はてなキーワード: 羊頭狗肉とは
成田空港のホテルは常に戦国時代で、大体2-3年単位でお得なホテルが変わる。
しかし、2023年のベストステイは間違いなく東武(旧ホリデイイン)である。成田の前泊に情熱をかけ、10年間泊まってきた自分が言うので間違いがない。
どれくらい情熱があるかというと、予約後にももっといいプランがないかを毎日トラベルコとagodaで確認するほど。バックテストと称してる
※ちなみに、トラベルコはなぜかAgodaの料金だけは正確に出してくれないので別個で調べてる
どんくらい安いかというと、物価高の中、2人で泊まって朝食付きで1泊4750円だった。10年間見てきたが東武はこんな値段だったことはなかった
何があったのかはよく知らんけど大体ゲートウェイ、それよりワンランク上ならばマイステイズが鉄板だった。
流石にやばいと言わざるを得ない。しっかり朝食も美味しい。2600円という値段は妥当というレベル。
つまり、部屋代が2150円ということで、物価も税金もSky Highなこの時代においてバグだと言わざるを得ない。
安さには訳があると思われがちだが、今回の宿泊ではなんと見当たらなかった。
スタッフに爪切り売ってるか聞いたら売ってないと答えられたが宿内のマツキヨに普通に売ってたのが唯一のマイナス(そんくらいしか不満点が出せない)
あと、電話応対も全体的にどこか塩対応だった。これが四つ星ホテルならちょっとアレだが、この価格となると流石にどうでも良くなる
さらに、フィットネスは1600円とお高めだが、故にプールもガラ空き、大浴場に至っては入浴者0人。
休憩スペースは漫画付きで、ゆったり寝れる椅子もある。ロッカーもあるのでタオルを丁寧にひけばサウナ後に音楽を聴きながらゆったり寝るということも可能。
宿代が安い分、ここは課金するのを勧める。サウナも普通にアチアチで何より水風呂がこの夏に冷え冷えなのだ。さりげなくサウナマニアが大喜びな設定になっている。
第三ターミナルからはgooglemapベースで徒歩10分、バスで行けば第二、第一までざっくり10分だ
えぐすぎ
羊頭狗肉が蔓延るこの世の中で、このホテルは色んな意味で狗頭羊肉だ。
こんなに神ホテルなのに、サイトもスン...としてるし、ホテルの中も静かだ。アピールしようと言うガツガツ感がない。
まぁ成田のホテルは全体的にそんな感じで落ち着いてる。多分森の力だと思う
僕はこの宿、もはやスタッフより好きだ。この文章の量でおわかりいただけると思う。
最後に、大体agodaでお得なのだがどうせなら直予約でも十分勝負したほうがいいと思う
直予約で、フィットネス付きで一人6000円くらい出せばagodaともいい勝負できると思うし、手数料を節約できるくない?
さらに最後に、この後ベトナムに行ってそれもそれで楽しかったのだが、
https://twitter.com/PokemonSleepApp/status/1682685235912384512
『Pokémon Sleep(ポケモンスリープ)』公式 @好評配信中
@PokemonSleepApp
【就寝時に端末📱を充電することができない・充電することにご懸念をお持ちの皆さんへ❗】
睡眠計測の失敗を防ぐために、充電ケーブルをつなぎながら、睡眠を計測することをおすすめしていますが、端末の電池残量が十分にある場合は、充電ケーブルをつながずに睡眠を計測することができますよ💡
✅端末の状態や他のアプリの使用状況などによっては、睡眠計測中に端末の電池が切れる可能性があります
✅電池が切れて睡眠計測が終了した場合でも、90分以上計測できている場合は、電池が切れる直前までの計測データが保存されます
バッテリー消費は睡眠解析アプリが持つ普遍的な問題ではあるのですが、ソレに対しての公式回答が「充電しながら使いたくないなら繋がなくてもいいよ。途中で切れても知らんけど」というのは非常につっけんどんだなと。
まあ運営サイドからすれば「しらねーよ!そんなの当たり前だろ?頭湧いてんのか?」って感じだと思います。
でもこれってポケモンGOの時に「Ingressのポータル争いが社会問題化するのなんて何年も前に通った道だろ?まだ免疫ついてねーの?!今更ながら運転でニュースになってんじゃねーよ!!!」をしたときから何も変わってないんですよね。
同じ失敗をまた繰り返している。
ユーザーに対しての注意喚起だったり、安全性の保証をちゃんと行えていない。
既存のレールにそのまま乗っかって「もともとこのレールがこういうものなんだよ。しょうがなくね?俺が悪いんですか?」という態度を取るのをいつまでやってるんですかね……。
Ingressはまだしも睡眠解析系アプリって結構身軽というか、「まあいざとなったら店じまいすればいいよね」みたいなノリの物が多いんですよ。
買い切りだったはずなのに定期課金性にした某クソアプリみたいな無茶苦茶が許されちゃうような緩い業界なんですね。
そこにポケモンの巨大な看板を持って切り込んでいき、更にはハーメルンの笛吹き男の如く無数の新規顧客を釣れてきてしまった以上は、その市場における無法地帯を踏襲するというのは如何なものかなと。
睡眠のスコアについての計算もかなり適当というか、これ単に長さだけ測ってるだけですよね?別にそれで良いような気もするんですが、それならスコアという「何かちゃんと解析してそうな名前」をつけるのは違くないですか?
あと気になるのが睡眠についてユーザーが何かアプローチ出来る部分が全然ないんですよね。
ゲーム内で寝顔(ポケモン)を集めやすくするための手段はいくつか用意されてますが、ユーザー側が自分の睡眠をよくするためのアプローチが特に示されてない。
まあ強いて言うなら「俺もお香炊いてみるぜ!」ぐらいですかね?
