はてなキーワード: パズーとは
自分が好きな女性のエロ漫画家が居るんだけど、その人の同人作品が「イケメンが純情な少女をコマす」という展開の作品を描くようになってきた。
エロ漫画に出てくる竿役は、商業エロ漫画だと冴えない主人公が主流だけど、最近はキモいデブが竿役だったりしてる。同人はキモデブ率が高い。
なんでキモデブが竿役になりやすいか?というとキャラとして動かしやすいから。
基本的に作品に出てくる男キャラは何かしら動かないといけない と宮崎駿監督は言う。
パズーやアシタカのように奮闘することが男キャラの存在理由で、動かない男キャラというのは作品では存在できないのだ。
キモデブが竿役として登場する場合は、彼には何か特殊なチカラがある。
最近で言えば催眠術を使える だとか 女の子の何か弱みを握って脅迫できる とか。そういう、なぜ女の子をコマせるか?という理由が描かれて作品にリアリティが生まれて読者の没入度が高まる。
特に、弱みを握ってゆする、とか悪いキャラクターだと女の子のキャラも映えて作品として価値が高まる。
女の子が体を許す理由に「イケメンだから」では納得が低いのだ。
おそらく女性読者からすれば「イケメンだから女は抱かれる」というのは十分な理由になるんだと思う。しかし男性読者は納得できない。
説明すると、例えば、男性が好きなものとして「自動車」がある。あるいは高級腕時計でもいい。
自動車はエンジンの排気量や最高速度などのスペックで語られる。高級腕時計もムーブメントや各パーツの詳細なこだわりがある。
つまり「なぜこの自動車・時計には価値があるのか?」ということが分からないと男は納得しないのだ。
花はただ「美しい」というだけで存在の理由になる。エンジンのスペックもムーブメントの生産技術もない。
咲いているだけで価値がある。
イケメンというのは女性からすると「花」なのだ。何も言わずに作品に登場するだけで良い。女の子の体を蹂躙してもゆるされる。
男からするとイケメンというのはエンジンを積んでいないスーパーカーのようなもので、それに何の価値があるの?と不思議に思う存在になる。
男受けするイケメンを描こうとして、催眠術が使えるイケメンを登場させるのももんだいがあって、万能すぎて逆に冷めてしまう。バランスの問題があるのだ。
イケメンだけどココが抜けてるとか、イケメンだけどコンプレックスがあるとかそういうマイナス要素を加えてキャラを作ることが多い。
冒頭の作家さんも、商業エロではそういう感じで抜けたイケメンを描いていたりする。
でも個人の同人誌では趣味前回でイケメンを登場させていて、ちゃんとイケメンの使い方を理解した上でそういう作品づくりをしてるんだと思う。
それまで二次関数とか方程式でxとかyとかしか触れ合ってなかったのに
いきなりsinとかcosって何?3文字ってどういうこと?ってなる
しかもsin θ って、ちょっと待って、なんて読むのコレ、え、シータ?パズーは?みたいに疑問が絶えない
三文字を乗り越えていざ中身を確認してみると直角三角形の比率だ、とのこと
最初から半径1の円のx,y座標、ぐらいで教えた方がいいと思う
sin(0) = sin(2π)って、え?どういうこと?ってなる
それまで循環なんて知らなかった人からすると度肝を抜かれる
おまけにsin(π/2) = cos(0)とか、ちょっと待って、じゃぁsinだけで良くない?ってなる
実はこれが一番の要因だと思うけれど関連する公式が無茶苦茶あるし覚えにくい
sin(α+β)= sin(α)cos(β) + cos(α)sin(β) とか(合ってる?)
