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はてなキーワード: 形而上学とは

2017-10-22

https://anond.hatelabo.jp/20171022072708

バークも言ってるけど経験主義リベラリズム専売特許じゃなくてむしろ保守主義バックボーンだろ

しろ人権とか自由かめちゃくちゃ形而上学的な概念じゃん

近代科学の始まりだってロックから、っていうほど単純じゃない

デカルトやらガリレイかいんだろ

この話の科学的とか経験的みたいななんかよさげ属性をとにかくリベラリズムに帰する様はよさげ商品を手当たり次第に買い物かごに放りこむのに似てる

2017-08-25

どこまで行っても人間というもの男は女をシコれるかどうかでしか判断しないし、

女は男をDNAがほしいかしか判断しないんだけど、

それをむりやり矯正しようという現代教育はやはりどこか間違っていると思うんですよね

生物的なるものを排し、あくまでも形而上学的なモノを目指さんとしているというか

2017-07-28

大人になったと実感する時

白髪が生えてても気にしなくなった。

・一方鼻毛の成長のスピードには手を焼いている。

・空を見上げなくなった(思春期には青空を見るにつけ切ない気持ちに浸っていたが、今じゃ飛蚊症ゴミみたいのがうようよ見えるだけ)。

地元ラーメン屋スポーツ新聞読みながら瓶ビール飲むの旨い。

チャイナドレスの深いスリット形而上学エロスをひしひしと感じるようになった。

ゲームをするより子供と公園で遊ぶほうが楽しい

・たまに出る葬式であげるお焼香も、自分より前の順番の人のあげ方を見て予習しなくても別に大丈夫

2017-03-16

http://anond.hatelabo.jp/20170316223102

ありがとう


ステップ5での「集合の内側」とか「収束」とか「前提」って概念解釈恣意的なのではないか。つまり、これらの言葉をどう解釈するかでなんでも説明できてしまうのではないか


占い形而上学みたいなもの研究したことがあったが、確かにそれと構造は似ている。

ただだからこそ質が違うものを扱え、自然言語として機能するという側面もある。

実際の文章を読んで意味があってるかどうかを直接確かめしかない。数十人に1人っていうのはそういう奴だ。



言葉のどの位置に「前提」とか「集合の内側」という概念が現れるかを無視するのは大丈夫なのか


論理的大丈夫かという事?

それについて考えるにはどういう風に単語から文が成り立って、どういう風に文から文章が成り立つかを考える必要がある。

それは一音一音や単語意味とは違う問題としてある。

2016-11-25

概念を交換する

麺のないラーメンは単なるスープである。麺の不在(言い換えれば空なる麺の存在)によってそこには「スープ」という概念存在している。そこに麺が投入される。すると瞬時にしてスープ消失しそこにはラーメン誕生しているのだ。このとき、麺は単なる麺という物であることを越えて、全く別種の存在、すなわち「替え玉」になるのである

もう少し丁寧に述べてみよう。いまそこにスープがあり、未投入の麺玉がある。この時点では、スープスープであり麺玉は麺玉。すなわち単なる「スープ と 麺玉」であって、イコールラーメン」ではない。しかし、麺玉をスープに投入した瞬間、概念Aとしての「スープ」は概念Bとしての「ラーメン」になる。この「なる」という現象に着目したい。言っておくが、客の目の前にスープがありそれをラーメンと交換したのではない。実体としてのスープ実体としてのラーメンの交換ならば、それは単に「ラーメンの追加注文が来たので器を下げてラーメンを出した」のと同じであり、そんなものは「替え玉」ではない。替え玉替え玉たるゆえんは、一瞬前まで単なるスープ概念に過ぎなかったものが一瞬後にラーメンに「なる」ことにあるのであり、そこで交換されているのは実体ではなく概念である。すなわちスープ概念ラーメン概念概念交換が発生しているのである。そこで投入されるのは単なる麺ではない。

この概念交換を成立させる「麺玉」は単なる麺ではなくメディア、すなわち概念交換の麺触媒(メンディアであるというべきであろう。一瞬前まで単なるスープだった液体は一瞬にして「ラーメンの汁」に変貌する。麺は麺のまま物質的には何一つ変化しないにもかかわらず、麺触媒としてあざやかにその機能を果たす。「替えの玉(麺)」ではなく「替える玉」。すなわち「替え玉である。この「替え玉」がまた一つの概念であることは言を俟たない。