なんだか全体的にクオリティが杜撰というか、そもそもこれで何を目指していのかが分からない感じになってますね。
「睡眠という比較的まだ手つかずの市場から金を抜き取れるための手段があるらしいので、俺たちもソレに乗っかって金儲けしたいぜ」ですよね。
はい分かってるのに分からないふりをしました極めてチャチいアイロニーをしかけました反省してます。
スタミナや放置経験値獲得の代わりに「1日最大8時間半まで寝れます」「カビゴンに3回ご飯をあげられます」でプレイヤーの進捗にキャップをしかけている形の。
いや本当に「睡眠アプリのガワを流用してまだ存在してなかった形の放置ゲーを新しく作った」という点では凄く良く出来ていると思います。
ユーザーは本当に「ポケモンスリープで俺たちの睡眠が良くなっちゃうぜ」という夢を見てるんじゃないかなって。
まあヤバイレベルにイビキがうるさい人が録音で気づいて睡眠外来に行く機会を生み出している可能性はゼロじゃないとは思うので完全な羊頭狗肉ではないと思うんですが。
ちまちまキャラを集める盆栽ゲームとしてのクオリティは操作レスポンスの鈍さを除けば良質ですね。
元々のIPの強さ、弾数の多さをゲームにちゃんと反映するためにかなりコストを使っているのを感じます。
ポケモンの眠り方が複数あるという部分についても「生物なのだから生態がある」という世界観を感じられていいと思います。
ただ同じ問題を抱えていたはずのポケGOがいまだに売上ランキング上位にいるのを見ると、これも淡々と伸ばせそうではあります。
でもここから伸ばしたかったら育てた盆栽を叩かせる場所が必要になってくるのでしょうね。
多くのゲーマーが口では対人コンテンツを嫌ってますが、競い合えない盆栽は廃れていくのが市場の常という矛盾をどう解決するんですかね―。
はぁ?
ノーとは言わせんよ絡んできたのは君が先なんだから。
本題に入ろうか、まず最初の勘違いはロリコンであるという難癖だよ。
役割上としてヒロインの年齢が一時的に若くなってしまうと言うだけで、別にその状態のヒロインに手を出しているわけではないだろ?
類推するまでもなく主人公はロリコンではなく大人の女性に欲情する普通の男だってのは初期のヒロインが誰であるか考えれば明らかでは?
事もあろうに物語における重要イベントであるNTRを忘れているなんてことはないだろうな?
似たような作品が多すぎる……というかこの作品の成功をパクった作品の多さにより陳腐化しているみたいだけどこの作品は実によく出来ているよ。
初動から結末までの流れるようなプロットは今読んでも見事だよ。
ウダウダと言い訳を並べてさも自然ぶるよりも、読みたいものを淡々と出してくれることこそが娯楽小説の役目じゃないのかね?
そう思っている貴方!
何故なら供給過多によって「好きなシチュ」×「好きな外見」の組み合わせで絞っても選び放題だからですよ!
もちろん同じ監督のAVであっても女優や男優によって全く毛色が変わってしまいます!
シチュエーションモノも一作目と二作目で方向性が変わることは多いです!
エロ漫画家もロリと巨乳を両方描く人もいるし竿役のキャラ造形が時期によってぜんぜん違うこともあります!
一周回って今はジャケ買いで直感を信じたほうが打率が高くなってきているんですよ!
なろう小説がタイトルで中身全部言ってしまう流れを作りましたよね?
アレが今やあらゆるジャンルに伝搬しているんです!
ジャケットと中身がどこまで一致させられるかが勝負の時代です!
何故か分かりますか?
ちょっと違うだけで羊頭狗肉扱いされてレビューが凄いことになるからです!
今の人はみんなレビューみて買ってるから基本的にレビューが下がったらヤバイです!
それ半分もあってないですよ!
DLゲーの世界なんて99%オフで1000本売ってから値段を戻すのは基本戦略ですから!
そこから発展して最初一ヶ月だけ90%セールとか堂々と言ってるサークルも増えてますからね!
違いますよ?
個人サークルであっても中の人の性癖がコロコロ変わったり中の人がバンドメンバーみたいにコロコロ変わりますから!
