はてなキーワード: 大阪駅とは
『共感性羞恥』という現象がある。他人が恥をかいている場面を見ると自分まで恥ずかしく思い、赤面するなど身体の反応が出るという現象だ。
それと同様の『共感性性被害』という現象、つまり"キャラクターなどが露出の多い格好をしていると自分が脱がされている感覚になる"という現象もあるのかもしれない。というか、実際に有名フェミニストの北原みのりは有名な精神科医の香山リカとの対談本でそう発言している。
あるいは昨日の↓の増田もそうなのかもしれない。
https://anond.hatelabo.jp/20230115141356
女性の体をエロティックなものとして表現すること、受け取ることは、プライベートな場所で行われるべきことで、往来で堂々と行うことじゃない。
一方で、この感覚は女性の全てが持っているわけではない。上述した北原みのり・香山リカの対談本でも、香山リカは「私にはその感覚は分からないが、患者にはそのように訴える人もいる」と述べている。
おそらく、たわわ広告や大阪駅の雀魂広告を問題視していない女性もそうだ。彼女たちは別に『日本の男性中心社会』に迎合してそのように言っているわけではなく、おそらく本当に「露出の多い格好をさせられているのはキャラであって私ではない」と切り分けをしている。
実際に『共感性性被害(仮)』を感じる人が女性の20%なのか、5%なのか、1%なのか、0.1%以下なのかは分からない。ただ、これを感じる人は「皆も同様に感じているはず」を前提に語るべきではないだろう。
そして現在のところ、「共感性羞恥を感じる人がいるから登場人物が恥をかくシーンはゾーニングするべき」とはなっていないが、本当に『共感性羞恥や共感性性被害(仮)を感じる人』への配慮は必要無いのか、必要だとするならどのような形の配慮であるべきかというのは今後の課題になるのかもしれない。
私は、1993年の1月に生まれた。1歳から大学までは、神戸市で生活していた。神戸はとてもいい場所だ。街の中心部である三宮はおしゃれな街で、大阪駅までも直通で30分。中華街で有名な豚まんを食べ、旧居留地の優雅な建築を抜ければ、港から海を見渡せる。中心部から少し足を伸ばせば、B級グルメを出す飲食店が立ち並ぶ下町の長田、六甲山の麓に日本屈指の酒蔵を擁する灘などにも行ける。どの地域も個性にあふれた「退屈しない街」だ。この街で人生の3分の2を過ごせたことを、私は幸せに思っている。
私が住んでいた地域には大学があった。このキャンパスは自然豊かなことで知られていて、敷地内に公園や池があったので、私は物心ついたときから時々家族とこの大学内を散歩していた。子どもだった私は漠然と、大きくなったら私もこんな学校で勉強するのかな、なんて思っていたものだ。
私が小学校にあがる前のある日、父とふたりで大学の中を歩いていた。ふと父が「父さんは今日こっちの道に行きたいんだ」と言って、普段は入らない芝生の中へ私を連れて行った。杉の木立の中には、小さな茶色の碑があった。父はその石碑の前で足を止め、静かに手を合わせた。「これは何なの?」と尋ねると、父はこの石碑が、阪神淡路大震災で命を落とした学生たちを追悼するための慰霊碑だと教えてくれた。銘板に刻まれた名前の中には、地元で教員をしていた父の教え子がいるという。父は何十年も教員として勤務していたが、彼が家庭内で教え子の話をすることはほとんどなかったので、少し驚いた。
小学校にあがると、音楽の授業で「しあわせはこべるように」という歌を習った。この曲は阪神淡路大震災のことを歌っており、神戸市内の小学校では震災学習の一貫として習うのだ。たぶん、1995年以降に神戸市で勉強した人間なら、誰もが諳んじて歌える一曲だろう。小学校でも中学校でも、毎年1月17日には黙とうを捧げ、校長先生のお話を聞いた。ある年の学校新聞の1月号に、同級生とその妹のことが書かれていたことも覚えている。2学年下に在籍していた彼の妹は、まさに阪神淡路大震災の混乱の中、1月17日、被災直後に生まれたという話だった。
高校生にもなると、「しあわせはこべるように」を合唱する授業はなくなった。進学校だったので受験勉強は忙しく、みんな志望校に入るため必死だった。そんな中で、一学年上の先輩にとても頭の良い人がいた。先輩は部活でも目立っていて、関西の超有名大学への現役合格を果たしたことはすぐに後輩の私たちにも知れ渡った。卒業式の日に卒業生代表挨拶を担当したその先輩は、両親を阪神淡路大震災によって亡くしたことをみんなの前で話してくれた。10年以上が経った今でも、あのスピーチを鮮明に覚えている。その次の年に起きたのが、東日本大震災だった。
