はてなキーワード: 資質とは
こんな欺瞞を、すぐツッコミが入るネットで書いて意味があるのか?w お前はアホか?w
なにが「ゲームに高じる(「興じる」はキョウジルって読むから覚えとけ)楽しい時間を提供」だw
射幸心に突き動かされて判断力なくした人間が張り付いてるだけじゃねえか。
なにが「運のいい人は景品だってもらっている。」だw
そんなものが目当てじゃないことは誰でもわかってるよなあ~?
宝くじとおんなじにしたいならパチンコ潰して国営の賭場でも作ればいいじゃねえか。
もしくは更にギャンブル性を低く・興奮させないようにする指導を受けるか。
なに怒り狂って他人の趣味に口出ししているんだか。
これもシャブなり阿片なりを当てはめて読んでみりゃいかに隙だらけの擁護かわかるだろ。
駅前に賭場があって。
(これだけでも異常だが、人口比を考えりゃさらに異常なのがわかるだろ。)
そしてパチンコを擁護しようと思ったらそれほど嘘やデタラメ並べないといけないってのが
病理の全てをあらわしてるともいえる。
http://anond.hatelabo.jp/20110403211423
やっぱり知的エリートの集う増田ではみんな「俺ならばっちり対策してたぜ!これだから低学歴は」的な感想なの?
そりゃ東電は原発事故の被害者を全力で救済すべきで、風評被害も含めて手厚く補償しないといけないと思うよ。予測できない事故だから免責なんて、そんな主張をするつもりはない。
でも俺がもし、決定権を持つ立場だったら、たとえば2006年の時点で福島第一の津波対策に予算をどのくらい出せたか?津波にさらわれない位置に予備電源を移動させる決断ができたか?自信がない。
今回の津波は、「過去にあのあたりで何度もあった」という人もいるけど、実際にどのくらいのがあったのか検索してみると俺の探し方が悪いのか三陸海岸の津波とか861年?のとかがヒットするだけだ。三陸海岸とはまるで地理的条件が違うし、過去最大の津波が38mだからそれに耐えられるようにしろって、福島第一に38mの津波が来るようなら三陸海岸は100m超えちゃうよ。1000年以上前の津波なんて文献が信用できないし(昔の人は何かと大げさだからね)逆に言うと1000年以上来てないのに対策するって決断できる?俺にはできない。
共産党が津波の危険を指摘していた(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-03-02/2006030201_01_0.html)というのも、これ予備電源が流されちゃうよって内容じゃないよね。実際に起こったトラブルを予言しているわけではない。正直言ってアカの手先のおフェラ豚が訳のわからないことを言ってるぜ、と思ってしまいそう。津波が来るような地震ならどうせ緊急停止しているんだし、引き波なんて1時間もすれば収まるんだからそのあと取水しても間に合うっての。っていうかピンポイントで「地下に予備電源があると冠水したときやばいよ」って指摘だったとしても、どうかな、ポンプがあるから冠水なんてしませんpgrってところだろう。
これは俺の個人的資質に欠けるところがあるからかもしれない。想像力に重大な欠陥があるせいかもしれない。でも自分が東電の立場になったら同じ事故を起こさないと断言できるかどうか、自信がない。
本当、馬鹿だよな。
「キャプテン翼にあこがれてサッカー選手になりたい奴が増える」ことと
「AV出てる奴がよく学校に来れるよなw」←これは真実ですよ?
元ネタ…というか引用先は2ちゃんねるカップル板の「恋人に引いた」系スレのどれかだったはず。
いつだったかなぁ。
内容は、同じ大学の女性がAVに出てることを題のように嘲笑った男性が、自分の彼女が同調せずに「なんて酷いことを言うの?」って態度だったのが不満で投稿した書き込み。
「あんた『恋人に引いたスレ』に書き込んでるけど、引いたのは彼女の方なんじゃないの」とか、
「なら勿論、AVを見たことは無いんだろうなテメェはよ?」みたいな意見も飛び出す。
「何を思おうと自由だけど口に出すことは良くないよ…」みたいにまとめる人も出てくる。
んー…それって的外れだよ。
体売る前に必要な覚悟ってのは見知らぬおっさんとレロレロしなきゃいけないとかそういう意味だけじゃないんですよ。
遥か昔から、おそらく世界のどこに行っても、体を売る女性ってのは売らない女性よりも軽んじられて生きるわけですよ。
そんなの当たり前じゃん。うん。流石にね。子供でも知ってる。
それを承知(知らなかったと言い訳できないものは「知っていた」前提で考えます)で、高いお給金貰うために股開いた女=風俗嬢なんですよ。
すごく当たり前のことを言いますが。
体へのリスク?