あー……まー……本音を言うとね……サンプル見てそれで決めるんですね。
サンプルは本編の500%の出力を誇るのは知られていますが、逆に言えばサンプルの20%の質なら期待していいってことなんで……。
それでね……サンプルのクオリティに0.2をかけて量と値段を考えてポチるか決めるんですよ……。
そうね……昔から変わってなかったわ……。
hesopenn
ちょっとでも「○○してほしい」という声をあげると「カスが」とか言われるの、どう考えても狂ってる世界だと思う。消費者が生産者に向けて何か要求することなんて日常茶飯事でしょ。どうなってるの…。
https://anond.hatelabo.jp/20221010163416
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20221010163416
「自分の気持ちとしてこういう要望を書いてみた」という話のように思えるんだけど
その後に展開していくのって
『倫理観的に良くない』
令和になって
書き出ししか読んでないと「〇〇してほしい」という要望を出しただけっぽく見えるんだけど
実際にはコテコテの何番煎じかわからないポリコレクレーマーなんだよ。
たぶんこのhesopennさんは大元増田のタイトルと書き出しに騙されて全文読まなかったんだと思う。長いし。
それかちゃんと読んでてほんとうはわかってるのにすっとぼけてるか。
どっちかです。
普段使っているYouTubeやtwitterといったサイトでは、AIによるコンテンツの取捨選択が行われる
現時点で数字を持っているものほどより多く人々におすすめされる。おすすめされたときの反応率を考慮しても、数字があるものはより数字を得ることになる。逆も然りである。
何も考えずにYouTubeの動画を見ていると、殆どのチャンネルが登録者何万人もいて、たくさん再生されているという錯覚に陥りがちだが、そこでYouTuberに夢を抱いてはいけない。とりあえず、一生懸命動画を作ってそれを投稿してみると良いだろう。大抵の場合殆ど誰にも再生されない。それどころか、誰もあなたの動画の存在すら知らないのである。ちなみにあなたが作った動画ですが、ほとんど誰にも再生されてないから、おすすめしません。あと検索結果にも出さないよ。すると最終的に誰にも再生されないし、誰にも存在すら知られないままネットの海に埋もれていくのである。めげずに闘魂込めながら作った動画をネットに投稿し続けると、ほとんどはブラックホールに吸い込まれたかのように存在感がなくなるが、たまに普段よりちょっと再生されるかもしれない。結局はどれだけ辛抱強く続けられるかといったところだろう。
おすすめ機能がなぜ存在するかというと、目に入るコンテンツを最適化しているわけで、人々の心を大きく動かしたものほどより多くおすすめされる。
多くの人を不快にさせるような発言も、人々の心をより動かしているので、より多くおすすめされるのである。結果人間の幸福量は低下する。
(不快にさせるようなコンテンツが存在してはいけないというわけではなく、そのようなコンテンツがよりプラットフォームにおすすめされる状況が良くない)
インターネットで多くの人を集めるコンテンツは金になるのである。過激な言動をすれば人が集まる。このような構造があると利益最適化のために過激な人がどんどん増えていく。
おすすめ機能はエコーチェンバー生成器でもある。例えば政治系コンテンツでは、特定の思想信条に沿ったコンテンツにいいねをしていった結果、その思想信条に沿ったコンテンツしか現れなくなる。その結果身の回りが同じ思想の人で固まってしまい、エコーチェンバーとなってしまう。
有名人やキャラクターでもなんでもいいが、それについてgoogle検索すると関連キーワードに「〇〇 嫌い」と出てくることがたまにある。しかしこれは無視するべきである。
このようなサジェストを見たときに人の心が動かされてより反応してしまう。なので、一定の確率でなぜ嫌われているかが気になって「〇〇 嫌い」と検索してしまう。大抵の場合、検索しても大した結果は出てこない。しかし、その気になって検索してしまった一定数の人の影響で、検索エンジンがより検索されるワードだと勘違いした結果、関連ワードにより表示されるようになるというシステムである。
おすすめされるかどうかの基準に、インプレッションのクリック率がある。インプレッションのクリック率が低いとそもそもおすすめされなくなる。なので一部のYouTuberは動画よりもサムネとタイトルに1億倍力を入れているらしい。知らんけど
結果、羊頭狗肉なコンテンツが世の中に跋扈する。釣りサムネが増える。
誇張したサムネとタイトル→ダラダラと中身のない話を繰り返す→どこかで見知ったような結論を出す みたいな半分釣りみたいなものにすればより儲かる構造になっているのだ。儲かるなら多くの人が真似する。なので自分も真似することにした。あえて過激なタイトルで人々を釣り、中身のない話をダラダラと繰り返して、どこかで見知ったような結論を出せば、どうやらインプレッションが増えやすくなる構造になっているようである。クソを投げたら儲かるからみんな真似した結果世の中がクソまみれになってしまいました。みんなも真似してインターネットをよりクソまみれにしようぜ。
本日はミクルマス、アルゼンチンではアルゼンチンで亡くなった発明家ピーローラースローの誕生日を由来とした発明家の日、日本では9と2と9で出来そうな語呂合わせでいろんな記念日が作られています。
犬の名前ばかり出してるから狗肉の日とか無いかなぁとは思ったんですけれど
まぁ元々いい意味では使われてないのでわざわざ作らないでしょうね。
そういえば苦肉の策って元々の意味合いとしては「自分自身を傷付けることで敵を欺く作戦」の『苦肉計』から来てるらしいですね。
だからつまり自分にとって大切な資本である時間を使ってこんな日記を書いてる私は常に苦肉の策を弄していると言えなくもないかもしれませんね。誰を騙すつもりだ?
苦し紛れです。
冷静に考えたら朝礼に見せかけて頭ごなしに苦し紛れな日記を書いてるのはまさに羊頭狗肉なのでは?
