はてなキーワード: 不毛な議論とは
こないだの人か。
https://anond.hatelabo.jp/20220702070421
もちろん正しさなんてものは、人間である以上は、一義的に決められないが、
今の日本は民主主義国家なので、「民主主義の視点からの正しさ」はあると思うよ。
「それに反発する人間の意見も封じ込めない」、ってのも民主主義だし。
「言い切る」ってことは独裁主義ってことになる。日本ではそんな状況ないと思うけど・・・?
2022-07-12
なんというか、具体例を挙げると
なにか八百長くさい・わざとらしいやり取りや行為を「プロレス」と呼ぶ → プロレスはそんな物じゃない!プロレスとはリングの上の神聖なうんぬんかんぬん
なにかふわふわした良く分からん文章や表現を「ポエム」と呼ぶ → 詩を馬鹿にするな!ポエムを蔑称で使うやつは教育を受けてないうんぬんかんぬん
こんなことはまあ良くある事だと思うしTwitterとかでも度々バズったりしてるが
もっと深刻なことでいうと
ある絵や映画とかを見て単純な感想をいう(あるいは性描写を単純に受け取る) → 日本の美術教育は実践的になっておらず無責任な大衆を大量生産しうんぬんかんぬん
不毛な議論を「宗教」「神学論争」と呼ぶ → 神学はれっきとした哲学の一分野でありその様な用法で使われることは日本の文化環境の頽廃うんぬんかんぬん
なにかの独裁的な様子を「北朝鮮」みたいと言う → 諸外国を引き合いに出すのは差別、日本なら日本の歴史で例えろうんぬんかんぬん
なにかの出来事に対して「どっちもどっち」「相対主義」をとる → 相対主義は日本の悪癖で、ガンダムやひろゆきの見過ぎの悪影響でうんぬんかんぬん
みたいな、用語その物への「雑」さによる、無数の人々の対立って常にあるわけだよな。
言葉狩りには至ってないが、用法が普及しきってしまっていて修正できない事への専門家のいら立ちとでもいうか。
相対主義を漫画やアニメで「理解」することとかはもっと深い問題だとは思うが。
でも実際、大勢の人間が「なんかこの絵よくわかんねーけどおもしれー、うわーおっぱいだー」「相対主義ってのは、そういうもんだろー」「神学論争うぜー宗教くせー、もっと現場にこいや」みたいな理解をして、そして毎年そんな人間が再生産されている以上、
「雑」とされる感性ってどこまで雑なのか、それこそ大衆の理解がなんで間違ってるって言えるのかということになるよな。
もちろん用語の使い方が差別的だステレオタイプ的だとか個別の問題にあるにせよ。
東大や慶応早稲田の偉い先生よりも、アニメ(制作者自身がどう考えてるかは別)や、ひろゆきが影響を与えているとして、
この国が資本主義・自由主義であり何を選んだり消費するかの自由がある以上、庶民の「雑」な意見と理解を、「間違い」って言い切る事は出来るのだろうか?
相対主義ってそんなに悪か?相対主義が原因の直接的暴力ってものがあるなら悪いと思うけど、無いなら、まあ最低基準かなみたいにしか思えない。
「相対主義のせいで人々が社会正義に参画せずー」みたいなことをいうなら、別に他にもいろいろもっと強力な参画しない理由がある訳だし。
というか全員が全員「相対主義の悪を理解してる」「正しい芸術の見方を知っている」国(義務教育でそう詰め込まれる国?)があるとしたらそれはそれで怖くないか?