高校を卒業すると、私は自分の実家から一番近い大学に進学した。それは、子どもの頃から家族と散歩していたあの学校だった。私の学部はかつて父と散歩したキャンパスからは少し離れていたのだが、それでも時々あの慰霊碑を見に行くことがあった。いつのまにか、私は父の教え子だったという誰かより1歳年上になり、成人を迎えた。成人式の会場に向かう途中のタクシーでふと「私たち、本当はもっといたかもしれないな」と思った。
大学を卒業して上京すると、色々な地域出身のさまざまな年齢の人と関わりあうようになった。地元は神戸なんです、と言うと、ほとんどの人が「おしゃれなところだね」なんて言ってくれるので鼻が高かった。しかし時々、50代くらいの人と話すと「震災の時、もう生まれてた?」と聞かれることがあった。生まれてたけど2歳になりたてで記憶はないんです、と返すとだいたいそこで話は終わるのだが、ごく稀に「実は僕は当時大阪に住んでいて…」と、当時の記憶を話してくれる人もいた。
ある時、友達に誘われて行った飲み会で、誰からともなく東日本大震災の話になった。その飲み会には東京出身者が多かったので、彼らは当日の様子を思い出して話していた。乗っていた電車が止まったこと。復帰のめどが立たず、線路を歩いて帰ったこと。その時、自分の前を歩いていたお姉さんが泣いていたこと。
その会話の中で、参加者のひとりが「〇〇さん(私)は関西だから、こういうの想像できないかもしれないけど…」という言葉を発した。私も被災者だから分かるよ、と返すと、彼は「何言ってるんですか」と少し笑った。阪神淡路の時に2歳だったよ、と告げると彼は気まずそうに「そっか、そっちか」と呟いた。
彼は私より少し年下だったから、もしかしたら阪神淡路大震災のことをリアルタイムでは知らないのかもしれない。小学校の社会の教科書にはきっと地震のことも載っていたはずだけど、自分が高校生の時に体験した東日本大震災の方が記憶としてはハッキリしているに違いない。彼のことを個人的に責めようとは思わないが、そうか、忘れられているのか、という虚しさが心に残った。
私は今、違う場所で暮らしているけれど、今でも自分が育った神戸はとてもいい場所だと信じている。街の中心部である三宮駅前には、かつて「神戸阪急ビル」という名のビルがあった。この辺りは震災で大きな被害を受けてめちゃくちゃになったという。街のランドマークだったというビルは取り壊され、それからずっと低層のビルが駅舎に繋がっていた。このビルは2021年に高層ビルとして生まれ変わり、震災前の姿を模した外観でリニューアルオープンした。私より年上の世代は新しいビルを見て「元の神戸の姿だ」と喜んでいたが、私には正直良く分からなかった。私が毎日のように遊んだ三宮は「仮の姿」だったのか!それでも、西洋風のモダンな茶色のファサードは、「私の好きな神戸」の姿に近いような気がしていいなと思った。
私は今日、30歳になった。平成初期に生まれた私たちは、阪神淡路大震災の記憶とともに生きる「最後の世代」だと言われている。確かに、地震は私にとってすごく身近な問題であり続けてきた。だけどこれまでの人生、別に24時間365日「亡くなった方々のぶんも、毎日を大切に生きていこう」と思いながら過ごしてきたわけじゃない。忙しい日常を生きていると、震災のことを全然考えない日がほとんどだし、まだ2歳になりたてだったから当日の記憶もまばらだ。でも、成人式の時にふと過ったあの感情を、誕生日のたびに思い出すのだ。阪神淡路大震災がなければ、私たち、本当はもっといたかもしれない。地元の同級生は、実はもっと多かったのかもしれない。自分の人生のどこかのフェイズで、あの時いなくなった誰かが私の大切な人になっていたかもしれない。
記憶も年をとる。誤解を恐れずに言うと、阪神淡路大震災のことは、これからどんどん忘れられていくだろう。神戸と縁のない人たちにとっては、もうすでに阪神淡路大震災のことは別の災害の記憶に塗り替えられているかもしれない。はっきり言って、これはどうしようもない、誰が悪いわけでもない、日本に住んでいる限りは、大きな地震が定期的に起きることは避けられないのだから。でも、少なくとも私は― 傷ついた神戸の街に育ち、ゆっくりとその傷が治っていく中で青春を過ごした私は、これからも阪神淡路大震災を忘れることはない。「最後の世代」という言葉は、「私たちは本当はもっといたのかもしれない」とリアルに思える「最後の世代」だということなのだろう、と今は思っている。30歳になった今日も、またふと考えた。私と一緒に年をとってくれる誰かが、本当はもっといたのかもしれない。