朝頭苦日記だわガハハとか言ってる場合じゃないな、でもまぁ朝礼で言ってたことの大半って右から左だからセーフだろガハハ
ということで本日は【配送場所の確認よいか】でいきたいと思います。
それは羊頭狗肉と言っていいのでは
福岡教育大学の初等のカリキュラム改革によって、副免が取りやすくなる、初等でも中学・高校の教員になれる、というデマが広まっています。
しかし、改革しようが、初等は小学校の先生になる人のための課程であって、中学・高校の先生になる人のための課程ではありませんよ、カリキュラム改革は見せかけですよ、という話。
福岡教育大学の初等は、小学校教員主免の一択で、副免(中・高校の免許)は取らせない、という方針です。
これは、寺尾愼一学長・櫻井孝俊学長、両学長(両名とも不当労働行為をおこなった、不当労働行為学長です)による「改革」の大方針であり、その改革は、成功しました。
初等は、副免は取らせない、という方針は、変わりません。
この「改革」の眼目は、「初等の学生を小学校教員にする」、ことにあります。
これは、「初等の学生は、中学校の教員とか、高等学校の教員にはしない」と同義です。
もし、副免を希望しても、中学や高校の教員免許は取らせない、仮に副免として取れたとしても、二種免をかろうじて取れるようにして、一種免は無理としたいのです。
https://www.fukuoka-edu.ac.jp/campuslife/academic_affairs/glb0i0000000126j-att/glb0i00000009mmy.pdf
小学校の先生になりたい、という人は、初等はおすすめです。しかし、中学校、高校の先生になりたい、という人には、絶対におすすめできません。
「改革」以前は、初等は選修制といって、各教科ごとにわかれていました。「初等国語」だの「初等数学」だのといった区分です。そして、副免として中学・高校の一種免を取ることが一般的でした。また、取りやすいようにカリキュラムを設計していました。本当は初等だけれど、中学(高校)の先生になりたい、といって、教員採用試験で中学校(高校)に合格する学生も、少ないながらいました。
これによって、教員採用試験を受けるのであれば、初等の学生は小学校しか受験できないようになってしまいました。
つまり、初等の学生には、小学校教員一択にして、実際に小学校教員にしかなれないようにする、ということが、大学の改革の目的だったのです。
実際に、就職率の数字を見ていくと、それが明らかになっています。
この年の卒業生は669人です。
そのうち、初等・中等・特支の学校教育三課程の卒業生は498人。生涯教育三課程(共生社会教育・環境情報教育・生涯スポーツ芸術)は171人です。
特別支援学校が32人(4.8%)
で、合計が358人(53.5%)になります。
進学者は66人(9.9%)で、その他は107人(16.0%)です。
これらを合計すると、669人となります。
なお、これを、初等だけに限って見てみます。
という内訳になります。
初等から中学・高校の教員になる人間が10%ほどいることがわかります。
ちなみに、これは、「教員採用試験に合格して中学・高校の教員になった」という数字ではありません。
教員採用試験に合格した人間も含んで、不合格であっても非常勤講師として採用された数も含んでいるものです。
さて、では、2020年(令和2年)の就職状況のデータを見てみましょう。
この年の卒業生は619人です。
そのうち、
特別支援学校が40人(6.5%)
幼稚園が4人(0.6%)
で、合計が446人(72.1%)になります。
教員以外は、115人(18.6%)です。
進学者は21人(3.4%)で、その他は37人(6.0%)です。
これらを合計すると、619人となります。
これを、初等だけに限って見てみます。
という内訳になります。
この結果を比較してみましょう。初等の小学校教員になる比率が明らかに上がりました。
2014年では151人(48.4%)でしたが、2020年では271人(72.3%)ですから、爆上げです。
このおかげで、ダイヤモンドオンラインの2021年5月31日、「教員を多く輩出した大学ランキング!」の記事の中で、福岡教育大学は小学校教員就職者数ランキングで日本一となったのです。
https://diamond.jp/articles/-/271717
大学も教員採用試験の合格者が多いことを、広報誌で誇らしげに宣伝しています。
https://www.fukuoka-edu.ac.jp/about/press/joyama/glb0i00000000yjn-att/glb0i00000004k2g.pdf
中学・高校を合計すると、2014年では32人(10.3%)でしたが、2020年では4人(1.1%)です。爆下げです。いや、ほぼ消滅と言ってもいいでしょう。
初等の選修制であった時、つまり改革前は、初等に来ることが小学校教員の一択ではありませんでした。初等であっても、中学や高校の免許も取りやすかったのです。
校種は決めてないけど、学校の先生になりたい、と漠然と志望している学生も多かったようです。そして、講義を取っていくにつれて、「初等だけれど、小学校ではなく、中学(高校)の方が自分には合っているようだ」と志望変更ができました。
あるいは、「中等は難しいけれど、初等だったら合格できそうだ」と入学してきた学生も多かったでしょう。
もし、中学・高校の先生になりたい、というのであれば、中等に入るべきです。初等では、中学・高校の先生にはなれませんから。
初等であっても、副免で中学・高校の免許が取りたい、という学生が多いせいか、そして、初等=小学校教員一択に対する学生の潜在的な不満が高いせいか、大学はカリキュラム改革を予告しています。
https://www.fukuoka-edu.ac.jp/files/bgeditor/other/R5gakubuhenkou.pdf
初等に、幼児、小学校、人文社会、理数自然、芸術技能、とわけて、副専攻で副免(中・高の免許)取れるよ、とアピールしたいようです。
この予告を見る限り、副免を積極的に取らせていく、という大学の姿勢は見えません。あくまで「取得することが可能になります」と、控えめな表現です。
これが、「取得を保証します」でしたら、確実に取得させる、と意味しますが、「可能になります」という表現は、「できるかもしれません」という意味であり、その裏には「できないかもしれません」という意味が隠されていることを、感じ取らないといけません。
また、取得の免許を「中学校教員免許状(1種または2種)」としているところも注目できます。高校の1種免については言及していないのです。
この改革は執行部が勝手に決めているだけのようで、大学の教員の間ではほとんど議論されている様子はありません。
https://twitter.com/fukkyosaisei/status/1417284940635414529
羊頭狗肉の改革です。初等は小学校主免一択のままで、これまでと変わらず、基礎学力テストで副免の授業を取れるかどうかを決めていくのでしょう。
https://anond.hatelabo.jp/20210224152912
カリキュラム改革は、見せかけの改革です。「やってます感」を出すためだけにすぎません。
参考までに「福岡教育大学教育学部の入学者選抜方法等についてのQ&A」のチェックをおすすめします。
https://www.fukuoka-edu.ac.jp/files/bgeditor/other/qanda.pdf
その下部にツッコミ。
【冷静に考えてそんなことありえないですよね。】
→北尾修一の主観に過ぎません。そもそも、北尾修一が冷静に考えている保証は何もありません。村上清をMと伏せ字にしている上に、QJの関係者などから、北尾修一が加害者側に立っていることは明白です。
【これは推測ですが、インタビュアーへのリップサービスで、小山田さんが学生時代の出来事を大げさに話したのではないでしょうか。】
→これも小山田圭吾に都合の良い、北尾修一の想像に過ぎません。
【と考えるのが自然じゃないですか。】
→小山田圭吾と村上清を擁護するために「自然」と言っているだけ。
【こう考えると、この私のおぼろげな記憶がおそらく正しいのではないか、という気がしてきます。】
→自分の記憶が正しいと云う結論が先に有って、そのために「こう考える」と云う方針を立てる。そして「こう考える」から自分の記憶が正しいと言う。それは循環論法では?