さて納得されたであろうか。こうして麺という単なる実体が麺触媒としての「替え玉」に変貌するとき、我々の内なるラーメン概念もまた現象学還元を経てゲシュタルト崩壊を起こす。なぜなら、この触媒によれば一杯のラーメンは(人間の食限界を超えることで)無限ラーメンへと拡張されるからである。そうなればそれはもはやラーメンであってラーメンではない、形而上学存在、あるいは宗教的イコンと化す。だがこのことはまた別に紙幅をとって論じたい。

http://anond.hatelabo.jp/20161125155902

2016-08-09

救急で働く医者

今、研修医で、救急で働いてるんだけど。

これスンゲー楽しいな。

脳梗塞だの、肺炎で死にそうな人だの、心臓止まってる、腕無いです。

こういう人達のもう一生に1度の大事に立ち会って、診断して治療する。まあ治療は各科の先生に最終的にはおまかせだけどさ。

俺の決断1つで大幅に人生が変わるんだなって。

そりゃ、やることは決まってるんだけどさ。

CTを先にするか、MRIを先にするかくらいの違いしかないし。まれ病気を疑って心電図とるか、その時間をさっさとCTに使うか。

もちろん、マニュアルみたいなのがあってソレ通りにやってるだけなんだけどさ。

でも、人間人生分岐点に数時間に1回レベルで立ち会えるのってすごいわ。

なんつーか、生きてる実感ってのかな。

感覚的には別に普通コンビバイトなんだろうけど、形而上学的な幸福感みたいなのがヤバイ

  

まあ、それでも。そう長く続けられるような勤務形態じゃないから、救急医には成らないけど。

バイトでこれくらいの救急やるくらいなら続けたいな。

2016-06-04

http://anond.hatelabo.jp/20160604205957

神が形而上学メタファーなのは分かってるから心配すんな

これは言語ゲームであり、そしてお前はそのルールをちゃんと把握できていないのだ、精進せよ

2016-02-18

長年のツラさが嘘のように消えてしまった話を聞いてほしい

20歳をすぎてからずっと、無気力イライラ・投げやり・ふてくされ・他人と話す際の過緊張・手の震え・パニック発作などの症状にみまわれてきた。

精神科にかかって、薬を飲んでも、改善しなかった。

医者から詐病を疑うかのような物言いを投げつけられたこともあった。

三ヶ月ほど前に、看護師女友達からサプリを勧められた。

別に怪しくない。

大手メーカーが出してる市販の薬。

それを飲み始めてから、まず怒りっぽさがなくなった。

他人発言イライラして噛み付いてばかりいるのがなくなって、

周りから優しくなったと言われた。

疲れにくさ(←訂正:疲れやすさね)がなくなった。

積極的に働けるようになった。

過緊張も以前ほどはしなくなった。

これは音読をする習慣を始めたおかげかもしれないが、

その習慣を取り入れるくらい意欲が湧いたのは、

サプリを飲み始めてから

俺が言いたいのは、サプリってスバシイ!ってことじゃない。

人間としてダメな部分があるとすぐに、人間性が良くない、心がけが良くない、根性が足りない、大脳が壊れたメンヘラ人間として欠落して産まれてきた、と人格還元して殴る人たちが、いかに的外れか、ということを言いたい。

実際は、栄養バランスが崩れてるだけにすぎない可能性がある。

というか、むしろ、その可能性が高い人たちがほとんどなんじゃないか?

哲学形而上学はムダなおしゃべりとバカにするはてなーは多いのに、啓発になると途端に形而上的な考えだけで裁こうとする。

理想人格を求めてるのって、神様を求めてるのと同じじゃん。

目の前の現実的な、身体から考え始めるべきなんじゃなかろうか。

追記

サプリ名書くと、かえって胡散臭くない?

