はてなキーワード: 貴族とは
これだけ思想が溢れ、価値観が多様しても尚、ストア派で言う所のアタラクシアを志向する者が多い
それこそ数千年の以前に生み出された思想が、今も現代人の心に親和性をもつのはどうしてだろうか
「欲望が消滅し、平穏に過ごす事が幸福であるということだ」という論理に、どうして人間は抗えないのだろうか
そのような奴隷倫理を捨て、貴族倫理に従って生きる事が出来ないのはどうしてなのだろうか
それでも、こうして考えているという私が"存在出来ている"という例外が、"人間はエウダイモニアの中であっても自己を拡張し、探求しうるだけの好奇心を持ち得る"という確証になるだろうか
ピュロン「そうかもしれん。そうでないかもしれん(失敗)」
要は言葉とか容姿とか身の振る舞いとかをちゃんとした紳士に教育してもらう話でして、
この二つは大体似通っています。
それなのに、全く別作品であるかのような世間的な扱いを見ていまさら愕然とした思いです。
設定が明らかに酷似しているのに未だかつて表立ってこれを批判した人はいなかったように思います。
いわば、荒野の用心棒が七人の侍のパクリだと言ってるような物言いであるため、むしろ分かっていてあえて言わないのかもしれません。
変に勘繰ってみせたのは、私自身そのようなはずがないと分かっているためでもありますが、
それでも疑問を口にせずはいられなかったのです。
いずれも名作であるため、発表したもの勝ちという風潮と相俟って言い出せなくなった、とも考え得る事だと思います。
それでも私は声を大にして言いたい。
「マイ・フェア・レディはじゃじゃ馬ならしからヒントを得ていますよね?」と。
ごく普通のことでしたが、
アルバイトしません。親は卒後、ニートになっても家賃を払い続けたり、
あるいはそういう育てられ方をしています。
またシュウカツの長期化、早期化なども学生生活を短くしていますから
しれませんね。
インターネット情報もあり、フリーターは将来がないと判断するため
では、どうすればいいか…。
ですよね。
で全体がほぼ半分になっていますので。。
全体が減っている
+
のダブルパンチですね。
今の子はほんとは、するべきだと思うんですよね。
私は、学生には、忙しくとも少しはしてもいいのでは?
と言っています。
親子共に。
解決策は…。。。
あとはシューカツだけじゃないよ、人生は。
クラシックに詳しい知人も同じように佐村河内を批判していたのだけれど、その時はいまいち納得できなかったが、ようやく理解できた。
佐村 河内の作品が本当に彼の作品だったとしても、そもそも大した作品では無かった、もっと高いクオリティの作品を提供する身体障害者は居る、というのは理解できた。
佐村河内や新垣の作品の良し悪しは自分には分からないけれど、彼らの作品が詐欺うんぬんの話はさておき、彼らの作品の良し悪しはさておき、身体障害者の作品へお金を払おうということ自体は、人に批判されるものじゃない。
身体障害者に甘い、同等に扱うべき、純粋に作品の良し悪しで評価する、というポリシーで批評する人が居ても、
同情心から作品を賛美する人が居ても、どちらが居てもいいと思う。
今のご時世、どこぞの王族貴族が音楽家を養えるわけでもないご時世なのだから、そういう人達も取り込まないと、クラシック音楽業界自体が続けられないと思う。間接的には、コアなクラシックファンにもメリットがある事だと思う。
障害者が障害を使って金を稼ぐ事自体が健常者と同じ扱いではない、という観点は、分からなくもないけれど、それを言ったら、年寄りに席をゆずるな、年寄りだから働かず年金貰って生活するなんて甘えだ、子供も身の回りのことや収入も自分でやれ、と言いたくなる。言わないけれど。
少なくとも、そういう年齢に甘えてる世代よりは、自分の障害を使って自分の稼ぎを自分で得ようとする彼等彼女等の方が、マシだと思う。
それに対してお金を払おうと思う人が、批判されるのは変な話だ。単なる個人の趣味に難癖つけてるのと同じだと思う。レス増田は違うのかもしれないけれど、そういう意見も見るので、これは愚痴。
コネ、学歴ロンダリングその他諸々の理由があるが、新聞社やテレビ局に入るには