【「目の前に現れたM氏の力になりたい」と小山田さんが思った。
特に実際に会って《打ち合わせ》をした後で、そう思うようになった。
そうとしか考えられません。】
→小山田圭吾が何を考えていたのかを、想像に過ぎないのに、その想像を元に「そうとしか考えられません」と主観的に結論づけています。
→度々「自然」と云う表現を用いるのは、北尾修一自身が「小山田圭吾と村上清を擁護するために不自然になっている」と自覚しているからだと推測されます。
→あくまでも小山田圭吾の視点に留まり、イジメ被害者からの視点で想像しようとはしません。
【きっと《打ち合わせ》に向かう小山田さんも、そんな感じだったんじゃないかなあ、と私は想像します。】
【妄想が暴走しすぎで「大丈夫か?」と思われているかもしれませんが、でも、これくらいのことが小山田さんとM氏の間で起きないと、普通に考えて実現性ゼロのこんな記事、この世に存在しえないと思うんです。】
→態々、仮定の上に仮定を積み上げる北尾修一のような論理のアクロバットを駆使しなくても、シンプルに「当時のQJと小山田圭吾は、イジメ被害者の尊厳や人権を軽視していた」「批判が寄せられたとしても、情報発信力の勾配の非対称性があったので、一般人からの批判は黙殺できると思い、実際にそうしていた(批判のお便りが来ても掲載しなかった(批判意見を誌面に掲載しなかった)」と考えれば説明は可能です。
【小山田さんが「過去に行ったとされるいじめ暴力行為」を私は擁護しません。
ただ、この記事から読み取れる小山田さんの(悪ぶっていても)隠しきれない優しい側面については、私は全力で擁護します。】
→イジメ被害者と云う「他者」を排除して置き去りにした、サブカル村業界人に対してだけ発揮される内輪向けの「優しさ」には意味が有りません。暴走族、ヤクザ、マフィアだって、時には身内に優しい時は有るでしょうが、それは被害者にとって無意味です。
【だってさあ、何なんだよ、この『デビルマン』みたいな今の状況。
こんなものを一刻も早く終わらせたくて、私はこの原稿を発表しています。
だから、小山田さんの人格を全否定する乱暴な言葉には抗います。】
→擁護するつもりは無いと言いながら、ここでデビルマンの喩えを持ち出したことで、北尾修一が小山田圭吾と村上清を「加害者」ではなく「何も罪を犯していないのに迫害を受けている被害者」と見なしていることが分かります。これぞ馬脚を露わす。
【私は時空を超えて、26年前の『Quick Japan』編集部に行って伝えたい。
今ごろやっと気づいたんだけど、良かったね、M氏というか村上くん。
村上くんが気合いを入れて書いていた企画依頼レターと、あのとき全力で小山田さんに伝えた気持ちは、ちゃんと伝わっていたんだね(26年後に再読してやっと気付いた笑)。】
→いつの間にか、北尾修一が想像したに過ぎない「企画依頼レターの中身」を既成事実化しています。悪質な印象操作ですね。
【でも、私はこの記事を一緒に作っている小山田さんと村上くんの姿を思い返すと、若い頃にどんなに酷いことをした人間でも、どんなに酷い目に遭った人間でも、あるとき誰かのことを思って本気で動けば、そんなふたりで宝石みたいな何かを残せるかもしれない。この記事は、その揺るがぬ証拠として26年後の私には読めます。】
→「誰かのことを思って」の誰かには、イジメ被害者は含まれていません。あの「イジメ紀行」の記事が、北尾修一の主観では「宝石みたいな何か」になるのだそうです。
=以下、総評=
(1)北尾修一は「当時のQJの現場に近い人間が、事の真相を語る」かのように装っているが、大部分が「想像ですが」「推測ですが」「そうとしか考えられない」と主観のオンパレード。端的に言えば羊頭狗肉。「自然」と云う表現を多用しているのは、おそらく書き手である北尾修一自身が「小山田圭吾と村上清は悪くない」と結論づけるために強引かつ不自然な文章になっていると自覚していることを示唆している。
(2)イジメを擁護するつもりはないと北尾修一は言う。しかし、村上清を"M"と伏せ字にしていること、北尾の述べる想像や推測は徹底して小山田圭吾と村上清に都合の良い解釈だけであることから、北尾修一が小山田圭吾と村上清を擁護しようとしていることは明らかである。更に、デビルマンの喩えを用いていることから、北尾修一は小山田と村上を「罪を犯してもいないのに迫害されている」と見做していることも明らかである。
(3)村上清が小山田圭吾に送った(かもしれない)企画依頼レターの内容については、北尾の想像に過ぎない。にも関わらず、何故か北尾修一の書いた文章のクライマックスに至ると「村上くんが気合いを入れて書いていた企画依頼レターと、あのとき全力で小山田さんに伝えた気持ちは、ちゃんと伝わっていたんだね」と既成事実化している。北尾修一は、孤立無援のブログを「印象操作している」と非難するが、むしろ北尾自身の方が悪質な印象操作を行っていると言える。
