数年ファンの間でのミリシタの盛り上がりが低調なことや、ミリシタを辞めてウマ娘やシャニマス、Vtuberに移って行った人たちを見たり、それらがミリオンと違って大きな盛り上がりを見せている事から、
と考えるようになりました。
ではどこにあって、どこに無いのか。
それは
です。
「いや、ゲーム内にあるだろ」
「ミリシタはようやっとる」
もちろんそういう意見は当然あるでしょう。
私が無いと感じているのは
です。
「ミリオンのアイドルはスルメ。どんどん良さがわかっていく。沼だぞ!」
という考えの方も多いと思います。
ここが実は肝です。
この噛めば噛むほど味が出るスルメみたいな魅力、何をもってそのような認識に至るのか。
ゲーム本編だとか、ミリラジだとか、声優さんのライブだとか、公式漫画だとか、はたまた二次創作だとか。
そういったものを「断片的」に拾い集めて、ユーザーが独自に考え咀嚼して、そして構築してミリオンのアイドルたちに魅力を感じているのではないでしょうか?
ミリシタはゲーム本編を通じて、人物の魅力の表現は非常に薄味です。
要因は様々あるとは思いますが、ひとつはライターによってキャラクターに対する理解が異なるため、内面に深く込み入った話作りは難しかったりもあるのでしょう。
ユーザーはアイドルの断片的な情報を収集し、自分の心にキャラクター像を作り上げ、悪く言えば独りよがりで身勝手な解釈をして、それを魅力として昇華している事が多いのだと思っています。
SNS等でミリオンのキャラクターに関する話題が上がることは多くありませんが、それもここにあるのではないでしょうか?
各々の心の中に抱いている魅力はそれぞれ異なっていて、それを表面に出した場合理解されることもあるでしょう。
しかし異なった解釈で言い争いもしくは嫌な気持ちを抱く可能性もある。
というものがない。
これはミリシタ未プレイの人がミリオンのキャラに魅力を感じにくいと捉えてしまう事にも通じるかと思います。
勝手に抱く都合のいい魅力の例として一つ。
志保は所有している黒猫のぬいぐるみを「ネコさん」と呼んでいます。
この「ネコさん」が「キティちゃん」のようなキャラクターグッズであったとか、居なくなった父親が当時付けてくれた名前だった(志保のネコさんはカード台詞から父親がまだ居た頃から所有してる事が判明しています)とかならその名前で呼んでいても当然かなとも思いますが、今の所描写がないのでわかりません。
前提として、子供が自分の所有物に名前をつけるという行為は、「自分だけのもの」「特別な存在」などといった心理が働きます。
そんな中で志保は自分のぬいぐるみを「ネコさん」という非常にパブリックな名前で呼んでいます。
「もしかしたらこの子って割と大変な生活を送ってきたことから、どんなものであれ自分にとっての所有物であるという意識が希薄な子なのではないか」
という解釈をし、であれば彼女がより14歳らしく、楽しく過ごせるようにサポートできれば、支えたいと思わせる魅力があると私は感じました。
けれど公式からはそのような提示は北沢志保というキャラクターが世の中に公開されてから8年経ちますが、一切ありません。
これは私が彼女に「勝手に自分にとって都合の良い解釈をした魅力を押し付けている」だけなのです。
もしかしたらそういう側面があるのかもしれないけれど、いや全くそんな事は無いのかもしれない。
断片的な情報を膨らませて、違うクラスの子に片思いをしているような状況です。
こじらせてしまった場合、触れる月日を重ねるほどその想いは膨らむでしょう。
反面他の人には益々理解される事のない勝手な解釈になっていきます。
『ミリオンの子は見た目は地味めではあるけど、読み込めば深い』
ただ漠然とゲームをプレイしたならば、そこに描写はなく、深いと思ったりしないのではないでしょうか。
「アイマスにも声優さんにも興味を持っていないけどミリシタから始めてみました」
っていう私の周りの友人の多くは、今はもうミリオンの子たちの話題をすることすらありません(シャニマスのほうはゲーム性で辞めたという発言をしつつもキャラは追っているっていう友人は多いです)。
また、深く考えている人同士であっても解釈違い等で喧嘩するのが怖くて魅力を共有できない、変に絡まれるのが怖くて共有できない。