それだけで高いのならば、病気になった時点で手当として振り込むのが自然。
何故か?
「人間のキレイな部分」だとか、事実上「ある種の人権」を切り売りしてんだよ。
お給料受け取った時点でヤリマンヤリマンwって言われながら中指と人差し指を立ててくねくねされても文句言えないんだよ。
もう事務職くらいありふれた職として風俗が受け入れられている世界。
みんな風俗やるよ。
なんといっても給料がいい。(いや、世間の目が変われば給料が高いハズがないか…)
身一つで飛び込める。
手抜こうと思えばどこまでも抜ける。
誰でもできる良い職業として、風俗は世間的に「新聞配達」や「奨学金」みたいな健全なイメージになるはずだよ。
でも現実はそうじゃない。
その意味をよーく考えない方が悪いんだよ。
女は一回落ちたら這い上がれない。
女の資質や経済観念がどうこうの話じゃない。そんなもんは変わる方が悪い。
そういう女だ、って見られてしまう事実がもう何やっても絶対に揺るがないからだよ。
AVなんか特に一番どうやってもモロじゃんか。
特にそのへんを自覚してるはず。いや、「してなかったですぅ」じゃ通らん。
その視線に対するお手当で給料がいいの。
一生を生きるには安いかもしれない。
もちろん安いだろう。
だから「体売るやつはバカ」「売るよりも他に手段があるはずだろ」ってみんなが言うんじゃん。
隠せばいい?
そういうのは違う。
女自身が
「私ィ〜、ウリやっててぇ〜、でも黙ってればわかんないしぃ〜、それで〜、どうせ目の前にしたら起つくせに風俗バカにする男とか超ムカつくしぃ〜、でも最近は風俗も認知されてきたっていうかぁ〜、他人の過去を認められないでグチグチ言う方がよっぽどウツワちっちぇーって感じするじゃないですかぁ〜」
なんてスタンスでいたらならんのよ。
周囲に知れ渡って正面からバカにされたとしても、
『(あーウゼ…ッ…まあテキトーに健気っぽく被害者面してたら正義感の強そうなバカが絶対に庇ってくれるわーん♪)』
なんてスタンスでいたらならんのよ。
故に、風俗嬢が風俗をしていることに関してバカにされてても、それを庇っちゃならんのよ。
私だって元風俗嬢ですが、まあもちろん自分から過去を吹聴とかしないけど、もしバレてそれ故に友人失おうと何を失おうとそういうのは完全に自分が蒔いた種だから耐えなきゃいけないって「覚悟」くらいはして業界に入ったわけ。
その覚悟自体は悲壮にやる必要はなくて、むしろ「はいはい言いたい人は言いなさ〜い」くらいの軽い感じが理想だと思います。
それはオマエがヤリマンだからそうやって割り切ってんじゃね?と思った人、もしいたら甘いよ。
私は今までに一人しか貫通してない体だし、実家に多額の借金がなければ風俗なんてやってないよん。
むしろ不本意に業界入りした子の方がちゃんと覚悟して割り切ってる感があった。
まあ、そういう考えを持っているが故に、「風俗嬢だからなんなんだ!職業に貴賤ナシだ!」って意見には笑っちゃうわけ。
もっと素直に、「好きでもない男に股開いて恥ずかしくないのかな?理解に苦しむわー…で、ぶっちゃけ気持ちよかったの?」くらい言えって。
まあとにかく、私が言いたいことは
「風俗嬢だからってバカにしたら可哀想だろ!」的な意見は頭オカシイってこと。
嬢は覚悟してるものと見なされなきゃいけないし、貰うもん貰っといてその代償にメソメソするなんて最低でしょ?