そのステータスを得るには当然ながらそれ相応の資格を必要とする。
その中で勝ち上がってきた人達は皆何がしかの縁繋がりで入社出来た事に感謝する。
しかしながら、そこから焙り出されたいわゆる負け組の新卒はどうにかして滑り止めの会社に入社する。
そんな中起こった労働問題や社会問題に対して、新聞社やテレビ局は何を考えたか上の人間には譲歩をし、
総理大臣経験者などを見ても下の大学出身者は皆無であるし、殆ど全ての人が家族に名士とか大地主、貴族、政治家が存在する所を見ると
敷かれたレールをただ歩んできただけなのだ。
なので、弱者たる労働者階級の人に比べてメンタルがとても弱く、下の人間を社会を混乱させるゴミ程度にしか見ていない。
さて、人生の勝ち組は新聞社やテレビ局に勤めており、負け組ないし弱者はそこでは非正規社員である。
この差で更に格差社会の強者となっている差別構造が形成され、遂には弱者いじめが激化するのは自然の流れであろう。
先日開かれた遠隔操作ウイルスの裁判に立った片山祐輔被告は、そうした社会の構造から生まれた被害者なのである。
彼のように明らかに弱者であるものを何の証拠もないのにメディアなどでは連日彼を犯人扱いして報道を過熱させているのである。
一方、チノパンこと千野志摩が犯した不倫の末に自動車運転過失致死、人によっては殺人罪とみなされる事件では、証拠があるにもかかわらず大手メディアは相次いで口をつぐみ、
また特定秘密保護法に反対としながらも他方でこういった権力を持つ人間への批判は鳴りを潜める事態となっている。
すなわちメディアというものは、弱者を切り捨てに強者を守る事を第一としている、ということである。
これは、前述の人生の勝ち組であるメディア人達が揃って強者であることからも伺えるのである。
新聞社やテレビ局に入った人間は正社員であればすべからくすべての人間が人生の勝ち組であるが、そうした人間が今度は人生の負け組を叩く始末となっている構造である。
メディアは弱者を救済せよと口では煽るものの、今回の遠隔操作事件やチノパンの事件、またオノヨーコや安倍昭恵夫人も知り、海外メディアが報道しているのに日本ではその存在自体を抹消されてしまった吉松育美ストーカー事件でも分かるようにメディアというものは長い物に巻かれる、都合の悪い事は「報道しない自由」による報道しない、非常に偏った思想信条を持ったジャーナリスト集団なのである。
弱者救済が見せかけであることは、新聞社およびテレビ局社員の条件を見ても明らかなのである。
いじめがなくならないのはこうしたいじめっ子が社会構造のトップに立っているためである。
いや、現状法律で平等でないんだけど、それ、理解してないの?保護者って別にただの習慣じゃなくて法律的な意味あるよ?
ええ、だから身体障害者等だと保護される場面は多々ありますよ?
少なくとも、知的能力的に身体障害者の場合は問題ない、と考えれば、ダマされる事はないので、保護者がつくことはないが、
知的障害者であれば成人していても後見人がつくことがありますがご存知ありません?
そうかもしれませんね、過去には貴族が下民を殺しても罪に問われない時代がありましたし。
あなたの言ってることはそのレベルの話だ、と言うことは理解してもらいたいですけどね。
同性愛と一緒にして逃げたいみたいだけど、同性愛とは別。殺人、強盗などの罪と同じこと。
論破したいなら、殺人や強盗した人間をなんで罪に問うのか、そのような事を仕様としてる人を差別してはいけないのか、そこんところ、お願いします。
108 :ソーゾー君:2014/01/07(火) 22:01:34 ID:OqD4l3aE
思いっきり着色されて今のナポレオン像が出来上がってるだけ・・
堀江見て知性があると思う?ナポレオンも同じレベルのアホだぞ?
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/movie/10043/1387207762/
「失敗をおそれるようにさせるのは何か」というのは、日本的風景だと言われるし、なるほどおもしろい。
結果で物を言う、という言葉があるけど、もともと結果以外の部分で評価する文化じゃないからだろうか?