専門知識をある程度持ってないと、似た症状でも危ないかもしれないから

ちなみに、ビタミン系のサプリではあまり効果がなかった。

あと20年来マスダ-とは別人だが、そのタイトルはなんとなく見覚えがあるので影響を受けてたかもしれん。

2016-02-16

http://anond.hatelabo.jp/20160216111013

自然科学形而上学自体神学以前からあって、神学に取り込まれた部分もあったり、それそのものが残ったりなので、単純に神学哲学科学にはならんよなぁ。

高校生向けのエントリとしての話だとそういう風にザックリ言ってもとは思うけど。

2015-11-19

宗教について

ほんとにみんな世間で言われているようなくだらないものだと思っているのだろうか。

宗教団体や個人についてはもちろん批判すべきことは山ほどあり得るのは確かだと思う。

だけど根本宗教性だとか、神の概念のような宗教のあつかう形而上学的な意味は現に存在するよね。

史実限定しても古代ギリシャの昔から哲学として研究されてきた立派な知の分野だと思うのだけど。

実際に世間の考える宗教が、世界創ったヒゲの生えた古代ギリシャ人みたいな服来たおっさん、もしくはパンチパーマの像や紙に欠かれた文字に現世利益のため祈る、みたいなイメージだけだとしたら現代人の精神の貧しさに絶望

宗教人間の営みとして核心的で欠くことのできないものであることを理解している人ってほんとはある程度いるでしょ?

でなければ哲学歴史もおよそ人文系学問全て理解できないよね。科学に関しては形而上性に気づかなくても物理的側面だけでなんとかなるから要らないかもしれないけど。

2015-09-20

未だに文学がわからない

一般に「文学」と呼ばれるジャンル本が好きだ。それ以外のジャンルも好きだ。ラノベとかも好き。

でも未だに「文学」や「文学性」といったものがわからない。

ポスト構造主義とか批評についての本も読んでみた。

それでも「文学」がなんなのか分からない。

いや、調べれば調べるほど分からなくなった。

ポスト構造主義形而上学批判だ。そして「文学性」は明らかに形而上学だ。

批評? でも批評や読み方に正解なんてあるのか? 作者は死んだのに?

からない、ぜんぜん、なにも、わからない。

古い文学は今でも価値があるんだろうか? 「あの時代にこれをやったからスゴイ」ではなく?

時代によって「文学性」の定義も変わっているように見える、

では「あんもの価値は無い」と仮想敵として廃棄された過去の「文学性」は今でも価値が無いのだろうか?

それとも「あんもの価値は無い」と言ってる側に価値が無いのだろうか?

ある「文学」に価値があることが他のある「文学」に価値が無いことを導いたり必要とすることは無いだろうか?

からない。みんなわかってるんだろうか? わかってないんじゃないだろうか? 「みんなわかってないよ」と言ってた。誰かが。

でもわかってないならなんであんなに偉そうなんだろうか? 「わかってないから偉そうなんだよ」と言ってた。誰かが。

お前誰だ。

2015-05-31

http://anond.hatelabo.jp/20150531193724

そうでしょうか?

例えば論理的矛盾の指摘は

http://anond.hatelabo.jp/20150531192542

にひとまずまとめています

これにフェミニズム果たして答えられるのか、疑問です。

 

あとそもそも僕は、「正当な」「権利」などという形而上学概念自体、無条件にあるとは思えない部分があります

からまず論理的な部分が気になる。倫理的政治的正しさも無条件に信仰できないので。

2014-12-24

Qiitaのkenokabe氏の文章を真面目に考える

Qiitaで騒がせている彼の量子論文章を読んでの感想だが,まず彼の文章には,特徴がある.それは,彼が考えた独自の前提が,何も断りも無しに出てくるということだ.

例えば,まず一つに「数学事実」と「物質世界」という区分けなのだが,ここで「数学事実」とは何か,「物質世界」とは何か,というのが読んでいて全く要領が得ない.

この区分け自体は珍しいことではない(例としてポパー世界1,世界2,世界3という3論を参照せよ).