なんというか、具体例を挙げると
なにか八百長くさい・わざとらしいやり取りや行為を「プロレス」と呼ぶ → プロレスはそんな物じゃない!プロレスとはリングの上の神聖なうんぬんかんぬん
なにかふわふわした良く分からん文章や表現を「ポエム」と呼ぶ → 詩を馬鹿にするな!ポエムを蔑称で使うやつは教育を受けてないうんぬんかんぬん
こんなことはまあ良くある事だと思うしTwitterとかでも度々バズったりしてるが
もっと深刻なことでいうと
ある絵や映画とかを見て単純な感想をいう(あるいは性描写を単純に受け取る) → 日本の美術教育は実践的になっておらず無責任な大衆を大量生産しうんぬんかんぬん
不毛な議論を「宗教」「神学論争」と呼ぶ → 神学はれっきとした哲学の一分野でありその様な用法で使われることは日本の文化環境の頽廃うんぬんかんぬん
なにかの独裁的な様子を「北朝鮮」みたいと言う → 諸外国を引き合いに出すのは差別、日本なら日本の歴史で例えろうんぬんかんぬん
なにかの出来事に対して「どっちもどっち」「相対主義」をとる → 相対主義は日本の悪癖で、ガンダムやひろゆきの見過ぎの悪影響でうんぬんかんぬん
みたいな、用語その物への「雑」さによる、無数の人々の対立って常にあるわけだよな。
言葉狩りには至ってないが、用法が普及しきってしまっていて修正できない事への専門家のいら立ちとでもいうか。
相対主義を漫画やアニメで「理解」することとかはもっと深い問題だとは思うが。
でも実際、大勢の人間が「なんかこの絵よくわかんねーけどおもしれー、うわーおっぱいだー」「相対主義ってのは、そういうもんだろー」「神学論争うぜー宗教くせー、もっと現場にこいや」みたいな理解をして、そして毎年そんな人間が再生産されている以上、
「雑」とされる感性ってどこまで雑なのか、それこそ大衆の理解がなんで間違ってるって言えるのかということになるよな。
もちろん用語の使い方が差別的だステレオタイプ的だとか個別の問題にあるにせよ。
東大や慶応早稲田の偉い先生よりも、アニメ(制作者自身がどう考えてるかは別)や、ひろゆきが影響を与えているとして、
この国が資本主義・自由主義であり何を選んだり消費するかの自由がある以上、庶民の「雑」な意見と理解を、「間違い」って言い切る事は出来るのだろうか?
相対主義ってそんなに悪か?相対主義が原因の直接的暴力ってものがあるなら悪いと思うけど、無いなら、まあ最低基準かなみたいにしか思えない。
「相対主義のせいで人々が社会正義に参画せずー」みたいなことをいうなら、別に他にもいろいろもっと強力な参画しない理由がある訳だし。
というか全員が全員「相対主義の悪を理解してる」「正しい芸術の見方を知っている」国(義務教育でそう詰め込まれる国?)があるとしたらそれはそれで怖くないか?
いやだからさ、別に羽生さんのウラを読んでるわけではなくてさ、絶対に差別的な発言が出来ない人の当たり障りのない意見を論拠とするのはいかがなものですか?ということなんだけど。
あとさ男女能力論というのがいつも有耶無耶になる理由に関していい加減察して欲しいんだけど、「女は男より劣っている」なんてことを、まともな人間は声高く言いたくはないってことなんだよ。
あのね?結果はすでに完全に出来上がってるわけじゃない?
スポーツにしても頭をつかうことでもトップに君臨するのは男なわけで。
でもね、まともな人間とかまともな男っていうのは、それがどうかしたの?って思ってるんだよ。
確かにひとつの分野で頂点を極めるというのは偉業だし素晴らしいことだけど、同時にそれがどうした、とも思ってるの。
つまり男と女の能力差があったとしても、それでも人間としての女というものの根源的な素晴らしさは全く損なわれるものではないということ。
もっといえば男女合わせて考えても、それぞれの人間には能力差というものが愕然とした事実として存在する。
でも、それがどうした?
その指摘・コメントに対して私が
1.「それはどういうことですか?」
2.「それは○○ということですか?」
などさらに聞き返す。
ゴールイメージをよりよく共有するために。
しかし上司は1.のようなオープンクエスチョンに対しては、冗長で要点を得ない話がダラダラと続くのみで、「これ」という具体的かつ明確な回答がなされることはない。
ヒドイときは開口一番「君はどう思う?」と質問に質問で返してくる…尋ねているのはこちらなんだけど日本語がわからなかったのかな…。
一方、2.のようなクローズドクエスチョンにも、1.の場合と同様に冗長で要点を得ない話がダラダラと続くのみで、イエス/ノーを明らかにすることはない。
そしてさらに私から「それは××ということですか?」と聞き返し、以下同じことの繰り返し。
しかもそれを万全の回答をしたと言わんばかりにどや顔でするものだから開いた口が塞がらない。
いつまでも不毛な議論を続けるのは時間も労力も無駄なので、不本意ながら私が引き下がり、短時間でほんのわずかだけ中身を変えたものを再度提出・提示する。
そうすると先ほどと大差はないのに、今度はOKになることが多い。
朝三暮四のたとえのような気もして若干滑稽なのだが…これはそもそも上司に適切な回答ができるだけの言語能力が不足しているからなのか、あるいは自分の発言に自信がない/責任を取りたくなくて逃げの姿勢が前面に出た結果なのだろうか?