フェミニスト寄りのオタクの人たちや、腐女子の人たちが、よく「カーテンの向こうに行けばいい」みたいなことをおっしゃるんですが、なんでこれに賛成できないかっていうのがイマイチ伝わっていないので、簡単に説明したい。
この間話題になった、大阪駅の咲の広告は、ソシャゲの広告なんですよね。ソシャゲの開発費用はどんなに安くても数千万、普通は億単位かかりますし、咲とのコラボのための開発費やライセンス料もかなりの金額がかかっているはずです。
ここでコストを回収して利益を出すためには、わりとガッツリ広告しないとできない。
「宇崎ちゃんは遊びたい」とか「月曜日のたわわ」もそうで、出版社を背負って立つ、とは言わないまでも、バンバン一般に売れて利益を出してくれるから、当たるかどうかもわからない新人発掘や、赤字垂れ流しの人文系の仕事ができるわけですよね。
同人作家も、今やプロ同人みたいな人が多いので、売れるか売れないかは生活に直結している。
助成金貰って大赤字で出版する大学の先生とか、子供部屋おばさんが趣味のお仲間の交流でやってる同人誌と違って、彼ら(彼女ら)は商売でやってるんですよ。だから、がんばって広告しなきゃならない。
ぶっちゃけて言えば、山本直樹は、印税の入ってくる大御所で、低コストな制作体制で、一部の趣味人に刺さればいいってビジネスをやってるから、カーテンの奥に引っ込めばいいぐらいのことを言っているだけ。
この基準をソシャゲ屋に適用すれば、どんだけの人数の首切らなきゃならないか、という想像力がゼロの、ゲージツ家の先生のたわごとにすぎないわけです。
金の問題なんだから我慢しろ? そういう意味じゃ、ナチの作ったゲットーだってゾーニングと金の問題に過ぎない。まあ、金が無さ過ぎて餓死者と病人が続出したわけだけどね。
ま、そういう前提があって、もう一つの問題として、そもそもその広告表現が「カーテンの向こう」に引っ込まなければならないほど実害があるのか、って問題がある。
もちろん、その表現で傷つく人や、精神的ショックを受ける人がいることは認める。しかし、そのレベルで言うならば、ハングル表記で精神的な打撃を受けるネトウヨだって珍しくない。
感情に貴賤はない以上、「内心の静穏の権利」を守るために規制するとなると、ハングルにショックを受けるネトウヨの主張も飲まなければならなくなる。
もちろん、現実にそんな規制はできないから、そのくらい我慢しろって話にしかならないわけなんだけど。
これが、廃人を続出させるシャブであれば、たとえシャブでビジネスやってる人がいたとしても規制するのは妥当だと思いますよ。でも、萌え絵は、規制薬物や公害物質のようなものじゃないわけですよね。
そういう比較衡量を全くせずに、自分が興味ないからって雑にゲットー送りにしてしまえ、みたいなことを言うのは、控えめにって恥知らずの愚か者なわけです。
山本直樹のインタビューを読んで、いつの時代の話だと思ったのだが、はてブでは賞賛する人が多いようで意外だった。
僕らはこっちの棚でやってるから、カーテンを開けなければいいだけ。けど、表現の自由戦士は「カーテンをぶち破れ!」っていうし、もう一方は「カーテンの向こうを潰せ!」って。
既にゲームもアニメもカーテンの中には納まらない経済規模になってるってことを山本直樹も表現規制派も分かっていない。
一般人はオタクを馬鹿にすることが多かったので、オタクはカーテンの中で楽しんでいた。
音楽番組のランキングにアニソンが出てくるとと失笑されるあの空気とか覚えている。
原神やウマ娘といった昔ならオタクゲームとみなされただろうコンテンツが数百億数千億を売り上げている。
abemaがW杯を無料で中継できたのもウマ娘の金があったからと言われている。
東京オリンピックの開会式でもアニメやゲームが前面に出されていた。
映画ではオタクな作風の新海誠が100億越えの興行収入を連発している。
かつてカーテンの中にいたオタクがメインカルチャーになってしまったのだ。
今さらカーテンの中に帰れと言われても不可能な話なのである。。
山本直樹の認識は2000年代初頭までのオタクが馬鹿にされていた時代で止まっている。
そして表現規制派はオタクが馬鹿にされていた2000年代初頭以前に押し戻そうとしているのだ。
ただ自分はアラフォ―のオタクなのだが、正直言うとJR大阪駅の広告が批判されるのはわかる。
艦これとかウマ娘とか女体化して愛でるのって、カーテンの中でやるものだよねという意識が自分にも残っているので、ウマ娘の広告がドーンとあったりすると「あ、大丈夫かな」と反射的に思ったりする。