でも、平安時代には、どっちかというと「形や名として示せるもの(大陸的なモノ)よりも、明確な形に残らない微妙な心の在り方とか(日本的なモノ)を評価する」のが文化的だったはずなんだけど、そういう貴族の文化が、「命を惜しむな、名をこそ惜しめ」「働きが石高になる」の武家文化に駆逐されて以来、「形として残る物だけが評価対象である」という風潮に変わり、今に至っているような気がするが、どうなのだろう。最近では、更にそれが加速して、「名(ブランド)」や実体すら無意味なものみなして、ひたすら「結果としての形(カネ)」あるいはコマギレになった「情報」だけをむやみに有り難がることこそクール、というふうになってきているようだけど、もう、何のために生きてるの、それ、楽しいの?ってレベル。お互いを、心などないロボットか人工知能とみなして「インプットに対するアウトプット」だけを評価する、って話だよね。
だから、「失敗をおそれないように」するために、「チャレンジ・トライする姿勢を評価しよう」なんて主張したら、さっそく「『姿勢』? 『心』の在り方なんて、目に見えないものをどうやって評価するんだ!」とか噛みつく人が出てくるんだろうな、と想像。
そりゃ「トライ」したくもなくなるわwww
現代でその言葉を使えば差別に当たるだろうけど、当時はそもそも黒人や白人という存在がいなかったので、「人種差別」に該当するかはかなり怪しい。
比較対象が同じ日本人しかいないので、「色が白い」=「外に出て日焼けすることがない」=「裕福な階級」という事から出た言葉だろう。似たような事例は外国でも存在する。例えばヨーロッパでは「青い血」という表現があり、これは「高貴な者」を意味する。日焼けしてない白人は、青い血管が目立つ事から来ている。
「足が小さい」=「歩く必要がない」=「貴族階級」ってのもあるね。ヨーロッパじゃ足を小さくするために、冷水で冷やした足を無理やり小さい靴にねじ込むってことをしていたし、中国ではさらに極端な形で「纏足」があった。
まあ、階級差別とは言えるかもしれない。
文明社会においては、どうしても承認欲求が働いてしまう。貴族であれば文明社会において生まれながら階級というシステムにより、ある程度の承認欲求を満たしているが、ブルジョアやプロレタリアートでは社会システム上(階級上)、ピラミッドの中〜下層になるためコンプレックスとして承認欲求を持ってしまう。階級と言うのは、何だか無難な響きであるが、何の事はない、文明社会において、人間の質を決めている非常にえげつないものである。そしてこの階級という壁が想像以上に人間の心理に影響をおよぼし、隔てている。ニーチェやフロイトも所詮はブルジョア、プロレタリアートの憂鬱なのだ。対する貴族の憂鬱というのがゴータマシッタールダ、すなはち釈迦だ。釈迦の本来言わんとしていることが万人には理解しづらいのはそのせいだ。ちなみに釈迦は一般的に、ドロップアウトしたと思われているが、僧侶は階級的に貴族より上なので、それは大きな間違い。大変な反逆行為である。現代において、知的好奇心の大きさで、ブルジョアやプロレタリアートが貴族的思想、思考を理解するのは難しい事では無いだろう。しかし、生まれた時点、育った環境の癖というのは強力かつ、その個人をコントロールしてしまう。元増田の悲運は、貴族より下の階級に生まれながら、貴族の抱える憂鬱まで理解出来てしまった点にある。しかし、現代において、これはさほど珍しい事では無いだろう。シェイクスピアが今でも評価されるのは本質をついていて、未だにそれが変わってないからなのだと思う。さて、ここからやっと本題だが、いわゆる ”悟った人” はどうしたらいいか? である。 これが大問題なのだ。現代的な価値観ではとうてい憧れるロールモデルなど無いのである。一番最初に悟ったとしている釈迦においては、ず〜〜っと瞑想してただけと聞く。 極端に言えば、瞑想マスターになり、脳内麻薬出し続けのぶっ飛び状態になってたらしいのだ。多分コレが貴族より上の階級、僧侶の憂鬱を解決したということになるのだろう。。。ちなみに、知っての通り芸術家と言われる人達は、この階級ピラミッドから外れた人達であり、それ故、貴族より下の階級の人達が漠然と憧れるのであると言われている。で、元増田がどうすべきか? そんなことは百も承知だろうが、そんなものはない。元増田だろうが、誰だろうが、本来そんなものはない。逆にそれが救いとも言える。
ずいぶん深く傷つき悩んできたんだなあ…とため息が出る。
不安はない、焦りはない、人生に意味はないと何度も繰り返しながら、様々な人に相談し、人生の意味づけをどうするかを考え、人生を失敗したと吐露する。
学校や社会に乗らなかったのではなく乗れなかった、人付き合いをしなかったのではなくできなかったという言葉に、絶望したと言いながら社会につながる望みを絶てない苦しさがにじんでいる。
ノート30冊になるほどの思索と思想を持ち、一生働かなくても食べていけるという環境にあるのだから、昔の貴族のように享楽にふけり無為徒食するか、有閑階級の知識人よろしく哲学でも随想でも著作しつつ悠々自適に暮らしてゆけばよい。「社会に乗る」必要もなければ人と付き合う必要もない。なのにどうしてここまで社会に有為の人材とならねばならないという強迫観念にさいなまれてしまうのだろうか。