フェミニスト寄りのオタクの人たちや、腐女子の人たちが、よく「カーテンの向こうに行けばいい」みたいなことをおっしゃるんですが、なんでこれに賛成できないかっていうのがイマイチ伝わっていないので、簡単に説明したい。
この間話題になった、大阪駅の咲の広告は、ソシャゲの広告なんですよね。ソシャゲの開発費用はどんなに安くても数千万、普通は億単位かかりますし、咲とのコラボのための開発費やライセンス料もかなりの金額がかかっているはずです。
ここでコストを回収して利益を出すためには、わりとガッツリ広告しないとできない。
「宇崎ちゃんは遊びたい」とか「月曜日のたわわ」もそうで、出版社を背負って立つ、とは言わないまでも、バンバン一般に売れて利益を出してくれるから、当たるかどうかもわからない新人発掘や、赤字垂れ流しの人文系の仕事ができるわけですよね。
同人作家も、今やプロ同人みたいな人が多いので、売れるか売れないかは生活に直結している。
助成金貰って大赤字で出版する大学の先生とか、子供部屋おばさんが趣味のお仲間の交流でやってる同人誌と違って、彼ら(彼女ら)は商売でやってるんですよ。だから、がんばって広告しなきゃならない。
ぶっちゃけて言えば、山本直樹は、印税の入ってくる大御所で、低コストな制作体制で、一部の趣味人に刺さればいいってビジネスをやってるから、カーテンの奥に引っ込めばいいぐらいのことを言っているだけ。
この基準をソシャゲ屋に適用すれば、どんだけの人数の首切らなきゃならないか、という想像力がゼロの、ゲージツ家の先生のたわごとにすぎないわけです。
金の問題なんだから我慢しろ? そういう意味じゃ、ナチの作ったゲットーだってゾーニングと金の問題に過ぎない。まあ、金が無さ過ぎて餓死者と病人が続出したわけだけどね。
ま、そういう前提があって、もう一つの問題として、そもそもその広告表現が「カーテンの向こう」に引っ込まなければならないほど実害があるのか、って問題がある。
もちろん、その表現で傷つく人や、精神的ショックを受ける人がいることは認める。しかし、そのレベルで言うならば、ハングル表記で精神的な打撃を受けるネトウヨだって珍しくない。
感情に貴賤はない以上、「内心の静穏の権利」を守るために規制するとなると、ハングルにショックを受けるネトウヨの主張も飲まなければならなくなる。
もちろん、現実にそんな規制はできないから、そのくらい我慢しろって話にしかならないわけなんだけど。
これが、廃人を続出させるシャブであれば、たとえシャブでビジネスやってる人がいたとしても規制するのは妥当だと思いますよ。でも、萌え絵は、規制薬物や公害物質のようなものじゃないわけですよね。
そういう比較衡量を全くせずに、自分が興味ないからって雑にゲットー送りにしてしまえ、みたいなことを言うのは、控えめにって恥知らずの愚か者なわけです。