ミリオン好きな人はキャラクターの魅力について語るより、声優さんの話題で盛り上がることが多いと揶揄されがちですが、これは必然ではないでしょうか。
リアルライブで声優さんが努力したことやパフォーマンス、話したことはそのまま視聴者の目に耳に心に入り、その一次ソースを元に感想を言い合えるのですから。
どこに1次ソースがあるのかわからないキャラクターの魅力について語るより、確実に共感、共有できます。語り合えます。
ミリオンのキャラクターの魅力という点で思い返せば、かつてゲッサンコミカライズが連載されていた頃はよく盛り上がっていた印象があります。
アイルのファンの方も多いと思いますが、これはコミカライズが一次資料として、キャラクターの魅力を伝える媒体として優秀だったからでしょう(出番だとかこれが中学2年生の会話か?とか賛否あるとも思いますが)。
グリーの頃のミリオンライブもやっぱりキャラクターの魅力を伝える媒体としては乏しく、アイドルについてユーザーに開示されていない情報や性格も多く、ゲーム内アイドルについてガッツリ語り合える内容ではありませんでした。
そんな中、全編門司雪先生の解釈で進み、スポットを当てる人物を絞ることで密度を上げてキャラクターの魅力を描いたコミカライズは皆で感想や魅力を言い合える作品になったのだろうと思っています。
とりとめなく書いてしまいましたが、まとめとして……。
私の抱いている
「ミリオンアイドルの“みんなで共有できる魅力”はゲーム内に無いのでは?」
という前提の場合をもとにした場合、ミリオンアイドルの魅力の表現は今のままの展開で良いのか否かですが、
今いるユーザーが現状に満足でミリオンを楽しむのであれば、そのままで良いのだと思います。
ただし、語り合いたいなぁとか、新しい人たちに好きになってほしいなぁもどかしいなぁと感じているならばその想いは解決することは無い、つまり今の展開では良くないのだと思っています。
しかしこの解決はユーザーにできることではなくて、基本的に公式のみが可能な事です。
(一次創作さえも覆すようなインパクトのある二次創作等が生まれれば別なのかもしれませんが)
そんな中、今ミリシタ公式がアンケート内において、実装するかはともかくとしても新モードのアイデアとして「深堀り」や「シナリオ」に言及しています。
ミリオンの子たちの魅力を語り合いたい、外部にも知ってもらいたいなぁと思っている私としてはそこに希望を持ってしまいます。
既にグリマスから8年、ミリシタからの場合4年続いているコンテンツですので、深堀りするにあたって公式側からまったく新しいキャラクター像が生み出されたならば、ユーザー側に拒否反応だって起きてしまうことがあるかもしれません。
しかしそれでも、魅力の共有や新規の人に対するフックの提示として、ミリオンライブのアイドルたちがこれからも輝くためにミリシタの公式に現状維持ではなく前に進んでいってほしいと思っています。
そしてミリオンライブをもっと多くの人にオススメできるコンテンツになってくれたらと願っています。
非常にまとまりの無く読みづらい駄文であったと思いますが、ここまで読んでいただきありがとうございました。
たとえば昔流行った、ユーザ同士でお宝を奪い合うグリーの怪盗ドリランドというゲームはユーザに男女の偏りはなかったしユニセックスなデザインだったと思う。
今はクラクラとかがそういう位置づけなのかな。まああえてツムツムを女性向けとみなすならこっちは男性向けといえなくもないとは譲歩しとくけど。
そういう風にゲームには少なからずユニセックスなものがあるんだけど漫画にはなくない?なんなの?
4コマ漫画だってどちらかといえばきららなんとか以外は女性が読むものという空気があるし、コミック維新みたいな雑誌だって作品個々は男向け女向けの色合いを帯びていて、ようは個々ではユニセックスじゃない作品を雑誌レベルで偏りなく集めたってだけの話。
しかし漫画をコンテンツとして享受する単位は雑誌というよりも作品なので、それでは意味がないのだ。
女が二郎系ラーメンの店通ってたって度胸あるなとは思われるかもしれないけど変な人とは思われないじゃん?