いや、そんな責任(それもこんな些細な)から逃げるようなケツの穴の小さい人物が上司のポジションに据えられることは考えにくい。
いずれにしても対策として私は及第点を大きく下回るものを最初に出すことにしている。
いきなり及第点を超えるレベルのものを出してしまうと、上司としても指摘やコメントのしようがなく、上司としての承認欲求が満たされなくておもしろくない、とどこかのビジネス系のネット記事で読んだのを思い出した。
今週の不毛な議論を聞いてて、山ちゃんのワードセンスの高さってのを改めて思うのと同時に銀シャリの鰻の狂気と、橋本の軽快かつ上手い物言いが楽しかったわ。
で、今日仕事しながらマヂラブコント議論についてふんわり考えていたんだが、考えてみたら南キャンの漫才もどちらかというとコント漫才よな。
俺がマジラブを漫才と認めたくない要因として、変なことをしているだけってところだったんだが、そもそも南キャンのM1の漫才も間違いなく変なんだよ。
だって、お医者さんやりたいって言っているのに相方は火を怖がるサイをやるし、これはクリリンの分!って言いながら殴り掛かってくるし。
間違いなく、ただ変なだけだし、ジャンルもコント漫才に近いのよ。
それを笑いへ昇華できるのは山ちゃんのツッコミが一貫して普通の人としてのスタンスで真綿で締め付けるような一見優しいツッコミであの異常空間をコントロールできているか
これに近いのがアンタッチャブルのM1のネタも、ザキヤマがただ暴れているだけで同じように柴田が一般人の感性で突っ込みしてコントロールできている。
どちらも、コントよりの漫才でマジラブよりも絶対に面白いと自信をもっていえる。
さらに、変なことをしているだけかつ、キャラクターよりかつコントの漫才で言えば中川家なんかがあげられるが、あれは細かすぎて伝わらないものまねと似たようなベクトル。
あるあるネタなので変人が登場しても比較的受け入れやすいネタといえる。
M1取れてはいないが今の千鳥のネタなんかも大体大吾が暴れ倒してノブが激しいながらも突っ込む。
M1優勝者で言うならノンスタイルなどは変人が入れ替わる形式をとっている。
井上がいつものあの気持ち悪い感じを出すと、見ている人たちを代弁するかのように石田が突っ込む。
スリムクラブは雰囲気が独特だが、ネタの構成も概ね近い形ではある。
ダブルボケというシステムだが、ボケ方が独特すぎて世界観に入るのが難しい。
この二人もただただ二人が暴れ倒しているだけで見ている人たちを世界観に引き込むほどではないと感じる。
野田がただただ暴れ倒してて、村上がそれを見守る形式で突っ込みの視点がない、いやツッコミはしているだろうが野田の暴れっぷりに負けてしまっている。
バランスが取れておらず、ただただ置いてけぼりになる。
冷静に見れば見るほどつまらないんだなと改めて思う。
じゃあなぜM1とれたのかというと、芸人さんの話を聞いていると
「強力な個性にあこがれる」癖があるのかなとは思う。
強力な個性にあこがれ、それを面白いと捉える癖と言い換えてもいい。
実際M12020の結果は圧勝ではない、接戦でマジラブがたまたまた勝っただけ。
実際M1 2020において、巨人師匠、塙が見取り図に、松本、上沼がおいでやすこがに、富沢、志らく、中川礼二がマジラブに入れている。
志らくに関してはM1審査員としての力量に疑問を感じている人は少なくない、中川礼二はそもそもネタの性質上、一見個性大爆発に見えるあの手のネタにあこがれを抱いているように見える、富沢に関してはそもそもセンス型に近い人なのでキャラクター寄りのネタが大好物だ。
もし志らくが別の審査員だったら、もう少しロジック寄りのネタ作りをするタイプ、例えばノンスタ石田だったらどうなっていたかと思いを馳せるところではある。
そんなことはない、マヂラブは面白いという人たちはもう一度冷静にマヂラブのネタを見て、さらには有吉の壁に出ているときなどの彼らを冷静に見てほしい。
客体化はしばしば「悪い」ものとともに現れるが、客体化そのものが悪いわけではない。
同じように性的客体化はしばしば「悪い」ものとともに現れるが、性的客体化そのものが悪いわけではない。
客体化objectificationとは何か、何かを自分・主体subjectにとって操作可能な客体objectにすることである。
この操作可能とか客体とかの概念は非常に意味が広いため、そこのすりあわせがないと不毛な議論になる。
もっとも広い意味での客体化は人間が何かを認識するときに現れる。