少なくとも理論構成されるような何かと,私たちが接している「花が咲いている」とか,あるいは「鳥が飛んでいる」という風に分かるということを区別する,という考え方は珍しくない.ただし,この二元論は,哲学的歴史からすると,余りにも「素朴」すぎる.少なくとも,この二つを構成する「意識」の問題というのは出てくるし,だからこそ「人工知能」を考えるときに,厄介な問題をはらんでいる.そして,この問題は決してプラトン自体は解決していない問題である

例えば,プラトンイデアを「実は数学事実のことです」と言っている.これはプラトン思想解釈の一つとして,このように仮説を唱えることは悪いことではない.しかし,現実問題として,例えば「1 + 1 = 2」ということ,つまり「1に対して1を足したら2になる」ということを「数学事実」と呼ぶ場合数学史的には体系的に矛盾が出るためにルールが調整されていっているわけだから,実際のところ「1 + 1」という式自体が,彼の言う所の「物質世界」の現れに過ぎない.

もちろん,これに対しても反論は出来る.「1 + 1はそれこそ数学事実物質世界に置き換えたに過ぎない.だから,『1 + 1』が表わそうとする数学事実を変換しているだけである」と.そうすると今度は実は彼が語っている「数学事実」というわけではなく,「物質世界」と「物質世界」の変換であるという風に考えることだって出来る.

あとから精神世界という問題が出てきていて,では上のような「何が・何を持ってして,数学事実物質世界に変換しているのか」という問題,これが上手く扱えないのは,このような曖昧さ故だと思う.彼は心脳モデルとして,精神世界イデアの影だとしている.この立場哲学的問題としてありうる.しかし,ポイントとしては,そのように退けた「精神世界」というもの100%イデアの影だとして,そうすればすべては「イデア」の現れにすぎない,と解決できたかもしれないが,そうすると,物質世界に住んでいる我々がなんで「イデア」のことがわかるのか,というよりそもそも数学イデアとして理解できるのか,という問題は出てくる.

ポイントとして,彼の文章問題世界がそのようになっているということと,世界をそのように理解できるのは何故なのかということをイコールにしているか,あるいは曖昧であるが故に,この種の混合がたびたび出てくる事だ.そして他のプログラミング記事に関しても,この種の混合が見受けられる.このような解決を行うためには,結果として形而上学的な理性というものを何処かで誤魔化して入れないといけない.

彼の文章を読むポイントとしては,恰も歴史的な経路を経て結論しているように見えて,細かく見れば全くそれらの歴史を参考にしていないため,凡ミス結構多発している,という一点だけを理解しておけばよい..

ちなみに哲学史的には,基本的にはこのような「意識」「精神世界」というものを,あたかも「物質世界」に担保させるような哲学的な営みは何度も繰り返されて,そのたびに失敗しているか(唐突に神を持ち出さないと始原がわからなくなる),あるいは「それはそれとして,それを説明したことにはならない」ということが繰り返されていて,どうも切り分けたほうが良さそうだということにはなっているようだ[独自研究].彼も同じ二の轍を踏んでいるので,頑張って下さい.

2014-12-10

キャリアポルノについて

メイロマってうざくね?からまりますが。

文化人の善い、悪いのオールアナッシング論に辟易

キャリアポルノは歯クソとか聞いてるとただ単にむかつく。理由はない。衝動だ。

別にキャリアポルノなんてカスみたいなのもあるし歯クソみたいなものばかりだって知ってるけどあの記事生理的に無理。

つーか形而上学的に無理。

意識高い人がいたって別にいいじゃん。ほっとけよ。おれたちにかまうな。

つーかそれらの議論のこの不毛な感じいい加減おわんねーかな。

やつらが意見を持つとかもうやめてくんねーかな。

感覚的にキモい

2014-10-03

見えない季節 牟礼慶子

できるなら

日々の暗さを 土の中のくらさに

似せてはいけないでしょうか

地上は今

ひどく形而上学的な季節

花も紅葉もぬぎすてた

風景の枯淡をよしとする思想もあります

ともあれ くらい土の中では

やがて来る華麗な祝祭のために

数かぎりないものたちが生きているのです

その上人間の知恵は

触れればすぐくずれるチューリップの青い芽を

まだ見ぬうちにさえ

春だとも未来だともよぶことができるのです

2014-08-23

http://anond.hatelabo.jp/20140823203717

古代学習環境が全く整ってなかった頃と今とでは全く意味が違うと思う。

もともと全ては「コレはなにか」的な事を考える事が原理

全ては哲学だった。

wikipediaから持ってくると

古代ギリシャ哲学は、三通りの学に分かれていた。すなわち――物理学倫理学および論理学である。この区分は、哲学というものの本性にかんがみてしごく適切であり、これに区分原理を付け加えさえすれば、かくべつ訂正すべき点はないと言ってよい。