むしろ若い世代にオタク的なものが広範に受け入れられている状況に戸惑う。
でも、そういう時代なんだよね。
「オタクはカーテンの中に帰れ」というのは「女は専業主婦で家にいろ」と同じように聞こえるんだよね。自分には。
いや、いまさらそれはムリでしょ、そこには戻れないでしょ。
大阪駅萌え絵ポスター擁護記事で一躍ネットの一部のオタクのヒーローになった平裕介弁護士なのだけど、少しでも疑問や間違いについてツッコミを入れるとブロックする人として以前から有名だったようだ。
"平弁護士 ブロック"でのtwitter検索結果 https://twitter.com/search?q=%E5%B9%B3%E5%BC%81%E8%AD%B7%E5%A3%AB%E3%80%80%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF
"平裕介 ブロック"でのtwitter検索結果 https://twitter.com/search?q=%E5%B9%B3%E8%A3%95%E4%BB%8B%E3%80%80%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF
自分も話が通じない人間や明らかな悪口を言ってくる人間はブロックしてもいいと思うのだけど、検索結果を見るかぎり敬語で礼儀正しく違う意見を送っただけでブロックされている人がかなりいるみたい。
自分や自分と同じ陣営の人間には「表現の自由」があるけど、自分と少しでも違う意見は認めないし、そういう人とは対話しないもしくはできないというタイプの人なのだろうね。
この記事で気になるコメントがあったのでつっこみを入れておく。
<重要>
まずはじめに自分はあのポスターについては疑問派(あえてこの言葉を使う)であって、フェミでも規制派でもないことを断っておく。したがって最初に訴えを起こした尾辻氏については正直よく知らないし興味ない。したがって彼女にフォーカスしたコメント(お気持ちだの党派性など)にもいっさい興味なし。ただただ話題のポスターを見て「なんだこりゃ!?」と思ってる人間だ。
yujimi-daifuku-2222 表現の自由は子供からお年寄りまで、日本人なら誰もが無条件に持つ基本的人権だから、「憲法の話はしていない」なんて言い草は通らないんですよ。
ここでいう「法律の話などしてない」というのは、法律(憲法)では何も出来ないなんてことは最初からわかってるって意味なんだよ。したがって「裁判所に訴えればいいじゃん」なんてコメントもあったが、訴えてもどうにもできないこともわかってる。ただ「おかしいな」と思うから話題の尻馬にのって疑問の声をあげているわけであって、ポスターを擁護してる皆さんとはそこが噛み合ってないと強く感じた。
getchagetcha 弁護士の話は「この人何の話してるんだ?」って感じだったな。2次元絵が人によってエロに取られるかどうかの話なのに
エロかどうかと問われれば明確なエロです。しかも対象が未成年。高校生って設定の未成年少女に「ウサギはいつでも発情期=いつでもやれる女」が由来のバニーガールという衣装を着せるのはド直球のエロなの。つまりあのポスターは「さあ、みんなで未成年を性消費しよう!」ってポスターなのであって、その異常性がひたすら擁護派の皆さんから無視されつづけてることに疑問をもっている。
したがって萌えポスターなんて矮小化してる時点で、この記事は本質からズレてると言わざるをえないのよ。あれは大阪駅に「未成年性消費促進ポスター」が貼られてるって異常事態なんだよ。
まず最初に、この増田では「表現の自由戦士」という表現を使っている
これは、「自らが定義している意味での「表現規制」を他者に対して行いながら、他者を「表現規制者」と批判し、自らを「表現の自由を守る者」だと自称している者を揶揄する言葉」として使っている
そのため、この増田では漫画・アニメ・ゲーム表現の自由を守る為に活動している真っ当な(主張に矛盾がない)人たちのことについては語っていない
表現の自由戦士「ほら見ろ!萌え絵ポスターは憲法的にも法律的にも問題ないんだ!だからお気持ちによる表現規制をやめろ!」
いやだから「憲法解釈論では大阪駅萌え絵ポスターは問題無し」って言ってるだろ
自分のお気持ちを害する意見に対して「表現規制をやめろ!!」と怒ってる表現の自由戦士が、「法律的には無問題」というのを武器にしてるの、ブーメランぶっ刺さってるの気付いてないんだろうか?