それはラーメンそのものは本質的男女に好みの差があるようなものではない、つまりやはりユニセックスなものだから。
同じように男が裁縫嗜んでたっておかしくないし、美容師の男がいたって全然かま臭いとは言われない、むしろ技量を期待されるだけだ。
でも漫画だけは、男が女性の下着売り場に入ることぐらい不審なこととみなされている。
読んでいる漫画が、ターゲットとして想定している性別や、社会の認識からずれていると、その読んだ量に応じて、まるで性自認すら変えなければいけない度合いが上がるかのようである。そう、たとえば腐男子はホモであるか心が女であるかを常に世間から疑われているだろう。
歴女なんて言葉はあるが、花とゆめ男やハーレクイン男なんて、言葉すらない。まるで精神病院のように社会に存在すらしないことにされていると思う(NHKの番組「バリバラ」の受け売り)。
もっとも悪いのは漫画のデザインじゃなくて、あれは男性向けだ女性向けだと分類せずにはいられない読者諸君の方なのかもしれないけども。
「#駆け出しエンジニアと繋がりたい」というハッシュタグが詐欺に使われる日本に Hagex はいない。なぜなら、Hagex は殺されたからだ。
Hagex は天才だった。インターネット初期に技術を得て、しかも「ニヒルなやり方で、間違いを自覚させる」手法は天下一品だった。特に彼の「技術的なバックグラウンド」を持った上で、この手の「WordPressで一千万!」とかいう詐欺師の戯言を「テクニカルな背景と、類まれな文才」をもって否定できる人材は、令和の日本のインターネットにはいないようだ。
ひろゆきやホリエモン、山本一郎も才能はあるし、インターネットに詳しいという点では、ネットの評議者として認めてやってもよいかもしれないが、ただ「なんとなくテック業界で生きてきた」という感だけで物事を語るだけで、なんというか技術的な背景を持ってして「イケダハヤト」の理論的な矛盾点をつく、というネットの論客で Hagex を超えてきたやつはいない。
Hagex が生きていたら、きっとインフルエンサーの「WordPressでイッセンマンは堅いかなーと」という語調の裁判から逃げやすいポイントを見破って、「WordPressを編集できるエンジニアの年収は WebDesigning の統計から、だいたい400万ぐらいだけど?」とか返せたり、「SEOでイッセンマン」というマナブの主張も「2000年頃の過渡期の昔はともかく、SEOだけの専門会社があって、値段もこなれているのに頼む理由がない」現状を語れて、「Ruby の次は Scala だ」という勝又の嘘も「Scala ができるやつは SQLやTCP/IPにも精通しているから給料が高い」という合理的な説明もできちゃうだろうな、って思う。なぜ、Hagex は殺されないといけなかったのだ。
「罪を恨んで人を恨まない」と世界は言う。ただ、やっぱり代替不可能な人材はいて、Hagex という存在がいることで平成の末に「フリーランサーで年収一千万、それをプログラミングで」という【頭の弱い】ヤツが引っかかる嘘を「徹底的に茶化して」日本国に「騙されてエンジニアになる」というかわいそうなやつが消えてくれたのだ。たかだか、無料の Rails Tutorial モドキを一周して「年収一千万」になるなら、東大や東工大をでた連中が日夜 SIer で虐められて鬱になって自殺するわけ無いだろ。
頭の悪い KKO の俺だって、勝又が「ソシャゲバブルの果にグリーにいれなくなってきて、『ゆるふわエンジニア』なんて存在できないのに、Scala だ Go だ」と言って金をくすねているのは想像できる。マナブが「あの反社が多い界隈の広告業界の検索版がSEOで、タイにいないと命がヤバいくらいの主張をして、しかも間違っている」ということぐらいわかる。だけど、俺には「テクニカルに間違っていること」は理解できても、Hagex にできた「テクニカルな背景を持ってして、インフルエンサーをニヒルに否定して、バカ信者を改心する」なんていう高等スキルは持ち合わせなかった。残念なことに。
Hagex よ、令和にあなたがいないせいで、哀れな仔羊がインフルエンサーのカモにされています。人間だから、死という限界はある。だけれども、平成の末には「Hagex という抗生物質が存在」していて、しなくても良い犠牲が無かった、というのは Hagex さんの死があってはじめてわかったんだ。申し訳ない。
だから、私は匿名の「増田」でインフルエンサーを徹底的にこき下ろすと決めたのだ。この不退転の覚悟で、マナブや勝又といった、技術を間違って使う貴様らを Hagex の代わりに裁こうと私は思うのだ。金をとってカモを地獄に落とした貴様らの罪は大きい。覚悟しろよ。
カタカナ語をシャンするイグジスタンスィズのオピニオンで、イングリッシュはフォノグラムでジャパニーズはメインでイデオグラムをノーマリーにメイクユースオブしてるっていうのは自分としてもアンダウトフルだと思うけど、だからイットがイクスプリシットリィにディフィカルトになるっていうのはどういうファクトがベースとしてあるわけ?何をもってシグニフィカンスありとクレイムしてる?