イマヌエル・カント、『道徳形而上学原論』、篠田英雄訳、岩波文庫1976年、5頁、「序言」より

増田の言う「数学」はこの中では物理学及び論理学の一部となろう。

まりはそれらは「哲学」と言ってしまっても決して過言ではない。


現在における「哲学」というのは上とは少し離れて、まず、物理(科学)など検証されるような事柄は省いている。

論理学と言っても記号論理学の様な体系付けられた様な物も省かれている。

倫理、についても法律など、人間が直接決めてきた倫理については直接はあまり対象にしない(一部ではなるが)

そして、残った「曖昧な物」を考えるのが現在哲学、と言った感じになっている。

勿論、現在でも上に書いたようなすべての事柄を含めた学問として考えている様な場合もある。




なので、「哲学」か「数学」か、と言う問はあまり意味が無い。

2014-06-18

大学教師が新入生に薦める100冊」のCSV

大学教師が新入生に薦める100冊: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」のCSVファイルを重複排除ソート出現数3回以上だけを抜き出してみた。記号が統一されていなくて漏れしまっているのもあるかも知れない。(ゲーデルエッシャーバッハの長音風記号はなぜか統一されていて、Amazonでも全く同じ表記

2014-02-12

形而上学絵画麻枝准の『恋心』



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E8%80%8C%E4%B8%8A%E7%B5%B5%E7%94%BB

 形而上学絵画というものがある。

 詳しくはwikipediaでも参照にしてもらいたいのだが、要するに、ごく普通風景を描いているように見えて、実際にはその風景現実には存在することの有り得ない、といったそういう絵のことである

 例えば、人々の足元に落ちる影の向きがそれぞれバラバラだったり、あるいは、走っている機関車煙突から延びる煙が、風に靡くことなく真っ直ぐ立ち上っていたり。

 そういう絵画のことである


 因みに「形而上絵画」において有名な作家と言えば、イタリア人のジョルジュ・デ・キリコがいる。

 ググって形而上絵画を探してみようとしたところ、中々見つからなかったので、彼の有名な一枚である『通りの神秘と憂愁』を例として貼っておくことにする。

http://blog-imgs-45-origin.fc2.com/c/a/r/carcosa/chirico.gif



 ところで、僕は大手ギャルゲーメーカーの『key』のドンである麻枝准の曲が好きである


 特にその中でも、彼がごく初期に書いた『恋心』という曲が好きである

 十年近く前に、ipodで繰り返しこの曲を聞いていたことを思い出す。

 時には、学校へ向かう途中に口ずさんだりもした。

 そして、この曲を聴いている時に、いつも僕が思い浮かべるのは、一本の木が植わった起伏のある平原である

 日差しは、まるで雨の日の朝に部屋へと差し込む時のように、薄い青色をしている。

 平原には一本の木を除いては、構造物と言えるようなものは全くなく、一切が見渡せるようになっているのだが、その地平線のいずれの場所を眺めても、例えば太陽とかそういったような光源は見当たらない。それでも、空と平原は一様に、薄ぼんやりとした青色に照らされている。


 先日、久々にこの『恋心』を聴いてみていた。

 iphoneを購入したのを機に、ipodに代わるデジタルプレイヤーとして、試しに昔好きだった曲を掛けてみていたのだ。

 すると、かつて僕が聞いていたのと同じように、例の、あの青褪めた、薄ぼんやりとした風景が浮かんでくることになる。

 僕は、その風景に懐かしさを感じながらに、十年前聞いていた当時よりも、ずっと克明に風景を思い出しつつあった。

 Liaの透明で素朴な歌声が、次のような歌詞を歌っていた。


 どんな君を好きでいたか、もう思い出せない。

 楡の木陰に隠れて、僕を呼んでいた


 僕はその歌詞に耳を澄ませながらに、ふと、何か不自然なことに思い当たったような気がしていた。

 自分が思い浮かべている風景に関して、何か、おかしな点があるように思えたのだ。

 そして、その不自然な点、というのに、僕はすぐに思い至ることができた。

 つまり360度全てを見渡せる平原において、光源の一つも見当たらないのに、空や地面が一様に同じ程度に明るい、なんていう光景は、実際のところ有り得ないということである