変に風俗嬢を庇うと、「その覚悟すらできていない状態で股を開く選択ができちゃう究極のバカ」って侮辱することにもなるんですよ。
せめてさw「こういうリスクのある仕事だけど、今の私にはこれ以外どうしようもないのでリスクを覚悟でやります」って意思くらいあるもんだと見なしてよww
そういう覚悟もないのに人前でおまたパカーンって開いてアンアン言える奴って決めつけるとかwwwそこまでバカにしないでくださいwwwww
と、思うから、最初の方でAV嬢を庇ってた人たちはどっかおかしいよね自己欺瞞に溢れてるよねと感じ、この日記を書き始めた次第。
風俗嬢や元風俗嬢は縮こまって生きるべきだとかむしろ生きる価値がないとかの意見は全くの別物ですよ。
どんなカタチであれ、やったことのツケは払わないとオカシイよねって話。人のツケを勝手に取り上げてんじゃねぇぞって話。
たとえ引いたりしないってお方々がどれほど必死になろうとも
風俗嬢と聞いて悪いイメージを持つ方がいる限りこれは揺るぎないと思うの。
そして悪く思うのが当然で、そう思う人はいなくならないとも思うの。
その感情こそが、道を踏み外さないために必要な大事な感情でもあるわけですし。
子供産む気なんてないけどさ、妄想上の我が子が風俗する想像をしたらやっぱり嫌だ。
それくらいならもう一度デビューしてAVだって解禁してうんこだって食うし拳ぶち込まれてもいいしなんだっていいよ。
私ですらそうなのに、日本で普通に生きてる正常な人間が風俗嬢を受け入れられるわけがないんだってば。
「身内に勧められないが、偏見は持たない」ってのも「自然な感情を押さえ込んだ姿」だからね。
普通〜に、「身内に勧められないもの」ってのは自分自身も受け入れがたいはずさ。
私はボディピや入れ墨がそうだよ。
殊更にこの二つを糾弾はしないけど…でも、やっぱり、それが原因で何か言われてても絶対に庇わない。
自業自得じゃん?
自業自得って言われる筋合いのないものにそうそう不快感は抱かないじゃん?
自業自得なら自業自得なりに、きちんとマイナス面も受け入れて堂々としてる人なら「まあアナタは思う道を進んで下さい」って思うじゃん?
風俗嬢を差別しないぞーと意識している男性、あなたみたいな人が一番差別してるんだよー。
もう私なんかは見ててイライラしてくるくらい。
Togetter - 「francesco3氏」と「めがねおう氏」の炎上ツイートまとめ
その昔非モテというものがあり、今では二つに分かれ、ひとつは『関わってはならないサイト』に、もうひとつは非モテを名乗ることをそのものをやめた。
なぜそうなっているかと言えば、「ママのお人形」と形容される元来の資質もあるだろうし、他者に不快さを与える先天的な顔の造作の悪さもあるだろうし、今で言えば発達障害などの広汎的な不良もあるだろうが、いくつかの要因を元に、慢性的に幼児期からカジュアルに疎外されつづけた結果といえると思う。
カジュアルな疎外というのは、単にキモいといわれるようなこと、それだけである。
長年にわたり複数からキモいとか、なんでお前もいんの?とか、私の机に触らないでとか、二人組作ってーなどと言われ続ければ、塵も積もれば山になるのであって、人格の奥底に自分が自分であるが為にキモいという意識が形成されていく。
『自分が自分であるが為にキモい』というのはすなわち、自己表現してはならないということである。
自己を表現したら不快と思われるような存在否定の意識であり、自己表現をしないか、キモい自己表現のみが許される。服装は典型なオタクルック、闇に隠れるように地味さで、声は誰にも聞かれぬよう細々と小さく、趣味もキモいと思われるような一人遊び。
そのために非モテたちは、非モテとなる以前は名前のない誰かであった。分かり易く憐憫・同情されるほどのエピソードは持たず、しかし慢性的にカジュアルに疎外され、誰からも慰めて貰うことなく、その結果哀れで卑屈な人格が形成されているが、他者からみれば『努力不足』『甘え』と形容される、どこにでもいる名前のない誰かである。
ネット時代が到来し、名前のない誰か達に自己表現の春がやってきた。
彼らはいつのまにか集い、巣を作り始める。だが看板無き場に人が集うことはない。大きな前提条件として『モテない』が自然発生的に選択された。『モテない』は実に分かり易いカジュアルな疎外の経験として、大多数の『キモいひと』に共有されていたからだ。そして彼らは、喪板や非モテと言ったコミュニティを作り上げた。