(4)小山田圭吾の証言と、それを都合良く解釈した想像だけを根拠にして「加害者である小山田圭吾とイジメ被害者との間に何らかの友情が存在した」と、既成事実化し、その上で「イジメではなく友人同士の遊びであった」かのように読者に思わせようと、北尾修一は意図している。しかし、北尾修一のしていることは、DV事件の加害者を「殴ったり蹴ったりしたけど、被害者のことを自分なりに愛していた」と美化するようなものである。イジメ加害者側の身勝手な「友人意識」を持ち出すことで、イジメ加害者の罪を減ずることが可能であるとする北尾修一の考え方を、DV事件との比較で考えれば、どれほど時代遅れ且つ間違ったものであるか一目瞭然であろう。
(5)北尾修一の書いた文章からは、サブカル村の住人の「自分たちさえ良ければ、イジメ被害者などどうでもいい」と云う、自己中心的、自己陶酔的、自画自賛な意識がハッキリと窺える。村上清による小山田圭吾インタビューを「宝石みたいな何か」と評価していることがそれを表している。
非エンジニア。資格が必要な事務をしている。ある会社で、初めはパートで募集してそれに則って応募したのに、なぜか採用時の雇用条件提示書では正社員になっており、そのことを指摘したらじゃあ今回はご縁がなかったですね😅となった。
パート求人なので、当然だと思うのだが求人の仕事内容A,B,CがあってA,B,は今までの経験から余裕で即戦力になれます。Cは経験ないですけど大体2週間のOJTでモノになります。時給1×00円〜で1日何時間労働、週何日でどうでっか?という交渉に臨んでいたつもりだったのに、向こうは面接で、将来的にD,E,Fという仕事をする気はあるか?とか、5年後のキャリアプランは?とか趣味を仕事に生かす気はないか?とか聞いてきて、挙げ句の果てには上記のような行動に出てくるわけで、そもそも会話が成り立っていない。意味不明。朝三暮四。羊頭狗肉。
その頭の悪い会社の求人はともかくとしても、スキルを有効活用しようとしても。どうしても「フルタイムの壁」に阻まれる。どんな会社であっても1日8時間〜週5でがっつりこき使おうとしてくる。
なぜこうまで採用側は「正社員」にこだわるのかというと、正社員は会社にとって定額使いたい放題プランみたいなモノだからだ。よく言われる通り、クソバカアホゴミジャップランド企業は、採用時にジョブディスクリプションを作らないので、入社したら求人票に書いて無い仕事までさせて、給料据え置きで「でもお前正社員なんだから我慢しろ、いい経験だろ」なんていうのが目に見えている。実際この条件下で、みなし残業制で契約してしまえば名実共に定額使い放題プランが完成する。
それの何が問題かというと、端的に言って生産性が低いまま長時間働かされる→スキルを身につける余裕も生まれず生産性が上がらないというスパイラルに陥る点がある。
俺自身、自分が専門とする仕事については、プログラムを組んでツールを作ったりして効率化を図ってきたし、在宅勤務が難しかった作業を在宅できるようにしたりした。実際このコロナ禍で内定をもらえたのはそういう点が評価されたのだ思う。そうは言っても、自分の専門外の雑用的作業まで効率化を図ったり改善提案するほど暇じゃないし、できるとも思わない。
これまでジャップランド企業は、そういう「非コア業務」、要はオフィスの中にあるマックジョブを「非正規雇用」という政治的に作られた下層階級に押し付けてきて、碌にITへ投資もせず、新卒はともかく中途へ教育もせず現場の運用だけでなんとかしようとしてきた。
もちろんこれは一つの要因に過ぎず、人事部が人材育成に対して定見がなく現場丸投げとか、解雇規制が強すぎるとか新卒一括採用とか色々な要因が絡み合っていることが原因だと思うが。
ここへきて、DXだのと最もらしいことを言っているがメンバーシップ雇用の「正社員」という定額使い放題プランにこだわる限り、いくら小手先でITツール導入したって何も変わんねえよと思った次第。
結局、ケーキをきれいに三等分できるレベルの連中が無理無理言ってたってことでしょ?
完全に嘘っぱちやん。
「泳げない人向け水泳教室なのに、みんな25mも背泳ぎならいける人ばかり」ぐらいの酷さ。
無理っていうのは水泳教室で言えば「水に体が浸るとトラウマを思い出して失神する」「濡れると変な液が出てくるからプールでお断りされる」「脳性麻痺で手足が動かない」のレベルだよ。
つまり人生無理バーってのは「言語障害で会話が何も成立しない」「妄想が強すぎて会話が成立しない」「常に魚の腐った匂いがするから飲食店どころかスーパーにも入れない」「脳性麻痺で動けない」のレベルな。
つまり、発達障害ぐらいで怖気づくようなら最初から名乗るなってこと。
人生辛いバーって名前にしとけば、「ケーキ切れないレベルは流石に」でお断り可能だったのにね。
なんだろうなあ。
ようは羊頭狗肉なんだよね。
お前の望んでいたノンフィクションだぞ?
だがこれはきっと嘘松だ。
分かるか?
ノンフィクションってのはそれが本当はフィクションじゃないかとの戦いに心がすり減らされるんだよ。
スポーツの決定的な名シーンの裏で、怪しいトトカルチョのヤクザマネーが踊っていないかを想像しろ!
人間が生み出す物語に、本当に筋書きがないのか、嘘がないのか、そんなものがお前に分かるのか?
お前の信じるノンフィクションなんてのは、多くは半分フィクションなんだよ。
テレビカメラがナイフで刺される男の姿を刃物を携えた加害者として映し出し「THIS IS MEDIA」と注釈がついた画像を見たことがあるか?