しかもこの手の公式を使って方程式を解け、とかが無茶苦茶難しい
初見で解ける人は天才で、数をこなしてパターンとして覚えるしかない
なので脳の領域をかなり消費するんだけど、こういう方程式の読解は本当に数学系じゃないと使わない
なので「何に使うのコレ」っていう気分になって、そのうち「三角関数って使うの?」ってなるんだと思う
三角関数を教えるな、っていうのは極論だけど
この手の公式を山ほど覚えたり、解法のパターンを暗記させていくのは本当に必要か?という気にはなる
とはいえ、他に教えることも無いし、篩いとしては良い例題だと思う
今の高校数学ってオイラーの定理までやるのかなぁ?そこまで行くと数学に興味が出たりするから、やっぱり三角関数は必要だと思う
https://anond.hatelabo.jp/20220224213544
◯◯してほしいはわかったけど逆に誰かを愛したい、許したい、受け入れたいと思ったことはないんだな
これは誰とも関わらないが吉
これは全くもって、その通りだった
シータじゃなくてもドーラおばさんになろう
やってもらったことをやってあげよう、次に手渡そう
これも、まったくもってその通りだった
それじゃあ、私は一体どうすれば良かったんだ
だって、相手を大切にしたいとか、誰かのために努力するとか、尽くすとか、真剣に向き合うとか、何かやってあげたいとか、愛したいとか、大事にしてあげたいとか
そういう思いが自然に湧き上がってこない人間は、どうしたらよかったのか
「生まれてこなければよかった命なんて、一つとしてない。何かの意味があって産まれてくる」なんて、美しい言葉がある
ああ、なんて綺麗な言葉なんだろうか
その言葉がふさわしい人間になれたら、そうあれたらと、何度だって思ってきた
誰かの幸せを心の底から祈り、誰かのために生きられる自分であったらどんなに良いかと思ったか
でも、そうじゃなかったんだ
一生このままなのか、もうどうにもならないのか
この醜い薄皮を一枚剥いだその先には、そした素晴らしい世界が待っているんじゃないのか
https://anond.hatelabo.jp/20211116201833
どこからか、声が聞こえる
「それはお前の努力が足りないんだ。一歩勇気を出して先に進まないからそうなる」
「頭でごちゃごちゃ考える前に、まずは行動してからものを言え。お前に発言権はない」
ああ、もう全部うんざりだ
こんな意味のない人生、誰も見向きもしない人生、誰も興味を持たず価値を持たない人生
「あたしが此のまヽ海に沈んでも 何一つ汚されることはありませぬ」だ
シータじゃなくてもドーラおばさんになろう
やってもらったことをやってあげよう、次に手渡そう
人は何かを受けついていくものだそうだ
「だそうだ」なんて他人行儀に言うのは、私の人生においては正真正銘に他人事であるからだ
「いてもいなくても変わらない」と、人はよく言う
私は一体、何を渡されたのだろうか
次はどこに行けばいいのか、分からない
「フメイ」が積み重なっていく
あるいは気が付かなかったとしたら
考えることは一つ
「何の為に生まれたのか?」
「何の為に生まれたのか?」
やはり人間の為、に辿り着くモノ
耐えられない
もう
不明に耐えられない
早く
滅ぼしてくれ!
―ー徒歩二分「セカイ 紫vs藍②」
ルールを変える、そういう思考による志向が必要になるのだと思う
自分が望む現実に辿り着こうとするのではなく、今の自分がいる現実を理想とする
そこには思考の転換と、論理的な倒錯と、自分自身への欺瞞が存在する
我々の精神なんかとは比にならないほど、現実や肉体は強い存在強度を誇る
生かされているのだ、端的に言えば
土台じたばたしても詮方ないことなのだ
認めたくないと何度繰り返したところで、何も変わりはしない
ただただ、今日も気分が悪い
鬼滅の刃に感動しない
二回観たなりの感想を述べたい。原作は未読。今後の展開も知らない上で話す。(ぶっちゃけテレビアニメもまじめに観てない)
《映画:良かったところ》→《映画:良いとは思わなかったところ》→《鬼滅の刃は感動しない》
《映画:良かったところ》
この映画の素晴らしいところは、ジャンプ原作の王道の努力•友情活劇の中に非常に高品質な心情描写があった点だと思う。前半の炭治郎の夢の描写が素晴らしい。
家族との幸せな日常の夢に浸かる炭治郎。さっきまで列車に乗って鬼を探していたはずなのに、突然夢に惑わされた。夢を夢だと気付くまでの演出の仕掛けは、往年のホラー映画やSF映画を思い起こさせる。ねずこを運ぶ箱だったり、咄嗟に口に出る“昼間のねずこ”の違和感だったり。その加減が多すぎず少なすぎず非常に絶妙なのだ。ジャンプのアニメ映画だという大前提を守りながら、観客の我々は「炭治郎は本当に現実世界に戻るのか?」と不安にさせてくれる。六太の「置いてかないで!」という絶叫は悲しくも最高だった。子供の絶叫ってどうしてあんなに不安になるんだろう。初回観たとき泣いてしまった。再会できるはずのない家族ともう一度会えた炭治郎の喜びと後悔を観た我々は、夢から覚めるために進む炭治郎の辛さが理解できた。夢にいれば鬼なんて来ないのに、鬼を倒すために炭治郎は進んだ。そして、戦うために“自決”の賭けに出た。炭治郎は鬼を倒すために、自分の首を斬る選択までしてしまうのだ。なんて胆力だと、鬼と一緒に私も驚いた。そしてダメ押しのしんどいバージョンの夢。なによりも家族を優先してきた炭治郎が、父親母親弟たちに恨まれる様子を見せられる。そのときに「言うはずないだろ!俺の家族が!!」というセリフは演技演出共に本当に素晴らしかった。家族の死という最大のトラウマを乗り越えて、彼は鬼と戦って勝った。最高のカタルシス体験だった。今まで鬼滅の刃は流行っているからとりあえず観ていた作品だったが、ここまで観に来て良かったと思った。