「法律的には問題ない」んだろ?それくらいは理解してるんだよな?
大阪萌え絵ポスターなんて、憲法的にも、法律的にも、更には「大企業が掲示してOKと判断して掲示している」という社会的意味でも「規制されてない」じゃねえか
なら表現の自由戦士が普段あれだけ声高に言ってる「萌え絵が表現規制されてる!」「表現を燃やされてる!」というのは何なのか?という話になるんだが
この根拠なき被害妄想こそ「お気持ち批判」であり、「お気持ち批判」こそ表現の自由戦士言う所の「表現規制」だろ
「「大阪萌え絵ポスターが公共の場に相応しくない」という意見そのものが表現規制なんです!」と、大げさに泣き叫ぶのは良いが、
それは「社会的影響を法的根拠を持った権力と同等に捉える」という点で「大阪萌え絵ポスターの掲示が許可されることそのものが女性差別なんです!」と言うフェミニストの意見と同レベルどころか、更に「社会的影響を大きく見積もっている」ことになる
なぜか?「大阪萌え絵ポスターが公共の場に相応しくない」という意見は、大量の批判に晒され、発言者に対する粘着アンチまで湧き、広告を出稿した企業にも無視され、弁護士にも批判を受けた
一方、大阪萌え絵ポスターの掲示が許可されることそのものは、(インターネットに出てくるものでは)批判の数より擁護の数の方が圧倒的に多く、大企業がその出稿を許し、弁護士にも問題ないと言うお墨付きを貰っている
主語が具体的だと先入観を持ってしまうだろうから記号で書いてやるな
「Aは、大量の批判に晒され、発言者に対する粘着アンチまで湧き、広告を出稿した企業にも無視され、弁護士にも批判を受けた」
「Bは、(インターネットに出てくるものでは)批判の数より擁護の数の方が圧倒的に多く、大企業がその出稿を許し、弁護士にも問題ないと言うお墨付きを貰っている」
それでは、「Aは、権力があるんです!」「Bは、権力があるんです!」、どちらがより現実に近いことを言っているでしょうか?
この事実からしても表現の自由戦士はフェミニストよりも更に批判対象の社会的影響を大きく見積もっていると言える
しかし、表現の自由戦士は「社会的影響を根拠にした批判」を常日頃「表現規制」(≒実際の法的な表現規制)と主張しているよな?
じゃああなたが主張する本来の問題として、結局大阪駅のあのポスターは自主規制されるべきと思ってる?