例えば視覚情報というのは、様々な色の光の集まりでしかない。その光の集まりのなかから人だ、ペンだ、パソコンだ、と意識的・無意識的に一定の塊を見つけていくのが客体化である。
さらに一歩進んで、認識した塊の属性を与えるのも客体化である。
この人は女だ、このペンは赤ペンだ、このパソコンはiMacだ、と言う風に、意識的・無意識的に視覚情報と既存の知識を組み合わせて情報を増やしていく。
ここで「悪さ」が少し現れたことに気づく人もいるだろう。
その人は女性のような服装をしているが、実は男性かもしれない。そのペンは軸が赤く塗られているが、先端から出るインクは黒かもしれない。そのパソコンは一見iMacに見えるが、実際は中身のないモックアップかもしれない。
ペンやパソコンならただの勘違いかもしれないが人間の場合はどうだろう。その人は自分が男性と認識しているのに、他の人は女性と認識する。自分が何者であるかを決める主体性が失われ、客体化している。
もともとの抗議文 https://twitter.com/ogino_otaku/status/1435952341266493441/photo/1
もとの抗議文で挙げられた要素は4点「丈はきわめて短く」「腹やへそを露出」「大きな胸が揺れる」「極端なミニスカート」でしょう。
とくに目を引くのはローライズなスカート(スカートは丈が短いんじゃなくて股上が浅いように見える。)とへそ上で切られたセーラー服で、その間にセパレートの水着くらいお腹が露出しています。
襟周りのセーラー服風の意匠で想像される日常着としての制服のイメージと、水着レベルの肌の露出という大きなギャップが、強い異化効果とともに性的な感情を喚起するのは当然かと思われます。
また、絶対領域に代表される「四肢が一度隠れてまた見える、見えてはまた隠す」という見せ方も、生肌を効果的に印象づけ性的な感情を喚起するテクニックです。ショートデニムで見る生足よりも、ダメージジーンズの破けた穴から少しだけ見える腿の生肌のほうに、より性的な感情を喚起されるのは私だけでしょうか?同意がありませんか?
この衣装では「スカートとソックスの間」「上着のオフショルダー」「オフショルダーの先端と、なんだこれ手甲?アームカバーの隙間」と食傷気味なくらい隙間を設けて性的な感情を喚起させています。ちょっとやりすぎで逆効果な気はしますが、デザインの意図として隙間を設けていることは疑いようのない事実だと思います。
よく見ると上着も真ん中下から大きく切れ目が入って胸の谷間あたりは黒いネクタイ状のなにかと赤いリボンだけがかぶさっている状態にも見えるけどよくわからない。
あと、スカートずり落ちそうだよね。
「性犯罪誘発の懸念」という文言はもとの抗議文では質問2の一回しか出てこない。質問2は「女児を」「性的な対象として」描くことが「性犯罪誘発の懸念すら感じさせる」と、今回採用されたキャラのデザインについて言っているだけで、Vtuberかどうかなんて一切言ってない。ただのイチャモンでなければ誤読でしょう。答える必要はないと思います。
あなた方の抗議活動は、「株式会社 Art Stone Entertainment」やVTuberを運営するクリエイターの公共空間における表現活動の場を奪い、経営者である板倉節子氏をはじめ、女性の自己表現の機会を潰す結果となっておりますが、そのことについて、女性活躍推進の観点からどのようにお考えか、お答えください。
これは知らんがなで終わりじゃないかなあ。地の果てまで追い詰められて発表の場をすべて奪われたというならともかく、案件が一個ミスマッチで没になったと考えるなら珍しくもない。中の人はともかく経営者の性別とPR動画の適切さには何の関係もないでしょう。
自らの肉体の年齢や性別と異なる姿になり、自らの意思によってその服装や肉体の在り方を決定するというVTuberという存在について、LGBT、特にクロスドレッサーの人権の観点から、どのようにとらえているかお答えください。
問題にあげたPR動画以外の場所で頑張れば良いと思うし応援できるんじゃないの。クロスドレッサーだからあらゆる場所でドレスコードを無視してもよい存在になれるわけじゃないでしょ。
(クロスドレッサーがLGBTに含まれるかはググってもよくわからなかった。用語としては趣味の異性装のことっぽいけど。)
戸定梨香氏の体型や服装は、VTuberとしてごく一般的なものと考えますが、そうしたVTuberの動画が「女児を性的対象とする」ものであり、「性犯罪を誘発する」と貴連盟が断定する根拠をお答えください。
