はてなキーワード: 直接民主制とは
下:暴言
ああこれこれ。これが僕の知ってる明石。
「次の市長選に、3選をめざして立候補する意向を昨年12月に表明していた」その後、http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1312505 がまとめられ、市長を大絶賛するブコメが並ぶ。選挙工作かしら?
財源のひねり出し方が気になる。なぜやめるといった事業が続けられているのか考えたらとても不健全な状態。まさか本当にお金が余ってるなんて思ってないよなこいつ
そうそうこれこれ。この間明石市の施策がいいのはトップがいいからとか言ってた人は認識を改めて欲しい。直接民主制で選ばれた首長って一皮むけばどいつもこんなものとはいえ、これは酷いよねぇ。
この泉市長は良い話ばかりというわけでもないので、仕事は是々非々で評価してしっかりやっていただきたい、と地元民として希望する
なお4月の市長選挙は、3選を目指す現市長(この人)と前市長の県議との一騎打ちの構図で、二人とも同じ地区を地盤としている。という背景あり
手のひら返すブクマカなんておらんかったんや!
必要最低限度の機能を満たすものを作ることも出来るし、使い心地のよさも実現したリッチなものも可能。予算とか時間とかにあわせて色々なレベルで作れるけど、ともかく最低限の要件を満たしていないとおカネはもらえない。
いまの日本には、必要最低限度をぎりぎり満たすかどうかということで自民党が選択肢としては辛うじて有効で、それ以外の野党と言われる人たちは、そのラインを満たすことが出来ない。だから、仕方ないから自民党に投票することになる。積極的支持ではなくて、消去法で残ったのが自民党。それくらい日本の政治状況はお粗末で貧弱だと思う。
たぶん自民党もその辺がわかっていて、偉そうなことを言っているんだろうけど。
自民党がどんなにひどい政党だとしても、それ以外の政党が全くもってダメで、期待も希望も持てそうにないというところが、ほんと、もう、この国だめだろうな、と。
議会制なんてやめて、AIがサポートするネットを使った直接民主制にすればいいのだ。それか昔ながらの貴族制とか君主制とか。問題意識も関心もない人民は、平民として安穏として幸せに暮らせばいい。
政見とか政策とかが必要なのではなくて、その前段階として一般人の問題意識や関心、そういうものが全く不足しているのだ。だから、議会制民主主義なんて形だけのもので、実質を伴っていないし、そもそもそんなの、日本では無理なんだよ。千年以上も君主制とか貴族制とかだったんだから。無理無理。
たとえ民主制でなくても、元禄時代のように一般人レベルでは十分に楽しく暮らすことが(たぶん)出来ていたわけで、つまりは日本人には民主制なんて向かないのだ。
いっそのこと、一定所得以上とか一定学歴(最終偏差値?)以上の人にしか政治を触らせないようにして、人民には武力による革命権を常に保証するような仕組みにしておくといい。個々人では物騒だから、町内会ごとに武器庫を持つことができるとか。エリート政治が気に入らなければ、いつでも革命・焼き討ちが出来るという具合にしておけば、政権者たちも緊張してコトにあたるようになるんじゃないかな。
どっちに行っても物騒か。
明日は期日前投票日になる。急な解散総選挙が行われることになって、誰もが戸惑い思い悩んでいることだと思う。次の選挙ではどこに投票すべきだろうか。現状維持の自民か?それとも希望か?結果的にリベラル結集となった立憲民主か?それとも共産か?