JRは広告出稿にあたり既に審査を設けていてそれをクリアしないと出稿できないんだけど、
外部の人間が審査基準を変更させるならある程度説得力を持った論説を用意する必要があると思うよ。
たぶん基準変更のポイントになるのは他者を羞恥させるかどうかで、性的消費および性差別を助長する表現だから、という方向では厳しいように見えるんだよね。
大阪駅の萌え絵ポスター、憲法解釈論では「問題なし」 平弁護士と考える「表現の自由」 - 弁護士ドットコムという記事にブクマが集まっているのだが、弁護士らしいよくできた詭弁だなと思った。
はてなーはいつから憲法の解釈で戦ってると思ってたの?と増田でも言っているが、他にもいろいろとおかしいところがある記事だと思った。
1. 大阪駅に掲示された麻雀ゲームのエロイラストは法的には問題ない
3. 国会議員には憲法尊重擁護義務があるので、広告などの表現への批判はするべきでない
記事はまず「今回の広告は「法的」に問題があるのか?」という記者(無記名なのでこの記者が誰なのかはわからない)の問いかけから始まるのだが、このような論点では誰も争っていない。確実に否定できる問いから始めて、自分の正しさを演出する典型的な詭弁術である。
裁判例結果詳細 | 裁判所 - Courts in Japan
市営地下鉄の列車内における商業宣伝放送は、業務放送の後に「次は○○前です。」又は「○○へお越しの方は次でお降りください。」という企業への降車駅案内を兼ね、一駅一回五秒を基準とする方式で行われ、一般乗客にそれ程の嫌悪感を与えるものではないなど原判示の事情の下においては、これを違法ということはできない。
記事は何度も「とらわれの聴衆」判決を引き合いに出して広告批判をするべきでないと主張するのだが、「とらわれの聴衆」判決で問題になったのは市営地下鉄の車内放送で「○○へお越しの方は次でお降りください」という広告を行うことである。駅の構内に性的なポスターを掲示することを同列に扱って議論をすることに意味があるのかは疑問だ。仮に市営地下鉄の車内放送で性的な広告が流れたとして、それについて裁判を行えば判決もまた違ったものになるのではないのだろうか。
ちなみに「とらわれの聴衆」判決は以下に引用するように商業宣伝が表現の自由の保障をうけるものであるかは明らかでないとしているのだが、記事はそれについてはふれていない。自説を展開するうえで都合が悪いからだろう。
およそ表現の自由が憲法上強い保障を受けるのは、受け手が多くの表現のうちから自由に特定の表現を選んで受けとることができ、また受けとりたくない表現を自己の意思で受けとることを拒むことのできる場を前提としていると考えられる(「思想表現の自由市場」といわれるのがそれである。)。したがつて、特定の表現のみが受け手に強制的に伝達されるところでは表現の自由の保障は典型的に機能するものではなく、その制約をうける範囲が大きいとされざるをえない。
本件商業宣伝放送が憲法上の表現の自由の保障をうけるものであるかどうかには問題があるが、これを経済的自由の行使とみるときはもとより、表現の自由の行使とみるとしても、右にみたように、一般の表現行為と異なる評価をうけると解される。もとより、このように解するからといつて、「とらわれの聞き手」への情報の伝達がプライバシーの利益に劣るものとして直ちに違法な侵害行為と判断されるものではない。しかし、このような聞き手の状況はプライバシーの利益との調整を考える場合に考慮される一つの要素となるというべきであり、本件の放送が一般の公共の場所においてプライバシーの侵害に当たらないとしても、それが本件のような「とらわれの聞き手」に対しては異なる評価をうけることもありうるのである。
記事はここまで一応は法律論にのっとって議論を展開してきたのだが、ここから内容は抽象的で曖昧なものになっていく。広告主に表現の自由があるのなら、国会議員にも表現の自由があるし、思想・両親の自由もある。広告を批判した内容についてではなく、批判したという事実そのものを非難するのは難癖としかいいようがない。記事で展開される論に従えば、国内の民間の活動は経済的自由はじめほぼすべてがなんらかの形で憲法によって保障されているのだから、国会議員は憲法尊重擁護義務のせいでいかなる民間の活動に対しても批判することはできないということになってしまうだろう。
記事は広告が法的に問題があるかというだれも気にしていない問題は取り上げるのだが、自主規制のあり方がどうあるべきかという本来の関心が集まっていた問題については驚くほど無関心である。