Vtuberとして一般的なのが事実かはわからんが、それ今関係ある?全Vtuberとの敵対関係を無理やり作ろうとしてませんかねこれ。
もとの抗議文ではかなり引いた書き方(〜の懸念すら感じさせる)してるし、とても断定してるとは読めないんだけど、正直ここはもとの抗議文もかなり微妙。どうなんだろうね。
~~~~~
途中からグダグダになってしまった。オタク〜側は「性犯罪を誘発する」ってワードで押しつぶそうとしてて、「固定観念と有害な慣行」という論点からは全力で逃げてる印象だけど、そっちのほうがもとの抗議文ではメインだったはずなんで、そのへんはうまくすり合わせしないと不毛な議論となって発散してしまうのではないでしょうかと心配になります。
70を越えた両親はワクチンを2回とも接種した。
他にも身近な高齢者は次々にワクチンを終えてとりあえず身近で感染リスクの高い人はいなくなった。
その頃からふつふつと湧いてきた感情が、今のうちに感染して楽になってしまいたいという気持ちだった。
周りの人間たちは不毛な議論を繰り返しては今の状況を人のせいばかりにする。
協力しあって乗り越えればよいのに、まるで自分以外のどこかに原因があるかのように好き勝手主張している。
声を大にして言いたいのは、コロナが一向に収束に向かわないのはそういう声の大きな人たちのせいだ。
あなた方が自分の欠点を認めて、異なる考えの人同士欠点を補い合えれば事態はもっと早く良くなっているはずだ。
今の自分の年齢なら、コロナに感染してもぎりぎり軽症ですむ可能性が高い。
ワクチンはまだ1回目だけど、それでもないよりは全然安心できる。
できればもう少し医療機関に余裕があるほうが安心できるが、逆に感染者が増えている今だからこそ、感染しても仕方ないと思ってもらえるかもしれない。
自分でも馬鹿だなと思いつつ、そんなことを考えてここ数週間を過ごしていた。
そしたら見事に感染した。
油断したわけではない。信じてもらえるとは思えないが、世間の人よりはよっぽど気をつけていたほうだ。
検査で陽性を告げられた時、これからどうなっていくのかという不安よりも、ほんの少しだけ嬉しさが勝った。
人より対策していたことは皆も知っていたので、驚きとともに温かいねぎらいの言葉をもらう。
2週間、だれに遠慮することなく休める。
もともと引きこもり体質なので、外に出られないことは一切苦にならない。
あとは症状がどこまで軽症で済むかどうかが問題だ。
幸いにしてほぼ発熱のみの軽症で済んだ。ワクチンが効いたのだろう。
辛かったのは最初の数日だけで、あとは割と元気だった。
ただ、気力が伴わないので、難しめのゲームや映画など精神力を使うものは一切やる気が起きなかった。
自宅療養期間も終わり、社会復帰した。
皆に心配され、軽症で済んでよかったと喜ばれた。
そして何より、もう、表向きの感染対策だけで、向こう半年は感染を気にしないで済むことが死ぬほど清々しかった。
ウィルスを撒き散らさないために手指の消毒や手洗いは相変わらず続けている。
でも、それが自分が感染しないためなのと、人を感染させないためなのとでは気持ちのゆとりが全然違う。
そこに恐怖はない。
こんなにすっきりした気持ちになれたのは本当に何年ぶりだろう。
そう思った時、やっぱり自分はコロナに感染したかったのだと思った。
きっと世の中にもそう考えている人は少なくないはずだ。
絶対に感染したくない人と感染したいと願う人とでは、会話なんかが成り立つわけがないと思った。
年に数回だけど必ず一緒に遊びに行っていた友人も早く感染すればいいのに。
そうしたら二人で、誰に遠慮することなくまた遊びに行くことができる。
ほんの数パーセント、重症化というリスクがついてまわるロシアンルーレットのようなギャンブルだけど。
生存バイアスで満ち溢れた今、皆に勧めたくなるこの抑えられない気持ちを理解してもらえないだろうか。
この清々しさをみんなにも感じてもらいたいと心から思ってしまう自分を否定することは難しい。
自分は運良く生き延びた。
小田急通り魔の対馬容疑者が弱者男性か、そうでないかといった不毛な議論が続いている。
私がここで言いたいのは、そもそも以前から弱者男性の定義が意図的に変えられてしまったことである。
本来の弱者男性論とは、別にモテない男についての言及では無かったような気がする。
男性の育児・家事の参加問題、遺族年金の男性差別、育休や産休と男性、徴兵の男性差別・・・といったかなり真面目な問題を扱っていたよね。
