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「藤岡弘、 侍語録さんに似ているユーザー」として以下のユーザをお勧めされた
島田洋一(Shimada Yoichi)@ProfShimada
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巻き添えも少しあるけど、どう考えても関係遠すぎる極右の名前ばっかあがっててドン引きしたんだけど、どうなってんのTwitter
「哲学者の永井均さん、M・ヴェーバーを精読したこともない人が社会学を叩くのは自分が馬鹿であることを喧伝しているようなものであるとの見解を示す」
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2221010
このブコメの話。
自然科学におけるリチャード・ファインマンの権威性と人文科学におけるマックス・ヴェーバーの権威性を並べちゃうのは典型的なダメな議論という気がする。
人文系の教育には原典講読という伝統文化があるが、自然科学の教育において原論文を精読することは比較的めずらしい。大学の社会学科でヴェーバーを読んでいない学生はモグリだろうが、物理学科でファインマンを読んだことない者はいくらでもいる(はず。「ファインマン物理学」シリーズはそれほど人気のある教科書とはいえないし、一般向け作家として人気があったのは一時代前だろう)。
現代の「社会学」についてまともにコメントをしようとするならマックス・ヴェーバーの著作、少なくともその教科書的(=広く合意のある基礎的な)解釈を知っている必要がある、というのはそれほど異論のないことだと思う。なぜなら社会学をはじめとする現代の人文科学の議論は、過去の学者がつくりあげてきた概念(言葉)をその文脈込みで参照し、再解釈しながら展開されているからだ。M・ヴェーバーの理論が現代社会学の基礎の一部、別のいい方をすればある種の共通の言語的基盤となっていることは否定できない。そして人文科学における二次文献は不可避的に当該の文献の著者の解釈や文脈を帯びたものになるので、そもそものM・ヴェーバーの議論を知るためにはM・ヴェーバーを(できるかぎり原語で)読む以外の方法がない。
他方で物理学をはじめとする理学系の自然科学について、たとえば放射性物質の一般的な性質などについてあれこれいうために特定の原論文を読む必要はまったくない。たとえばアインシュタインの原論文を読解することと、相対性理論を理解することはそれほど関係がない。読むのは凡百の大学の教科書でもいいし、なんなら「一般読者向けに」(ただし適切に数式を用いて)書かれた解説本でもいい。
なぜなら現代の物理学の最新の知見、つまり多くの者がもっとも妥当であると認める理論についての解説は、基本的に誰が書いたものでも同じ前提、同じ内容、同じ結論になるからだ(基本的に法則と定理にもとづく数式の展開によって示される)。知見のコアは何らかの前提のもとに何らかの理路を示す数式の展開もしくはその結論であって、誰が書いたか、どう書かれているかといった文脈は関係がない。
物理学はたしかにこれまでの物理学史(歴史に名を残す偉人と無数の無名の研究者たちの論文の蓄積)の産物だが、その到達点を知見として理解するために科学史を理解する必要は基本的にはない。ファインマンは特定の業績によってノーベル賞を取ったが、その業績について知ろうとする場合でも、必ずしも彼の書いたものによって理解する必要はない。
「医師免許」というのは一種類しかなくて、外科医でも内科医でも医者は医者。持っている資格は同じ。(歯科医とか麻酔科医だけ違うのかな?知らんけど。)「外科医」とか「内科医」っていう肩書きは、形式的には「本人が勝手に名乗ってるだけ」という言い方もできる。(まあ、実際には学会に所属して界隈でそれなりに名前が知られていないと「もぐり」扱いされるけど。)
「〇〇学者」というのもそれと同じ。例えば「博士(理学)」のような資格は一応あるけど、「数学者」とか「物理学者」という肩書きは「本人が勝手に名乗ってるだけ」なんだよな。
学際的な分野の人は敢えて自分を「〇〇学者」とは名乗らないこともあるし。
それは何故かと言うと、そこまで専門性が高くなると、もはや「資格」を与えることのできる権威が存在しなくなってしまうからなんだよな。医者や学者は自らが権威となることを求められる職業であって、誰かに認められて立場を与えられてやる仕事じゃない。
説明出来ない理由で最後の職を辞めてから、就職活動ができず、貯金を食いつぶして生活している。
ふと気づいたら、この生活なら年金が出るまで貯金で生活出来る計算になった。
6年間で2年のビハインドがあるんだよ。初期研修までやったら追加で2年だぞ。研究者生命は短いんだ。
俺は理学部に進学したことも後期課程に進学したことも後悔していない。
苦しいけど失敗ではないんだよ。お前らが勝手に「失敗」と看做したいだけだろ。
お前は俺が小さい頃からお医者さんがどんな素晴らしい仕事かよぉーく聞かせてくれたよな。お前は俗物だから基礎研究に携わってる学者よりその辺のクリニックの院長を崇めるような典型的な専業主婦だもんな。
俺が理科一類に合格した時も「そのセンターの点数なら山大の医学部に…」とかブツブツ言ってたもんな。
駒場にいる時も何回も医学部仮面浪人進めてきたし、進振りのタイミングで東京遊びに来た時も「医学部は全科類からの枠あるんでしょ⁈成績見せて!」って目をキラキラさせながら言ってきたよな。
理学部卒業して理学系研究科に進学した時には「子育て失敗」扱いしたよな。
別に俺は失敗なんかしてねえよ。後悔はない。
別にお前らに迷惑はかけないよ。普通に結婚して家庭を持つような収入が得られる職に就けなかったってだけの話。死ねば解決する単純な話だろ。
後片付けだけよろしく。
https://qiita.com/saetegaljewp/items/60a3580d8f08a53679c6
センスのあるなしではなく、
誤って語っていることを、誤りだと指摘されているだけです。
存在措定が問題になるのは「会話の含意」「伝統的論理学」の文脈においてであって、
現代の論理学、数理論理学においては、存在措定は問題になりません。
伝統的論理学の三段論法を説明します。(以下の例は存在措定してる例)
1.すべてのSはMである
2.すべてのPはSである
3.あるPはMである
このとき、Pであるような何かが存在しない限り、1と2から3を導くことができません。
したがって伝統的論理学は隠れた前提として「存在措定」が成されている、と指摘されているわけです。
だからこそ、空集合を前提しても、命題が真であることを帰結できるのです。
そして、ここでセンス云々問われている問題が前提している論理の体系は、現代論理学であって、伝統的論理学ではありません。
なので、存在措定の話はしないでください。
それは伝統的論理学の文脈の話であって、もともとの話が前提してる数理論理学とは直接的関係を持たない話題です。
しかし、命題にはP(x)に対する前提が隠蔽されており、この「P(x)なものが存在する」という隠れた前提(これを存在措定と言います)を勝手に補って読んでいるのです。
存在措定してるのは、「前件が空集合ならfalseが返されるべきだ」と主張してる側であることを理解してください。
なぜなら、「存在していないものに命題Pを適用できないはずだ」という主張は、まさに、「集合に対する存在の措定」を前提しているからです。
trueを返すべきと主張する側は、そのような「集合に対する存在措定」を前提していないからこそ、trueが返るべきだという話をしています。
また、プログラミングにおいては、論理の体系を自然言語に近づけるべきだとは、(私は)考えません。
そして、自然言語のあいまいさを排除すれば、「AならばB」という文の意味は論理包含となります。