しかし我々が投票するべきはそのどれでもない。我々は支持政党なしに投票し、現状の民主主義を次の段階に進めるべきだ。
今まで我々が行ってきた投票行動はどんなものだろう。選ぶべき政党や政治家がいないだとか、他よりましだとか、各論は反対だけれど総論としては支持せざるを得ないだとか言って、そうして選んできた候補は自らの政治意志とは似ても似つかないようなものばかりだ。リベラルを名乗る某が自民憎しで希望への投票を呼びかける様などその極みだろう。
そうしたずれから逃げ込むように、人々はアメリカのトランプやかつての小泉のような独裁的なポピュリストに自らを同一化させるようになるが、それもすぐに理想と現実のギャップを見せつけられて失望し騙されたと騒ぎ立てる。しかしまた別のポピュリストがやってくれば、同じように信者となって騒ぎ立てる。
そうした独裁的なポピュリズムに対抗するには、よりラディカルなポピュリズムである直接民主制に向かうべきだ。
直接民主制が浸透すれば大衆に迎合するような政治家は存在意義を失っていく。自分達で政策選択をすればいいのだからわざわざそういう人間と付き合う必要がないのだ。
支持政党なしのような部分的な直接民主制のシステムがあれば、政治家は政治家である必要すらない。自動的に国民の選択手続きを代行する公務員のような存在であればいい。
本当の政治家が生き残ろうとするならば、より専門的な知識を身に着け、大衆の政治選択に対して間違いを指摘することが出来るような存在になるしかない。自分よりもこういう専門家に任せたほうがいいと思えるような、そうした政治家だけが生き残るだろう。
現行の政治体制で直接民主制を部分的にだが稼働させる支持政党なしの試みは、今までの選挙でそこそこの得票を得たけれども、評価は未だ低いものだ。
しかし今後百年を考えれば、この仕組が部分的に導入し代議制民主主義を次の段階へと進めるべきだと思う。代議制民主制が本当の意味での民主主義でないことはわざわざルソーを持ってこずとも、現状の政治状況を見ればわかることだ。
我々は投票用紙に書き込む時だけ政治参加しているような顔をして、それが終われば呑気に座って、自分の買った馬券の行方を野次を飛ばしながらただ眺めているだけだ。馬が転べば馬肉にして次の馬を用意して、何故転んだかもどうすれば転ばないかの判断も競馬新聞に任せてしまう。
どれだけ失政を重ねてもそれは政治家の責任で自らの判断の問題ではないという。この時我々は政策を決定する権利だけでなく、政治判断した後の責任までも政治家に奪われているのだ。かつての戦争を軍部や政治家や知識人達のせいにしたように、我々はどれだけ大きな失政を犯しても責任を感じることが出来ない。責任を感じなければ、どんなに失敗をしたとしても学ぶことはなく、また同じことを繰り返すだろう。
本来政治は、例え間違った、国益に反するような選択だったとしても、あくまで自分の意志によって選び取り、その失敗を自分の失敗として受け入れなければならないのだ。
人々はこの失敗を恐れる。自らの経験不足によって取り返しのつかない失政を犯すのではないかと考えるのだ。しかしその経験の蓄積という意味で今の支持政党なしの状況は悪くないものだと思う。
票数を徐々に伸ばしているとはいえ支持政党なしは精々一議席取れるか取れないだろうなという状況で、この状況はまだ暫くかかるだろう。
一議席でも取ったとすれば、国民の直接的な政策選択が国会上に現れるということで、議員に対するプレッシャーは強くなるだろうが、それも間接的なもので、国会への影響力はそれほど大きくはない。
結果として部分的な直接民主制の浸透は漸進的に進行するだろう。
だが逆に言えば国民は、まだ影響力の少ないうちからこのシステム上で自らの選択を試行する機会を持つということだ。
自分の選択が即座に取り返しのつかない失敗に終わることはない。
しかし自分の政策選択が確実に国会上に現れる状況が続けば、自分の選択の意味を考え、自らの責任の重さを知り、間違いがないか積極的に学んでいくだろう。
やがてその動きは大きなものとなっていき、結果としてこの国を変えていくことになる。その時がこの国に本当の民主主義の訪れる日だ。
ただ唯一欠点があるとすればこの支持政党なしがすごくうさんくさい団体で、そのイメージは前回の選挙から全く変わっていないということだ。変えようとした努力も見えない。
支持政党なしはこれから国民の信頼を得るためにあらゆる努力をするべきなのだ。出来る限り情報を透明化して、例えば交付金とかどう運用されるのかとか。なんでもいいから少しはイメージよくしてほしい。
まあ最終的にこいつらはどうしようもないということで彼らが降ろされたとしても、とにかく政治家たちに「直接民主制には票田がある」ということを示さなければならない。そうすれば他にも手をあげるところは出てくるだろう。