それがいつの間にか、弱者男性=モテない男性=女をあてがえ論に変容してしまった。
弱者になりえるとしたら、恋愛部門だけなので弱者男性とは恋愛弱者男性であるという雑な成り立ちだったのだ。
「対馬容疑者は弱者男性かそうでないのか」という不毛な話はもうやめて、本来の弱者男性論に戻るべき、要するに軌道修正するタイミングではないのか。
「批評家が決めるよ」
「IQが110以上ある人たちにとっては答えなんてそもそも1つしかないよ」
「物語のテーマが最も濃厚に伝わるにはどうすればいいか考えれば分かるよ」
「もしも妄想じゃなかったと言うなら4コマの貼ってある窓が映る漫画的な意味がないよ」
「もしも平行世界じゃなかったと言うならふさぎ込んでたやつがいつあんなふざけた4コマを描いたんだよ」
「起こった悲劇は変えられないよ」
「都合が良すぎると疑問に思わない人はメンタルを病んでるよ」
「正解がないと延々と不毛な議論が続くから正解があるべきだよ」
「正解がないと考察した俺が馬鹿みたいだから正解があるべきだよ」
「多数派が選んだのが正解の不在だよ」
「正解がないことが正解だよ」
「タツキが答えを一つだと言っても出された作品がそうじゃないならそうじゃないよ」
「物語に意味が必須だと思う人は現代アートとか大嫌いだろうね」
「創作に意味が必須だと思う人は現代アートとか大好きだろうね」
「可能性のゆらぎを描写している作品に一つの解があると思うのが間違いだよ」
「正解があると延々と話し合えないから正解はないべきだよ」
「正解があると他の考察してたら俺が馬鹿みたいだから正解がないべきだよ」
「とにかく愛の力だよ」
「愛は平行世界を超えるよ」
「愛は現実を超えるよ」
「LGBTだよ」
「友情だよ」
「間に挟まりて~~~」
「病気の人をだすのはよくないよ」
「俺は傷ついたよ」
「唐突すぎるよ」
「地震で殺したら災害に絡められるからと安易に殺人鬼を出したのが逃げだよ」
「異常者が起こした事件をダシにしてステレオタイプみたいに扱うなよ」
「俺がでてたよ」
「普通に楽しめばいいよ」
「正解があってもなくても名作だよ」
「背景が綺麗だよ」
「お前ら漫画読むの下手すぎるよ」
「正直大したこと無いよ」
「この程度で騒げるやつが羨ましいよ」
「俺はつまらなかったよ」
ただ、ケアできないくらい打ちひしがれている男性も多くいることを知っているのでそのことを語ってる。
最初は人生においていろいろなことをあきらめた男性①が静かに暮らしていたんだよ。
そのうちフェミニズム(特にSNSの時代以降の動き)が盛んになり、男性優位社会や暴力的な男性②が批判されるようになった。
また、その反動が匿名掲示板時代の口が悪い文化の名残も合わさって、フェミニズムに反論するミソジニー的男性③も目立つようになってきた。
出そろったのでまとめると、
ミソジニスト③は攻撃的なので、それに対する女性も攻撃的になり不毛な議論になりがち
そして、これら②と③の流れ弾が、静かに暮らしていた①に被弾して一番わりを食ってしまった。
この無害な弱者である①を区別して守る必要があったから生まれた言葉が「弱者男性」なのだ。
弱者男性はモテない程度にはキモいが、加害する男性とは別人だ。しかしなぜか一番攻撃の的にされてしまう。
キモくて弱い男は、きっと性格も悪く、生活も雑で、女を異常に求める一方ネットで女を攻撃し、リアルでハラスメントや暴力行為をするだろう、という偏見で見られてしまう。
それは別の人だよ、というために無害な人たちを弱者男性と呼んでいるのはわかってほしい。
もちろん弱者男性に社会的なケアがあるとありがたいとは思うけど、そこはあんまり期待してなくて、それよりも今殴ってる拳を一旦引っ込めてくれ、殴る相手をちゃんと見極めてくれ、というのが要望。
「どうして勉強しなきゃいけないの?」と子どもに聞かれて俺はこう答えたという内容の増田が先日ホッテントリに上がっていた。読んだ。クソおもんなかった。
とはいえあれを書いた増田だけを責めようとは思わない。「どうして勉強しなきゃいけないの?」に対する大人の答えはいつだってクソおもんないからだ。
この話題はネットではたびたび繰り返されるが、そこでなされる答えは往々にしてフワッフワしていて説得力に欠けクソおもんない。
その理由はぶっちゃけはっきりしている。嘘をついているからだ。
なぜ嘘をついてしまうのか。そもそも勉強しなければいけないというのが嘘だからだ。にも関わらず、勉強しなければいけない理由を無理矢理にひねり出すから、そこで語られる内容はフワッフワして説得力に欠けるものにしかならない。