カジュアルな疎外経験を自分語りすることによって、彼らははじめて互いに憐憫・同情・受容する場を得たのだ。
匿名か顕名というネット特有の大きな距離感はむしろ、疎外されることのない安心感としてうつった。
真の自己が孤独だと感じていた者が、自分以外の同じような経験に触れることは、なによりの癒しとなる。
場に癒された者は、自らも場に溶け込もうとし、その為の経験は十分に豊富で、そしてその経験も平和的に共有されていった。
自己表現の病を抱える者にとって、名前が付くことは実に安心できるもの。しかし、非モテで安心することは、失敗である。
コミュニティが形成されれば、時と共に煮詰まっていくのは仕方ないこと。
コミュニティが生まれればそのなかで更なる承認を得たいとする意識がうまれ、ばかげた内部闘争が始まるが、全くもって無意味なゴミに過ぎない。大別すれば2種類あり、一方はとにかく『モテたい』ひと達である。自己否定の表現である『モテない』と、希求の『モテたい』はおおいに違うので、自己を非モテに受け渡した人は揉めたのだろう。
そもそも欲望の大本は何だったのか・・・といえば、彼らはただ、自分を知って貰い憐憫・同情・受容されたかった。でなければ、コミュニティが形成されることもない。
『自分を知って貰い憐憫・同情・受容されたかった』という感情。
非モテの感情を規定する両輪。慢性的なカジュアルな疎外のなかで肥大化した攻撃性と、受容されたいという弱々しい自意識。具体例を挙げるなら、秋葉原加藤の理不尽に暴発した攻撃性と、被害者よりも加害者加藤の生活史に思いを馳せてしまうやさしさ。これがいまでは具象化され、非モテコミュニティに顕現している。一方はミソジニーであり、もう一方は同族に対する共感。しかし、この共感さえローカルなものであり、矯正されるべき共感とされる。
ミソジニーといえばフェミニズムに関連があるが、非モテはフェミニズムと親和性が高い。
痴漢vs痴漢冤罪に代表される主語の大きな人たちによる性別間代理戦争も親和性の高さの表れと言えば確かにそのひとつであるが、何よりも『自分が自分であるが為にキモい』から救済されたいとする意識が、『女性性からの解放』つまり自己表現を闘うフェミニストと親和的といえる。
なぜミソジニーになるのか。単に誤爆してるだけだ。抑圧移譲。弱い者達が夕暮れ、さらに弱い者を叩く。たとえ疎外されたとしても、誰かを疎外してはならない。疎外の中で肥大した攻撃性を纏って許されるのは、『性差別構造』を背にする女性か、その立場にたつ者のみである。慢性的なカジュアルな疎外は、そのカジュアルさから『敵』を固定することができない。非モテが背にするものは何も無く、敢えてあるとするなら非モテホモソーシャル程度なので、孤独に籠もることは正しい選択肢だ。
さらに言えば、性別間代理戦争は、権利を勝ち取ったフェミニストに対する非モテの嫉妬でしかない。単純化すれば、なぜこちらを助けてくれないのかという叫び。何故お前らは『俺<男性>の理不尽な被害にも思いを馳せないのか』、という怒り・妬み・嫉みを、最も強く表現できる闘技場。『痴漢vs痴漢冤罪』は場として使われている。
すべての被害体験は理不尽なものだが、女性の被害はたまたま『構造的な問題』と合致していたが故に、同情され、受容される。もっと言えば、女性への同情・受容は、『男性への攻撃』を纏っている。誰からも慰めて貰うことない非モテは、受容される女性の姿に妬む。そして個人的な被害体験の記憶に、『なぜあちら側だけ』『なぜこの上殴られるのだ』というような思想的疎外感が加わり、ミソジニーは加速していく。
女性の被害意識が『構造的な問題』として処理されても、非モテには適用されない。なぜならば、非モテの被害意識はきわめて個人的な女性からのいじめや暴言を発端とするからで、男性・女性全般とは無関係なのだ。『男性の最底辺』が理不尽な被害を受けたに過ぎず、男女全般で見れば男尊女卑の構造は維持されているのだから、転嫁することは不可能である。『構造的な問題』があるならば、非モテが被害を受けたことではなく、被害の声を上げられなかった場合に限られ、これは男性性暴力被害者が女性のそれよりも過小視される問題と地続きといえる。男性は何があろうと、強く逞しくあらねばならない。