カタカナ語だから他人のソウトをウェルにグラスプできないっていうのは、シンプルにイングリッシュのファンダメンタルズがコンシダブリィにラックしてるピーポーってだけじゃん。モダンなワールドではチャイニーズオリジンのキャラクターズよりもイングリッシュオリジンのレターズの方がスペリアーなのはニードレストゥセイだよね?どのぐらいセンテンスィズがナチュラルかのディグリーというアスペクトで見ればオフコースにリーディングがハードになることにはアグリー。でも、それはカタカナでリトゥンされてても、ラテンアルファベットだったとしてもイーヴァンチャリィではセイムだよ。イズントイット?
インディードに、オフンにイングリッシュをツールとしてアヴェイルしてるピーポーは、アバヴをスペシャルなエフォートなしでプロバブリィでキャンリードじゃないかな?
2013年じゃないが?
自分の属性に金寄越せでしない(2回目)。フツーに国連を信じるね
https://www.un.org/en/development/desa/population/publications/factsheets/index.asp
How certain are the United Nations global population projections? (国連の世界人口予測はどれくらい確実なのか?)
国連は世界人口見通し(WPP)の2019年改訂版で、世界の人口が2019年の77億人から2030年には85億人、2050年には97億人、
2100年には109億人に増加すると予測している。人口予測は、他の予測と同様に、将来についての仮定が含まれており、それはある程度の不確実性を伴うものである。
本短信では、国連が発表した2100年までの世界人口予測の不確実性の程度とその原因について説明する。
1. 将来の人口動向は、特に長期的には不確実である。
未来は絶対的な確実性をもって知ることはできないが、近現代の経験を使って、短期および長期の両方の視点から起こりうる結果の評価を行うことができる。
人口予測の不確実性は、人口変動を構成する 3 つの要素である出生率、死亡率、国際移住の将来の傾向の範囲に依存する。この分析では、
95%の確率で、世界の人口は2030年には85億から86億、2050年には94億から101億、2100年には94億から127億となると結論づけている。
人口は増加するが、今世紀末までの人口増加率は鈍化すると予測されている。中規模モデルでは、人口増加率は2015年から2020年の年率1%強から、
予測によると、世界の人口は少なくとも 2050 年まで増加し続け、2040 年には 90 億人に達し[296][297]、2050 年には 110 億人に達するという予測もある[298]。
将来の人口増加の中央値は、平均出生率が 2010-2015 年の 2.5 から 2045-2050 年には 2.2、2095〜2100 年には 2.0 に減少し続けると仮定して、
2030 年には 86 億人、2050 年には 98 億人、2100 年には 112 億人に達する[299]。 299] ウォルター・グリーリングは 1950 年代に、
世界人口は 21 世紀に約 90 億人のピークに達し、第三世界の再調整と熱帯地域の衛生化を経て、その後成長が止まると予測していた[300]。
2000年、国連は世界の人口が年率1.14%(約7500万人)で増加していると推定しており、CIAの世界ファクトブックのデータによると、
現在世界の人口は1分ごとに145人ずつ増加している[301]。
アストナージ
アピトベール
アメリカーナ
アリエノール
アリギエーリ
アルダシール
アルパチーノ
エルマリート
エングレーブ
エンドノート
カナダグース
キリスパート
キングデール
クセノポーン
クングラード
グレゴワール
コインパーク
コダクローム
コルコバート
コンジローマ
サンタローズ
サンパギータ
ザミンダーリ
シエラザード
シコンコート
シンクレール
ジアスターゼ
スパイゲート
スピリトーゾ
スリムハーポ
ソステヌート
ゾエトロープ
ダイスダーグ
ダウンコート
ダクトテープ
ツルナゴーラ
テレタボーズ
デフレパード
トトトツート
トルクカーブ
ナイシトール
ハイドレート
ハンカチーフ
パリダカール
ヒメノアール
ビオサバール
フレグモーネ
プラズマート
プレイアード
プレパラート
べレロポーン