「俺は今の仕事で学校で習ったことが役に立ってる」と言う奴がいる。そらそういう人もいるだろう。しかし、例えば学校で医学や法律の知識を教えれば将来医者や弁護士になる人にとっては確実に役に立つにも関わらず一般的に高校までのカリキュラムに医学や法律の勉強は入っていない。一部の職に就いた場合に直接的に学んだ内容が役に立つというのは子どもが勉強しなければならない理由としてはあまりにも弱すぎる。だいたい、役に立つかどうかでいったらゲームで遊んだり漫画を読んだりすることすら役に立つのだ。そういう経験は将来特に同年代の人との間で共通の話題となりコミュニケーションを円滑にする場合が数多くある。エンタメ業界で働く人にとってはもっと直接的に職業上役立つ経験となるだろう。どんなことだって何かしらの形ではその人の糧となるのだ。
「勉強をすると想像力が養われるのだ」と言う奴がいる。「優しくあるためには勉強する必要がある」と言う奴すらいる。じゃあたくさん勉強してきたであろう高学歴の人たちを見てください。悪口になるからこれ以上は控える。
そもそもの話として勉強というのは誰もが適応して付いていけるものではない。方程式はおろか九九すらままならないような人だってたくさんいる。だけどそういう人たちが生きていけてないということは全然ない。勉強に付いていけなかった人たちもその人なりのやり方で立派に生きている。そういう現実がありながら勉強しなければいけないと言うことにどれだけの説得力があるだろうか?
ではなぜ大人たちは「別に勉強しなければいけないなんてことはない」ということを認められず、勉強しなければいけない理由を無理矢理にでもひねり出そうとしてしまうのか。
ひとつの理由は実際に勉強して高い学歴を得ることは収入や社会的地位といった点で人生を有利にするからだ。大人からすると自分の子ども(や甥や姪)には有利に人生を歩んでほしい。だから勉強してほしい。だけど、それを勉強しなければいけない理由として語るのは利己的な動機すぎてあまりにもあんまりに思える。だからなんとか勉強しなければならない理由として美しいものをひねり出そうとしてしまうのだ。
そしてふたつめの理由は大人は子どもたちに勉強させなければならないからだ。
こう書くと「いやお前今さっき勉強しなくていいって言ったばっかじゃん!」というツッコミが入るだろう。違うのだ。「子どもは勉強しなければならない」と「大人は子どもたちに勉強させなければならない」は全く話が違うのだ。後者は正しいが前者は間違っている。そしてここを混同してしまうがゆえに「勉強しなければいけないなんてことはない」ということに違和感があり認めづらいのだ。
何が違うのか。「勉強しなければいけない」というのは個々人レベルの話だ。個人として勉強した場合の利益やしなかった場合の不利益がどうかという話になり、勉強することによって得られる利益を放棄したからといって生きていけないというわけではない以上別に絶対に勉強はしなければいけないものではない。
一方で「子どもたちに勉強させなければならない」というのは社会レベルの話だ。「勉強させなければならない」という言い方に強制のニュアンスが混じるのに違和感があるなら「勉強する機会を与えなければならない」に言い換えてもいい。
初等教育が充実していてほぼすべての人が読み書きや基礎的な計算をこなせる社会とそうでない社会を比較した場合、前者の方が豊かで力があることは明らかだ。そして初等教育から中等教育、高等教育に接続される子どもが多い社会ほど、より高度な人材が育ち、豊かで力のある社会になるというのもこれまた明らかだろう。
教育の本当の受益者は教育を受ける子ども個々人ではなく社会全体なのだ。
日本国憲法第四条には教育の義務について書かれているが、そこに書かれている文言は「国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。」だ。子どもに勉強する義務があるなんてことは書かれていない。書かれているのは大人は子どもに教育を受けさせる義務があるということだ。ここまで俺がしてきた話とぴったり一致している。
まとめると、「どうして勉強しなきゃいけないの?」という問い自体がそもそも微妙と言える。間違った問いに沿って考えると不毛な議論しかできない。
そこで問いを「どうして社会は子どもに勉強させなきゃいけないの?」に変化させると、視点が変わり、より本質的な議論ができるようになるだろう。