弱々しい自己を守ろうと、パワードスーツのごとく男性性<攻撃性>を身に纏うミスを犯したあわれな非モテの、女性全般やフェミニストへ向けられた言論なんてものは、単なる無知か差別意識の発露として処理され、一方で男性性防護服を脱ぎ捨てた非モテは、代わりに身を守ってくれる<他者のやさしさ>も得られないのだから、自らのために立ち上がるような力すら失い、わずかに残る白馬の王子的な空想を胸にして、世界との関わりから後退していくばかり。だいたい、未だに男尊女卑がスタンダードなので、このような非モテ男など取るに足らぬ『例外』に過ぎず、決して『マイノリティ』を形成するほどではないのだ。
一部の非モテたちは何を思ったのか、個人的な左翼趣味を土台に恋愛至上主義を打倒するなどと言う大いなる目標を掲げたが、残念なことに、こんなものは『例外』が個人的充足の希求を社会そのものに直結してしまった時点で無理筋である。結局、Twitterでゆるゆると馴れ合う以下の充足しか得られず、破滅に至った。
男性性を剥き出しのままにする自制なき非モテは、そのアクティブさから結婚なり、非モテを道具に用いて商売に転化するなりで成功し、それはまさしく健常な男性の姿。これが正答である。
一方、自制ある非モテは元あったところ『名前のない誰か』に戻っていった。攻撃性は厳しく律され、女性全般などに誤爆することなく、過去の記憶に、自らの内側に、抽象的な世界そのものに向かい、生まれてこなければ良かった、既に全ては終わっているという意識に至る。その自制の強さ故に自己表現の病から抜け出せないのなら、孤独のまま人知れず終えるしかない。
非モテは死んだ。出口など無い。あるものは残骸のみ。
そんなにレベルの高くない大学で非常勤してたことあるけど本当なら中学高校からやり直した方がいい、
あるいはそこからやり直せばついてこれるのにって子は毎年いる。
でも現状そういう人を受け入れることができるのは絶滅寸前の夜間中学とか
高校やり直すと言ったって20過ぎて制服を着て他の子と一緒に通うとか現実的には難しい
そんなことして許されるのは大仁田厚とQさまくらいだろう(宮崎美子さんの制服姿ハァハァ)
だいたい社会で面倒見る気もないくせに大学を叩く感覚が理解できない
まぁ大学が受け入れているのは経営上の問題が主だろうからそんなに威張れることを
してるわけじゃないが何とかまっとうに社会に出たいから頑張ってるんじゃないのか
(もちろん大学行かなくても頑張ってるって人もいるが社会に出るための道の太さが全然違うってのは事実だろう)
くだんの学校の状況を詳しく知るわけではないがおそらく少なからぬ学生は
あのカリキュラムでもついてこれずに脱落しているだろうと思う
低ランク大に限ったことではないかもしれないがあいさつとか時間を守るとか
何かあるとすぐ来なくなる
事務の人や担任が家に電話をかけたり保護者と面談したりしていた
というかそういう大学が高校の代わりをしてるんだと思う
まぁそういうカリキュラムが許されるようになったってのは規制緩和のおかげではある
私はここの人みたいに「アルファベットで何が悪い」とまでは言い切る自信はない
私の授業を取った子は無事卒業しただろうか、就職して頑張ってるだろうか
http://anond.hatelabo.jp/20110220183706
これは勘違い。求めないのではなく、戦略・戦術面で失敗していたら、個人の資質など何ほどの役にも立たない、と言っているだけ。
当時の日本軍はもう、戦略・戦術面で失敗 していたんだから、、個人の資質など何ほどの役にも立たないよね。
何も役に立たないのに、
立ち向かえないなら立ち向かえないという事実と向き合う胆力が必要だった。
もっても仕方が無いでしょ。という話。
現実問題として、必要とか、不要ではなく、 そこにある現実であり、かつもう、どうにもならないので。
諦めるか、何かにすがるかしか無くて、 前者なら何もいらない。 後者なら 竹槍が必要。
この状況で 国ができることは 竹槍ぐらいだとおもうが?
他に何があるの? 胆力が必要というのは、 国ができることじゃないよね? もはやこの時点において。
、戦わずして勝つのが上の上と言ってだな…
今現在の、日本に 戦わずして勝つ という選択肢はもう無いだろ。
立ち向かえないなら立ち向かえないという事実と向き合う胆力が必要だった。
実は、戦略については他国のほうが一歩先を行っているものの、そこまで大きくは違わないだろ。中国だろうとアメリカだろうと、問題は抱えてるんだから。
戦略面が互角となれば、戦術で 戦術が互角となれば 戦闘で という話でしょ?