大事なのは一議席だけでもわりこませて、国会上に直接民主主義のシステムを立ち上げることなのだ。そうすれば今後百年の政治風景は大きく変わってくる。その日がやってくるまで、我々の投票先は直接民主主義を志向する党だけだ。
考えられる要因
・ (無党派層の)政治不信で、この件で政権批判しようとする野党とは関わりたくない。もしくはそもそもこの問題に関し政権批判する事が、政治的・イデオロギー的で避けるべきと思っている
・ イデオロギー的な対立にはしたくない→他のイデオロギー的対立を生みやすい諸問題に関して政権与党に不満を抱える人々や野党と一緒になり、当初の主張が埋没するのを避けたい(もしくは待機児童以外の「諸問題」に関しては彼らと対立するor与党を支持している
まず、日本は「アリーナ型議会」という側面を持っていて(正確には混合型だが)、野党は常に与党の批判点を探している。なぜなら与党を批判し、自分たち野党の方が国民の声を聞いていることをアピールし、政権の座につくことが、そもそもの「政党」の目的(存在理由)だからだ。
その上で、あの例の投稿がここまで注目を浴びるようになったのは、大手マスコミがこれを大々的に報じ、それを受けて野党が国会に持ち込み議題設定がなされたからであり、その結果首相から答弁を引き出し、それがまたマスコミに取り上げられることで、待機児童問題はおそらくこれまでにないほど世論に浸透した。
立法と政策(行政)は、言うまでもなく国会と政権与党が担う「政治」そのものだが、もし待機児童問題で「政策」を変えたければ、殆どの場合今回のように野党に国会で取り上げてもらい政治的論点にするしかない。
なぜなら、待機児童問題は大量の税金やその他のルール作り(保育士の給料など)が必須の専ら「政治的問題」であり、国民の声を拾い、それを政策につなげていく場がまさに「国会」であるからである。
もし上記の箇条書きのように無党派で、政治不信が強く、どの(自分の政治的志向とは相容れない)政党・市民勢力にも与したくないのなら、圧力団体を立ち上げ、政権与党の議員にロビイングして、自分の要望を「金と権力」の力で聞き入れてもらうしかない。(ただ、日本は政党ごとの拘束が強く、一人の議員にそれほど高い自由度はない)
表題のような人々はもしかすると、待機児童問題にコミットする事が既に政治的である事を忘れてる、もしくはそう信じたくないのかもしれない。
つまり、「政治的」なものに、なるべく接点を持ちたくないと思っている。
もしそうなら、自分だけは政治性を持たずに政治からは遠い世界にいて、当事者ではないと考えて、要望を叫んだらそのあとは政治に丸投げしようという、ある意味「消費者意識」があると言える。
しかし、自分達の要望を政策に反映したいのなら、国の唯一の立法機関である国会で、国を動かす与党の議員が集まる国会で、その与党議員に直接意見をぶつけることのできる国民の代表である国会議員の力を頼るのが、議会制民主主義の本質である。
そしてその為に、莫大な税金を使って選挙で代表者をわざわざ選んでいる。
もし待機児童問題に危機意識と、上の箇条書きで示した考えを抱きつつ、ロビイングする金も権力も時間もないのなら、行きつく先は政党政治を排除し、一つ一つの問題の解決策を国民投票で決める「押しボタン型直接民主制」しかないだろう。
※ただ、表題のような人々は、実際には本当に保育園に落ちて困ったお母さんお父さんではなく、彼らの批判の矛先を、与党への支持が高じて政権与党から逸らさせようとしている人たちが大半かもしれない。
その中で、直接にそのことを表明するのは露骨すぎるために、「野党に擦り寄ってほしくない」とか「胡散臭い、政治利用するな」などと言って目的をカモフラージュしようとしているのかもしれない。
えっ?
エアコン設置の賛否だけを問おうとすることが衆愚なのであり、予算全体を問うなら可能な限り直接民主制をとるべき。実際はそこまで手間かけられないから代表者に委託している。
どっかにまとめられていた千葉市長のtwitterでの発言も参考に。
千葉市の小中学校でクーラー設置の是非と問うと設置すべきが多かったが、クーラーの設置・維持費用の予算で他にできることを提示し、改めて質問してみると、設置すべきという意見が大幅に減った、という話。
所沢市で、2月、エアコンを学校に設置すべきかを問う住民投票が行われて話題になった。しかし、「住民投票」を行ったこと自体がアホではないかと思った。なぜ、住民投票が必要なのだ?日本は議会制民主主義の国なのだよ。
ギリシア時代の昔から、人類は、直接民主制を何度も試みてきた。しかし、その結果は無残だった。直接民主制は必ず「衆愚政治」をもたらすのだ。「住民投票」などどいう直接民主制の極みを行ってもろくな結果がもたらされないというのは歴史が示している。
たとえば、戦後の日本で、住民投票が何か社会の利益になったことありますか?ないでしょう?