 僕は、その瞬間、自分意識が真っ暗になっていくのを感じた。

 キッチンに立って、サラダを作るためのお湯を沸かしながらに、暫く、僕は意識の空白に立ち竦んでいた。


 その暗闇から回復したのは、そう時間を経てもいない時のことだったと思う。

 僕の耳元には、イヤホン越しに、変わらずその透明な歌声が響き続けていた。

 彼女は歌い続けていた。

 僕は耳を澄ませていた。


 僕はその歌詞ぼんやりと耳を澄ませながらに、一つのことに思い至っていた。

 そう、僕が十年前に思い浮かべていた景色は、きっと、本当には存在し得ない景色なのだな、ということにだ。


 そして、暫くの後に、僕はひとまず気を取り直して、もう完全に煮立っていた鍋の、電磁調理器のスイッチオフにしていた。









 どこまでも続いてゆく、悲しい景色、君と、笑っていた

 いつまでも傍にいるよ、夢の中で、君と笑っていた

                                 麻枝准 - 『恋心』

http://www.youtube.com/watch?v=De_svyVs8jI

2013-12-11

http://anond.hatelabo.jp/20131211112115

 元ネタCLANNADっていうゲームに出てくる「幻想世界」っていうシナリオだよ

 形而上学的な世界彷徨少女と小さな人形の話なんだけど、その辺を若干掘り下げて書いてみたかったのだ

2013-11-01

http://anond.hatelabo.jp/20131101142732

哲学とは何か、というのを考えるのがすでに哲学なんだけど。

あなたが書いているような、頭の中でする思考実験哲学の基礎かなと。

宗教から形而上学的な思考(なんでこうなるんだろうみたいな事)を抜き出したのが哲学じゃないでしょうか。

ちなみに僕は元増田では無いので、元記事の教授悪趣味とかはどーでも良いと思ってます、批判したい人はシャカリキに頑張っていただきたい、それが議論の醍醐味とは思えませんが。

http://anond.hatelabo.jp/20131101133754

質問された増田だが、あなたの書いてるような事を考えるのが形而上学で、哲学の一つのジャンルです。

哲学はある時代までは宗教文化とほぼ同じものだったけど、途中で分かれた、その分かれたものの中には数学科学など、今日学問の基礎があるので、あなたの言うように全ての学部哲学必要考える人は多いです。

からハーバード大サンデル教授哲学の授業が一般教養として行われてたりする。

2013-10-22

http://anond.hatelabo.jp/20131022012645

俺にはお前がだれだか分からんので全部書いておこう。

進化論を学んでないほうの増田の間違いは簡単だ。

メタ視点に立てていないことと、「進化」ってものを精密に考えることができていないこと。

メタ視点とはなにか、むしろ、「目的」というものは本来与えられてるものではない中で、

進化してる事は種を存続するため、従ってそれを「目的」と言っている。

これは形而上学的な考えではないのか?物理学生物学のものの話ではない。


そもそもここにまともな進化論ひとつも出てない。

片方の増田が「種の存続」のために進化してる、に対し、かたやその様な事は100年で考えが変わった、後、そんなもの物理現象にすぎないので目的などというもの定義することすらおかしい、

と論拠を変更。



まあなんでもいいや。



自分の知っていることが簡単に相手に説明できると思っていることだ。

人間の断絶は深く深く深いので、罵倒挑発で埋まったりはしない。

谷底に落ちていくだけのこと。

お前は何も理解してないのに知識があると勝手勘違いし、それを簡単に相手に簡単に説明できると思ってることだ。

お前自身が理解してないことを他人に説明出来るわけがなかろう?

お前はすでに谷底に居るんだよ。

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