現状 戦闘で大きな差が出せないような 戦略的差がついているんだっけ?
それに別に、そこまで戦局を巻き返さなくても、大敗北を敗北に変えるだけでも、今の日本には大きな価値があるだろ。という話。
文字通り、おっしゃるとおり、国民一人ひとりの胆力が重要だと思うので
SLGでいういなら、訓練度だね。
不安や恐怖心から、まじない程度の意味しかない気休めに逃げるのではなく、立ち向かえないなら立ち向かえないという事実と向き合う胆力が必要だった。
何にw必要なんだよ。何にw
というスタンスなら、兵隊じゃない国民に胆力いらんだろ。増田は個人の資質を求めない側のポジションなんだから、個人に資質を求める回答はNGだろ。
戦略と戦闘はどちらも大事。 戦略があっても戦闘がダメならダメ。
戦闘に期待したからといって、戦略をしなくてもいいなんて一言も言っていない。
全く同じで、どんなに良い戦略があっても それにたよって、戦闘をしなくてもよい なんて話にはならんだろ。
であれば、兵隊は兵隊らしく、どういう戦闘がいいかなぁ戦闘技術はどういうのが今トレンドって話をしたほうがよっぽどいくねぇか?
毎回毎回、こちらに書き込むたびに匿名じゃなくて告知ばかりで恐縮なんですが、今夜もそうです。。。
今回、某出版社から「"東大卒"サラリーマン/OL」が職場などで体験した悲しいエピソードを集めた本を出すことになりました。
元々、このテーマに行き着いたのは、私の職場の東大卒の方が、会議で「君さあ、良いアイデアないの?東大出てるんだから」と、なぜか責められていたのを見たのがきっかけでした。東大卒社員への社会的な評価を見ると「まじめだが独創性が低い」(2003年朝日新聞)「基礎力はあるけどクリエイティビティがない」(森永卓郎)そんな意見が多い。しかし、これはけっして「東大生・東大卒」の実態を表していないのではないか。なぜ東大生はそんな風に偏見やイメージで語られるようになったのか。そこには個人の資質ではない、社会的な何かがあるのではないか…。
……なんていうことで、インタビューさせていただける東大卒サラリーマン/OLさんを探しております。(「自分じゃないけど、こんな話を聞いたよ!」「うちの職場の東大卒の人はこんな人!」という方もぜひご連絡ください)
↓詳しくはこちら(^^
多分そういう価値観の人はきっと、1万人の人間を救ったけどその為に家庭が破たんした医者とかより
社会に寄生しているにも関わらず温かい家庭を築く人の方が重要だと考えているんだろう。
仕事ができるということは、人間社会の為になっているというのは事実だ。
しかし、そういうベンチマーク出来る部分では、多くの人間が自己否定してしまうことになるから
弱肉強食が否定されて、あなたのような価値が主流だと言うことは理解してる。
つまり、一生懸命社会の為になるように生産活動を行う人を否定して、弱い者同士で傷をなめあうことを良しとする価値だ。
自分の遺伝子が高い資質を持っていたとしたら、それを一人占めするのではなく、他人に分けるのが社会貢献だと僕は思う。
問題は僕の周りも一応社会があって、人間のつながりで成り立っているということ。
僕が元カノに精液提供を拒んだ場合、僕は元カノの友人の女性たちから非常に悪い待遇を受けることになる。
そして、彼女たちは旦那さんを支配しているので、彼女たちから待遇が悪くなるということは僕の仕事上問題になるということ。
何度も書いてるけど、僕は仕事が出来る部類の人間で高学歴でエリートだけど、僕くらいのレベルの人は別に僕一人じゃなくて何人もいる。
僕は取り換え可能な人材なんだ。
そして、今回問題なのは、何度も書いてるけど、提供依頼者が元カノだってこと。
二次元の女の子はめちゃくちゃ可愛くて、処女で、ウンコしなくて、武術の達人とか宇宙人とかだったりしてかっこよくて……それでも……愛せない。
人は言う。欠陥だらけの三次元を捨てて理想だけを集めた二次元を愛せばそれで幸せになれると。
確かに彼女達は優れていた。あらゆる点で三次元を凌駕している。
問題は二次元と三次元どちらが優れているかなんてことじゃない。
俺が二次元の女を愛せるかどうかって所にに本当の問題がある。
俺達の資質の問題だ。お前は居もしないものを愛することが出来るのか?