市議会議員も市長も、あなたがた「市民」と違って政治のプロなのです。市の財政状況に精通し、様々な要因を慎重に分析して政治を行っているのです。我々が政治を任せるべきは、世間の雰囲気に流されやすい市民の意見ではなく、政治のプロであるべき。これが議会制民主主義の根幹である。議員や市長のやることが気に入らなければ選挙で落選させれば良い。
つくば市議会議員 五頭やすまさ氏のブログに鋭い指摘がある http://gotouyasumasa.webibaraki.net/?p=1912
例えば所沢市と同じような「エアコン設置の賛否」をつくば市でやったとしたら、どうなるか??私の予想では、たぶん、「設置賛成」が勝利すると思う。しかし、だからといって、現実的に、全部エアコンを設置することに、予算配分をおいてしまったら、つくば市の財政バランスの均衡は崩れてしまう。・・・住民投票は、一時の特化した懸案事項を決するもので、極めて大衆世論を扇動する。それを表現したからといって、冷静な判断が結果としてでるものではない。
・・・間接的な民主主義。そう、選挙で選ばれた議員が、議会という場で議論を戦わせることによって、しっかりとしたその問題が磨かれて収斂されて、結果として、公共の利益が生み出されることになるわけだ。この辺を間違えてはならないと思う。
>いやいや、でも司法制度も予算配分も民意の代弁者たる代議士と選挙の結果で左右されるわけですから、やはり民意は最上位にいると思いますよ。
大枠ではそういう理解でいいのですが「民意が最上位」と言ってしまうとやはり正確性に欠けるのです。
どこが不正確かというと「民意の代弁者たる代議士」という部分が実はずれています。
少々ややこしい話ですが「代議士は国民の代表者であっても、代弁者であることを求められていない」というのが代議制民主主義の基本的な立場なのです。
日本国の法制度は(一部直接民主制的な要素も取り入れつつ)基本は代議制民主主義に依っていますので、「民意そのもの」ではなく「民意を受けた話し合いの結果」が最上位の意志決定者なのです。
一見どうでもいい違いに見えますが、これは代議制民主主義という思想の根幹の部分です。
実際にどう違いが出てくるかというと、例えば国会議員が選挙で公約した意見を国会で話しあった結果変えたとしたら、もし「民意が最優先」であれば、その議員は罷免されるべき、というのが論理的帰結ですが、法制度はそうなっていません。これはそもそも「代議制民主主義思想」が「民意そのもの」ではなく「一般意志」を重視する思想だからです。
直接民主主義思想であれば「民意が最上位」という言い方もありえるのですが、代議制民主主義思想は違います。代議制民主主義における議会等の機関は「全市民が集まるのが無理だから」等の技術的な問題による民意のやむを得ない代替物ではなく、「民意そのものより、民意を元にした話し合いの結果の方がより一般意志に近い」というイデオロギーにより設けられています。ある意味非常に西欧的な「話し合いという理性への信頼」「衆愚への懸念」が根底にあるわけです。
厨二っぽく書いたが、用は直接民主主義についてだ。日本は間接民主主義、つまり選挙をして、代表を選んで、その代表が政治をするよな。このシステムはほどんどの国で採用され、実際効率がいい。だが、世の中には民主主義であるにも関わらず、選挙をしない国があるらしいんだわ。スイスがそうらしい。下記リンク参照
仕組みを簡単に説明するぞ。まず普通に議会も裁判所もあるんだ。その辺は変わらない。違うのは、成立した法案や政策に対して国民が拒否権を行使できることだ。具体的には5万人分の署名を集めると、国民投票にかけることができる。その逆に、10万人集めれば法案や政策を提案できる。議会が了承しない場合は即国民投票。
この方法だと政治的な癒着もないし、自分たちで選んだ政策だから不満も減少する。カップラーメンの価格すらしらない議員たちがやってる政治よりよっぽどいいと思わないか?
だがこれを日本でやろうとすれば大変だ。まずスイスとは人口が違う。あそこは800万足らず、日本は1億越えだ。国民投票に必要な署名も5万や10万ではすまなくなる。さらに、日本人は世界一忙しい人種だ。月に何度も国民投票なんてやってられないよな。
こっからは俺っちの持論。面倒くさい国民投票やら署名だが、webを使えば比較的簡単に行えると思ってる。まず全国民に一意なIDを配布する。それを扱う暗号化されたwebシステムを作る。バイオ認証が望ましいな。あとはそこで投票や署名を行う。
もちろん日本にはメールすら送ったことが無い老人が沢山いるから、10年、20年後に実現ってことはないだろうが。いずれ日本にはPCに親しんだ人々だけが残るよな。そうなれば、この案も夢物語ではなくなると思ってる。
お前らの意見も聞かせてくれ。
それを民主党が言ってもいいのか?というのは別途議論が必要だし
そもそも、マニフェストって何、間接民主制ってなに? というのは考えられてしかるべきで
じゃぁ、直接民主制がいいのか?ミクロな投票制度がいいのか?衆愚政治ではないのか?など考えることはいっぱいあると思う。
だけどなんだろう。とりあえず。この年の瀬に説明されても困る。
もうクリスマスも過ぎた。
可及的に年を越せない奴がいる。凍死する奴がいるとかは、それこそ別途なんとかその地域でしてくれ。募金がいるなら、どっかの団体に千円ぐらいならする。
とりあえず、ほんとうに、とりあえず。日本中1億何千人で年を越そう。