あと、作画と音楽も良かった。ハイクオリティだった。声優の演技も高品質だった。
《映画:良いとは思わなかったところ》
新キャラ同士の戦闘にあんまり感情移入できなかった。顔は知ってるだけの先輩と、なんの前触れもなく現れためちゃ強い敵の急な戦闘に頭がついていかない。さらにこの二人も初対面同士だし。ヤタガラスにもアカザ打倒を命令されてもいない。アカザが“なんかいた”のだ。なんかいた、という理解しかできない。因縁もなにもないやつとの戦い入れる必要ある?煉獄さんがえんむとの戦いであんまり活躍出来なかったからアカザ戦投入したとしか思えない。戦闘が非常にぬるぬる作画だったし私が長子だから耐え切れたが、テレビ放送だったら耐えきれずチャンネルを変えていたかもしれない。
煉獄さんの親、お前なに言ってるの?「自分がどうして他の人間より強いか理解できるか」って、そんなこと言う親いるのか?少し斜に構えすぎかもしれないが、選民意識が強くはないか。煉獄父の奥方がそんなドストレートな言葉で表現するかいな。ノブレス•オブリージュを表現したいなら、「なぜ強い“火の呼吸”を我々が代々受け継いでるのか」とか………もっとオブラートに包めよ!若干鼻につくんだよ。
あと皆んな煉獄さんの死で泣きすぎ。先輩が命をかけて戦ってくれたので、ちょっと泣きたくなるのも分かるがあれは泣きすぎだろう。ほとんど寝てた善逸はなんで泣くんだ。炭治郎のメンタルは強いんだ。家族の未練を断ち切り鬼を倒す自決を繰り返す、ちょっと異常な強さのメンタルを持つ男だ。自分の意思で家族を振り切れるんだから、並の10代の精神力じゃない。そんな強い男が、顔見知り程度の先輩の死にあれほどまでに泣くだろうか。炭治郎は苦しくとも前に進める心の強さがあると思っていたのに、結局は号泣してる伊之助にハッパをかけられてしまう始末。おいおいどうしちまったんだよ。赤ん坊みたいに泣かないでくれよ。お前はこれまでの鍛錬と旅で強くなったはずなのに、先輩の死であそこまで泣かないでくれよ。この作品はやたら人が泣きすぎるんだ。
《鬼滅の刃は感動しない》
書いてて分かったことがある。鬼滅の刃のアニメは料理人の腕は神だが、レシピ作成者は二流だ。アニメーターの匙加減でなんとか名作の域に食い込んでいるが、元々の原作はかなりポンコツだ。たしかに面白いは面白いんだろうが、この程度の面白さだったら流行で終わる。なんとなく面白いが、人の生き方を変えるほど感動は与えない。私はそう思う。
あらゆるジャンルの作品で我々視聴者が求めるものは、『感動』の一点のみだ。作画がすごいとか、声優の演技がすごいなんてのはおまけにすぎない。視聴に耐えうればおおよその場合そこまで重要じゃない。
で、この感動を私なりに噛み砕いてみると、“昔の自分から生まれ変わる”ことの体験だ。映画『ラピュタ』で軍要塞からシータを振り向きざまにかっさらうパズーだとか、映画『ハウルの動く城』でソフィに「ようやく守るものが出来た。君だ」と言うハウルだったり。洋画でもいい。映画『タイタニック』にて海に沈むジャックをあとに自分の好きなように生きることを選んだローズなど。今回の映画でも、炭治郎がえんむに立ち向かったところなんて本当に感動した。現実を生きる我々にはしがらみが多すぎる。新しい選択肢を取るのは怖いし、自分で自分に不幸な暗示をかけてしまっている。でも、画面の向こうの彼らは、恐れの中でも古い自分を断って生まれ変わった。それを目の前で証明され、心が動くのだ。
長々と書いて申し訳ない。鬼滅の刃の話に戻ろう。この作品の最大の問題点は「あるはずのしがらみが都合よくぼかされてる」からだ。鬼殺隊でありながら鬼の妹を連れること、政府非公認組織の鬼殺隊、絶大な力を持ちながらただの鬼殺しに明け暮れる柱など、キリがない。今回だってそうだ。なんで精神の核を破壊しなかった。なんでえんむが人間を食わなかった。意図的に炭治郎たちが苦境に立たないよう誘導されている。そういうしがらみを無視されたまま話が進んでしまうから、ご都合主義だと思ってしまう。折角いい設定を持ってるんだから、ストーリーに生かしてほしい。鬼より悪どい柱がいてもいいし、警察に逮捕される鬼殺隊がいてもいい。ねずこが炭治郎の恋人を食べてしまってもいい。いくらでもあるんだから、アカザみたいなよく分からん敵をぶん投げて戦わせるんじゃなくてしがらみからけりをつけてくれ。原作がご都合主義に甘んじるポンコツだから、アニメの味付けがいかに最高でも私は感動しない。ハマらない。
鬼滅の刃が、日本人が一緒に楽しめるコンテンツになってくれたことは事実だ。皆んなが観ていた月9や朝ドラが、今は鬼滅の刃になった。立派なメインカルチャーだ。炭治郎たちは間違いなく時代を代表してる。