しかし愛せない。二次元の女を愛そうとすればするほどますます道化じみてくる。クリスマスを二人で祝ったケーキの半分を、
二次元の女が食べたものとして捨てた所でゴミ箱には誰も食わなかったケーキが残る。
「彼女はケーキがおいしいと言っていたさ」とうそぶいても、頭は現実に向けて冴え渡る。虚しさから目をそむけることはできない。
発狂でもしない限り……。
結局俺は二次元の女を愛することはできなかった。
そんなことできなかった。
二次元の女を愛せ、だって? そんなもの、絵に描いた餅を食うようなものだ。
居ないとしか思えないものはもうどうしようもない。彼女達の磨きぬかれた美点も俺の努力も全ては無駄だった。ケーキも無駄だった。
1クールのアニメが終わって少ししたら天使ちゃんマジ天使と発言する奴が消えてゆくのを止めることはできない。嫁の名前は三ヶ月で変わるし、
圧倒的な現実の要請は俺の認識を曲げさせようとしない。虫歯の痛みは人を病院に駆け込ませずにはいられず、二次元の女は愛せない。
したり顔のバカがお前の愛でているものは絵でしかないなどと言いだすずっと前から何もかもはっきりと解っていた。
二次元の女が存在しない以前に、二次元の女を愛せるような狂った人間が存在していなかった。
俺がまともな人間である限りこの壁は乗り越えられない。限界は女の側ではなく俺の方にあった。
涙は追いつけない。
これは私も思っていたこと。
日本がこれだけ発展したのは、日本人の資質に要因があるというよりも、日本の立場がたまたま世界の潮流に合致していたせいなのではないか、と。
アメリカだって、陸続きな上下を比較的マトモな国家に挟まれているから発展できたともいえ、もしもメキシコの国家運営が100年前に完全に破綻していたとたら、防御壁の役割を果たさず、南アメリカから難民が次々に押し寄せて、アメリカ国内が大混乱をしていなかったかも知れない。
発展する国家というのは、何かしらの好条件に恵まれているもの。
ただし、それを利用できるかどうかは、その国家の構成員の決意や努力にかかっているのも確か。
同じように資本主義社会での発展のチャンスをつかんだアフガニスタンやイラクでは、人々にその意思がないために、そのチャンスを生かせず、混乱が続いている。
国際連盟脱退を喜び、日露講和条約に対して日比谷焼打事件が起きた。
官房長官は、これらを引いて、民意に従う事の危険性を主張した。だが、これらはすべて、国民に彼我の戦力・国力差について、知らしむべからずで行っていた為に、民意が暴走したという事案であって、民意に添うことの危険性を主張するのは、筋が違う。
これらの歴史的事実を教訓とするならば、事実を隠していると、民意が捻じ曲がってしまうという点であり、尖閣諸島沖で撮影されたビデオを隠す事は、同じ過ちを繰り返す事に他ならない。
このようなことを牽強付会と言う。柳腰外交は辞書を書き換えろという主張であったが、今度は、歴史的事実の解釈を書き換えろという主張で、歴史を捏造する中国や南鮮と同じレベルになってしまっている。間違った認識を滔々と論じて恥じないばかりか、間違いを指摘されて逆切れするのは人格障害者に分類すべきである。精神異常者は、然るべき施設に軟禁すべきであり、国会議員として多額の歳費を与えて飼うような余裕は、我が国に無い。
民主主義においては、最終的な政治責任は国民が負う以上、全ての情報を国民に知らしめる必要がある。政治家だけが政治責任を背負うというのは、大きな間違いであり、民主主義政体においては、政治家は国民の代弁者に過ぎない。代弁者が牽強付会をやらかすことを、常識的に考えて、国民は望んでいない。
自民党が隠していた情報を公開して、無駄や天下りによる癒着を無くすという公約を、守れないばかりが、自民党以上に隠蔽体質である事が明らかになっている。民意によって政権交代を為しえたと、都合の良い場面にのみ民意民意と利用するのでは、自民党よりも酷い。
党名に民主を名乗りながら、民主主義とはかけ離れた体質をしているというのは、羊頭狗肉の類であろう。官房長官や大臣といった個人の資質の問題ではなく、政党自身の体質の問題であると、認識せざるを得ない。