また、松井茂記教授(ブリティッシュ・コロンビア大学)は、ポルノによる性表現が女性の「人間性を傷つけ、その尊厳を損なう表現」だということで問題にするのであれば、「女性」の場合だけに限定すべき理由が乏しいことから、「およそ人間性を傷つけ、その尊厳を損なう表現はすべて禁止されうることになろう」とし、さらに「おそらく戦争の犠牲者やテロ行為の犠牲者の写真や映像も、公表できないことになろう」と解説しています(松井茂記『インターネットの憲法学 新版』(岩波書店/2014年)169頁)。
このように、「ジェンダー構造を再生産する」とか「女性の人間性を傷つけ、その尊厳を損なう表現」だといった理由で、表現の自由を制限する方向の議論を展開することは、表現の自由が広く制限されすぎてしまうことにつながりかねず、問題でしょう。
記事はこのように主張するのだが、「人間性を傷つけ、その尊厳を損なう」ような広告を鉄道の駅に掲示することは現在でも自主規制の対象になるだろうし、そのことについても社会的に広く異論はないはずである。性的な広告を鉄道駅に掲示することの是非は、その自主規制のラインをどこに引くべきであるのかという、より繊細な議論を必要とするのだが、記事はただ「規制は慎重であるべき」という何の役にも立たない一般論を述べているに過ぎない。
記事はわざとらしく「立憲」という言葉を繰り返し強調したり、以下のような文言をはさむなどしており、極めて強い党派性が感じられる。
なお、国会議員等が、与党の解釈改憲や検察庁法の改正問題を批判した際には、憲法学や法律学の通説あるいは多数説によるべきとしつつ、別の局面では少数説の立場に立つという態度は、結局のところ、憲法学や法律学の専門家の意見を尊重して判断をするというのではなく、自分たちの立場と意見が合致するのであれば、専門家を都合よく利用するといった態度である可能性が高いといわざるを得ないでしょう。
常に通説や多数説に従えというのはある種の見識なのかもしれないが、「とらわれの聴衆」判決から「広告表現は憲法で強く保障されている」という通常と真逆のメッセージを引き出す記事でそのように訴えられてもどう受け止めればいいのか困るというのが正直なところだ。
何つーか、フェミも男オタもどっちも
「嫌いなものを攻撃するのは悪い事である」という前提に立っているから違和感あるし
どっちにも乗れないんだよな。
いや、嫌いなものを攻撃する事の一体何が悪いんだよ…別にいいじゃん。
アンチポリコレが問題なのはその差別思想にあるのであって、嫌いなものを攻撃する点にあるのではない。
大阪駅の麻雀ゲームのエロ広告みたいなものは大いに攻撃されて当然だろ。
「配慮」感がすごいという『ライザのアトリエ』の駅中広告、配慮する場所そこかよと総ツッコミ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2001949
にあるブコメ
雀魂?の時に会社側のレスポンスで大勝利みたいな雰囲気だったけど実際には燃えるたびにこうして前線は後退している。そして自らが燃料となり炎上に加担しているのは大部分がオタク側という皮肉。
スターもほとんど集まってないけど流石に看過出来ないので書かせてもらう
JR大阪駅の広告について以前別の増田が張ってくれて知ったのだが
あのエリアは1年くらい前からスマホゲーの広告スペースと化してて
雀魂咲コラボ広告以前から二次元美少女の広告が出ていたとのこと
https://twitter.com/tennmoku/status/1481133259551830021
https://twitter.com/YakumoyukariRZ/status/1571839217025847298
https://twitter.com/buruaka_teru/status/1584923813870829568
見れば分かるように一部のイラストには胸や腰のあたりに名前が被せてある
JR大阪駅の広告として掲載する際のガイドラインに則っているのだろう
雀魂咲コラボ広告への問い合わせが塩対応だったのもむべなるかな
よってJR秋葉原駅のライザの広告でふとももに文字が被せてあるのは
SNS上での論争では丁寧に議論を積み重ねて結論を得るのは難しいので、局地戦を仕掛けて勝利を積み重ね、相手陣営が如何に非論理的で頭が悪く、自分たちがその割りを食った被害者かを第三者に主張することが有効と言える。具体的な方法としては、浮いた駒(用意に破綻する主張をしてしまう無能な敵陣営)を晒し上げてTogetter等にまとめればそれを見た大衆は「○○派って変な主張ばかりだし、馬鹿にしてもいい存在なんだな」と思ってくれる。まあ所謂セレクティブエネミーというやつである。