あれなんだよ。
お前の信じているノンフィクションだって、無数の脚色や都合のいい切り抜き、そして羊頭狗肉のフィクションがついてまわるんだ。
なんでお前がフィクションを嘘っぱちと楽しめなくなったのか教えてやろうか?
それはお前がノンフィクションは嘘じゃないって本気で信じてるおこちゃまだからだ。
成長しろ。
その境界を認識した時、お前はノンフィクションを盲目的にノンフィクションと思うことの愚かさに気づき、そして全てがフィクションであるのなら、フィクションだから楽しめないと思う自分の浅慮を知るだろう。
せっかくだ。今ココで越えていけ。
お前の過去をな。
この嘘松を通して感じ取れ。
羊頭狗肉やんけ!
結論が遅い記事、タイトルと内容が違う話、看板に偽りがある全ての物はその存在を否定されて叱るべきだ。
たとえ犬肉の看板で羊の肉を出したところで、犬肉を食いたくて財布を開いたやつを裏切っているのは何も変わらない。
無数の選択肢があふれかえる中で、時間と金と余裕だけが足りない現代社会、最も恥ずべき罪とは提供するものの名前を偽ることだ。
最近だと、カメラを止めるな!とやらが評価されているのが私は非常に気に食わない。
絶賛大人気中の超面白映画を期待して入ってきて、最初の25分で帰った人間に対してあの作品は何を残した!
そういう態度は嫌いなんだよ。
ふざけんな舐めてんのか?
ハリウッドがやったら許されないことを素人がやったらセーフだったのが画期的だと話題になった、ただそれだけじゃねえか。
でも作品の作り方としては極めて最低最悪なんだよ。
ましてこの時間ばかりがやたらと無くなりやすい現代に置いてはな。
時間を返せよ。
つうかそこについて定期的に謝れや。
本当糞だぜ。
創作者としての態度がクソだ。
つうか何がクソって……次回作のアメリカ編は前作見てれば序盤でも割と楽しめるのがクソだ。
やれば出来るのにどんでん返しのパワー貯めるためにやってなかったつうことじゃねえか。
クソのクソだぜコイツらは
描きたい内容を単純化しつつわかりやすい折り目をつけ、誰でもついていきやすい速度でありながら明確な変化を持って描かれる最大公約数的なストーリーテリング。画面を広く使いつつ視点を大きく動かさないようにする雄大なカメラワーク。日常と幻想の間に半透明の敷居を置き両者をはっきり区別しながら横へと並べる非連続的な非日常性。これがいい意味での細田守らしさ。
ショタコンにしてケモナー。自意識過剰なキャラクター。誰もが承認欲求に飢えているという断定の元に進む構ってちゃんストーリー。全てを自分の口で説明してしまう自信のなさ。ヒステリックさと寛容さの両極端。これが悪い意味での細田守らしさ。
未来のミライを面白かったと言えるかの全ては、細田守の悪癖、性癖、嗜癖を理解した上で、その発露を作家性として消費することが出来るかにかかっている。逆に、そういったものに対して一切無頓着に、ただ何も考えずに綺麗な映像が流れる2時間のパラパラ漫画だと思って鑑賞するかだ。
未来のミライには細田守の内面”だけ”が描かれている。”だけ”である。この映画は主成分が細田守なのではなく、すべての成分が細田守なのだ。全スタッフの労力、作業は製作の過程で全て細田守分として返還されてしまう。そこに慈悲はない。この映画は全力で細田守であり、それ以外のものが含まれることは認められていない。実際、この映画の制作にあたってスタッフに細田家のホームビデオが見せられたというエピソードすらある。スタッフが「家庭」というものに描くイメージを、「細田家の家庭」というイメージで塗りつぶし、他の家庭から異物を混入されることを防ぐ徹底した管理体制である。
甘えん坊でわがままで自分を認めてもらいたくてたまらない子供は当然細田守であり、彼の成長を通して鑑賞者から贈られる称賛を求めているのも細田守自身なのだ。彼が作中では徹底して直接その苦しみを認められることがないのは、そういうふうに世界を見る細田守が細田守の中に居るからである。電車好きである点などは細田守の実子がモデルとなっている。彼にとってこの映画は自分の子供が成長する姿を通して「かつて自分が子供だった頃に成長したことを客観的に見ることになった」という事実を描いたものでもあるのだ。ケモナー成分を取り込んだりハチゲームでクネクネしていたりと(ショタコンケモナー向け)サービスシーンも多く、彼が主人公であるということは、細田守にとってはケモナーやショタコンであることが自己同一性の核であることを示す。
客寄せパンダとして使われまくったのに、出てくるシーンは意外と少ない。未来という名前、赤ん坊であること、婚期を逃すことを気にする発言、最終的にくんちゃんに血縁上のつながりを思い出させる役目、これらの要素から「男女の関係によって子孫を残すこと」のメタファー、ひいては「(ショタコンではなく)普通の人間として生きること」のメタファーであることが伺える。同時に「世間で受け入れられ、未来に繋がる作品」のメタファーでもある。最初にキャッチコピーとして登場し、最後のクライマックスにおいてただの細田守回顧録であった映画を一般向けの娯楽映画へと引き戻す役目を追っていることからもこれが分かる。
仕事人間であり、子供の親でもある細田守。一般的役割に対して性別が反転しているのはジェンダーフリーというよりも、それぞれに細田守に繋がる要素をもたせることで、どちらもを細田守にするためである。時折ヒステリックなのも妙に余裕ぶってみせるのも、自分たちが変わってきたと殊更に言うのも、全て細田守の独り言なのだ。
オスケモ。王子だったという発言は、細田守の中で最も大事なものがケモナー性癖だったことの暴露である。それにかつてという言葉をつけるのは、今の自分はそれを卒業したという自負である。