多くの人が「どうして勉強しなきゃいけないの?」に対して「自分は勉強してきたおかげでこんないいことがあったよ」というような個人の経験ベースの答えしかできていないという事実は結局勉強なんて期待されるほど人間を賢くしないということを示唆している。
俺は知性の働きとして特に重要なものは自分というものを相対化できることではないかと考えている。だから知的な人間には「どうして勉強しなきゃいけないの?」という問いについて考えるのであれば我々と異なる国や時代では勉強というものがどのように扱われているのかであったり、現在の教育制度がどのように形作られたのかであったり、そういったものを気にしながら考えてほしいと願っている。自分で答えは出さずにそういったものを子どもに調べさせる、考えさせる、というのもいいだろう。
だけど多くの人はそのような発想はせずに自分の経験の中から答えを出そうとしていた。人生の早い時期に勉強からドロップアウトした俺のような人間がそういった思考のアプローチに思い至っているのに、俺よりもはるかに勉強してきたであろう人たちがそんなんであるというのは、つまるところ勉強しても人はそんなに賢くならないという残酷な事実を示しているように思えてならない。
増田でもTwitterでも5ちゃんでもなんでもいいが、不特定多数の人間が議論する時に問題になるのって共通知識の無さなんだよ
レスバトルの中で、
A:〇〇は〜ですよ?知らないんですか?増田学入門にも書いてありますけど?不勉強ですね
A:それについてはry
と片方から知識がアウトプットされてくることはあっても、その知識はせいぜいBにしか共有されないんだよね。
C:〇〇は××だ!
と言い出したときには、AもBもいない。
Twitterのリプは辿りにくいし、5ちゃんはテキストが膨大すぎる上に過去ログに格納されるし、増田はもう言うまでもなく過去は過去へと流れてって見失われる仕組みだから「ログ読め」じゃ通じない。
ネット上には議長はいないから、論点もどんどんとっ散らかってズレて行くし不毛としか言いようもない。
wikiみたいな形式で「読みやすいログ」を蓄積できるシステムがありゃもう少しマシになるんじゃないかと思う。論点については、スレッドごとに絞ればズレにくくなるだろう。過去に一度あった発言は同じものとして識別できりゃあ、堂々巡りも車輪の発明も「堂々巡りになってるな」と気づけはすると思うんだよな。
議論の中で引用された文献とか、URLとかも一覧表示できれば、「インターネットの見ず知らずの人間と知識を共有する」が簡単になる。
反論と反論の場だけじゃなくて、増田の長文みたいなある程度まとまった考えを披露する場も必要だろう。それに対するツッコミも、「この文章のここの箇所の論拠は?」とワードのコメント形式で出来ると深めていきやすそうだなとか。
まあともかく議論の場がちゃんとあればネットの議論もマシになるんじゃないかと常々妄想しているわけだ。そしてその場には
・論点を明確にできるなんらかの仕組み
・主張を長文で発表する場がある
のような条件があればいいんじゃないかとか考えてる。
まあネット上の議論にそこまで求めるのが間違いなのかもしれないが、はてなでもTwitterでもWikipedia編集欄でも5ちゃんでもブログでも……日々これだけの人間が議論しているのにほとんど不毛に終わっていてログも有用な形では残らないのは残念すぎる。風が吹いてるのに風力発電しないみたいなものだ。
科学者なんてのも昔は訳の分からないことしてる無駄な人々だったのが、本や論文という形で世にアウトプットする仕組みだとか、学校やカリキュラムというインプットの仕組みだとか、そういうものがきちんと整備されることで、知識が体系化され有用なものになっていったわけで
ネットのこの不毛な議論も場さえ用意されれば何か形にはなるんじゃなかろうかと思うんだ。
「(ネット上の)テキストでの議論補助ツール」という妄想を長らくしてたわけだが、今回のコロナ禍でリモートワークも増え、「テキストでの議論」に需要は増したんじゃないかとか思ってちょっと嬉しい。ブレーンストーミングなんかは、発話形式の方がいいかもしれないが、いつでも自由にアクセスできて、ゆっくり考え直せるテキスト形式の方が本来議論には向いてると思うんだよなあ。
会議の長さとか生産性の無さとかは以前から問題になってきてるし、「テキスト形式の議論」がもっといい感じに盛り上がって欲しいわ。