ベンザエース
ベンチシート
ペプチターゼ
ペルグリーニ
ポリメラーゼ
ポンパドール
マキラドーラ
マグコロール
マデサゴーラ
マハブフーラ
マリオカート
ミナカトール
ムシコナーズ
メリンガータ
モンロワール
ヤクトドーガ
ヨクアタール
ランペルール
レンズフード
ロマンサーズ
ぶっちゃけソシャゲを馬鹿にしていい時代はモバゲーグリーの凋落と共にとっくに終わっている。
今のモバイルゲームやオンラインゲームはソシャゲ的なビジネスモデルは継承しつつも、ゲームとしてリッチな体験を提供してくれるものが無数にある。
だが国産のモバイルゲームは依然として紙芝居部分を豪華にしただけでゲーム性は札束ビンタみたいな幼稚な子供だましシステムで止まっているものも多いのも事実。
育成に主眼が置かれるゲームは基本的にその類だと思ってよい。ウマ娘もそう。それでも売れるのはキャラクターを活かすのが上手いからであって、そういった消費に興味がないのなら触らずともよい。
モバイルでもリズムやパズル、戦略系(タワーディフェンス等)のジャンルでは傑出した作品もあるのだが、手当たり次第に選んでもいい体験は得られないだろう。
GoogleやAppleのゲームストア側が「エディターのおすすめ」などと表示している作品に触れていくのがいいだろう。
そうやって良いものに実際に触れていくことでしか、「ソシャゲの何が魅力的か」というのは理解できないだろう。肌感覚として。では健闘を祈る。
「永遠の時の流れの中で永遠に堂々巡りをしているのだとしても!
けして立ち止まりはしない
悔いても恥じてもいない誇りに思っている
確かにそのせいでつらい事も多かったが…
合わせてみれば… ちょっと… 良かった… ——ぞ」
「今は—— 前へ進まなくっちゃいけないんだって
ここへ残るのは進むことじゃないんだって
そんな気がするんだ」
「その為にはどの勢力とも争う気がないのだということを
我々が誰もの隣人でありたいと願うことを!
ただ——
その手でその身で!
示し続けるしか… ないのです」
「しかしもっと長い長い年月をかけていつか人は“NT”に進化するでしょう
でもやがてくる新しい力に期待する前に——
ぼくは“人間”としてやれることがまだ残っているのじゃないかと思うのです
ぼくは人がNTにならなければ戦いをやめられないとは思えません
人間としてやるべきことをすべてやって
神よ——
もし本当におられるのでしたら…
どうか手を——
お貸しにならないで——」
「あの時おれはかざした手のひらの
外側に自分がいるような気がしていた…
けれど間違っていたんだ!
おれは今も昔もずっとあの中にいて必死に生きようとあがいている——
みんなと同じ小さな—— 一匹の命に過ぎない!
過ぎなかったじゃないか!」
https://anond.hatelabo.jp/20201223193232『ウルトラマンZ』からニュージェネレーションシリーズを眺める
からの続き。
1) 続き物の初回は、主人公がどのようにウルトラマンの力を得るかを描くかがキーになる(セブンやオーブのような、本編前からウルトラマンだったケースは除く)筈なのに、突然現れた変身道具を手にして「俺色に染め上げろ」と謎な名乗りをいきなり発して変身してしまうという、昭和でもやらないような雑な演出が光る。
2) Wikipediaに引用されている超全集によると、後半のあらすじが二転三転している。母親が敵になる⇒反対意見が多くなり、美剣サキが後半の敵になる⇒アサヒが消滅してサキが湊家に妹として迎え入れられるビターエンド⇒ハッピーエンドを優先させてアサヒ生存ルートとなった模様。結果的にはマスコットキャラとして成功したけれど、詰めの甘さ、物語の浅さが浮き彫りになった。
1) トライスクワッドの設定は、本編に盛り込む余裕が無く、ネット展開のボイスドラマというスピンオフで消化されたが、またもやトライスクワッドやタロウの息子など、本編で消化できない盛り過ぎ設定が、フォーカスの甘い、締まらない流れになってしまった。
■Zの企画
田口監督の「最終回から逆算してシリーズを構成した」という発言は、おそらくXの頃から、押しつけられた企画や設定といった風呂敷を畳むのに苦労されたところから出たものと思われる。ゆるキャラグリージョは意図的ではなく、偶然の産物だったことを考えると、ニュージェネ後半は結構危うかったところをZに救われた、と捉えるのが妥当ではないかと。単なる私見ですが。