ホモホモしい外見、言動、であるのだがそれがハッキリと語られることはない。ここまで赤裸々にショタコンもケモナーも自己開示してきて、それをあえて語らないのは、細田守の中において自分のホモセクシャルへの興味がまだ疑問の残るものであるからである。逆に言えば「それすらも」赤裸々にスクリーンに映し出したのだ。
上で述べたようにミライは『普通の家庭』や『世間一般の価値観』のメタファーであり、それが細田ハウスに持ち込まれるのは、ショタに興奮だけしていればよかった世界の終わりを意味している。ミライファーストの生活を否定する姿は、一般向け要素を散りばめた映画を作らされてきた細田守の姿である。その中で雑な反逆に出ては怒られる。悪い意味で細田守らしい映画を作ってきたことへの反省と、それに対する怒りが描かれる。『自由にショタでケモいアニメだけやらせてくれ』、くんちゃんが繰り返すミライ否定発言はつまる所こういうことなのだ・
『雛人形を毎年1日ずつ出し続けていたら1年ずつ婚期が伸びる』という会話は、ずっと結婚できないということを意味している。それを片付けてミライちゃんが未来で結婚できるようになった。これは、細田守が自分の中で幼少期から積み上げてきた結婚感を今一度棚卸しして、普通に恋愛をして普通に結婚をする人生を受け入れたことを意味している。作中に置いて、未来ちゃんが過去にやってくるのは、細田守の中で過去の細田守と共に今の細田守が気持ちの整理をつけた経験を描いているのだ。そこに犬が加わっている理由は、それが彼の性癖に置いて重要な意味を持つからである。普通に見ていると何がしたいのかわかりにくいシーンも、このように整理していくと理解できる。これが未来のミライの面白さだ。
これもうそのまま細田守が自分の親に対して「心の中で」やっていたことです。自分が親になって子供を持つ身となってそれで子供の頃の両親の大変さとか知って感謝してーっていうアレです。そのままかよ!そしてその中で全部セリフにしちゃうのかよ!このシンプルさ!観客への信頼の無さ!そして自分の表現への自信の無さ!これもまた細田守なんですわー。自分がちゃんと愛されているか不安だとそのまま口にするのは、自分の映画がちゃんと観客に伝わっているのか不安だっていう宣言でもあったりするわけで。メタいぜー。
ホモホモしいアンちゃんとの初体験。遠くを見据えろと語られるが、そのさきに見えるのは廃墟。この道の先に未来はない。細田守も分かっている。ショタコン一本では子孫は残せない。アニメだって歴史に残らない。分かっている。分かっているけど、そうして進んだ先で結果を出したのが今の細田守だろ?そんな叫びが聞こえてくる。補助輪無しで突き進むには、遠くに廃墟を見据えなきゃいけなかったんだ。そうしてバケモノの子が生まれてしまったんだ……。
自分を見失ったとき、戻ってくるためには家族の名前を呼ぶ必要がある。自分に流れる血の繋がりを思い出す必要がある。そして、そのためにはミライを認める必要がある。ミライは「普通の家庭」「普通の価値観」のメタファーであり、自分がそれと深くつながっていることを認めることが、自分を取り戻すためには必要だと、最後の最後で認めることになる。途中からひたすらショタキャラメインで妙な話ばかりしていた映画が、ここで突然なんとも一般受けしそうなキャラと共にさもストーリーがしっかりとある映画であるかのような物語へと戻っていく。細田守の敗北宣言だ。人間としての細田守がここにいるには、彼の父親や祖父がショタコン一本で通さなかったからである。映画監督としての細田守がここにいるのは、デジモンやサマーウォーズといった一般向けに迎合した作品を作ってきたからである。自分が今ここにいるなかで、ケモナーであったことや、同性愛的な面を抱えていたことはたしかにあったが、それでも『普通』を受け入れてきたからだ。そう認めることで、見失っていた自分は取り戻される。そして、和解は結ばれた。ケモノやショタへと一度は預けられた細田守界の王位継承権は、最後には『普通の未来』へと託された。
凄まじい映画だった。「作家性の塊」と呼ばれる映画はいくらでもあるが、純度99%作家性の劇物はそうそうはないだろう。アニメ映画というと娯楽作品ばかりで、文学性や哲学性を謳っておきながら結局は娯楽作品に片足と重心は置きっぱなしにした作品ばかりな中で異彩を放っている。そんな世界にこんなものが現れたらそりゃ受け入れられないだろうな。ましてそれを作った人間の最大のウリ文句がサマーウォーズや時をかける少女なんていう痛快娯楽一般層向け作品なら。サマーウォーズや時かけ期待してこれ見に行ったら羊頭狗肉も良いところだって怒りたくもなるだろうな。
この作品には作家性以外を求めちゃ駄目なんだよ。日本の広告業界や映画業界はそれを頑なに伝えようとしなかった。そこは紛れもなくEVILだね。
ミライちゃんがただの客寄せパンダであり、その使われ方も「はいはいこのへんでパンダ投入すれば良いんだろ?」っていう態度で行われることに、細田守の中に渦巻いた鬱憤を感じ取ろうっていう気概を最初から持って見る分にはね、いい映画なんですよ。
そこは分かってあげて欲しい。
でも娯楽映画としては本当に駄目だけどな。俺はこれを娯楽として楽しむことは出来たけど、それは正しい意味での娯楽じゃなくて単に俺の見方が捻くれてて性格が悪いから娯楽に出来ただけだわ。素直な心の持ち主が素直に楽しめる娯楽映画を作った方が最大多数の最大幸福だよ。新海誠の君の名はと、細田守の未来のミライ。このコントラストはある意味美しいけどね。