暇空氏以前の表自と規制派の戦いを振り返ると、これまでは表自側が優勢だったという印象は拭えない。これは表現規制派が問題とする萌え表現について問題ではなく受忍限度内であるとの判断をする人が若者を中心に多い[1]にも関わらず、表現規制を要求する際の根拠や基準を明確には示せない(少なくとも聴衆を納得させられる状況ではない※)こと。またこれまで性的な被害を受けてきた被害者であるがゆえの強い言葉での否定が晒し上げられてしまった際にパターナリズムや男性嫌悪に基づいて規制をしようとする人達という印象が先行してしまったのではないかと考える。実際に日経新聞の月曜日のたわわ広告や大阪駅の広告では規制派側の要求は通らず、広告事業者側も客ではない規制派のクレームは社内基準等を盾にあしらう、という対応が(少なくとも商業広告では)定着しつつあるように思える。またそもそも問題であると感じた萌え絵表現をアドホックに叩くという戦術は、中立であった少なくないその作品のファンが根こそぎ相手陣営につきかねない危険な方法だったように思える。
前置きが長くなったが、これらを踏まえた上で暇空氏は現在表自側の浮いた駒になりつつある。暇空氏が現在戦っている土俵は表現の自由ではなく仁籐氏の本業であるColaboのアウトリーチ活動であり、表現規制に反対する立場の人でも仁籐氏の本業の活動については肯定的な人も多い。暇空氏は生活保護ビジネス陰謀論と会計の杜撰さを武器に戦いを挑んだが、陰謀論は返り討ちにされ、会計だけではColaboを潰すには足りない。また会計の問題についても意図的な不正で大金をせしめていたというよりは単に杜撰だったという印象があり、仮に「東京都と相談の上、今後は適切な会計処理を心がけます、それはそれとして暇空氏の誹謗中傷は許せません」となった場合にどちらに理があるのかは明らかである。また暇空氏自身だけであれば良いものの暇空氏は過激なファンネルを抱えており、彼らが誹謗中傷を行ってまとめて浮いた駒として負けてしまうことは世間への印象として非常にリスクが高い。これに関連して、暇空氏と同じく表自側のインフルエンサーである青識氏はColaboへの誹謗中傷をやめるよう注意喚起をしている。これはColabo憎しで本業に影響を与えた輩がまとめて敗北する事を危惧していると考えられ、青識氏の行いはあまり好きではないがネット上での喧嘩のやり方については流石にプロであると感心した。
Colaboの本業を叩きに行く暇空氏の戦いはほとんどギャンブルであり、今後の展開によっては大敗する可能性がある。また表現の自由の枠組みの中で戦っていれば有利であった表自にとって戦線を拡大するギャンブルを犯す意味は薄い。暇空氏はすでに暴走しており止めようがないが、良識ある表自としては一度暇空氏とその過激なフォロワーに肩入れすることはせずに推移を見守るべきと考える。
※自分の意見としては規制の基準は必ずしも規制派が示す物ではなく関係者の合意によって双方で作り上げるものとの認識なので、規制派が皆が納得する基準を示せないからといって即座に主張が無効とはならないと考える。一方で規制派も表自に対して基準を検討するためのテーブルに着けとの方向性を示せず、自身らの暗黙的な基準を押し付けたのはパターナリズムとの批判は免れないのではないと考える。
[1] JR大阪駅「性的広告」に見る日本で炎上が続く真因 https://toyokeizai.net/articles/-/636895?display=b
新世界は有名観光地と言うよりは、観光地の遺跡やで かつての繁栄と衰退の歴史に思いを馳せるんや
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/otsujikanako/status/1597263192409149441
尾辻かな子@otsujikanako
尾辻かな子氏は自らカミングアウトしたレズビアンだ。ggればでてくる。
咲は登場人物はほとんどが女性でありながら恋愛っぽい雰囲気を醸し出している百合漫画だ。
この2点が今回の問題を読み解くうえで非常に重要な論点であることを自らが白状した形だ。
登場人物は非常に露出度が高い恰好を好んでおり、煽情的な恰好で麻雀を行っている。
「ゲイからみたBLファンタジー」がクソで嫌悪する人がいるように
「レズビアンからみた百合ファンタジー」がクソ嫌悪する対象になっているのだろう。
確かに彼らマイノリティの実態ともかけ離れてた内容が描かれて偏見を助長する可能性もあり
でも尾辻さんはそれを隠して性的消費のレッテルで被せて批判しだしたし、挙句には最初のように中身まで結局言及しだした。